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ふりてんつもる(前編)  作者: ぱじゃまくんくん夫
第七章 新たなる舞台
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糸の織り成す夢

 屋敷に竹がやって来た。

 ちかごろ知ったのだが、太郎より若干年下らしきこの小姓は、長谷川竹と言うらしい。

 色白で、目鼻立ちがくっきりとしていて、唇はふっくらとしていて、この世のおにゃの子すべてをとりこにしても不思議じゃない少年なのだが、信長のおホモだちであることを笠に着るところがある。

 この日は庭にやって来て、勝手に縁側に腰掛け、挙げ句にはそのまま寝転がり始めた。何をしに来たのか訊ねてもにやにやとして何も答えない。

 お貞が白湯を出して、「ああ、すまないですね」なんて言って起き上がり、いい加減何をしに来たのか再度訊ねても、白湯をすすって答えない。

 おれはいらつくが、その場を離れられない。なにせ、竹が来たとなると信長の用事のはずだからだ。

 かなりの時間をかけて白湯をすすり終えると、竹はようやく腰を上げた。

「簗田殿。おやかた様がお呼びです」

「さっさと言えや!」

 へらへらと笑いながら庭から出ていく。

 信長の側に常にくっついていなければならないから、竹はただ単にサボっていたのだろう。これが長ヒゲ佐久間や森サンザの屋敷だったら寝そべったりもしないはずだ。

 のろのろと歩く竹にいらつきながら千畳敷にやって来ると短気な信長はやはり機嫌を悪くしていた。

「遅えぞ!」

 おれは庭先にカエルのように這いつくばって、竹がにやにやと笑っている。

「池田に行け!」

「えっ? 池田ッスかっ? 摂津ッスかっ? えっ?」

「なんだ。あーっ?」

「い、いえっ。さっそく」

 信長は縁側から奥へとずかずかと立ち去っていってしまう。

 いや、池田に行けって……。

 たった一言それきり。理由も目的も伝えずにそれきりって、毎度のことだが頭がどうかしているんじゃないだろうか。

 おれが戸惑っていると、縁側に残っていた少年が竹を睨みつけていた。

「竹。貴様、簗田殿にすぐに伝えずお屋敷でくつろいでいただろう」

 そっちは、菊、と呼ばれている、これまた信長の小姓だった。くっきりとした二重まぶたに眉の秀でた美少年で、年齢もやはり竹と同じぐらい、縁側に下りてくると竹を突き飛ばした。

「何をしてくれるんだ、貴様」

 と、竹も菊を突き飛ばす。

「くつろいでいたなどと根拠のないことを申すな」

「ならば、簗田殿にお訊ねするか」

 菊がそう言うので、おれは腰を上げると、竹が確かにくつろいでいたことをチクってやった。

「くつろいでいたってか、お前、わざとそうしただろ」

「何を言いますか。人聞きの悪い」

「竹。貴様、評判が悪いぞ」

「はいはい」

 と、竹は生意気千万な鼻の突き出し方でうなずく。信長に可愛がられているから家中の評判などはどうでもいいという具合だ。

「お前よ――」

 おれは竹に説教してやる。拾阿弥になるぞ、と。

「ところで、菊、簗田殿はなにゆえ池田に行かなければならんのだ?」

 竹はおれの言葉などに耳を貸さず、平然としてくるりと話を変えてしまい、菊に舌打ちさせた。

 菊は竹とは違って物事を明確にはっきりと伝えてくる頼もしい小姓であった。

「三好三人衆が堺にて軍勢をかき集めていると、京の丹羽五郎左殿がおやかた様にお伝えしてきました。ゆえに池田が三好方に取り付かぬよう、簗田殿に目付けをしてもらうというおやかた様のご意向です」

 おれは眉をしかめる。

「目付け? いつからいつまで」

「いつからと言われればすぐにでも。いつまでと言われればわかりませぬ」

「おいおい」

 溜め息をつくと、竹がにやにやと笑いながら言う。

「木下藤吉郎殿のように京に妾でも作ってみたらどうです」

「妾? あの人、女作ったのか?」

「又助殿に聞きましたよ。しかし、これは木下殿の奥方には内緒ですよ」

 ほほう。

 それはいい情報である。竹もたまには役に立つ。

「簗田殿が妾など作れるものか。死んでしまうではないか。そんなことより、摂津池田の目付け。あとはその途上、三日後には小谷城に行ってほしいのです」

 菊に言われておれは再び眉をしかめる。

「小谷城? 浅井の? なんで」

「お市様からおやかた様に文が届いていたそうで、簗田殿の顔が見たいと。おやかた様は三日後には向かわせると決めてしまわれましたから」

 お市様がおれに会いたい……。

 おれは思わず冬晴れの空をあおいでしまう。隠したくても、このにやつきがおさえられない。あの可憐で優しげな眼差し、あの安らぎをもたらせてくれる微笑み、あのお市様がおれに会いたい……。

 竹が鼻で笑う。

「そんな顔をしていたところで、お市様にはそんな気があるはずないですからね。珍妙な簗田殿を浅井の者どもに見せたいだけですよ」

「それはそうかもしれねえけどな、お市様にじきじきにお呼びされるだなんて、家中でもおれぐらいのもんだろうが。ん?」

 そうしたら、菊のほうが言ってきた。

「鼻の下を伸ばしていると、奥方様に勘付かれますよ。出立前に怪我をしませんよう」

 それもそうだ。おれは掌で顔を覆って擦り、小谷城に行くまでの手筈を菊から聞いて千畳敷をあとにする。

 屋敷への道中、上の空であった。

 お市様のお顔はもう何年も拝見していない。森部のいくさのあとにやはりお呼ばれしたことがあって、それが最後だ。

 あれから何年経っているだろう。いやはや、お市様は美女にご成長されているに違いない。

 くうう。たまらん。

 スキップするようにして我が家の門をくぐっていく。

 が、ふと思い出して、掌で顔をこする。

 ようやっと願福寺事件が風化され、あずにゃんとの関係は修復されつつある。寝床の相手にはなってくれないものの、日常生活を送っているぶんには支障はなくなっている。

 そこへ来てお市様にでれでれとしているだなんて勘付かれた日には、取り返しがつかない。

 表情を毅然とさせて玄関の敷居をまたぐ。

「帰ったぞ」

 低音を響かせると、お貞が桶を持ってやって来、おれは足を洗う。溜め息まじりに摂津池田に行かなけれならなくなったと伝える。

「摂津でございますかっ?」

「ああ。だから、旅支度をしといてくれないか」

「それはまた。せっかく梓様のご機嫌も直ってきているというのに」

「仕方ない。おれは織田の将だ」

 クリツナが寝そべっている庭の前を通り過ぎ、居室に戻る。

 戸を閉める。にやつきが止まらない。

 畳まれた素襖を並べ、どれを着ていこうか考える。

 今着ているのは橙色。残り二着は藍色と紫色。紫はあずにゃんが選んだものだが一度も着たことがない。

 もちろんは藍色だな。

「亭主殿、よろしいか」

 と、戸の向こうからあずにゃんの声がして、あわてて掌をほっぺたに撫でつけ、緩んでいた口許を引き締めた。

「どうぞ」

「亭主殿が遠くに行くとお貞から聞いたのじゃが――」

 戸を開けて入ってきたあずにゃんは、眉根をすぼめ久々に甘え声であった。

「いつ帰ってくるのじゃ? もうじき正月ではないか。正月には帰ってくるのか?」

 デザイアじゃない通常形態のあずにゃんは玉の転がるような愛しさである。

 これを機に抱きしめられるだろう、しかし、おれは目尻を結んであずにゃんを見つめ返す。

「帰りはいつになるかはわかりません。まあ、仕方ないッス。丹羽ゴロザ殿や藤吉郎殿だって京にずっと居ずっぱりで帰ってこれていないッスから」

「左様か……」

「今、織田は重要な時期にありますから」

「うむ……」

 あずにゃんは手折れた花のような表情で去っていった。

 さてと。帯はどうするか――。

 おれは帯を眺める。

 暖をとる火鉢の炭が赤く明滅しながらかすかな音を立てる。

 帯を選ぶも、心持ちはそぞろに痛みを覚える。あずにゃんの寂しげな顔が可哀想になってきてしまう。

 卑怯だな、ちくしょう。デザイアになっておれを半殺しにするくせ、あんなに可愛いんじゃカッコつけて突き放すこともできん。

 もやもや解消のためにあずにゃんの部屋を訪ね、机の前で何もせずにしょんぼりとしていただけのあずにゃんを抱きしめた。


 いつになったら帰ってこられるのかわからんのでシロジロを呼びつけ、

「絶対に売り上げの報告をしろよな。下手打つんじゃねえぞ。わかったか」

「任せてくださいッスよ。売り上げの大きさにきっと旦那様をびっくりさせてみせるッスから」

 バカはすっかり調子に乗っていた。不安だ。

 なので、さゆりんを岐阜から連れ出すわけにはいかなかった。

「池田に行くん。ああそう。ふーん。頑張ってな」

 告げると、さゆりんはたったそれだけであった。池田に何をしに行くのかも訊いてこない。

 正妻のあずにゃんと比べるとこのざまだ。

 近頃、さゆりんはどうにも可愛げがなくなってきている。

 ゼニゲバ野郎に染まりきってしまったのか、はたまた、あずにゃんと顔を合わせる機会が増えているため、おれのことなんてどうにも思わないようにしてしまったのか。

 私も連れて行ってや、の一言ぐらいあってもいいんじゃないかと思う。

 ハンザを連れて行こうかとしたが、奴は太郎とずっと行動を一緒にしており、一週間に一度の割合でしか岐阜に帰ってこない。

 沓掛か、はたまた九之坪なのか、小僧二人で仲良く何をしているのやら、同世代で気が合うのか、大津ではおれに付きっきりじゃないと嫌だと言って脱走したくせに。

 結論としてねじり鉢巻きだけを連れていくことにした。

「お土産を買ってくるよ」

 見送りのあいりんやお貞にそう告げて、岐阜を発った。

 編笠を被り、クリツナの背中に揺られれば、やがては町並みも小さくなっていく。

 東の空から太陽が赤々と昇る。冷たく乾いた朝、鉢巻きやクリツナの息も白い。

 年越しは池田だろう。

 仕方ない。おれは織田の将だ。




挿絵(By みてみん)




 ひとまず、坂田郡の樋口三郎左衛門殿を訪ねろと菊に言われていた。

 竹中半兵衛の所領の菩提山ふもとを抜けて、美濃国との国境くにざかい、山々に狭まれた近江国の入り口が坂田郡で、長比たけくらべ城という山城のふもとに樋口三郎左衛門の屋敷はあった。

「簗田殿の噂はかねがね」

 樋口三郎左衛門はおれよりやや年上ぐらい。

 切れ細の目付きが鋭くて、低音ボイスを響かせるオッサンである。

 浅井傘下で坂田郡一帯の所領主掘二郎という奴の重臣だそうで、この樋口三郎左が小谷城まで案内してくれるそうである。

「菩提山の竹中殿を折れさせたとか」

 半兵衛と知り合いらしかった。

 樋口三郎左の屋敷で一泊したのち、彼や彼の従者とともに小谷を目指す。

 小谷城は浅井方の本拠地である。

 山脈から張り出た尾根を利用して城郭を張り巡らしている巨城だった。

 小谷山城郭のふもとに浅井新九郎の居館があった。

 藍染めの素襖を羽織ったおれは、樋口三郎左とともに廊下を行きながら、いったいお市様はどれほどの美女にご成長されているだろうと胸が躍る。

 そのいっぽうで、朽葉がひらりとすべる庭先を見やれば、あのお市様があの浅井に嫁いでしまったのが紛れもない事実だというのも痛感する。

 最初、お市様のお輿入れはおれが言い出したことだが、それを聞いて信長はおれをボコった。

 あれだけブチ切れたのだ、お市様が浅井に嫁ぐことはないと思った。

 ところが、いつのまにやら知らないうちにお市様のお輿入れが決まっていたのである。

 おれが言ってしまったからだろうか。

 いいや、違う。そんなはずがない。

 信長の頭の中にもあったんだ。おれがボコられたのは、ただ単に、でしゃばってんじゃねえという意味だったはずだ。

 広間で平伏する。

 上座に腰を下ろしているのは、六角とのいくさ場でも見かけた浅井新九郎である。

「上総介が直臣、簗田牛太郎と申します。拙者ごときをお招きいただき恐縮でございます」

 挨拶すると、浅井新九郎は闊達で張りのある声を立てた。

「わざわざご苦労でござった。観音寺城での陣での出来事はわしもよく覚えておる」

「ありがとうございます」

 浅井新九郎は目を細め、口許を緩めながらうなずく。

 憎たらしいほど爽やかな風貌であった。

 いくさ場ではわりと偉そうに振る舞っていたけれども、こうして会ってみると目許も優しげで、朗らかであり、とはいえ軟弱そうでもない。そこにどっしりとして座している姿勢には当主としての貫禄も漂う。

「いやはや、すまない。あの論功行賞の場の折り、お主が足軽兵卒のためにしてやったことを市に話したら、お主を知っている、是非会いたいと急に言い出してしまい」

「とんでもございません。光栄でございます。それに摂津池田に行く用事もございまして」

「池田。ああ、そうか。簗田殿は池田を降伏させたそうだったな」

 浅井勢は入洛までは織田勢とともにあったが、京都に入ったのちは、デブの徳川三河とともに自領に戻った。

「簗田殿の話は尽きなさそうなので、夕飯にでも聞こうか。なにせ、市からはおもしろき御仁だと聞いておる。今晩は三郎左とともにゆるりと休んでいきなされ」

 なんだかなあ。

 キモオタのおれはイケメンがイケメンなだけで大嫌いだが、浅井新九郎を前にしていたら彼をイケメンだと認識するのはその整った顔だけからじゃないようである。

 気障じゃないし、おごり高ぶらない。それでいて頼もしそうだし。

 信長とか武田信玄、松永弾正だとか、その他もろもろの大大名や所領主たちと比べると、まあ、年がすこぶる若いっていうのもあるが、頑張ってもらいたいという気持ちになる。

 新九郎殿には、なにかこう、戦国大名たちが潜ませている独特の生臭さ、そういう裏表が感ぜられないのである。

 お市様がお待ちだというので、樋口三郎左を待たせ、年増の侍女に連れられてお市様の住まいまで導かれる。

 からっ風に当てられて、物思いに耽りがちであったが、いざ、お市様がお待ちになられているという一室の近くにやって来て、侍女たちが廊下に並んで膝をついているのを視界にすると、はああぁ、ドキドキしてきた。

 牛太郎おにゃの子ランクだと、神ランクの吉乃さんに続いてお市様はSランクである。Sランクは現人神に近い存在である。

 デザイアや鬼神などに変貌するあずにゃんは変化身であるかぎりAランク止まりで、さゆりんはゼニゲバなのでつい最近、寧々さんやおまつと同じBランクに格下げした。

 つまり、Sランクとは非の打ち所のないおにゃの子だけの牛太郎評価点である。

 もっとも、Sランクを格付けしたのは何年も前のこと。

 小中学校のときの美少女が同窓会で会ってみたら見る影もなかったというのは、よく聞く話だ(おれの卒業した中学校では同窓会なんざ開催していなかったが。おれになんの連絡もなかったので開催していないはずだが)。

 清洲でお会いしたころのお市様を思い浮かべながら――、降りしきる雨の中に咲いた鮮やかな微笑みを脳裏にちらつかせながら、おれは視線を伏せたまま部屋の敷居の前に膝をつき、

「や、や、簗田でございます。おおお、お、お市の方様にお呼ばれ、お招き招かれいただきいただくとは、きょきょきょ恐縮、光栄のきわみにて、ご、ご、ございます」

 と、自分でも何を言ってんだかわからないぐらい上がってしまうと。

 敷居の向こうからくすくすと木の葉のささやきのような笑い声があった。

「お久しぶりでございますね、牛殿」

 うしどの――。

 決して目にすることのできない心のきらめきが胸の底から湧いてくる。

 不肖簗田牛太郎にかけてくださったそのお声は。

 そのお言葉遣いは。

 甘すぎず、艶すぎず、なんのてらいもない。

 優しさと慈しみのうちで自然としていた。

 たとえば今日の日の、冷たい空気をやんわりと温めていくような真っ青な空からの光のように。

 どうぞ、と、侍女にすすめられて、おれは震える足で敷居をまたぎ、再びひれ伏す。

「ほ、ほ、本日は、せ、せ、晴天に恵まれまして、初めて、お初にございますが、小谷の地は、こ、これもひとえに、新九郎様並びにお方様の、えーと、ひ、日頃の――」

「何をおっしゃているのかわかりませんわ」

 そう言うと、くすくすと笑った。

「そのようにかしこまらなくても。おもてをお上げくださいな」

「は、はい」

 おれはごくりと唾を飲み込むと、上目遣いをしないよう視線をきっちりさせたまま、背すじをしゃんと伸ばしていく。

 視線の先にはお市様だった。

 ……。

 なんてことだろう。

 長いまつげに覆われた切れながの瞼に支えられた黒玉の瞳は、忘れていたものを思い出させてくれるようでいて。

 色白の肌を華やがせる小さな微笑みは、あらゆる過ちを包み込んでくれるようでいて。

 度がすぎるほどに壮麗な赤地の曼荼羅模様の打ち掛けさえ、ただのお召し物として羽織ってしまっていて。

 おれの知っているお市様の映像がぐるぐると脳裏を駆け巡り、実際のお市様はそこで座っている。

 夢だった。夢が現れているようなものだった。

 しかし、お市様は、ふふ、と、自然に笑う。

「少々お痩せになられました?」

「そ、そ、そうッスかっ?」

 もう、発する声のすべてが上ずってしまっていた。

「それでも清洲でお会いしたころを変わらず若々しいままですね」

「そ、そ、そうッスかっ?」

 お市様は目尻を緩めながらこくりとうなずく。昔の懐かしさに浸っているようであった。

「風の便りで聞きましたが、牛殿は柴田殿の妹御の梓殿と祝言を上げられたそうですね」

「えっ、あっ、そ、そうッスね」

「良かったですね。牛殿は梓殿をお慕いしていたのでしょう?」

「い、いやっ、う、うーん、ど、ど、どうッスかね」

 すると、お市様は瞼をじとーっと細めるのだった。

「違うおなごにうつつを抜かしているのかしら」

「いやっ、ま、まさかっ。今も変わらず、梓は拙者の思い人です。はい」

「今度、梓殿に文を差し出してみようかしら」

「えっ。お、おかしなことは何もしてないッスよ。あの、にょ、女房が疑うような文はくれぐれも勘弁してもらえませんか。この前も殴られたばっかりなんです」

「まあ。殴られるような真似をされたのですか?」

「そ、そんな真似はしていないと思うんですが、何やら勘違いをしたみたいで」

「お訊ねしてみようかしら」

 そう言ってくすくすと笑い、お市様は冗談なのか本気なのかわからないが、基本的にいたずら好きらしかった。そのあたり、兄貴の信長と似ているようであった。

 まあ、ヤクザの信長と違って、お市様のそれは愛嬌になっていた。愛嬌が大大名の奥さんという取っ付きづらさを解消しているのだった。

 お市様がおれにお訊ねしてきたのは、戦功勲功の話ではなく、おれの身の回りのことだった。

 最初、絶世の美女を前にして上がりっぱなしだったおれも、お市様の愛嬌にほぐされて、久方ぶりに珍奇衆だった。

 あずにゃんとの祝言のさいのごたごた話だったり、暴れん坊のマタザがパパになってしまったことだったり、太郎を息子にした顛末だったり、あとはサルの悪行。

「あっしに土下座させておやかた様に寧々さんとの祝言を頼ませたっていうのに、聞いた話によれば京に駐在している藤吉郎殿はおなごをあさっているそうで。昔からおなごあさりには余念のない人でしたから。寧々さんの目が遠く離れているからって、妾の五、六人でも抱えているはずでしょう」

「まあ、そうなの? サル殿は相も変わらずいやらしい御仁ね。私が清洲にいたころもくだらない用事を作って私や犬の近くに姿を現していたものです。何を考えていたのやら」

「何を考えていたかだなんて、あわよくばに決まってますよ。あっしに言っていたことがありますから。マタザ殿の娘さんが大きくなったらあわよくばだなんて」

「まことなの? あの御仁はそういう目で小さい娘を見ているの? 私や犬のこともそう見ていたのかしら? ああ、いやだ。おぞましい。もうサル殿の話は聞きたくありません」

 くすくすとおれは心の中で笑う。実害こそないだろうが、生意気に妾なんか作っているサルへの天罰だ。




 夕飯は樋口三郎左と二人、浅井新九郎殿を向かいにして馳走された。

「簗田殿が義兄上あにうえに桶狭間を進言したと聞いたが、そのころから織田は天下に覇を唱えると申しておったそうだな」

 箸を手にしながら新九郎殿がそう言ってきて、隣の樋口三郎左も興味津々に視線を向けてくる中、おれは「いやあ」と首をかしげる。

「あれはおやかた様に取り入るための法螺話みたいなもんで」

「法螺話とはいえ、根拠がなければ吹ける法螺もあるまいし。事実、今川方とのいくさでは桶狭間を決戦場に進言したのだろう。わしは、どうも簗田殿が義兄上を導いていると思ってしまうが、実はそうなのではないか」

「まさか。あっしはおやかた様に毎度のごとく殴られっぱなしッス」

「しかし――」

 と、樋口三郎左が言う。

「尾張の織田殿が入洛を果たすなど誰が思いましたでしょう。織田殿でさえ思っていなかったのではありませぬか」

「左様。美濃を掌中にするまでは思わなんだはずだ。つまり、簗田殿だけだ」

 アハハ……、と、苦笑しながら、おれは頭を下げるしかない。

 褒められるのはまだしも、買い被られるのは御免である。そうなると、武田信玄に命を狙われたりとろくなことがない。

 どうして買い被られるのだろうか、不思議だ。

 織田家中では大して評価されていないのに、外に出るとわりとこういう人がいる。ゴンロクなどには野良牛とこき下ろされるというのに、外部評価は隠れた策士である。

 まあ、城主の仕事をマリオや太郎に押し付けていたり、しょっちゅう行方不明になったり、信長の登城命令を無視して引き籠もっていたり、そういうおれの実態を知っているか知っていないかだろう。

 どちらが正当な評価だかわからんが、もしかしたらおれって真面目にやれば相当な武将なんじゃないだろうか。

 もっとも、真面目にやればやるほど面倒事に巻き込まれるわけだ。

 池田の目付役だって、降伏勧告に成功していなかったら無かった話だろうし、その降伏勧告だって松永弾正から茶器を奪い上げなければ任ぜられなかったはずだ。

 ましてや、弾正から呪いをかけられてしまうのである。

「ただ、わしが簗田殿をここに迎えることを了承したのは、何も簗田殿が義兄上の片腕だと思ったからではない」

 新九郎殿は微笑みを浮かべながら酒の盃をすする。

「観音寺城の論功行賞の場では目を見張るものがあった。むしろ、考えさせられた。簗田殿が足軽一兵卒のために取った行動こそ、将としてあるべき姿かなと」

「いやいや、恐れ多いッスっ。あんなもの、ただ単にあの足軽が強かっただけで。あっしが言わなくてもどうにか成った男です」

 それに、と、付け加えて、おれはサルが結婚したときのことを話した。

「それで、おやかた様はあっしに言ったんス。織田の人間なら誰のことでも知っていて当然だと。差し出がましいかもしれませんが、お手本にするのであれば、おやかた様をと」

 新九郎殿も樋口三郎左も信長のそれが意外だったのか、なかば驚き、なかば感心していた。

「とはいえ、確かに拙者は桶狭間を進言しましたが、進言したのが織田上総介という人ではなかったら何もならなかったと思います。導くのではなく、導かれるのでもなく、拙者もおやかた様も人々との糸の織り成し具合でこうした一日を迎えられているのだと思います。恐れながら、新九郎様も織り成された一つの糸だと拙者は思っております」

 新九郎殿は目尻をゆるめて笑った。左様だな、と、うなずいた。


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