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ふりてんつもる(前編)  作者: ぱじゃまくんくん夫
第七章 新たなる舞台
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之定、求める

 彼岸花の六枚の花弁が秋のそよ風に揺れるある日のこと。

 織田勢が悪さを働いていないかどうか、京市中見回りの役目を与えられていたおれは、仕事をサボって鴨川近くの茶屋でみたらし団子を食べていた。

 そこへクローザがやって来た。

 おれはまずいと思って団子を串からくわえ込んだまま顔面を蒼白させたのだが、クローザのほうもおれと目を合わせたなり、まずい、という顔つきをした。

 おれは愛想で笑った。まあまあ、という意を含めて。

 クローザはぎこちなくうなずいた。そうだな、という意を含めて。

 おれとクローザは濡れ縁に並んで腰掛け、後ろめたさを共有しているおれとクローザのあいだにしばらく会話はなかった。

 二人とも無言で通りを行き交う人々を眺め、黙々と団子をくわえて引いていき、屑茶をずるずるとすすった。

 クローザがふと口を開いたのは、おれの串に団子が残り一玉となったときだった。

「お主のところにも刀剣売りが来たか」

 身に覚えのないおれは首を振った。

「ならば重臣ばかりを狙いにしているのだな」

 おれはどういうことか訊ねた。

「我らが尾張の田舎者とあなどって、之定のさだを五百貫で売りつけようとしているあこぎな者がおるとの噂だ。まったくのうつけよ。尾張美濃を領している我らに之定を売りつけてくるなど。もっとも、お主は騙されそうなゆえ、訊いてみただけだ」

 何を言っているのかさっぱりであった。之定とはなんなのか、おれは訊ねた。

「刀よ。美濃の関の刀鍛冶、二代目和泉守兼定がこしらえたものよ。良かったな、俺と会って。お主のことだから五百貫を支払っていたに違いない」

 クローザのしたり顔はおれへの忠告をサボっている口実のようにしていたが、おれは二代目和泉守兼定と聞いて団子の串を手にしたまま固まった。

「なんだ。もうすでに買ってしまったか」

 おれは首を横に振った。

 団子を食い終えたクローザは屑茶を飲み干すと、腰を上げ、茶屋のおかみに文銭を渡した。

「おい。いつまでも油を売っているならおやかた様に報告するぞ。ちなみに俺は朝メシを食い忘れたゆえだ」

 クローザは通りの左右を確認したのち、本陣宿所の清水寺の方角へそそくさと走っていった。

 おれはぼんやりと呆けながらも団子を口に運んだ。甘じょっぱさを舌で味わいつつ、確かめるようにして声に出した。

「二代目和泉守兼定……」




 沓掛勢は御所近くの寺に駐屯している。

 夕飯を共にしている太郎に言った。

「今日、クローザ殿が言っていたんだが、織田家中の将に之定を五百貫で売りさばこうとしているあこぎな商人がいるらしいから、お前、気をつけろよ。ところで、之定って実際のとこはいくらぐらいで買えるんだ?」

 高野豆腐を口に入れていた太郎は、もぐもぐと咀嚼しながらおれをじいっと見つめてくる。

 口うるさくなりそうなので、おれはあわてて否定する。

「おれはべつに欲しいわけじゃねえよ。ちなみにだよ。ちなみに」

 太郎は首をかしげ、口の中のものを飲み込んだあとに言った。

「さあ。そんな名刀、なかなか購入できるものではないのでは。まあ、五百貫というのは高すぎますがね。二百貫ぐらいじゃないでしょうか」

「そっか……」

「くれぐれも太刀などは控えてください。必要ありません。もし購入するんであっても刀など無銘のなまくらでよいのです。いくさの最中で太刀を振るっては曲がってしまって使い物になりません」

「おれが十人も斬るかよ。一人も斬り殺したことなんてねえっての」

「ならば必要ないではありませんか」

「ちなみにだって言ってんだろうが。お前は本当におれが無駄金使う奴みたいに扱って」

 さっさと膳の上を平らげ、おれ専用の寝所に逃げ込む。アケチソードを鞘から抜いてきて、磨きぬかれた刀身を眺める。

「二代目和泉守兼定……」

 欲しい。

 カネが有り余っているのであれば、五百貫払っても欲しい。

 二代目和泉守兼定と言えば、おれが夏休みの指定図書以外で唯一読んだことのある小説、人に薦められていやいや読んでみたら、ものすごくハマってしまったあの名作の、あの鬼の副長の土方ひじかた先生が、思いを燃やして装備していた剣なのだ。

 まさか、土方先生が装備するずっと前のこんな時代から二代目兼定が存在していたとは驚愕である。

 二代目和泉守兼定は美濃の関の刀鍛冶とクローザが言っていたが、関と言えば岐阜のすぐ近くだ。まさかカネサダさんが関にいるんであろうか。刀を作ってくれるんであろうか。

 二百貫を支払えば作ってくれるんであろうか。

 二百貫を支払えば、おれも土方先生になれるんであろうか。

 ちょうど二百貫が、岐阜の屋敷のクリツナの馬房にあるのだが。馬房へそくりの二百貫を使い果たしても、手元にはヘタレ弥助からぶん取った五十貫文の金判がある。

 二代目兼定を装備して市中見回りするのなら、おれはまさしく土方先生じゃねえか。

 興奮と欲望で眠れぬ夜を過ごした翌朝、寺の境内であくびをかいている沓掛勢の足軽どもをよそに、天然理心流皆伝のためにアケチソードで精を流していると、吉田早之介ことさゆりんが手ぬぐいで顔を拭きながら通りがかった。

「おい、早之介」

 おれは手招きしつつ、さゆりんを境内の端まで呼び寄せていく。さゆりんは眉をしかめながらもくっついてくる。

「何用ですか」

 おれは顔を近づけ、小声で訊ねた。

「お前、二代目和泉守って知っているか?」

「之定でしょう?」

「そうだ。その之定を作ったカネサダさんは美濃の関にいるのか?」

「ずいぶん前に没しておりますよ。今は確か三代目和泉守でしょう」

「三代目じゃ駄目だ。之定だ」

 おれが真顔一文字に見据えると、さゆりんは再び眉をしかめる。

「あのさ――」

 おれはさゆりんの青い素襖の袖をつまみ、周囲を確かめながらさらに境内のすみへと連れていく。

 誰の目も届かないところで、おれはいっそう声を小さくした。

「之定。誰か持っている奴から盗んできてくんないかな」

 さゆりんが背中を返してしまったので、おれはあわてて袖をつまんで引き止める。

「いやっ、今のは無し。之定を持っている人を探してきてくんねえか」

「なんでや」

「欲しいんだ。之定が欲しいんだ」

「あんたって本当に馬鹿の一つ覚えやな。織田家中のモンに之定を売りつけようとしている刀剣商の話でも聞いたんやろ。いい加減にしいや」

「頼む。こればっかりは頼む。おれの夢なんだ。二代目兼定はおれの夢なんだ」

「上総介なら持っているんやない? 訊いてみれば?」

 厭味ったらしい言い方で吐き捨てると、袖を振るったさゆりんはすたすたとおれのもとを立ち去っていく。

 なんなんだ、あの態度。

 太郎といいさゆりんといいなんなんだ。おれはこれまでに数々の修羅場をくぐってきたわけだ。自分へのご褒美で時計を買うみたいに二代目兼定を買ったっていいじゃねえか。

 やる気が失せた。

 朝メシを食ったあと、ハンザを引き連れて市中見回りに出かけるが、二代目兼定を帯刀していねえ見回りなんて土方先生じゃねえ。不逞浪士が現れたら戦えねえ。

「殿。本日は弘法市なのでそちらのほうに回ったのがよろしいのではありませぬか」

 ハンザによれば東寺で縁日だった。

 足利左馬頭も朝廷から将軍宣下を受けて第十五代目征夷大将軍となり、摂津平定から戻ってきた織田勢も乱暴を働いていないということで、市中は賑わいを取り戻しているようだった。

 暇だからそっちのほうに回ることにした。

 縁日となれば織田の荒くれ者が暴れ回らないとも限らないという口実もできる。

 堀川通を南へ下っていく。立烏帽子を被った貴族の連中とよくすれ違う。ちらちらと横目にうかがってくるが、織田の田舎モンとでも思っているんだろう。

「そういやハンザの刀は誰の作刀だ」

「拙者のですか? 無銘です」

 まあそうだろうな。刀を振り回しているのなんてゴンロクとかの野蛮人だけだ。いくさ場では槍か弓ばかりだ。必要ないと言えば必要ない。実用する場面は護身のときだけ。あとはお飾りみたいなもんだ。

 だからと言って、脇差し一振りというのもどうかしているわけだ。おれは三千五百貫の所領持ちだ。ケチのマリオ、ケチの太郎のせいで無刀である。おかしい。

 おれの勝手な想像だと、タイムスリップ前の企業に置き換えてみれば、おれは織田家中では部長クラスだろう。ということは、脇差し一振りのおれは、携帯電話でしか時刻を確認していない部長ということである。

 ましてや、松永弾正や摂津池田と対外交渉をするような部長だ。おいおい。渉外を担当する部長が時計の一つも巻いていないとは何を考えているんだね簗田クンと嫌味な役員に言われちまう。

 ゴンロクあたりがな。

 東寺の御影堂の周りには露店が多数並んでおり、人々が多数往来していた。織田の雑兵らしき人間も紛れ込んでいた。

 おれは初め土方先生ばりに目を光らせていたが、帯刀していないのですぐに監視をやめた。ぷらぷらと露店を眺めていく。

 骨董品の露店が多かったが、いくさ場の死体から剥ぎ取ってきたものでも流れているのか、壺や花瓶の中には武具防具も紛れていた。弘法大師の縁日でそういうものを並べてもいいのかどうか疑問だが、世は戦国トンデモ時代だ。誰も気にはしないのだろう。

 刀もあった。

 じいと眺めていると、露店のオヤジが、お武家はん、いかがどすか、と、にたにた笑ってくる。黒糸巻きの柄に染みがついているんだが、血糊じゃないだろうか。物騒なので触りたくもなく、オヤジにぷいと顔を背けて立ち去る。

 おれが露店の前でそのつど足を止めているものだから、いつのまにやらハンザとはぐれていた。気張って監視しているらしい。そういうふうに毎度つんのめっているから変な気を起こして脱走するのだろう。

 健全な心で日々を暮らすには、やらないときは当然やらず、やるときでも無理してやらず、本当にどうしてもやらなくちゃならないときだけ仕方なくやればいいのだ。

 どうせ、おれたちが監視していたところで誰かが監視しているのだし、暴れる奴は暴れるのだ。

 露店並びの外れのほうではむしろの屋根の下で煎餅を焼いていた。香ばしい匂いに誘われて、おれはついつい屋根の下にもぐり、濡れ縁に腰掛ける。

 団扇で叩いて炭の火を起こしているオヤジに一枚分の銭を渡すと、冷めた煎餅と一緒に屑茶を出してきた。

 昨日みたいにクローザみたいな奴に見つかるといかんので、おれは濡れ縁のすみに移動して、角を股で挟むようにして座り、通りに背中を向ける。

「ほんま、ええ日和どすなあ」

 屑茶をすすりながら顔を上げてみたら、斜向かいの濡れ縁に腰掛けている女はおれに声を掛けてきていた。着物は彼岸花のような真っ赤な小袖で、彫りが深くて美人だが、小じわが目尻に浮かぶ、おれよりちょっと年下程度のおばさんだ。

 急に話しかけられたおれは、忍びがまたおれに近づいてきていると思ったが、一応ながらうなずいた。

「そうどすね」

 女はくすくすと笑う。手にしていた煎餅を小さく割って、口に入れる。

 おれは半分に割ってかじる。

「新しい公方はんにならはったそうで」

「そうみたいですね」

「いくさもあらしまへんで良かったどす」

「まあ、そうですね」

 煎餅を食い終えた女は茶をすすって両手を叩き払うと、腰を上げてオヤジに「おいしかったどす」と言って屋根の外へと出ていく。

「おおきに」

 真っ赤な小袖が縁日の人だかりの中に紛れていくのをおれは眺めた。

 まあ、背丈も高くて色気の立った美人だったが、三十路前半ぐらいになる女に興味は湧かない。おれよりは年下には違いないだろうが。

 それにしたっていつになったら岐阜に帰れるのやら。

 もう一ヶ月近くは出張しているし、信長が岐阜に戻ったとしても、誰か数名の諸将を京の監視役に置いていくというよからぬ噂も耳にした。

 おれが指名されそうな嫌な予感がするのだ。

 そんなことに憂慮しながら煎餅を食い終え、口の中に指を突っ込んで奥歯の歯糞を除いていたら、濡れ縁に花散らし模様の巾着袋が置いてあるのに気付いた。さきほどの女が座っていた場所だ。

「オヤジ。忘れ物だぞ」

 と、おれは指差した。

「またどすか。縁日んときは毎度食べに来てくれはるけど毎度なんかを忘れられはる」

 オヤジは団扇を叩きながら億劫そうに言い、客が入ってきて注文を受け始めた。

「お武家はん、それ、お届けはってくれまへんか」

「えっ? そのへんにいるんじゃねえのか」

「あの人はここで煎餅食べてからお帰りなります。お頼み申しますわ。織田はんはよお市中を回っとるさかい。ええでっしゃろう」

 オヤジは急にせわしなく動き始めて本当に面倒そうであった。

 蛸薬師たこやくしというところの呉服屋の娘だと言う。

 まあ、いっか。あの女に興味はないがお話ししたいくらいの美人ではあったし、蛸薬師は宿所の寺の近くだ。毎度何かを忘れているってことは、忍びがおれと接触するためにわざと置いていったわけじゃないだろう。

「しょうがねえな」

 おれは巾着袋を手にし、駄賃代わりだと言って煎餅を一枚もらった。

「あ、旦那様。どこにおられたのですか」

「殿だって言ってんだろうが」

 駆け寄ってきたハンザにゲンコツを落とし、煎餅を半分に割ってくれてやる。

「忘れ物が発生したみたいだから届けに行くぞ」

 東寺をあとにして、堀川通を北へ上っていく。煎餅をかじっていると、ハンザが食べないで袖の下にしまいこんだので、どうして食べないのか訊ねる。

「食べながら歩くのは」

「お前さ、そうやって堅苦しいのが駄目なんだよ」

 煎餅も食べきって、ぶらぶらとしばらく歩いていくと十三代将軍の住まいだったという二条御所が見えてきて、二条大路へと折れる。ややもすると蛸薬師だった。

 煎餅屋のオヤジに聞いたとおりの軒を数えていくと、派手な打ち掛けを中に飾っているそれらしき家屋があった。敷居をまたぎ、障子戸の奥に呼びかけると、さっきの女が戸を開けて出てきた。

「はれ。さきほどんお武家はん、どないされましたか」

「忘れ物です。煎餅屋のオヤジに教えてもらいました」

 と、巾着袋を差し出し、女は指を口元に当てて飛び跳ねた。

「はれまあっ。また忘れはりましたっ。言うてはりましたやろ。毎度忘れはるって」

「ええ、まあね」

 おれは苦笑しながら手渡す。

「おおきに。えらいすんまへん」

 女は細い眉をすぼめながら頭をしきりに下げるも、愛嬌よく苦笑する。

「なんもお返しできまへんやけど、せめて白湯の一杯ぐらいは飲んでいっておくれやす」

 いや、いらない、と、言おうと思ったが、暇なのでくつろいでいくことにした。

 上がりかまちに腰を下ろし、ハンザは突っ立っている。お前も座れよと言ったら、殿と肩を並べるわけにはいかないとここでもお堅い。

「すんまへんね」

 と、女は白湯を盆に乗せて運んできた。おれは色白の艶がかった女の横顔をにやにやと眺めながら、湯のみ茶碗に手をつける。

「お前も飲めばいいだろ」

「いえ、拙者は」

「命令だ。座れ」

 おれが睨みつけると、ハンザは申し訳なさそうにして上がりかまちに腰を下ろし、頭を低めながら白湯をすすった。

 女はくすくすと笑う。

「お武家はんは織田はんの人でらっしゃろ?」

「ええ」

「尾張から来なはったんどすか」

「ええ。沓掛ってところでね。ところでこちらのお店はあなたが一人で切り盛りしているんスかね」

「いえいえ、まさか。父がおります。うちが帰ってきたら、出ていってしまったんどす。ずうっと昔は奉公ん人もおいやしたみたいやけど、今はいくさ続きで着物もさっぱりどすわ」

 飾られている派手な打ち掛けを見るかぎり、花の刺繍をあつらえた高級品である。貴族とか高級武将を顧客にしているってことだろうか。

 おれが打ち掛けをじっと眺めていたら、女は冗談ぽく言ってきた。

「どないでっしゃろ。奥方様に」

「いやいや。お高いでしょう。まあ、うちの奥さんは好きそうスけどね。それよりあっしはね、之定が欲しいんスよ。知り合いにいませんか。之定」

「のさだ?」

「刀。刀のこと」

 女はくすくす笑う。そんなものを扱っている者は呉服屋の知り合いにいるわけないだろうと。

「よく笑いますね」

「よう言われます」

「ところでお綺麗ッスけど、お一人なんスか」

「お婿はんがおりましたけど、死に別れたんどす」

「それはつかぬことを訊いてしまいました」

「いいえ。もうずいぶん前のことやし」

 湯のみ茶碗も空っぽになったので、おれはハンザとともに腰を上げた。

「どうもありがとう。ごちそうさま」

「奥方様のお土産はうちを使うておくれやす」

「之定を見つけてくれたら買いますよ」

「のさだやね。はいはい」

 女は上がりかまちからにこにことして見送ってきて、おばさんだけど愛嬌のある可愛い人だなと思いながら、軒下をくぐり出ていったが、ふと思って引き返した。

 湯のみ茶碗を盆に乗せていた女に訊ねる。

「失礼ですが、お名前はお雪さんですか?」

「へ?」

「あ、いや……。お名前を聞いておこうと思って」

「うちは、きぬと申します」

 女はくすくすと笑い、お雪じゃないのならば年増に興味はない、おれは愛想笑いを浮かべて出ていった。



 京都に残るのは、長ヒゲ佐久間、村井民部のジジイ、マリオ、サルの他に五千の兵で、おれは指名されなかった。

 ほっと胸を撫で下ろし、クリツナの背中に揺れて、信長以下三万余の軍勢とともに岐阜への帰路を辿る。

 東山を越えて、近江の湖が広がる。広々とした空をいわし雲が泳いでいる。

 太郎を背負う凶暴馬がクリツナの隣でしきりに首を上下に振っているのが気になるが、ようやく帰れるという安堵感でいっぱいだ。

 二ヶ月ぐらい。もっと長いような気もするのはいろいろとあったせいだろうか。

「九之坪を見分しなければなりませんね」

 鎧兜の太郎が何か言っているので、おれは無視する。ちょっとは休ませろってんだ。

 とはいえ、おれのお小遣いを増やしてくれるのか気がかりである。

「率いる足軽も増やしませんと」

「え?」

 無視していたおれは思わず太郎を見やる。

「いや。何を言っているんだよ。今のままでいいだろうが」

「九之坪を領することになったのだからそうするべきではありませんか」

「いや、いいよ。何を言っているんだ」

 そんなことをしたら足軽に払う俸禄が増えるだけであり、おれのお小遣いが少なくなってしまう。

 しかし、太郎はしつこく食い下がってくる。

「兵が一人でも多ければ、父上の活躍の場も増えるではありませんか」

 おれは鼻で笑った。

「おいおい。活躍の場だなんて、おれが池田でやったことを忘れたのか。おれは一人で池田をひっくり返したんだぞ。ん? 必要ないだろ」

「箕作城攻めでは足軽のおかげで所領を増やせたではありませんか」

「だから、その分は、手柄を立てた奴は俸禄を増やしてやることになったろ。どこに新しい足軽を雇う余裕なんてあるんだ」

「丹羽様もそうするべきだとおっしゃっておりましたし」

「城主はおれだ!」

 大声を張り上げたので、おとなしくなっていたクロスケがまた首を振り始めた。太郎が首すじを叩きながらクロスケをなだめ、溜め息をつく。

「之定を買いたいからという理由なのであれば、父上のお話は聞けませんね」

「そんなことは一度も言ってねえだろ。余裕なんてねえって言ってんだ」

「九之坪が増えたじゃありませんか。余裕はあるじゃありませんか」

「駄目だ。そんなのはおれが許さん」

「なにゆえです」

「困ったときのために貯めたほうがいいだろうが。コメが不作だったときにはどうするんだ? 沓掛の百姓も救済してやらなくちゃならねえだろう?」

「その分はあります」

「なに?」

「とにかく、足軽は増やします。これは父上のために言っているのですからね」

「おれのためなら刀の一振りぐらい買ってくれって話だ。そうだろうが」

「ならば拙者が買ってきますよ」

「いい。どうせなまくら刀だろ」

「父上。もう少し実用的に考えてもらえませんか。之定を所有していたところで何になるのですか。その費用で足軽十人を十年は養えますよ。風呂のことといい。どこからあの費用は捻出してきたのです」

「もううるせえっ。好きにしろっ! たくっ。やっかましいんだからっ。風呂なんかお前だって入っているじゃねえか、クソが」

 本当にこのクソガキはそこだけマリオに似ているんだな。まったくよ。どうして城主のおれが好き勝手にカネを使えねえんだ。おかしいじゃねえか。おれをバカ殿みてえに扱って。

 この様子だと九之坪五百貫が増えたところで、絶対にお小遣いを増やしてはくれねえ。そもそも沓掛のお小遣いだってマリオにこっそり貰っていて、太郎には内緒だからな。

 九之坪を見分するとか言い出してちゃ、こいつは簗田家の財布をがっちり握ろうとしているんだろう。

 チッ。クソが。馬廻衆のままでいたらあちこち目を光らせている暇はないから、こうやって首を突っ込んでこなかったのに。

 てか、マリオが京都に残るってことは、マリオは忙しくてこれまでどおりに沓掛の面倒を見られないはずだ。シンパチのオッサンや種橋藤十郎がいるとはいえだ。

 それに太郎が九之坪を見分しなくちゃならないって言い出したのは、つまり、マリオはひそかに太郎に引き継いだんじゃないのだろうか。

「お前よ、ゴロザ殿に何か言われたのか。沓掛の政務とかそういうのはこれから太郎が見ろって」

「はい。おっしゃるとおりです。父上が見られてもよろしいのですが」

 そういう太郎の目は、兜のひさしの下でしらじらしいのだった。

 おれは何も答えられず、無視した。

 最悪だ。

 まさか、おれにお小遣いが回っていることを知ったら、こいつは供給停止にするんじゃ。岐阜の屋敷でかかる経費は太郎経由の正規ルートで回ってきているし。

 やりかねない。太郎だったらやりかねない。お小遣いはこれから自分が支払うと言い出しかねない。毎月一貫文とかバカみたいな取り決めを作って。

 そんなのじゃ足りないとおれはおねだりするが、太郎はお母さんみたいにとやかく言うわけだ。何に使うつもりなのか。どうしてそんなものが必要なのか。もう少し実用的に考えてもらえませんかなどと生意気な口を叩いて。

 畿内のバカどもからぶん取った二百五十貫文に加えて床下のへそくりが金銀合わせて二百貫文ぐらいあるから、お小遣いが停止されてもなんとかやっていけるだろうが、それだって之定を買ってしまったら。

 投資信託とかやっている奴っていねえのかな……。

 とにかく、岐阜に帰ったら資産設計をしないとな。おれは日本一の大会社の渉外担当の部長だ。窮屈な思いをするのは御免だ。


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