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ふりてんつもる(前編)  作者: ぱじゃまくんくん夫
第六章 魂の夜明け
81/147

痴して狂わず

 おれはとうとう甲冑に身を固めることとなった。

 もちろん、ケチマリオは作ってくれなかったのでポケットマネーからはたいた。普段は邪魔なので沓掛城に保管していたが、ついにおれもいっぱしの武将である。

 まあ、あまりへそくりを減らしたくなかったので、足軽どもが身につけている物と遜色のない桶側胴とかいう鉄板重ねの鎧だが。

 しかし、足軽雑兵とは違い、武将のおれは兜装着である。まあ、あまりへそくり減らしたくなかったのでお飾りの付いていない真っ黒の地味な丸兜だが。

 月代を剃りたくないので兜の下には縦長烏帽子も被っている。源平合戦のころの武将は皆が烏帽子を被っていたそうだが、戦国時代では流行っていないそうである。

 フン。おれとしたらいちいち月代を剃るってのがどうかしていると思うんだが。

 広間で奉公人たちに甲冑をセットしてもらい、さて、いざ出陣と立ってみたが、重い。歩きにくい。

 縁側から庭先に下りるさいにもおれは縁側に一度両膝をついてから後ろ足で庭に下りる。

 平伏して見送ってくる奉公人たちは、大丈夫かよ……、という目でおれを見ている。おれは愛想笑いを浮かべて右手をかかげ、行ってくると言って本丸館から二の丸の曲輪に向かう。

 まだ朝だっていうのに空はかんかん照りだ。ちょっと歩いただけでも汗が噴き出してくる。黒兜なんか被っているからなおさら暑い。

 野蛮人たちはよくこんな格好で走り回っているな……。

 二の丸の曲輪にはシンパチのオッサンに率いられた足軽どもが勢揃いしていたが、甲冑姿で現れたおれを見てどいつもこいつも眉をしかめていた。

「なんだよ、殿。綱鎧じゃねえのかよ」

「そんなみっともねえ真似いつまでも出来るわけないだろうが」

「さまになってたじゃんか」

「やんややんやうるせえな。これから出陣だぞ! 今回こそ稲葉山攻めみたいな失態は犯さねえからな! 行くぞ!」

 オー、と、とりあえずといった感じで足軽どもは長槍を掲げ上げ、沓掛城の馬丁が引いてきていたクリツナの背中に手をかける。馬丁が掌を差し出してくる。左足を鐙にかけて右足を馬丁の掌に乗せるんだが――。

 慣れていないせいか、甲冑の重さに体が持っていかれてすっ転げそうな気がして怖い。

「簗田殿、どうされました」

 すでに馬上の武者となっているシンパチのオッサンが黒兜に日差しをきらめかせながら眉根をすぼめて心配してくる。

「ちょ、ちょっと、あの――、おいっ、みんなでケツを押してくれっ」

 溜め息をつきながら足軽組頭どもが集まってき、神輿みたいによいしょよいしょと担がれて、ようやく鞍に落ち着いた。

「者どもっ! 行くぞっ!」

 おれの掛け声に、おー、と、覇気のない返しをしてきた足軽どもを先頭に、おれは真ん中で固められながらシンパチのオッサンと馬を並べて沓掛の通りを行く。

 オッサンが訊ねてくる。

「簗田殿、どこか痛めてらっしゃるか」

「ま、まあ、ちょっと、寝違えちゃいまして。アハハ」

 それにしたって暑い。太陽がおればかりを照らしているかのように兜が熱い。

 クソ。カッコ付けるのも楽じゃねえ。




 尾張春日井の児玉に着いて一泊し、早朝に発つと日が暮れる前には岐阜に入った。

 沓掛勢をいつもの願福寺に押し込めると、マリオに連れられて千畳敷へ。おれはさっさと屋敷に帰って暑苦しい鎧兜をぶん投げ捨てたいのだが、佐和山から戻ってきている信長に到着の報告をしなければとマリオは言う。

 そんなのマリオだけが行けばいいじゃねえか。おれはいっつもマリオの与力扱いなんだから。

 かなかなとヒグラシの音が聞こえてくる千畳敷の庭先に片膝をつく。

 信長は縁側で扇子を振りながら大きな地図を眺めており、マリオに習って沓掛勢百七十名到着したと伝える。

「ん?」

 こちらには興味なさげに地図ばかりを見つめていた信長だったが、おれが言うなり目を向けてきた。

「どこぞの誰が紛れ込んだかと思えば、貴様か。なんだ、その身なりは」

「い、いや、いくさだって聞いたので」

「フン」

 信長が視線を地図に戻してしまったので、おれとマリオは庭先から下がっていく。

「おい、待て、牛」

「はい」

「来い」

 手招きされたのでかちゃかちゃと小走りに駆け寄っていき、信長の足下に片膝を立てる。

「これを見ろ。貴様はどうする」

 扇子をパチンと留めて、それでトントンと地図を叩いたので、おれは地図を覗き込む。

 何がなんだかよくわからん。

「桶狭間を見出した貴様だろう。六角観音寺城攻めだ。どうだ」

「え、えーと」

 兜の上から革手袋で頭をぽりぽりと掻きながら、うーん、まずい。

 こんなこと今まで一度もなかったくせに急になんだっていうんだ。

「ちょ、ちょっと、今回は下調べしてなかったんで。あっ。半兵衛がいいんじゃないんスか。南近江の探索に行ってたみたいッスよ。竹中半兵衛。あ、そうッスよ。竹中半兵衛を連れてきますよ」

 信長はしばらくじろっとおれを睨んできていたが、顎をくいっと出したので、おれは頭を下げてかちゃかちゃと庭から逃げていく。

 千畳敷を出ると、クリツナの口輪を取って引きながら、馬上のマリオに訊ねる。

「なんなんスかね。あっしなんかに今まで一度も訊いてきたことがないのに」

「さすがのおやかた様も難渋しておるのだろう。調略という調略もしておらんし。それよりか、なにゆえ跨がらないのだ」

「いや。ちょっと股関節のほうを痛めちゃいまして」

「先に行っておるぞ」

 マリオは馬を走らせて去っていき、おれは溜め息をつく。

 信長はおれにまで訊いてくるほど戦法に悩んでいるのかよ。おれ伝えのあばずれ情報で織田勢がかき回されたらたまったもんじゃない。

 とりあえず我が家に戻って鉢巻きにクリツナを預け、兜をぶん投げ捨てて烏帽子も外そうとしたが、鉢巻きがきっちり止まっていて外せねえ。

 もたもたしていると信長にボコられるので仕方なしにそのまま半兵衛の家に駆け込む。

 そうしたら下男によるとサルの家に行っているとのことだった。クソ。サルの家はおれの家に近いってのに余計な手間を取っちまった。おれは足軽雑兵でもねえってのにかちゃかちゃと鎧を鳴らしながらサルの屋敷の門の中へ飛び込んでいく。面倒なので庭に回る。

「藤吉郎殿!」

「なっ、なんだぎゃっ!」

 おれは縁側に両手をついてぜえぜえ息をつき、広間で半兵衛と向かい合っていたサルがおもむろに駆け寄ってくる。

「何事だぎゃっ!」

「半兵衛。おやかた様が半兵衛を呼んでいるんス」

「にゃっ?」

 サルが広間に振り返って、おれも視線を向けると、半兵衛は鼻先を突き立てながらゆらりと腰を上げてきた。

 燭台の明かりを横顔に受けて、歪んだ笑みを浮かべている。のそりのそりとこちらに歩み寄ってきて、なんだか目付きが悪い。なんだか様子がおかしい。瞳の色が濁りきっている。

「上総介が俺を呼んでいるだと?」

「え――?」

 獣の呻きのような物騒な声を吐いて半兵衛はのそりのそりとこちらに歩み寄ってくるわけだが、明らかにおれの知っている竹中半兵衛じゃないので、サルをちらっと見上げる。

 するとサルはおれに視線を合わせながら頬をしかめた。唇だけを動かして何かをおれに伝えてきた。

 おかしくなってるんだぎゃ、と。

「六角攻めの兵棋に手をこまねいているのか?」

 縁側にそびえ立った半兵衛はおれを見下ろしてきながらくつくつと笑っていた。

 だ、誰、この人……。




 千畳敷に戻ると信長は岐阜城に登山してしまったらしい。昼間はふもとの千畳敷、夜は天主で過ごすとは知っていたものの、人のことを駆けずり回らせておいてテメエはさっさと帰宅だなんてまったくの親分だ。くそったれが。

 仕方なく夜の大手道をかちゃかちゃと登っていく。

 先を行く半兵衛はひとり言をぶつぶつと呟いていたり、急にくつくつと笑い出したりと、様子がおかしかった。

 サルがおれに顔を寄せ、小声で伝えてくる。

「何かおやかた様に進言できねえかと思って六角攻めについて半兵衛に訊いたら、急にあんなふうになっちまっただぎゃ」

「酒でも飲ませたんスか」

「違うだぎゃ。おりゃあは何もしてねえだぎゃ。いくさの話になったらあのざまだぎゃ」

「まずいんじゃないんスか。あんなのをおやかた様に会わせちゃったら」

「まずいっつったって呼んでいるんだぎゃあろ」

 呼んでいるというか、おれが呼ぶと言っちゃったんだけど。

 ダークサイドに堕ちている半兵衛と一言も会話ができないまま岐阜城の城郭を巡るように登っていき、かがり火がこうこうと焚かれている天主に到着した。

 警備に当たっている雑兵に竹を呼び出してくれるよう伝え、ややもして竹がやって来る。おやかた様が待っておりますと言う。

 小広間に通されて、信長は肘掛けの脇息にもたれかかりながら、地図と向い合っていた。敷居の前で平伏し、サルと一緒にやって来たことを伝えるが、半兵衛が突っ立ったままでいる。

 しかし、信長がこちらに見向きもせずに入れと言ってきたので、ひとまずは事なきを得て信長の前に腰を下ろして地図を囲む。半兵衛もサルの隣に座ったのだが、地図を眺めながら「ほう、よく出来ておる」と偉そうにつぶやいてしまい、信長がようやく顔を持ち上げてきた。

 信長はじいっと半兵衛を見つめているが、半兵衛は「ここはこうなるゆえ、ここには――」などと勝手につぶやいている。

「竹中」

 信長が唸るように呼びかけると半兵衛はぬうっと顔を上げていった。

「貴様、南近江に行っていたな」

「左様」

「貴様ならどうする」

 すると半兵衛は鼻をそそり立たせながら、ふふん、と、笑った。

 おれとサルはこりゃまずいと思って肩を縮こませる。

 しかし、信長は半兵衛をじっと見つめているだけである。

「浅井勢はここに加わるのですかな?」

「三河もだ」

「なるほど。浅井と徳川合わせて二万弱と見込めば、織田は全軍を集結させているゆえ、総勢五万といったところですかな?」

「そうだ」

「ならば六角は籠城だな」

 おれとサルはびくっとして肩をすくめる。

 信長の眼光もさすがに光ったが、半兵衛はまったく気にせずに不敵な笑みを浮かべたまま言った。

「一夜で勝敗を決めましょう」

「なにい?」

「着陣はここ」

 と、半兵衛は地図の上に置かれてあった黄色い駒を手にしすると、バチンッと叩き置いた。

「観音寺城から見て愛知川対岸に全軍」

 信長は不敵に笑う半兵衛を睨みつけていたが、気にも留めない半兵衛が「さすれば」と言って指差したので信長の目線の先もそこに向けられた。

「我ら織田勢から見て対岸はすぐに支城の和田山城。六角方は織田勢がまずはこの支城を攻め取ると予測を立て、兵をここに回し守備を固めるであろう。和田山は水堀が張り巡らされているが曲輪が少ない。また、和田山の背後にはすぐに観音寺城が巡らされている繖山きぬがさやまがある。和田山を攻め取るは常套手段である」

 だが、と、言葉を繋げながら、半兵衛は黄駒の中でもっとも大きい、おそらく信長本隊の駒をすすっと動かしていった。

「我ら織田の主力は和田山を攻めず、愛知川を上流に移動していきながら迂回し、渡川、ここ、箕作山を攻める」

 すると信長は、

「箕作山は塙九郎左衛門の見分によれば支城のうちでもっとも堅固だ」

 と、睨みもすっかり消えて半兵衛にすっかり夢中でいる。おれとサルは横目だけで目を合わせ、揃ってほっと胸を撫で下ろす。

「ゆえによ」

 と、またタメ語なのでおれとサルは泣きたい表情で顔を見合わせる。

 しかも半兵衛はくつくつと笑い出しながら駒を動かす始末。

「馬廻、それに丹羽五郎左、木下藤吉郎、滝川彦右衛門、屈強な三河勢も付け足すか。これにて一万五千余。これらで攻め取る。和田山には西美濃三人衆でも置いとけばよい。繖山には柴田権六、森三左、赤母衣、黒母衣。夜明けよりこれらを先に攻城させる。その間、迂回するというわけだ」

「だからなんだ。それしきが一日で落とせる思案か」

いな

 半兵衛は笑みを浮かべたまま目玉を剥いて顔を上げ、まるで挑発しているかのように信長をてらてらと見つめる。

 信長の眉間にはみるみるうちに皺が集まっていく。

「箕作山への攻城は日暮れまで続けるも、それは及び腰の腑抜け攻めでよい。むしろおめおめと退散してしまえばよろしい。六角も箕作山が早期に落ちるはずがないと踏んでおる。長期戦になるはずだと」

「当然のことだ」

「しかし、日が暮れてより、仕掛けを施す」

「仕掛けだと?」

「箕作山の至るところに松明たいまつを仕込む。して、子の刻(午前零時)に火を灯し、総攻撃よ」

 信長は半兵衛から視線を外し、サルのほうへ向けてきた。

「できるか、貴様」

「にゃ、で、できますだぎゃ。仕込みますだぎゃ」

 信長はどうやら半兵衛の意図を読み取ったようだが、半兵衛は地図を覗き込みながらぶつぶつとつぶやき続ける。

「昼中にさんざん攻め込んでき、おめおめと退散していった織田勢がまさか夜襲をかけてくるとは思わん。将も兵も織田なんぞたやすいものだと眠りに付くかもしれん。しかし、我らは落とす! さすればどうであろう。くっくっく。繖山に連なる格好の箕作山が落ちたとあれば、六角方は泡を食うに違いない。他の支城との線もここで断たれ、一挙、連中には悲愴が漂うはずであるわ」

 半兵衛がにやにや笑いながらひとり言を立てているのをよそに信長は腰を上げ、おれとサルに言った。

「この策、いっさい口を割るな。それと貴様ら余分に松明を用意しておけ」

「しょ、承知しましたぎゃっ」

「か、かしこまりましたっ」

「しかし――」

 と、信長はダークサイド真っ只中の半兵衛に振り向き、吐き捨てた。

「いくさ狂いの奇人め。サル。貴様が手なずけろ」

 やはり信長は相当ご機嫌を悪くしていたようで、ずかずかと小広間を出ていってしまった。

「六角諸将は三好三人衆の援軍が来ればと期待しているだろうが、それ以前に叩かれてしまうのだ。ましてや、堅固な城を持つ者は籠城戦になるとおごる。弱体な城の者は命を懸ける。桶狭間がまさにそうだった。ふふ。おごった者が地獄に叩き落とされたときの絶望ほど悲惨なものはない。かなうならば六角諸将のおごるツラでも拝見させてもらいたいものだ」

 親分がいなくなっても地図にのめり込んでいるのだから、信長の言う通り、半兵衛はいくさ狂いなのだろう。

 天は二物を与えず、か。

 いくさ馬鹿じゃなかったら半兵衛が天下人なんだろうな。




 先頭を行くひとり言の半兵衛は放っておきながら、稲葉山を下りていく。

「明日中には準備しておかにゃあと。おやかた様は突然出陣するときがあるだぎゃ。おみゃあ、明日の朝、沓掛の足軽を連れて城に来るだぎゃ」

 おれまで松明部隊にさせられているのが腑に落ちないが、仕方ない。いくさ馬鹿とは言え半兵衛の策だ、あばずれに情報を漏らしたおれの失態も跳ね除けてくれるはずだ。

 この時間ともなると屋敷町の通りは静けさをともなうが、出陣前とあってかところどころでかがり火が焚かれてあって、騎馬武者だったり具足姿の人間だったりがかちゃかちゃと行き交って物々しい。

 半兵衛がかがり火の前で立ち止まり、パチパチと燃え盛る火をじいっと見つめ始めたが、放っといて先を行き、サルと別れると、我が家には帰らず願福寺に向かった。

 境内で茣蓙を敷いて寝転がっていたりサイコロ博打をやっている連中をかき分けていって、それぞれの足軽組頭に明日の夜明けには岐阜城の大手門前に集まるよう告げる。

 そうしてようやく我が家に戻ってき、あいりんとお貞が待っていた。あずにゃんもさっきまで待っていたようだが、待っているうちにうとうとと寝てしまったらしい。

 とりあえず甲冑を外してもらって、さっさと風呂に入る。甲冑を着込んだまま登山をしたからくたくただった。

 風呂から上がるとあいりんとお貞にも気にせずに寝てくれるよう告げると、広間で一人、メシを食う。

 寝静まっているうえに生意気息子がいないためか屋敷の中はひっそりとしている。太郎は馬廻衆なので城に詰めているのだった。

 いよいよ上洛か。

 膳を片付けると、火皿を片手に廊下を行き、あずにゃんの部屋の戸をそっと引いてみる。こちらに背を向けて丸まっているあずにゃんは小袖のたすき掛けに袴を履いていた。薙刀なぎなたまで立てかけられている。一緒に出陣するわけでもあるまいし。

 でも、そんな奥さんが愛しくなって、火皿を手にしたまま忍び入り、寝顔を覗く。長いまつげをたたんですうすうと寝息を立てている。うなじに鼻を寄せてくんくんと匂いを嗅いだあと、ほっぺたにキスして部屋をあとにした。



 その日は朝から雨だった。箕笠を被って稲葉山をまた登る。陣笠の庇から雨滴を垂らす沓掛勢を引き連れながら、手ぬぐいで汗を拭き拭き、こぬか雨に蒸し暑い。

 硝薬庫の脇に積み上げられている材木を担がせて山を下りていき願福寺まで運ぶ。境内で斧で割っていく。割った木材は湿気対策のために炭を混ぜて荷車に積んでいき、筵で覆いかぶせる。

 作業をしている間、足軽の半分ほどを引き連れて、また稲葉山を上がる。材木を担がせて再び寺まで運ぶ。

 シンパチのオッサンがそんなに焚き木が必要なのかと訝しがっていたが、誰にも言わないでくれと前置きした上で、おれは信長の命令であることをシンパチに伝えた。

「そこまでの長期戦か……。もっとも岐阜から補給できそうだが……」

 ぶつぶつと呟いていたオッサンだったが、あとは自分が見て回る、住職が簗田殿の分の昼メシを用意しているそうだ、と言ってきたので、お言葉に甘えて願福寺の離れ屋に向かった。

 外した箕笠をはたいていると死にぞこないの住職がやってきて上がりかまちに膝を揃えた。

「握り飯とお吸い物をご用意させておりますので」

「ああ。ありがとう」

「ところで、御仏に戦勝を祈願したいと……」

「ああそう」

 おれは上がりかまちに腰を掛け草鞋を脱いでいくが、住職はおれのかたわらに寄り添ってきて離れない。

「簗田様。当寺は昨年のいくさ以来、本堂が――」

「わかったよ! うるせえな! ゼニゲバが!」

 おれは懐に手を入れると、取り出してきた金判一枚を叩き置いた。住職はぺこぺこと頭を下げ、おれはむかむかしながら勝手に上がり込んで、稲葉山攻め直後に宿所に使っていた部屋に向かう。

 なんだっておれのポケットマネーから滞在費を出さなくちゃならねえんだ。信長かマリオから出ているんじゃねえのか。なんなんだ一体。

 宿所に入ると、すぐに小坊主がメシを持ってきた。おれは手ぬぐいで首周りを拭いつつ、チップで文銭をくれてやる。

「住職には黙っておけよ」

 小坊主はすっかりにこにこと笑って丁寧に頭を下げてき、部屋を出ていく。

 塩気のねえ握り飯を頬張っていき、山菜がお慰み程度にしか入っていないつまらねえ汁物をすすっていく。

 すぐに平らげてしまって寝転がる。疲れた。準備作業を押し付けられたかと思ったら雨降りだなんてついてねえ。

 かこんかこんと木を割っていく音とともに、さあさあとかすかな雨音が聞こえてくる。

 いくさの前にくたばっていたんじゃ話にならん。

 なので昼寝。

 ……。

 口をぺちゃぺちゃと鳴らしながらまどろみの中で寝返りを打とうとしたら、頭に違和感を覚えて、瞼を開いた。

 誰かに膝枕されている。

 鼻孔からすうっと貫いてくる柑橘系の香りはあずにゃん――?

 じゃない。

 おれははっとして体を起こし、あわてて距離を取り、置いていた脇差しをすかさず握った。

「久しぶりやね」

 肩にかかるかかからないかの髪はあのぼさぼさ感がなく、服も淡い青色の小袖をまとって町娘に扮装しているが、忘れもしない魔性の微笑み、団子鼻、猫目。

 あばずれのさゆりん。

 緊張で胸の鼓動が早まるとともに、胸苦しさも一挙に沸く。

 格子窓の向こうでは軒先からぽたぽたと雨滴が落ちている。沓掛勢はメシでも食っているのか、それとも作業が終わったのか、離れた境内からはなんの音も聞こえてこなかった。

 さゆりんは微笑みを浮かべたまま、ただただ和やかな表情でおれを見つめてくる。

「テメー。どっから忍び込んできやがった」

 おれはあばずれを睨みこむまま脇差しの柄を握った。

「ここはおれの手下どもで埋められているんだ。いい度胸してんじゃねえか。ぶっ殺してやる」

 すると、あばずれは笑みを消していき、眉をすぼめていき、しばらくはおれを瞳を潤ませて眺めてきたあと、ゆったりとした口調で唇を開いた。

「やっぱり、怒っとるん?」

「怒ってるとかそういう問題じゃねえだろうが」

 あばずれは唇をきゅっと結び、涙目のか細い眼差しを注いでくる。

 蒸し暑さは感じられなかった。むしろ寒さを覚えた。しかし、刀を脇差しからゆっくりと抜いていくおれのこめかみからは首筋へと汗がつたっていた。

「どうせおれのことをたぶらかして織田の動きをおれから引き出そうとしてんだろう。そんなの無駄だ。今のおれはテメーに殺されても口を割らねえ。袖振り合うもなんとかって奴で見逃してやる。さっさとここから出てけ」

「そんなん、私はあんたに会いたかっただけやのに」

「黙れ――」

 怒鳴ろうとしたら一瞬で間合いを詰めてきたあばずれは、人差し指を立てて、それをおれの唇に添えてきていた。

 寄せてくる眼差し。

 それはあのときの、伊那谷の廃屋で潤ませていたあのときと同じ――。

「ほんまなんや」

「やめろ」

 と、言いつつ、短刀の柄を握りしめるおれの腕は震えていた。

 あばずれの目がまったく嘘をついていないようにおれには映ってしまう。わずかに開いた彼女の唇を見ていると、胸のわだかまりが溶けていってしまいそう。

 それでいて、おれに一瞬で詰め寄ってきたときに漂わせた殺気が、この女の危うさをおれに感じさせていた。

 でも、信じちゃいけない。戦わなくちゃいけない。絶対に心を許してはならない。

 いや、やっぱり、この唇に触れている指のなめらかさは。

 本当にさゆりんは――。

「忍びは正体を知られたら殺さなあかんの。でも、あんたは殺せんかったの」

 さゆりんは人差し指を下ろしていくと、つまんだ袖でおれがこめかみから流している汗を拭きとっていく。

 うなじからあの香りを寄せてきながら。

「ほんまに会いたかったんや」

 おれの横顔にそっと視線を向けてくると、胸を波打たせながら目尻からひとすじの涙を垂らしていく。

 嗚咽まじりに言う。

「終わりなんや……。織田は四万も五万も集めておるんやろ。六角様はそれに気付いておらん。気付いておらんのや。ほんで、三好の援軍があれば安泰やと思とるんや」

 おれの理性はめちゃくちゃになってしまっている。

 さゆりんの言っていることが嘘だとも思うし、嘘泣きだとも思うし、でも、しかし、さゆりんの言っていることは本当なんじゃないか、そもそもおれは期待しているのか? あれだけの仕打ちを受けたのに? あずにゃんが家で待っているというのに?

「あんたに嘘をついていた。一度入れば忍びの道は抜けられん。甲賀流は六角様とともに心中なんや」

 おれは刀を鞘の中におさめた。

 呼吸を整えながら、部屋の板壁だけを真っ直ぐに見つめる。

「むくいだ。それだけのことをお前がやってきたんだろう。そのむくいだ」

 灰色の景色が格子窓から覗ける。しずくが軒からぽたりと落ちていき、見えるか見えないかの細かい雨は無常な日々を潤すようにして静けさを濡らしている。

「そやね」

 さゆりんは瞼のうちを赤くしながらも、頬を柔らかくして笑っていた。

「でも、私はあんたに会いたかったの。忍びの道から抜けたいっていうのはほんまやったの。そんな私にあんたは本気になって考えてくれた。だから、私はあんたを殺せなかった」

「もうやめろ。やめてくれ」

「あんたは天下におらなければあかん人や」

 おれは泣きたい思いでさゆりんに顔を向け、なかば睨みつけ、なかば震えるさゆりんの唇を見つめる。

「好きや」

 そう言ってさゆりんはおれの首に腕を回してしがみついてきた。胸苦しさがぐっと込み上がってきて、おれの腕はさゆりんの小さな背中を抱え込んでしまう。胸に抱き寄せてしまう。

 すると、さゆりんはすうっと顔を離し、おれの目の前でおれを震えながら見つめてくるのだった。

「駄目だ、おれには奥さんが――」

 と、おれはつぶやいたが、さゆりんの唇はおれの言葉を塞ぐようにして重なってきた。

 激しくて、優しくて、柔らかくて。

 長い間そうしたあと、唇をゆっくりと離していったさゆりんは、うっとりとながらも切なげな瞳でおれを見つめてくる。

 おれもぼんやりとさゆりんを見つめる。

「もう会えないんやね」

 おれはがばりとさゆりんを抱き寄せ、さゆりんの華奢な肩におもむろに顔をうずめる。

「そんなことはない」

「なんでや。織田に攻めこまれたら終わりなんや」

「ああ」

「ほんだら、もう私たちは会えんのや」

「わかっている。だけど、おれだってさゆりんには死んでもらいたくない。だから――、べつにおれたち織田のおれたちが死ぬわけじゃない。さゆりんを守るためなら」

 おれは再び顔を持ち上げ、さゆりんともう一度キスをしたあとに、教えた。

「織田勢は愛知川に着陣し、翌朝から他の支城には見向きもせずに和田山城を総攻撃する。観音寺城は赤母衣黒母衣、柴田権六、森三左に当たらせてそれを主力部隊と見せかけ、西美濃三人衆を先鋒にして和田山城総攻撃だ」

 さゆりんはじっと固まっている。

「西美濃三人衆は織田の傘下に組み敷かれたばかりだ。おやかた様は織田への忠誠を試すために死に物狂いで当たらせる」

「ほんまなん?」

「おやかた様と竹中半兵衛、木下藤吉郎しか知らない作戦だ」

「竹中半兵衛はあんたの説得に応じて織田に入った言うてたな」

「そうだ。だから、和田山城に主力を向ければ、観音寺城も落ちない。そうするよう上の人間に伝えてくれ」

 おれはもう一度さゆりんを強く抱きしめる。

「おれはやっぱりお前に惚れているんだ。さゆりんには死んでほしくないんだ」

「ありがとう……」

 しばらくの間、空々しい思いでさゆりんのぬくもりを感じたあと、早く南近江に戻るようにと言って、体を起こす。

「いくさが終わったら、また会いに来てくれよな。必ず」

「うん。必ず」

 さゆりんは戸の前に立ち、目付きを鋭くさせて聞き耳を立てていたあと、戸を開けて去っていった。

 おれは腰を上げて戸を閉め、溜め息をつきながら再び腰を下ろす。

 さよならさゆりん。

 お前が甲賀流の忍びであるように、おれも織田の武将だ。

 おれを阿呆だと決め込んでいるお前は、今の話をそっくりそのまま六角の上層部に伝えてくれるだろう。

 さよならさゆりん。

 信長の主力部隊は箕作城攻めだ。




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