大海に注ぎ込む
それにしたっておれはどんな顔をしてあずにゃんに顔を合わせればよいものか。
罪悪感もあれば(キスぐらいだからなんてことないんだが)、なんとなくバレそうな気がして怖い……。
ためしに着物の匂いをくんくんと嗅いでみたら、案の定、さゆりんの香りが移ってしまっている。
これは絶対にまずい。
このボロ寺には風呂なんかない。
浮キッスなんかバレてみろ、あずにゃんはデザイア最終形態の鬼夜叉と化してしまい、びゅんびゅん振り回しているあの木刀でおれの脳天をかち割ってくることだろう。
誰かに着替えを借りるとか、川浴びをしてくるとか、そういう下手な動きをしていたと知られたときには逃げ道がますますなくなっちまうし。
このまま出陣まで願福寺でじっとしていよう。
その日、夕暮れに軍議が開かれたそうで、夜、マリオがやって来ておれとシンパチのオッサンに出陣は明後日だと伝えてきた。
よかった。さっさと岐阜から脱出できる。
翌朝には雨も上がっており、おれは誰にも見られないよう井戸水でこそこそと着物を洗濯し、ぎらぎらと輝く太陽の下に乾かした。ついでに筋トレをし、移ってそうな匂いをとにかく落とすために汗をだらだらと流した。
過剰すぎるかもしれないが、あずにゃんの最終形態もまた過剰なのである。
万が一でも危険があれば、万が一以下にしなければならん。
昼メシを食い終えると、着物もすっかりパリっと乾いており、鼻を埋めてみても魔性の香りは漂っていない。
帰っても大丈夫かなと思って願福寺を出る。しかし、怖くなって戻る。
いや、クリツナは屋敷に置いたままだし、鎧も置いたままだし、半纏ふんどしのままでいくさに出かけられるはずがねえ。
やっぱり帰ろうと寺を出るが、しかし、ボコボコにのされたゴンロクの姿が頭によぎってしまって寺に戻る。
女の勘は鋭いと言うし……。
そうだ、無理をして死地に飛び込んでいく必要はねえ。ここで足軽どもと一緒に働いていたということにすればいいだけだ。出陣前だしな。クリツナも鎧もあとで誰かに取らせに行けばいいだけだ。
危険を回避するのは当然のことだ。
昼寝でもしようと離れに戻っていくと、
「旦那様っ!」
と、境内からシロジロの大声が届いできて、おれはびくっと肩を震わせた。まさか鬼夜叉がおれを呼び出しているのではと思い、なるたけ自然を装って振り返っていく。
駆け寄ってきたシロジロに右手を掲げる。
「よ、よお。か、帰ってきたのか?」
「昨晩に帰ってきたんスけど、旦那様が帰ってこないんで奥方様がご心配されているッスよ」
「あ、そう。ふーん。ちょっと、帰れないって伝えておいてくれないかなあ」
「旦那様、そんなことより紹介したい人がいるんスよ」
そう言って、シロジロは境内のほうに振り返り、誰かを手招きした。足軽どもが掘っ立て小屋や木陰で暑さにだらけている中、痩せ身で背高の男が小走りに歩み寄ってくる。
「京でたまたま三河の知り合いに会ったんス。徳川様のご家来だった方なんスけど、追放されちゃったんス。旦那様、家臣が必要だって漏らしていたんで」
シロジロは得意げに話してくるが、おれは舌を打つ。
気を利かせるのはおおいに結構なのだが、京にいる時点で手紙を送ってくるとかあるだろう。段取りも踏まえず連れて来ちゃって。連れて来ちゃったら雇うしかねえじゃねえか。
歩み寄ってきた一人の男――、というよりも、少年だった。色あせて擦り切れた藍染めの素襖の裾を脛までたくし上げており、日焼けした顔に無精髭をうっすらと生やしているものの、綺麗に髷を結っている。
おれの前に片膝をつき、視線を伏せながら言う。
「お初にお目にかかりまする。拙者、三河浪人、伊奈半左衛門と申しまする」
堅苦しい言葉でありつつも、口調に幼さがあった。悪く言えば言葉の端々がなよなよしていた。
まあ、十代後半なのだろう。
「とりあえず中にでも上がろうか。暑いし」
シロジロとともに部屋に上がって、団扇を振りながら話を聞いた。
ほとんどがシロジロが勝手に喋り、折り目正しく正座をしている半左衛門は、口許を結んで、視線は終始、床の一点に据わっていた。
生真面目そうな奴である。シロジロのくせに変な人間は掴まされなかったようである。
「半左殿は親父さんと一緒に過ごしていたんス」
シロジロはこのハンザではなく、その親父と面識があったそうだった。
どうして三河の人間が京にいたかといえば、ハンザの親父は熱狂的な一向宗の門徒で、四年前、徳川三河守と一向門徒たちが三河国で争った戦いで、三河守直臣だったにも関わらず、ハンザの親父は一向側に付いた。
一向門徒は三河守に敗退してしまったので、ハンザの親父は息子のハンザを連れて徳川家を出奔した。
ハンザは親父とともに土木などの日雇い雑役でやりくりしながら各地を転々とし、たまたま京都に入っていたところ、シロジロにばったり出くわした。
力仕事をやるぐらいなら簗田家に世話になったらどうかとシロジロは親父のほうを勧誘したそうだが、親父は反発したくせに頑固な律儀者で、武家に仕えるなら三河守以外にないと首を振った。
ただ、息子のハンザに雑役をやらせているのは以前から忍びなかったそうだった。
親父がハンザに訊ねてみると、ハンザも最初は三河守以外に仕えないと親父譲りの頑固さを見せていたが、おれにいい顔をしたいがために誘いまくってくるシロジロに折れ、もちろんいくさ場に立ちたいという思いも持っていたので、ハンザだけは岐阜にやって来た。
「そうか。そういう心構えで来てくれたのならまったく構わないんだが――」
おれは言葉を切ってシロジロを睨みつける。
「どうしてお前はおれのところの世話になっているのか、ハンザとハンザの親父は知っているのか」
意気揚々としていたシロジロは途端にうつむく。
「は、はい――。二百貫を騙し取られてしまったってことを。で、でもっ、伊奈殿や半左殿はもう三河の者ではないんでっ」
「それについて、ハンザはどう思うよ」
「拙者は人についてあれこれ申すつもりはございません」
おれは口端を歪めてシロジロを見やり、よかったな、と、言ってやった。シロジロはしょんぼりと肩を丸めている。
「太郎は帰ってきたのか」
「あ、はいっ、昨晩。若君は旦那様がよしと言えばそれでいいと」
「それと団子は作れるようになったのか? ん?」
「も、もちろんッス。今から帰ってさっそく作るッス。あ、あと、奥方様がご心配されて」
「わかったよ。ハンザ、急で申し訳ないんだが明日には出陣なんだ。行けるか?」
ハンザはいちいち堅苦しく頭を深々と下げてくる。
「承知しております」
「とりあえず今日はここに泊まっていっていいから。ああ、具足を用意しないとな。シロジロ。お前、ハンザと一緒に城に行って余っているのないか訊いてこい」
「いや、あっしは団子を。それにあっし、登城なんてしたことないんでよくわかんないッス」
自分は団子屋なんかじゃねえだなんてほざいていたくせに。
日盛りに山登りしたくないのだが、仕方なしにハンザを連れて出る。
ハンザは無口な少年で、おれの後ろをぴったりと影のようにして付いてくる。
「土方仕事で食いつないでいたんなら、もうちょっと早くあれだったらな」
「墨俣城なら拙者と父も携わらせていただきました」
「そうなのっ?」
おれが立ち止まって振り返ると、ハンザは視線を伏せながらも少しだけ笑ってうなずく。
「百姓に混じって材木の運搬と、土塁の固め作業に」
「なんだよ。早く言ってくれよ。でも、お前みたいなのいたかなあ」
「人足は大勢いましたから」
郊外から岐阜の城下へと再び歩を進める。
「そういえばちょうど一年前か」
墨俣は人手がなかなか集まらなくて大変だったことを話すと、ハンザがやけに瞳を輝かせて興味を持つので、城下から稲葉山のふもとまで経緯をずっと喋っていた。
沓掛勢を訓練させていたことや作業手順書を作成したことは当然ながら、城郭をヒトデ型にした内訳や田んぼの真ん中に建てた理由などを、おれが発案したみたいに語った。
ハンザは、なるほど、はい、はい、と、素直にうなずくので、シロジロのくせに優秀な人材を連れてきたものだと感心する。
ハンザが加入してくれたことで、おれは現場監督から引退できそうだ。
大手門を警備している雑兵に具足が足りないときはどうすればよいのか訊ねると、武具庫に兵具奉行がいるからそこで貸し出してもらってくださいと告げられ、山道を登っていく。
武具庫の前で帳面を開いていた名前も知らねえ木っ端武将に訊ねると、
「簗田殿は綱では……」
と、ナメたことを言ってきたので、おれじゃねえ、こいつだ、とハンザに顔を向けると、木っ端野郎はあわてて武器庫の中に入っていき、具足一式を持ってきた。
「いくさが終わり次第、返却してくだされ。こちらに名を」
「いや、ハンザはいい。おれの名前で書く」
さっき家来になったばかりのハンザの名前を書くと面倒なことになる恐れもあるので、吉蔵とか熊とか適当な名前が並んでいる横に武蔵介政綱と書いた。
「いや、簗田殿は武蔵介では……」
帳面の上に筆を転がすと木っ端武将はすぐに牛太郎と書き直してしまってむかっとしたが、頭の堅い役人を相手にしても仕方ないので踵を返し、具足を抱えるハンザとともに下山する。
「太郎には会ったのか? うちの息子の」
「はい」
「生意気な野郎だったろ?」
「いえっ。そんなことはっ。聡明そうな御仁だと」
「そんなことないだろ。太郎より年上だろ。てか、ハンザは何歳なの」
「十八になります」
「ああ、ほんと。じゃあ、太郎より上だな。ガツンと言ってやっていいんだからな。特におれにはすぐにごちゃごちゃやかましいからよ」
大手門を出ると、おれは屋敷に帰るからと言い、帰り道は覚えているか訊ねると覚えていると答えるので、おれは笑顔で右手をかかげ、前途洋々のハンザと別れた。
なんて素晴らしい少年なんだろう。おれは歩きつつも腕組みし、感心して一人うなずいてしまう。
俸禄は五十貫文だな。
屋敷に戻ってきて、太郎の声が聞こえてきたのでこっそりと庭を覗いてみると、クロスケがぴょんぴょん跳ねてはよだれをまき散らしながら暴れており、その背中に太郎が跨っていた。太郎は怒鳴り散らしながらクロスケを躾けており、その向こうの庭奥ではあずにゃんが薙刀を振り回している。
猛獣に鬼夜叉という物騒な庭を回避して玄関から上がり込み、お貞とあいりんに急いで風呂を沸かしてくれるよう告げると、縁側をそそくさと走って抜けていき、居室に引っ込んですぐに着替えた。
あずにゃんの話し声がしたので疲れたふりをして寝そべった。
「亭主殿。亭主殿」
「はい……」
戸が開いて、ぐったりとしたふうの顔を上げてみると、あずにゃんはたすき掛けどころか頭に鉢巻きまで巻いている。攻められるんじゃなくて攻めるのだから、そんなことはしなくてもと言いたかったところだが、
「すいません、徹夜開けで」
と、空あくびをかいた。
「左様か。何も告げずに帰ってこんかったから心配じゃった」
「すいません。出陣前はちょっと忙しくて」
「うむ。ゆっくり休んでおくれ」
あずにゃんはそっと戸を閉めていき、おれは安堵の息をつく。
しかし、そんなにビクビクしなくてもいいんじゃないかな。キスしただけだし。むしろ、おれは襲われたんだから。おれの本意じゃないのだから。
相手は死亡するのだし。
死亡するのだし。
さゆりんは……。
仰向けに見つめる天井は陰影にひっそりとし、開け放たれた障子窓から油蝉がただただかまびすしい。
窓から忍び入ってくるぬるい風だった。
「夜明け前には屋敷を出ますので」
太郎が皆に知らせるようにつぶやき、夕飯を囲っていた皆々、とくに女どもはうなずいたもののしんみりとうつむいた。最後の晩餐じゃあるまいし、黙々と箸を進める。
戦火をもろに被ったことのあるあいりんは仕方ないとしても、あずにゃんやお貞はゴンロクの家にいたのだから出陣を目の前にするのは初めてじゃないだろう。
特攻隊じゃあるまいし、太郎が深刻そうに言うからいけないのだと思う。
なので、話を変えた。
「そういや、太郎。伊奈の半左衛門は家臣にすることにしたからな」
「そうですか。拙者も彼の者は父上のお役に立てると思います」
「シロジロにしちゃ、珍しく当たりを引いてきたもんだ」
あずにゃんとあいりんの間で、シロジロは薄ら笑いでへこへこと頭を下げてくる。
「それより、団子はどうしたんだよ」
「あっ。すいませんッス、今日はちょっと失敗しちゃったッス……」
「四郎次郎。これから父上に訳のわからぬことを命ぜられたら私に相談しなさい」
「そうじゃ。太郎がおらなかったらわらわに伝え申せ」
シロジロがまた薄ら笑いを浮かべてへこへこし、おれはむっとしながら御飯をぱくぱくと運んでいく。
「四郎次郎がいなかったから旦那に余計なことまでやらされて面倒だったな」
「おい。鉢巻きは余計なこともへったくれもねえだろうが。お前はただ単に沓掛にクロスケを迎えに行っていただけだろ。おれのほうが余計な仕事をさせられたっつうの。クリツナの面倒を朝から晩まで見なくちゃいけなくてよ」
「だったら父上が四郎次郎を京に向かわせなければ良かったのでは」
太郎が侮蔑いっぱいの目付きでおれを横目にしてくるので、おれは開き直ってお澄まし顔で言った。
「はい、やめ。この話題は終わり。シロジロくんおつかれさまでした」
太郎とねじり鉢巻きは溜め息をつき、シロジロのバカはへこへこと薄ら笑い、あいりんとお貞は顔を見合わせて苦笑し、あずにゃんは少々むっとした顔つきで背すじを伸ばして箸をすすめている。
「ところで伊奈半左衛門の俸禄はいかがするのです」
「ああ。五十貫でいいだろ」
「ええっ!」
瞼を広げたのは太郎だけではなくて、あずにゃんとねじり鉢巻き以外の全員が「ええっ!」と腰を浮かしてきた。ねじり鉢巻きはメシにがっついているだけ。あずにゃんは皆の驚愕にきょとんとしているだけ。
「何をおっしゃっているんですかっ。十八の、まだ初陣も果たしたことのない者に五十貫だなんてっ」
「そうッスよっ。いくら三河の人だからって、あっしは五貫文ッスよっ」
「お前は衣食住をここでやっているからいいだろうが。だいたいテメーはつべこべ言える資格なんてねえだろうが」
「そ、そうは言ったって、五十貫は破格すぎッスよっ」
「うるせえなあ。五十貫って言ったら五十貫なんだ」
「父上。父上自身は沓掛の城主になる前にどれほどの俸禄を頂戴していたのですか。そこのところをよくお考えになられたらどうなのです」
「優秀な人材にカネを払って何が悪い。お前だってガキのくせにおやかた様から百貫文ももらっているじゃねえか。桶狭間で今川治部を討ち取った毛利新助が三白貫。新助と一緒になって今川治部と戦ったハットリ君が百貫。お前と同じ馬廻のハットリ君が。それなのにどうしてお前が百貫も貰ってやがるんだ。だったらいいだろうが」
引け目を感じているのだかどうだかは知らないが、太郎は口を結んでただただおれを睨んでき、ふてった顔つきで箸を進めていく。
「しかし、亭主殿」
あずにゃんが眉根をわずかにひそめつつ、おれと太郎を交互に見やってから言った。
「わらわにはよくわからんが、皆がそう言うのであれば高すぎるということではないのか」
「いや、梓殿、違うんですよ。あっしはべつにばら撒く気分で五十貫と言ったわけではなくて」
味噌汁をずずっとすすってから、続けた。
「こいつはなかなか将来見込みのある若者だと思ったから支払うわけで。その分だけ頑張ると考えるような男だったからですよ」
「ふむ」
「人には二通りの種類がありましてね、一つは自ら踏み込む者、もう一つは誰かが踏み込んだあとに続く者。後者だったら俸禄なんて大してくれなくたっていいんですが、あっしはハンザが前者だと思ったから五十貫文なんです」
「なるほど」
「そうしたら、あっしは自ら踏み込む者に踏み込んでもらわなくちゃならないじゃないッスか。だからあとから俸禄を上げてやるんじゃなく、前もって多めに支払ってやるんです」
「さすがは亭主殿じゃ。ということはつまり太郎もそういうことなのじゃな」
あずにゃんは太郎に向かってにっこり微笑みかけ、太郎は茶碗にうつむきがちになりながら、神妙にして箸を止めている。
「おやかた様からそれだけ期待をかけられているということじゃ」
太郎は諭された反抗期のガキみたいにしてちょこっとうなずき、御飯をもくもくと食べていく。
「しかし、あまり無茶はせぬように。亭主殿も」
おれは照れ隠しで味噌汁をすする。
あずにゃんっていい奥さんだ。
ところがシロジロがおれの表情を覗いてくるのだった。
「あのう、あっしも自分で踏み出す者だと思うんスけど。半左殿を連れてきたッス……」
「テメーはどう考えても違うだろうが。だいたいおれは自分からそうやって言ってくる奴は大嫌いだ」
「あっしだって一生懸命やってるッスよお」
「テメエから一生懸命やっているだなんて言う奴ほど一生懸命じゃねえ」
シロジロは唇を尖らせたが、
「まあ、そればっかりは旦那の言う通りだな」
と、ねじり鉢巻きが急に言ったので、実に説得力があった。さすがの太郎もだんまりで、「まあまあ」とお貞に落とした肩を叩かれて慰められていた。
翌日。
広間に置かれた床几に腰掛けて、シロジロとあいりんに甲冑を着けさせていく。兜は暑いのでなしである。烏帽子の鉢巻き止めで終わりだ。
お貞がお粥を持ってきてバクバクとかっこんでいく。
小袖袴姿のあずにゃんは正座しており、おれに向けてきりっと結んだ目許をじっと据えてきている。
馬廻の太郎はすでに屋敷を出た。
庭先には量産品の槍を肩に担ぎながら、ねじり鉢巻きがクリツナの口輪を取っている。とはいえ、ねじり鉢巻きはクロスケの世話をしなくてはならないので置いていく。
クリツナの世話は誰にでもできるし。口輪はハンザか雑兵に取らせればいい。
まだ夜明け前。
広間はろうそくの火にぼんやりと染め上げられており、開け放った戸から滑りこんでくる風の湿りは、昼中の粘りつくような鬱陶しさもない。
出陣となると三度目になるだろうか。
しかし、こうして「家の者」に見送られるのは初めてである。
腰を上げると、あずにゃんが脇差しを差し出してきて、おれはそれを腰に巻いている綱に差し込んだ。
「亭主殿。くれぐれも無茶はせぬよう。もしも、長くなるようなら文をおくれ」
あずにゃんの潤んだ瞳にうなずくと、かちゃかちゃと敷居を跨いでいき、縁側に下りる。両膝をつきながら後ろ足で庭先に下り、箱階段を登ってクリツナの鞍におさまる。
「ご武運を!」
と、お貞のしわがれた声とともにあいりんとシロジロも縁側から頭を下げてきた。
あずにゃんはそれらの後ろでこくりとうなずく。
おれは手綱を手繰ってクリツナを歩ませた。
門をくぐり出、首を垂らしてのそのそと歩くクリツナの背に揺られながら、東の空に昇る二つの一等星を眺め見た。
かがり火に照らし出された通りを行くのはおれだけではなく、それぞれの武将たちが馬上にあって従者を引き連れてかちゃかちゃと行っていた。
夜の終わる直前だからか、これから殺し合いに向かうせいだからか、湿った空気はしんとして張り詰めている。
けれども、おれは実に冷静でいれた。今回のいくさでおれのやるべきことがなんなのかいまいちわかっていないが、また再びここに帰ってこなければならないことはわかっている。待っている人がいるこの場所に。
だからといってわらわらと逃げおおせてまで生き延びようだなんて思っちゃいねえ。
ゴンロクの罵倒は今でもおれを駆り立てる。
昔の野良牛からちっとも変わっていねえかどうか見せてやろうじゃねえか。
おれがさゆりんに吹き込んだことでいくさは勝ったも同然。
だが、おれがゴンロクに勝てるかどうかはまた別であり、あのクソ野郎におれを認めさせてやれば、おれの奥さんの笑顔はまたいっそう明るみを増すだろう。
目にもの見せてやる。
願福寺の境内にやって来ると、すでに足軽どもは準備を整えて列しており、昨日入ってすぐにいくさとなったハンザも槍を担いで駆け寄ってくる。
「おはようございます。旦那様の恩義にむくいるためにこの伊奈半左衛門、身を呈して旦那様をお守りし、身を焦がして敵方どもを突き崩していく所存であります」
初めてのいくさ場だからか、たいそうな言葉の割に顔がこわばっている。
「あんまり気張るな」
大島新八郎のおっさんも馬を寄せてきて、出立はいつでも可能だと言ってきた。
おれはうなずくと、沓掛勢に振り返る。
昨日までだらけていたくせに、どいつの目も手柄取りを目指して光っていた。
息を大きく吸い込む。去年の稲葉山攻めでは何もできなかったし、つい先日にはクリツナになかなか跨がれなかったりと、近頃はみっともない姿ばかりを見せてしまっていたので、昨晩、おれは武将っぽいカッコいいセリフを必死で考えたのだった。
「者ども、よく聞け! 我ら織田はいよいよ上洛だ! 向かうところには数多くの障壁が待ち構えているだろう! だがっ、たとえそれが頑強な岩であっても精神を注ぎ込めば何事も貫けるのだ! 陽気の発するところ金石もよく透す! 精神一到何事か成らざらん!」
張り上げた声が静まった境内にりんりんと響きわたっていく。
キマった。
が、足軽どもの大半がぽかんとしてしまっている。無学なこいつらにはなんのことだかさっぱりわからないらしく、学のあるおれが逆に恥ずかしくなってしまう。
おれはあわててアケチソードを抜き取り、夜空へ高々と突き立てた。
「しゅ、しゅ、出陣っ!」
おうっ! と、ようやく足軽どもが声を上げ、シンパチのオッサンを先頭にしてがちゃがちゃと境内から流れ出ていく。
「旦那様っ、素晴らしいお言葉ありがとうございますっ!」
ハンザが瞳を輝かせながらおれを見上げてき、おれは「お、おう……」と複雑な気持ちでうなずいた。
てか、ハンザが「殿」じゃなくて「旦那様」って呼んできてしまうのは、シロジロがおれをそうやって呼んでいるせいじゃねえのか。
あのバカが。八つ当たり要員としてあいつも連れてくればよかったぜ。




