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ふりてんつもる(前編)  作者: ぱじゃまくんくん夫
第五、二章 よめとり物語
78/147

あっしを祝福してくれますか?

 朝、目覚めたときから、我が家がどうもうるさかった。

 お勝手場からキャピキャピと騒ぎ声がする。

 どこの小娘どもをあいりんは連れ込んできやがったのかと思って覗いてみると、かまどからの充満する湯気の中で、勝手場は大勢の(六、七人ぐらいの)女どもでギッチギチになっていた。

 びっくりしていたら、女どもの中におまつの顔があった。

 あと、寧々さんの姿もあった。

 それでいて、他の女どもは、前田家や木下家の女中だった。

「牛殿、ずいぶん遅いお目覚めですね」

 寧々さんに声をかけられ、おれは寝ぼけまなこで頭を掻く。

「は、はあ。てか、どうして寧々さんがウチで朝メシを作ってんですか?」

 すると、寧々さん以下、女どもは皆で顔を見合わせて、キャッキャウフフと笑い上げた。

「旦那様」

 あいりんがにこにこ顔で歩み寄ってくる。

「今日は旦那様の祝言ということで、寧々様もおまつ様もお手伝いに来てくださったのです」

「えっ」

 きょとんとしていたら、寧々さんが言う。

「だって、牛殿、お女中さん一人では支度なんて出来やしませんでしょう」

 その後ろではおまつがクスクスと笑っている。

「前々からみなさんで決めていたんですよ」


 なんだい……。みんなして……。

 

 桶狭間のいくさから足掛け八年目。

 拾阿弥を叩き斬ったマタザがおれのボロ屋に押しかけてき、酒や漬け物を持ってサルと寧々さんとおまつが押しかけてきて、おれは惨めにガブガブと酒を飲むしかなかった。

 あの夜を振り返れば、まさかこんな日が来るだなんて。

「寧々さん、おまつさん、あいがとうごぜえます」

「さあさあ、お婿さんはお嫁さんが来るのをどっかり腰を落ち着けてお待ちなさい」

 寧々さんに背中を押され、おれは勝手場をあとにする。


 この時代の理不尽さ加減にむかついたことなんて星の数ほどあった。

 いつも変わらず小馬鹿にされて地団駄を踏むときもあった。

 何をやってもうまくは行かねえ、惚れた女のために一汗かいたところで待っているのはとんだ仕打ち、挙げ句の果てには山奥の隅っこで殺されそうにもなった。

 んでも、生きてりゃいいことってあるもんだ。

 みすぼらしくたって、貧乏だって、キモオタだって。

 生きてりゃ、とにかく生きてりゃ、幸せなときってのは来るもんなんだ。


「旦那様」

 廊下を渡っていたら、広間からシロジロが飛び出してきた。

「今日のために新しい直垂を仕立てておいたんス」

「えっ?」

「ほら、旦那様が前に仕立てたのはボロボロになってしまったじゃないッスか。だから、旦那様の好きな藍染めの」

 広間に目をやると、太郎がにこにこと笑いながら床のものに指を差した。

 藍染めの着物と黒い烏帽子がご丁寧に盆の上に置かれている。

「それなりの衣装でなければ、母上も眉をひそめてしまいます」

 こいつらは本当にお涙頂戴しか考えていねえ……。

 太郎のバカ野郎。

 母上だなんて。

「旦那」

 庭先から鉢巻きが呼んできた。クリツナ(仮)を引いてきている。

「梓を乗せてくるのはこいつにしてくれるよう迎え役に言ってくれよ」

「ああ。ありがとう。ただ、梓じゃなくて、奥方様って呼べよな……」

「さ、父上。早く着替えて。広間でお待ちになりましょう」

「わかった。あいがとう、お前ら」

 感無量のおれはうんうんうなずきながら、その場で着替えていく。

 まさか、自分の家で礼服を着るだなんてな。

 庭には沓掛の連中のおかげで百日紅の木が二本植わっている。

 殺風景な庭に裸枝なのがやるせないものの、もうすぐ葉もついて、夏には花が咲く。

 物足りなければ何かまた増やせばいい。

 これからだから。


 感慨に耽りながら朝日が降り注ぐ庭を眺めていると、招待もしていないのに客が庭にやって来た。

 仲人の村井民部であった。皆は一斉に平伏するも「よいよい」と民部ジジイは縁側に腰を掛ける。

「良かったな、晴れて。天もお主を祝福しておる」

「ありがとうございます。これもひとえに民部殿とおやかた様のおかげです」

 そうしていると、サンザも来た。

 重臣が来て堅苦しくなってしまったが、寧々さんとおまつが酒を運んできて、朝っぱらからさっそく酒宴が始まってしまう。

 さらには、

「お。さまになってんじゃねえか」

 と、言って、マタザは絶対に押しかけてくると思っていたが、八っちゃんも連れてきていた。

「おめでとうございます、簗田殿。初めてお会いしたときがもうずいぶんと昔のように思われますね」

 初めて会ったときか――。



「拙者は村井長八郎と申します。又左衛門様の兄上様に仕えておりますが、朝はこうして毎日又左衛門様に使われてしまっています」

「あ、どうもッス。牛ッス。昨日から織田の下僕になりましたッス」



 八っちゃんはそう言っておれに手を差し伸べてくれたんだっけ。


 ハットリ君もヌエバアと一緒に来た。

 ハットリ君とは喧嘩もしたもんだった。


「ハットリ君。バアさんの言うとおりだ。生きるか死ぬかではなく、まず、おれたちが考えることは勝つか負けるかなんじゃないか?」

「牛殿はまだそのようなことを申されておるのですか」

「は?」

「この状況で、今川治部を討ち取ろうなどと、まだ」


 でも、今は髭なんか生やしちゃってすっかり逞しくなっているわけで。

「どうして呼んでくれなかったのですか。我が家の糠床が空っぽになってしまいましたよ」

 ハットリ君が笑って冗談を飛ばせば、壺を抱えているヌエバアがおれを目の当たりにした途端にうずくまってしまう。

「おいっ、バアサン、どうしたっ!」

 死んでしまうのかと思ってあわてて庭先に下りたら、ヌエバアは泣いているだけだった。

「まさか、こんなに立派になるとは思わなかったがね」



「旦那様はいくさまで戻られん言うのを聞いたがね。んで、持ってきたがね」

「なんだよ、それ」

「死んだ倅が使っていたもんがね。槍や刀は小平太が持っているんでねえけども、家で埃を被っているだけだったから旦那様に着けてほしいんがね」



 おれは笑いながらヌエバアを抱き起こした。

「なんだよ、それ。昔は立派じゃなかった物言いじゃねえか」

 広間で酒を食らっている連中はげらげらと笑う。

「おい! 牛! お前も来い! 飲まなくてどうすんだ!」

 人の結婚式をただの飲み会にしているマタザに呼ばれ、サンザから酒を注いでもらって、あまり飲みたくなかったけれど、盃を一息にあおる。

「牛殿は下戸だと聞いていたが、実はいける口か?」

 もうすっかり顔を赤らめているサンザに向かって首を振って否定する。



「お主、名は。牛と呼ばれているそうだが」

「あっ、はい。あっしは簗田マサシって言いまして、テメーなんかが名を持っているのは贅沢だから、テメーなんかは牛でいいって、おやかた様が」

「それはむごい。しかし、おやかた様の命ではな」

「は、はい」

「しかし、牛、牛、と言うのもな。そう呼ぶのもなかなか憚れる」

「いや、馴れましたんで。全然気にしないッス」

「牛太郎とはどうだ。そちらのほうが呼びやすい」

「そ、そうッスね。アハハ……」



 サンザから注がれる酒を受け止めながら、しかし、盃を持つ手は震えていた。

 走馬灯のようによみがえるだなんてまさにこのことだった。

 野良牛と呼ばれ、誰もがおれを法螺吹きだと思っていたけれど、おれの言葉を初めて信じてくれたのはサンザだった。

 口うるせえオヤジだけれども、おれはサンザがいなかったら何もできなかった。

「すいません。ありがとうございます」

「何を泣いているんだ、お主は」

「いえ、すいません……」

「わしも泣けてきてしまうじゃないか」

 なんだい、なんだい。

 みんなしてさ。

 大団円じゃねえか。

 そうだ、おれもやっぱり頑張ってきたことは頑張ってきたんだ。

「そ、そういや、やっぱり、おやかた様は来てくれないんスかね……」

「何を差し出がましい。いくら祝言とは言え、言っていいことと悪いことがあるぞ」

「す、すいません」

 サンザに怒られてうなずいた。

 まあ、そうだよな。信長は信長なんだから。

 偉大な親分がおれみてえな奴の結婚式に顔を出すはずがねえ。

「あ。簗田殿……」

 庭先にふらりと現れたのは小一郎だった。

「お、小一郎。お前も来いよ」

 と、おれは手招いたのだが、逆に小一郎に手招きされた。

 小一郎はなんだか幽霊みたいな顔をしている。おれは首をかしげながら敷居をまたぐ。

「ちょっとよろしいですか」

 と、小一郎に促された。庭先に下りると、あくびをかいているクリツナ(仮)の影に回される。

 小一郎が顔を寄せてきてひそひそと囁いてきた。

「実は、兄さんからことづてがありまして……」

「ん?」

 小一郎の歯切れが悪いので、おれは胸騒ぎを覚える。

「その、今日の簗田殿の祝言でお迎え役を竹中殿としたと、拙者はついさっき知ったんですが、その……、兄さんがですね、竹中殿に伝えていなかったようで、昨晩初めて竹中殿に伝えようとしたんです。そうしたら――」

「そ、そ、そ、そしたら?」

「竹中殿は、一旦岐阜に戻られたのですが、また南近江に行ってしまいまして、兄さんはそれを知らなかったんです。それで、兄さんは、その、拙者にそれだけを言ってどこかに逃げてしまいました」

 青ざめてしまったおれの頭上には、百日紅さるすべりの裸枝が空を割っている。





 サ

 ル

 マ

 ジ

 ふ

 ざ

 け

 ん

 な

 ・

 ・

 ・

 



 逃げやがっただと?

 半兵衛はニート癖が抜けなくて散歩しているだと?

 じゃあ、おれとマイリトルラバーの結婚はどうなるってんだ?

 おれとあずにゃんの結婚はどうなっちまうんだ。

 くそう……。

 サルなんかをあてこんでいたおれがバカだった。

 あいつはいっつもおれの害でしかねえ!

 最初からそうだった。ヒルモを奪い取ったばかりか、おれを悪酔いさせて桶狭間のネタを引き出しておれを出し抜き手柄を獲得し、かと思えば寧々さんと結婚したいからって泣きついてきて、そんでもって半兵衛のときだってしつこく泣きついてきて、いつもいつもあいつはおれの……。

 そりゃ、それなりにあいつとだっていい思い出はあるさ。一緒に野宿して、一緒に城を建てたさ。

 でも、そんないい思い出なんて嵐のように薙ぎ払ってくれるほど、あの野郎はおれの害でしかねえっ!

 いや……。

 サルなんかに怒りを覚えている場合じゃない。

 祝言はこの日そのときまで迫っているんだ。どうにかしないとお流れになっちまう。

 あずにゃんは待っているんだ。おれの迎え(おれが派遣した出迎え役)を待っているんだ。八年も待たせたんだ。八年も。

 それを迎え役が調達できないなんていうくだらねえトラブルであずにゃんを悲しませてしまうだなんて。

 あずにゃんは絶対におれが大好きなんだ。おれだってあずにゃんが絶対に大好きなんだ。

 もう、こうなったら、サンザか民部ジジイに泣きつくしか。

 ――。

 いいや、そんなことをして何になる。

 そもそもおれとあずにゃんは好き同士なんだ。好き同士が結婚して何が悪い。

 何が祝言だ。何が迎え役だ。くだらねえ建前を振りかざされて腰を怯ませていたらどのみちおれは前には進めねえってんだ。



「心の中と世の中とは違う。本音で通用したら、この世は成り立たぬ。だが、本音が通用するのであれば越したことはなく、わしとてその思いは常に持っている」」



 誰の言葉かと思って振り返ってみればゴンロクの野郎がマタザを説得するときに格好つけて言った言葉だ。

 バカ野郎が。

 わしてとてその思いは常に持っているだと?

 テメーがくっだらねえ建前を振りかざしておれとあずにゃんの前に不条理を打ち立ててんじゃねか。

 そりゃ、世の中の連中が建前の中で本音をぐっとこらえているから世の中は成立してるのかもしれねえ。

 でもよ、人間ってのはそれだけじゃ生きていけねえときだってあるんじゃねえのか。

 こらえているだけじゃ前には進めねえんじゃねえのか。

 そういうくっだらねえもんはぶっ壊してやる!

「おいっ! 牛っ、どこに行くんだっ!」

 おれがクリツナ(仮)に跨ると、マタザが飛び出してきて、広間の連中はざわついたが、おれは深く息を吸い込んで、ゆっくりと息を吐いていくと、マタザに眼光を飛ばした。

「マタザ殿、あっしは一世一代の勝負に出ますよ」

 マタザはぽかんと口を開け広げる。

 おれは手綱を手繰ってクリツナ(仮)を走らせ、呼び止めようとする連中をよそに屋敷の門を出ると、小走りになって屋敷町の通りを行く。

 おれがイレこんでいるのが背中越しに伝わっているのか、クリツナ(仮)は首を振りながらちゃかちゃかと興奮している。

 だからって、おれはゴンロクをぶち殺しに行くつもりなんて毛頭ねえ。

 喧嘩をするつもりだって毛頭ねえ。

 テメーの建前のくだらなさがどれだけ惨めか、本音と本音でぶつかり合えねえのがどれだけクソッタレか、テメーに見せつけてやる。

 柴田家の門前に辿り着いたおれは颯爽と下馬すると、瞳孔を開きながら門をくぐっていった。

 玄関を尻目に庭へと回っていく。

 祝言とあって軒下には草履が無数に並べられている。

 開け放たれた広間には柴田の縁戚や子分と思わしき人間が十数人ほど詰め込まれていた。

 最初、連中は、庭先に殴りこんできた殺気おびただしいおれの姿に気づかないでいたが、

「頼もう!」

 と、おれが声を張り上げると、一同こちらに視線を向けてき、そうしてやって来たのがおれだと気づくと途端に血相を変えてがばりと立ち上がった。

「簗田殿ではないか!」

「なんの真似だ!」

「ゴンロク殿に話がある!」

「なにい」

 と、連中が戸惑いの色を見せている中、騒ぎを聞きつけたか、ゴンロクが縁側をずかずかとやって来た。

「なんだ、野良牛。婿殿が何をしに参った」

 ゴンロクはおれの行動が思った通りとしているのだろう、ほくそ笑んでいる。

 おれは直垂の裾を持ち上げて、その場に土下座した。

「お頼み申す! 面目がないながらっ、あっしは今日のお迎え役を用意できなんだっ! しかし、あっしはこの命に代えても妹御を貰い受けたいっ!」

「ふざけろっ!」

 おれはゴンロクを見てはいなかった。

「迎え役が用意できなかっただと? そんな者に妹がやれるかあっ! この柴田の家に泥を塗りおって! いいや、柴田だけではない。おやかた様に泥を塗ったのだぞっ!」

 肩を震わせながらも、おれは歯ぎしりしながらゴンロクを睨み上げた。

 広間にいた縁戚子分連中も黙りこんでいる。

 春うららの日差し――。

 まどろむような花の香りが立ち込めている。

「あっしはこの織田に仕えたそのときから梓殿に惚れておりました。しかし、拙者は身分いやしき正体不明の野良牛ゆえに、惚れていても口には出せませんでした。しかし、おやかた様のお下知をたまわって、ようやく面と向かって梓殿に好いていると申せるのです」

「だからなんだ」

「お迎え役を用意できなかったのは拙者の不徳の致すところっ! それでもっ、どうして拙者が迎えに上がってはならないのですかっ! お迎え役の役目が嫁を無事に嫁ぎ先に送り届けるというものであればっ、拙者が梓殿をお守りする気持ちは誰にも負けません! この門から拙者の屋敷の門まで、どんな者に襲われようと、どんな目に合おうとも、梓殿をお守りすることに代わりありませんっ! むしろっ、梓殿をこの世でいちばんに惚れている拙者だからこそ梓殿をお守りできるのではありませんかっ!」

「何を訳のわからんことをごちゃごちゃと申しておるのだっ! お前がそう屁理屈を並べるのであればなっ、もしや襲撃されて嫁を守れたとしても、死んでしまうかもしれん婿などに娘を嫁がせられるかということなのだ! 違うか!」

「そんなの建前ではありませんかっ! この門から拙者の屋敷の門まで誰がどうして襲いますかっ!」

「襲われんと言い切れるのかっ! お前は刻一刻と流れる明日のことを予見できて生きているのか!」

 おれはゴンロクの足元を見つめるまま生唾を飲み込んだ。

 額から汗が噴き出ている。ひとしずくとなって頬へつたっていく。

「いいか、野良牛。お前は何か勘違いをしている。確かにお前は梓に惚れているんだろう。梓もお前に惚れているのかもしれん。だがな、お前が惚れたその梓を養ってきたのはこの柴田の家なのだ! 考えてもみろ! 大事に育ててきた娘を手放すのだぞ! 昔からの習いぐらいものっとれない家なんぞに誰が嫁がせる!」

「そ、それは、これから、あっしは梓殿と――」

「たわけえっ! お前は無頼者か! 織田上総介様が直臣だろうが! お前は長年何をやっておったんだ! わしから言わせればな、沓掛三千貫だろうとなんだろうと、お前は昔の野良牛からちっとも変わっておらんのだ! お前の見せているそんなものはな、心意気でもなんでもないのだ! ただのたわごとよ!」

 何も言い返せないのは、ゴンロクの言っているとおりだからだろうか。

 おれがバカだからなんだろうか。

 おれが何もやってこなかったからだろうか。すっからかんの八年を送ってきたからだろうか。

 そんなはずはない。

 でも、何も言い返せない。

 ゴンロクの言う通り、おれにはあずにゃんを迎える資格なんてないのだろうか。

 悔しい。おれは無力すぎる。悔しい。

 何がぶち壊してやるだ。何もできねえじゃねえか。ゴンロクにやり込められちまっているじゃねえか。

 ゴンロクの言っていることは建前かもしんねえ。でも、本音でもあるんだ。おれなんかと親戚なんかになりたくない。おれなんかに妹をくれたくない。

 結局は、そんなゴンロクの考えを覆せなかったおれだってことなんだ……。

 惨めな思いをしたのはおれだ。

 だったら、それならもう――。

 ひとおもいに腹をかっさばくしかねえ。

「頼もおうっ!」

 唐突に庭に大声が飛んできて、おれはハッとして顔を上げた。

 縁側に仁王立ちしていたゴンロクも声のしたほうに振り返った。

「主人簗田牛太郎の使いにより、御家、娘殿をお迎えに上がった!」

 唖然とした。

 庭に入ってきて、おれとゴンロクの視線の先に鼻頭をそそらせていたのはマタザだった。

「なんだ又左! 何用だっ!」

 マタザは口許に笑みを浮かべながら涼しい顔つきでゆっくりと歩み寄ってくると、おれの隣に並んで片膝をついて座った。

「お前がちっとも変わっていないなんてことはないぞ、牛」

 そう小声で囁くと、マタザは視線を伏せつつも、その目を縁側のほうに向けた。

「柴田様、なんべんも言わせないでいただきたい。妹御をお迎えに上がったのです」

「なんだと?」

「なんべんも言うておりますでしょう。それとも梓殿を渡せぬとおおせあられますか。簗田と柴田の婚姻はすでに取り決められたものですぞ。それを力ずくで反故にしようとあるならば、それがしも力ずくで梓殿をお渡し願うまで。さもなくば主人簗田牛太郎に合わせる顔がござらん」

「牛太郎が主人など何をほざいておる! このかぶき者め!」

「かぶいてなどござらんわ!」

 マタザは素襖の袖をがばりと鳴らしながら腰を上げた。目を血走らせて怒り狂っているゴンロクと真っ直ぐに向かい合いながら、素襖の懐に右手を入れている。

 取り出してきたのは書状だった。折りたたまれたそれを広げ、ゴンロクに向けて突き出した。

 それは――。

 おれは力が抜けていってしまう。

 ゴンロクも口を開けて呆然と立ち尽くしている。

 マタザが手にしている書状には、「天下布武」の朱印が燃え立つように赤々と判されていた。

「この通りおやかた様の下知で、拙者前田又左衛門は本日に限って簗田牛太郎の与力よ! 柴田様っ! この朱印をご覧になられても拙者がかぶいていると申されるかっ!」

 おれも、ゴンロクも、誰もが震えもしなかった。

 まどろむような花の香りに包まる庭は、ただただ柔らかい日差しに染められて、何もかもが季節に取り込まれてしまったかのようにして、しんとして静かだった。

 ゴンロクがぼそりとつぶやいた。

「迎え役殿に、酒を振る舞え……」 

 顔を紅潮させながらもゴンロクは、怒りを押し殺すような足踏みで縁側から屋敷の奥へと消えていく。

「ど、どうして……」

 おれがマタザを見上げながら訊ねると、マタザは書状を折りたたみながら笑みを浮かべる。

「おやかた様のお取り計らいよ」

 マタザは訳を話した。

 半兵衛を迎え役にするとしたおれとサルだったが、それを目の当たりにしていた寧々さんがなかばおちゃらけているおれとサルの様子にどうにも気がかりになり、隣の屋敷のおまつに話したそうだった。

 おまつからマタザに話がいって、マタザは思った。念の為に自分が与力になろうと。

 マタザはひそかに信長に会いに行き、この日だけ牛太郎の与力にさせてくれと頼み込んだ。

 信長は最初首を縦にしなかったらしいが、マタザは必死に説得した。

 サルが結婚したとき、牛太郎は自分のことじゃないのに頼み込んだじゃないかと。

 それに今の自分がいるのも牛太郎がいたからだと。

 ――フン。まあいいだろう。

 信長は代筆を使わずに自ら筆を取って書状をしたため、

 ――余興だ。くれてやる。

 と、天下布武の判を押した。

「そういうことだ。お前が変わっていないなんてことはない。俺もおやかた様もお前をそう見ている」

 マタザが折りたたんだ書状をおれの懐におさめていく。

 おれは涙ぐみながら、思わず白濁の春の空をあおいだ。





「フン。テメーなんぞを引き連れるとはみっともなくて気に入らんが、おやかた様に命じられたとあっちゃ仕方ねえ。付いてこい」

「こいコラァッ。テメーはどう見ても体ばっかしの軟弱野郎だから、俺がおやかた様に直々に鍛え上げる旨を申し込んでやったからよ! さっさと来いやっ」


「なにい? テメー、今までは嫌々付き合っていたくせに、急にどういう風の吹き回しだ、あん?」

「あっし、手柄立てたいんス」

「……。おなごにでも惚れたか、テメー」

「はい」

「ハッハ。いいじゃねえか。いい面構えしてんじゃねえか。よし、やってやろうじゃねえか」







「おもしろい。ならば、この織田上総介信長に毎朝毎晩、その大法螺を聞かせてみやがれ」

「痺れるな。なあ、牛」

「この一戦、桶狭間への奇襲を俺に進言したのは他でもない貴様だ。貴様の進言がなければ今日の勝利はなかった」

「貴様らは俺の下で働く者だ。誰であれ存じていて当然だ」

「このうつけめ」




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