天下一の果報者
ゴンロクと顔を合わせるのは、稲葉山攻めのあとの祝勝会ぶりだ。
あのときはおれが軽く頭を下げただけで、ゴンロクは見向きもしてこなかった。
会話をするとなったらそれこそ桶狭間の前後以来だろう。
平伏するおれと太郎を前にして、どっかりとあぐらをかいている。
髭むくじゃらの顔をしかめながら、おれと太郎――じゃなく、おればかりを睨みつけてきている。
溢れ出る敵愾心を受けていると、やっぱりこのゴリラがおれとあずにゃんの仲を邪魔したような気がしてきてならない。
「このたびは梓殿を貰い受けることとなりまして、尽きましてはご挨拶に参上つかまつった次第でございます」
すると、なんと、このクソゴリラは、チッ、と、舌打ちした。
わざとそうしているのか、懸命に耳を澄まさなければ聞き取れないほどの小声でぼそぼそと喋る。
「野良牛が。口上ばかり達者になりおって」
おれは脇で揃って平伏している太郎に訊ねてみたい。本当にこいつはおれにも謝っておいてくれだなんて言っていたのかと。
「いいや、達者になったのではなく、達者だったのかもな」
「あ、ありがたき幸せ」
「何がありがたきだ。お主は最初からおやかた様に取り入るつもりで奇怪な真似をしていたんじゃないのか?」
「め、滅相もございません。あっしがここまでこれたのも、ひとえに柴田様のご鞭撻のたまものかと」
「お主に鞭撻などした覚えはないわ」
意味がわからん。
どうしてこんなに嫌われているんだ?
いくら重臣ゴリラだからって、そこまでおれを嫌わなくたってもいいんじゃねえかと思う。
実際、サンザなんかは膝を突き合わせて話を聞いてくれる。
一方でこのクソゴリラはいつまで経ってもおもてを上げさせてくれねえわけだ。
おれも太郎も腰を直角に曲げて顔を伏せっぱなしである。
「武田の忍びに命を狙われたそうだな」
「は、恥ずかしながら」
「それは、虚言であろう」
「え?」
「武田の忍びなどとは遭遇しておらず、実のところは甲府を飛び出して諏訪か伊那谷で何事かを密謀していたのだろう」
「い、いえっ、そんなっ、まさかっ」
おれはあわてて顔を上げる。
ゴンロクはあごひげを撫でながら唇をひしゃげておれを見下ろしてきている。
まったくもってくっだらねえ顔つきだった。
「恐れながら」
黙っていた太郎もさすがに口を開く。
「父とは以前より行動を共にしてきましたが、武田方と通じているようなそんな素振りはございません。断固として否定させていただきます」
「太郎」
と、ゴンロクは太郎への呼びかけ方はなぜか優しい。
諭すような声音である。親戚の叔父さんが甥っ子の頭を撫でながらお年玉を上げるぐらいの。
そもそもおれは野良牛呼ばわりされたわけだ。
「お主も騙されておるんじゃないのか? こやつは法螺を吹いておやかた様に取り入り、前田又左衛門をかくまっておきながら、わしのところに来て又左を売ろうとし、そのくせ今では又左と友人ヅラをしておるのだぞ」
「そ、そ、それは昔の話で」
「昔の話? 昔の話でなんでも済むと思うな。お前は梓にも取り入ろうとしていたそうだな。何が目的だ。白状せい。武田の回し者であろう」
「そんな訳ないじゃないですかっ!」
「そういう話にしてもいいのだぞ、ん?」
「ええっ?」
「掃部助にそう白状させてもよいのだ。わしの申している意味がわからないのか?」
そんでもって急に陽気になって白い歯を見せながら太郎に顔を向ける。
「太郎ならいいんだがな、梓を貰ってくれても」
さすがにおれは震えた。
こいつがすべての元凶じゃねえか……。
疑うような人間性だ。
このバカは自分の口からは絶対に言わねえつもりなんだろうが、要はおれが信長に結婚辞退の申し込みをしねえと、甲府に一緒に行ったカモンを恫喝して、簗田牛太郎は武田の間者と言わせるって脅迫してきているわけだ。
「そ、そんなことおやかた様に言えるわけないですっ! あっしはおやかた様の下知の通りに――」
「ならば、武田に行け」
と、ゴンロクは腰を上げてしまう。
「し、柴田様っ、それはあんまりでは」
「太郎。わしはお主のためを思って言っているのだ。お主のように小さい頃から出来のよい者が、なにゆえこのような者の息子なんかになってしまったのだ。そうか、お主も騙されたのだな。縁を切れ。な? わしが面倒を見てやるから。なんなら柴田の養子にしたっていい」
「ゴンロク殿っ! いい加減にしてくださいよっ!」
「なんだ、お主――。なんだその物言いはっ!」
「太郎をだまくらかしてんのはゴンロク殿じゃねえッスかっ! こいつがちっちゃいころに来たときに、いいツラして子供だったこいつを騙したんじゃねえッスかっ!」
すると、ゴンロクは、刀掛けから太刀を手にしたわけだが、おれは腹立たしくって仕方なく立ち上がって吠え立てる。
「梓殿が変なふうになったのもゴンロク殿のせいじゃないんスかっ! 行き遅れだのと後ろ指差されるようになったのもゴンロク殿のせいじゃないんスかっ!」
「よう言ったなっ! この野良牛めがっ! この権六を侮辱しおってっ!」
目玉を剥き出しにして、ゴンロクは太刀を抜き取り、鞘をぶん投げた。
太郎がすかさずゴンロクの足下に躍り出てる。
「柴田様っ! ご勘弁をっ!」
「どけいっ!」
おれは構わず吼えた。もう、やるせないったらありゃしなかった。
「斬れ斬れっ! 斬ってみてくださいよっ! あっしを斬ったところでゴンロク殿は拾阿弥を斬ったマタザみたいになるだけだ!」
ゴンロクは顔を真っ赤して怒り狂った。
「こんの成り上がりモンが――」
おれの顔面に右フックを飛ばしてき、さすがはゴリラ、おれは広間の敷居まで吹っ飛んでしまい、障子戸を倒してしまう。
その外れた障子戸を蹴っ飛ばして吹っ飛ばしたのはあずにゃんだった。
「何をやっておるんじゃあっ!」
金切り声が響き渡ると、おれにゴリラのように駆け込んできていたゴンロクはぴたりと足を止めてしまい、
「違う」
と、シンバルを持ったチンパンジーのおもちゃみたいにして両手を上げた。
「違うんだ、梓。こやつがわしを挑発しおったのだ」
「何が挑発じゃ。兄上の妄言は聞こえておったんじゃ」
あずにゃんは鬼のような形相でゴンロクを睨み飛ばしており、ゆっくりとゴンロクに歩み寄っていく。
いつものかぶき者ではなく、なぜだか戦闘態勢の格好だった。
桃色の小袖をたすき掛けにして袖を締め上げており、若草色の袴の裾を上括りに縛り上げている。
白くなめらかな脛をゆっくりと運びながら、切り揃えた髪は怒りでざわざわと逆立たんばかり。
「野良牛だの、武田の回し者だの」
「違うっ。空耳だっ」
ゴンロクは一歩一歩と後ずさりしていく。
さしずめ太郎もあずにゃんの鬼の形相を見つめながら硬直してしまっている。
「挙げ句の果てには掃部殿に言わせてもよいだと? 何を言わせるつもりなのじゃ」
「違うっ。掃部助に――、おやかた様に申し上げてもらおうとっ。う、牛太郎は、よ、よくやったとっ」
「ほざけえっ! わらわの亭主殿だというのにさんざん愚弄しおって!」
「愚弄などしていないっ!」
「この仁はっ、わらわに申したんじゃっ! わらわには頭を下げなくてもよろしいと! 話がこじれるからと! 自分には守らなければならない人たちがいるのだと! わらわがさんざんコケにしたというのに!」
「そ、そうか。うむ。良かった。ただな、夫婦になるのはどうかと思――」
あずにゃんのストレートパンチがゴンロクの眉間に突き刺さる。
ぐぁ、と、ゴンロクは呻きを漏らし、おれは青ざめる。太郎も腰を抜かして後ずさりする。
い、今のパンチ――、女のお遊びパンチとは思えないほど、腰から振り抜く体重の乗った玄人パンチだったんですが……。
さらにドゴッとフィニッシュブローの左フック。ゴンロクの鼻頭にピンポイントヒット。
めきぃとヤバイ音が聞こえてゴンロクの頭が飛んだかと思ったら、すかさずゴンロクの髷を両手で掴み取る。
括り上げた袴で膝蹴り一閃。
それどころかゴンロクの体をぐいっと捻らせると、床の間に駆け込みざま、ゴンロクの顔面を柱にゴンッと打ち付ける。
「わらわは簗田牛太郎の妻なのじゃっ!」
さらにゴンッとゴンロクの顔面を鐘つきみたいに柱に打ち付け、
「それをなんなのじゃそなたはっ!」
ゴンゴンゴンとゴンロクの顔は除夜の鐘でもあるまいし柱に打ち付けられてく。
鬼の所業……。
信長やマタザにボコられてきたおれはわかる。
これはヤバイ。信長もマタザも、おそらくウザノスケだってここまでバイオレンスじゃない。
罵倒されたからふざけんなと騒ぎ立てていたのを取り消したいレベル。あやうくおれも半殺しに合うところだったんじゃないのか。
お釈迦様に諭される前の鬼子母神かな?
てか、こんな鬼夜叉がおれの奥さんになるのかな?
騒ぎを聞きつけ柴田家の奉公人が集まってくるものの、見境のないデザイアバイオレンスに手も足も出ず、やがて、ゴンロクはぐったりと片膝から崩れる。
奉公人たちがゴンロクに駆け寄り介抱する。ゴンロクの素襖は血まみれ、うう……、と、呻いて織田家重臣の見る影もない。
フーッフーッと肩で息を整えていた鬼子母神あずにゃんは突如として床に膝をつき、おれに向かって頭を下げてくる。
「すまんかったっ! 兄上の非礼、許しておくれっ!」
「い、いや――」
そうして、太郎にも体を向け、額を床に付ける。
「すまんかったっ! これもわらわの不徳の致すところっ!」
「い、いや――」
さすがの太郎も肩を震わせて戸惑っており、たぶん、我が息子も思っているに違いない。
こんな鬼夜叉が母上になってしまうのかと。
しかし、ゴンロクは毛深い手で鼻を押さえながら、その目は死んでいなかった。
「ならん……。ならんぞ……。牛太郎の嫁なんぞにさせんぞ……」
「まだ言うかっ! おやかた様の下知なのじゃっ!」
腰をがばりと持ち上げ、再び眉を吊り上げてデザイア化したが、ゴンロクもしぶとい。
「ならん……。こんな野良牛に」
あずにゃんは拳を握りしめ、わなわなと震えるも、今度は奉公人たちがゴンロクとあずにゃんの間を遮る。
年かさのオッサンも、女中も、皆が揃って、口々にあずにゃんをなだめる。
「梓様っ、ご勘弁をっ」
「殿が死んでしまいますっ」
「殿は梓様を思ってのお言葉なのですっ」
「黙られいっ! それならそれでよろしいわっ! この家なんぞ出ていってくれるわっ!」
金切り声を響かせたあとは、おれの横を通り抜けてドカドカと広間を出ていってしまい、「梓様」と女中たちが呼び止めるのも構わずに嵐のようにどこかに行ってしまった。
戦闘服姿のまま飛び出ていったあずにゃん。
追いかけていった柴田家の奉公人たちは鬼の形相に射すくめられ、付いてきたらゴンロクと同じ目に合わせると恫喝されて姿を見失ってしまったらしい。
「梓様を連れ戻せるのは簗田様しかおりません」
お貞ババアに泣きつかれ、おれと太郎もとりあえず(青ざめた顔のまま)あずにゃんを探し回ったのだが、すれ違ったマタザのところの女中があずにゃんを見かけたらしく、なんのことはない、おれの屋敷に飛び込んでいったらしい。
「だ、大丈夫なんですか……」
我が家の門前までやって来て、太郎はへっぴり腰である。
さだめし思っているのだろう。小さいころにゴンロクの屋敷に殴りこんだときのことを蒸し返されたらたまらない。殺されてしまうと。
「ま、薪割りをしないと……」
突如、太郎は門をくぐって玄関へは向かわず、庭へ逃げていってしまった。
あの野郎……、ここに来てからは薪割りなんてしたことねえくせに……。
くそう。結局はパパに甘えるってわけか、クソガキめ。
玄関をまたいで出迎えてきたあいりんに小声で訊ねると、やはり来ていると言う。
「柴田様のお家の方が来られても通さないでくれと申し付けられたのですが。お夕飯はご一緒にされていくんですか? 何か嫌いな物でもあったら」
「そ、そうだな。聞いておくよ」
あずにゃんは広間にいるらしい。
縁側に来ると、床の間と向かい合ってちんまりと座っていた。
おれは声を裏返らせながら陽気なふうに笑った。
「こ、こちらにいたんスか」
すると、あずにゃんはこちらに膝を向けてきて、指を床について頭を下げてくる。
「勝手に押しかけてきてしまって申し訳ない。しかし、わらわにはどこにも行く当てがなく」
「いやいやいや、全然構わないッスよ。だ、だって、奥さん――、お嫁さんッスから。ええ。もう、ゆっくりしていってください。あっ、何か食べられない物はあります? いや、女中がですね、その、夕飯を一緒にしたいと。是非ともお麗し梓様と一緒に御馳走したいと言って聞かないんスよ。アハハ」
「食べられない物はないが、まことによろしいのか?」
やべ……。
あずにゃんはおれを見上げてきたのだが、黒玉の目立つ瞳を潤ませながら、ひもじい迷い猫のようにしておれを見つめてくるわけで。
おれは胸が高鳴ってしまう。
天地がひっくり返ったこのギャップは、ずるすぎる。あずにゃんはずるい女だ。わかっている。あずにゃんはおれを騙してなんかいない。だからこそ、ずるい。
だって、そんな顔はおれにしかしないってことなんだろ!
「心配ご無用。梓殿は拙者の奥方になるのですから。家の者は皆が存じております。どこの誰が奥方様を我が家から叩き出しましょう」
「ありがとう……」
白湯を運んできたあいりんが、真面目牛太郎を目の当たりにして足を止めてしまう。呆気に取られている。
おれは咳払いをして広間に踏み入り、床の間を背にして腰を下ろす。
あいりんがおれをまじまじと見つめがらも湯のみ茶碗を手元に置いていく。変な気を利かせてわざわざ障子戸を閉めていく。
庭先からの光を透かして、障子の紙が橙色に濡れていた。
パコンパコンと薪を割る音が聞こえてくる。
「あの、梓殿、どうして、そういう身なりなんスか。いつもはもっと、その、はで――、華やかな感じじゃないッスか」
たすきはほどいて袖を下ろしているものの、若草色の袴は相変わらず上裾を括っている。
「庭で鍛錬をしていたところじゃった。そうしたら、そなたと倅殿が来て」
あずにゃんはオカッパ頭の髪を下げてうつむいている。
鍛錬……。
ただの鍛錬であんなに強くなれるんですかね……。誰からあんな喧嘩殺法を教えてもらったんですかね……。
独学だとしたら怖すぎるんだが。
「痴態を晒してしまった。穴があったら入りたい」
「い、いや、まったく。お、お、お美しいッス。あの、いつもの格好よりもそっちのほうが。お、思い出します。ええ。あっしが藤吉郎殿と喧嘩をしていたときに、梓殿とお会いしたときを」
すると、あずにゃんは髪をさらりと流しながら顔を上げてきた。
おれに投げかけてくるのはどこか心細げな少女のような眼差しだった。
行き遅れだなんて誰が言うんだろう。確かに実年齢は二十代半ばに差し掛かっているのだけれど、違う、大人の美しさは兼ね備えているけど、違う。
きっと、おれにしか向けてこない少女の眼差しをしている。
おれにしか――。
「でも、わらわはそなたをなじってしまった」
「いや、いいんです。もういいんです」
「そなたはわらわとの約束どおりに大活躍されたというのに」
「いや、いいんです、もう」
「すまんかった」
あずにゃんはまた頭を下げてきた。
太郎が薪を割る音が響いている。障子戸にぼんやりと影が映り、上下に首を振っているのはクリツナ(仮)だった。
おれは思った。
このままじゃいけないって。
「梓殿」
おれは呼びかけると、あずにゃんが顔を上げてくれるまで待った。おれはあずにゃんを見つめていた。おれが黙っているからだろう、あずにゃんはうかがうようにゆっくりと顔を上げてきた。
「あっしはそれで良かったんだと思っているんです」
おれは笑った。
「清洲の人々の間であっしが求婚しただなんていう噂になっていたのを最近知ったんですが、もしもあのときあっしがそうしていたら、今のあっしはなかったんです」
おれはそんなことをわずかながらにしか思っていないが、言わなきゃならんと思った。おれが構わないと言っても、梓殿はいつまでも引きずるのだった。だから言わなきゃならなかった。
お互い好き同士になるためにははっきりと。
湯のみ茶碗を手にし、白湯をすすって気持ちを落ち着かせる。
「あのときのあっしは勲功第一で浮かれていました。もしも浮かれたままだったら今こうしていないかもしれません。例えば、太郎を息子にしなかったでしょうし、太郎だけじゃなく、あの若い女中もいなかったです。おそらく馬丁も、もう一人変なのがいるんですが、そいつも。あっしの馬も」
おれは落ち着かずもう一度湯のみ茶碗に口づける。
我ながら気色悪いと思ってあずにゃんと向かい合えず、何を話しているんだかも自分でわからなくなってきて、自嘲するように苦笑しながら言う。
「それに、あっしはその後も良縁に恵まれず、ま、まあ、こんなことを言うのもなんですが、梓殿も」
言ってからうっかりしたと思って、おそるおそる視線を向けてみたら、あずにゃんは瞼を閉じて首を振っていた。袖で鼻をおさえていた。鼻をすすっていた。
おれはその姿に一挙にこみ上げてしまった。
デザイアだ、鬼夜叉だ、それらは全部違う。
この人は梓なんだ。この人も女なんだ。
この人にだって守るべき野郎がいなくちゃならねえんだ。
「天命ッス」
と、自分でもどうやって伝えればいいのか訳がわからなくなってしまっており、すべての思いを薙ぎ払うようにして言ってしまった。
「梓殿とこうしてもう一度会えたのは天命なんです。最初からこうなるために神様があっしと梓殿をそうさせてくれたんです。神様はまだ牛には早いって。もうちょっと苦労しろって」
「そんなことない、わらわが――」
「そうかもしんないッス。梓殿にも神様はそうさせたのかもしんないッス。でも、あっしも梓殿も結局こうして二人きりでお話できるようになれたんス。あっしはそれがとても幸せです」
あずにゃんは肩を震わせながら袖で顔を覆った。
おれはあずにゃんの前に膝を進ませると、床に手をついておでこもつけた。
「おやかた様の下知でこうなったかもしれないですけれど、あっしは梓殿の亭主になりたいです! あっしの奥さんになってくださいっ! お願いしますっ!」
おれは卑怯者だろう。
確実に成功する状況下で、いまさらプロポーズしているのだから。
けれども、成功するとか失敗するとかじゃないんだ。
おれの口から言わなきゃならないことだと思ったんだ。
じゃないと何も始まらないんだ。じゃないとあずにゃんはいつまでも引きずってしまうんだ。
「ありがとう」
あずにゃんは袖で顔を覆ったままうなずいた。
「そなたの嫁になれてわらわは天下一の果報者じゃ。ありがとう。牛殿。ありがとう」
信長の下知なのだし、村井民部のジジイが仲人である以上、何があろうとゴンロクは従わざるを得ないのだし、むしろ家出したとなると話がいっそうややこしくなるからと説得して、あずにゃんはうなずいた。
「でも、夕飯作っちゃったッスよ」
シロジロが余計なことを言うと、あずにゃんはせっかくだから食べていくと言う。
シロジロやねじり鉢巻きと肩を並べて食事をさせるわけにはいかないと考え、あいりんに誰も使わないで空いている一室に膳を運ばせようとしたのだけれども、
「亭主殿が皆と一緒に食べているのならわらわもそうしたい」
と、あずにゃんが言い出した。
ちょっと可愛かった。
おれがのろけてふわふわしているかたわらで、あいりんがそういうわけにはいかないとあわてていたが、太郎が横からやって来て「いいじゃないですか」と小姑みたいな顔つきで言う。
「この家はそういう習いなんですから。ただし、我が家の者は柴田様の家のように折り目正しい者ばかりではないので、そこだけは察してください」
むしろ、あずにゃんのほうがおとなしくうなずく。
ビビって逃げていたくせに、おれがあずにゃんをなだめたと知るやいなやクソガキに変貌しているので、おれは広間から太郎を連れ出した。
「水に流すって話だろ。なんだあの態度」
「梓様は嫁がれるのですから、あらかじめ言ったまでです」
「そういうことを言ってんじゃねえ。つんけんするのはやめろ」
「べつに普段どおりですよ。父上が気にしすぎなんじゃありませんか」
広間には膳が並べられ、あずにゃんはあいりんの隣、敷居の前の下座で膝をたたんでおり、床の間を背にしているおれはものすごい違和感だった。あいりんも緊張しきりでいた。
さすがにあずにゃんは丁寧にお椀を持っており、箸の運びかたもつつましいのだが、ねじり鉢巻きはあずにゃんなんてまったく気にせずにがつがつと玄米メシをかっこんでおり、太郎も普段通り黙々と箸を進め、シロジロのバカはくちゃくちゃ音を鳴らしている。
「おい、やめろ」
「へ?」
「昨日も言っただろうが。くちゃくちゃ音を立ててんじゃねえ」
「いや、立ててないッスよ」
「立ててんだろうが。口を閉じて物を噛めっつってんだろうが。お前、本当に馬屋にぶち込むぞ」
「旦那様が気にしすぎなんじゃないッスか。そんなこと旦那様しか言わないじゃないッスか」
そうして、シロジロのバカは、おれとシロジロのやり取りを傍観していたあずにゃんに顔を向けてしまう。
「そんなこと言うの旦那様だけッスよね? 柴田様のところでは言わないッスよね?」
友達の彼女にでも訊ねる馴れ馴れしさであり、おれは怒鳴り散らそうとしたが、それよりも先に太郎がたしなめた。
「四郎次郎」
太郎の睨みにシロジロは唇を尖らせてうつむく。
「申し訳ございません、梓殿」
おれは太郎を見つめる。なんだ、太郎は思っていたより大人だった。
あずにゃんは微笑みながら首を振る。
「いいや。とんでもない。押しかけてきたわらわなんぞ気にせんでくれ」
ところが、空気の読めないねじり鉢巻きが唐突に口を開いた。
「馬屋って言えばよ、そろそろクロも連れてきていいんじゃねえのか」
「何を言ってんだお前」
「なあ、太郎」
と、鉢巻きはおれを無視。あずにゃんなんかいてもどうってことない。頭の中は馬ばかり。
「そうだなあ。うん。この前、父上を迎えに沓掛に行ったときは相変わらずの聞かん坊だったけれど、一応は乗れるって言っていたから」
「おい。なんだクロって。おれにはクリツナ(仮)がいるんだから馬なんて必要ねえぞ」
「クリの弟だよ。太郎のために沓掛の連中が育ててんだ」
「聞いてねえぞ、そんなこと」
「父上に話しましたよ。拙者のためとかどうのは栗之介が勝手に言っているだけですが、栗綱の弟がいるというのは話したことがありますよ」
そういえばそんなことを言っていたような。
「クロって、まさか、黒いからクロって言ってんのか」
「ええ」
「沓掛の馬屋で暴れていたあの黒い馬か」
「あれは父親ですよ。栗綱もあの馬の種ですよ」
「あ、そうなの」
「クロは産まれたばっかのとき後ろ脚で耳を掻いていたんだ。だから、あれはとんでもねえ馬になっているぞ」
「おい、鉢巻き。嘘つくな」
「嘘じゃねえよ」
「後ろ脚で耳なんか掻けるわけねえだろ。届かねえじゃねえか。どうやってやるんだよそんなの」
「こうやってやってたんだよ」
ねじり鉢巻きはそう言って自分の右足を両手で持ち上げて耳に寄せようとするのだが、ムキになってやろうとしたので横に転がってしまう。
シロジロも真似して足を持ち上げる。
「できるッス。ほらっ。旦那様っ」
「お前、それ顔を寄せてんじゃねえか。四つん這いになってやれよ。馬みたいに。こうやって」
おれが四つん這いになったら、「父上」と、太郎にたしなめられた。
「食事中ですぞ」
「やってたのはおれだけじゃねえだろうが。鉢巻きだってシロジロだってやってただろうが」
すると太郎が視線を敷居のほうに向けたので、おれは縮こまる。
あずにゃんはあいりんと二人揃ってクスクスと笑っている。
「なにゆえ亭主殿は彼をハチマキと呼んでいるんじゃ? まさか、姓がハチマキなのか?」
「違うよ。旦那が初めて会ったとき、おれが鉢巻きをしていたから言っているだけだ。あれきりしてねえってのに」
「お前、やめろ。誰に口叩いてんだ」
「そんなことより」
と、鉢巻きはおれを無視。
「姫君は馬には乗ったことあんのか?」
あずにゃんは笑った。
「姫君だなんて。滅相もない」
「じゃあ、なんて呼べばいいんだ?」
「梓でよろしいぞ」
鉢巻きの暴走にはひやひやするが、あずにゃんは身分の低い人間には優しいのかあまり気に留めてないようだった。
そういえば、ウザノスケをぶん殴った理由も従者を折檻してたからとか言っていたような。
「わらわは馬なんぞ怖くて乗れん」
「クリだったら大丈夫だ。なあ、旦那。旦那も栗綱以外は乗れねえんだ」
「お前よ、なんなんだ。女が馬屋に寄ると怒るくせに、なんで梓殿だといいんだ」
「だって、乗せるときがあるかもしれねえじゃねえか。この人、旦那の奥方になるんだろ?」
単刀直入すぎるバカ野郎のせいで、おれは口をつぐんでしまう。なんて言ったらいいのか。
それであずにゃんをちらっと見たら、あずにゃんはおれを見つめていた。おれの言葉を待っていた。わずかながらに眉をすぼめて、不安げに。
おれは咄嗟にうなずいた。
「そ、そうだ。そうだな。うん。お、お、奥さんになるんだから、そうだな。お、お前、ちゃんと仕込んどけ。く、く、クリツナ(仮)によ」
「仕込まなくても大丈夫だよ。なあ、太郎」
太郎は鉢巻きにうなずきながらも、おれの横顔を眺めてにやにやとしていた。
シラーッとした目はしないらしい。
馬の話をし始めたらねじり鉢巻きのワンマンショーで、クリツナ(仮)の仔馬だったときの話から、その弟の話まで歯止めがきかなかった。
しかし、鉢巻きは湯村山からクリツナ(仮)に乗って脱出したときの話も織り交ぜてくれた。空気は読めないがあずにゃんの前でおれの武勇伝を披露してくれる達者な野郎である。
湯村山から脱出したときの詳しい話は太郎もシロジロも知らなかったようで、クリツナ(仮)のトンデモ走りにみんなが驚いた。
「そんな暴れ馬なのか」
と、あずにゃんが言うと、鉢巻きはいちいち馬屋から庭先にクリツナ(仮)を連れ出してきた。クリツナ(仮)は半分寝ており、瞼をしょぼしょぼとさせている。
庭先に下りたあずにゃんが背中を撫でてもぼんやりと首を下げている。
「そろそろご帰宅されたほうがよろしいのでは」
太郎が言うとあずにゃんはうつむいたが、
「皆様がご心配されているはずです」
「すまんかった」
と、あずにゃんは太郎に頭を下げた。
「昔、わらわはそなたにひどいことを言ってしまった。先日も。合わせる顔もないと思っておったのに」
縁側に立つ太郎はあずにゃんを見下ろしながらしばらく黙っていたが、ややもするとうなずいた。
「正直に申せば、わだかまりがないと言ったら嘘になります。けれども、梓様がお越しになられたら、皆は楽しく暮らせそうです」
「ありがとう」
「父上。お送り差し上げてください」
「あ、ああ」
太郎はいつからマセガキになったのか、もしやあいりんとすでにこういうことをしているのか、鉢巻きもシロジロもおれに付けずに、あずにゃんを送り届けるのはおれだけだった。
屋敷町の通りは静まり返っており、おれとあずにゃんが鳴らす草履の足音だけがやけに響く。
うつむきがちに歩みを進めるあずにゃんはふと口にした。
「あの子は立派になられたな」
「そ、そうスか。生意気ばっかなんスけど」
「わらわは自分が情けなくなってくる。そなたもあの子も懸命に頑張っていたというのに、わらわは悪態ばかりついて」
「いや、いいんスよ、もう」
あずにゃんは立ち止まってしまい、うつむいたまま鼻をすすっている。おれも唇をむすんでしまう。
ぼんやりと、春霞の月がかかっていた。
「大丈夫ッス。太郎は梓殿をあっしの奥さんだって認めていたんで」
「そうなのか?」
「それに、こんなことを言うのはなんですが、太郎をよろしくお願いします。あいつは小さいころにお母さんが死んじゃって、親父ももともといなかったんで」
おれは背中を返すと歩き出す。
しばらく歩いても付いてこないので振り返る。
あずにゃんは突っ立っておれを眺めていた。
余計なことを言っちまったらしい……。
しかし、あずにゃんは月明かりにまぶされた白い頬を緩めながら言った。
「さすがは勲功第一の綱鎧の簗田じゃ」
「えっ?」
すたすたと駆け寄ってきて、あずにゃんはおれの手を握った。おれはびっくりして手を引っ込めようとしたのだけれども、あずにゃんはおれを見上げてきて微笑んできた。
「皆がこうしてそなたに集まってくるんであろうな」
「あ、は、う、うーん。ど、どうなんスかね」
「四郎次郎殿も鉢巻き殿もあいり殿も皆がそなたを慕っておった。それはやはりそなたが優しくて勇ましいからじゃな」
おれはにやけた。にやけた顔を隠すために唇を口の中に引っ込めた。
あずにゃんに手を引かれ、もっとこの時間を共有していたいおれは、のそのそと、引かれるウシようにして月明かりの通りを行く。
静かな屋敷町は春のぬるま風に包み込まれている。
ゴンロクの屋敷が近づいてきてしまって、おれは立ち止まる。
手をつないだままのあずにゃんが振り返ってくる。
おれがうつむいているのであずにゃんは首をかしげてくる。
「どうしたのじゃ」
「あの……、その……、ぎゅってしていいスか……」
「え?」
「こうやって、ぎゅって」
おれが手を離して抱きしめる真似をしたら、あずにゃんはおれをじっと見上げて、そうして目付きを睨みに変えていった。
「何を申しておるんじゃ。わらわは嫁入り前の生娘じゃ。誰かに見られたらたまらん」
そう言って、すたすたと歩いていってしまう。
……。
チッ……。やっぱり駄目か……。
本当はチュッてしたかったんだけど、万が一殺されるかもしれないので、妥協してギュッにしたのに。
やっぱり、祝言まで待たなくちゃいけねえのか。
いや、祝言まで待ってもどうなのかな。
結局はこの人、一筋縄では行かないんじゃ。
と、肩を落としていたら、あずにゃんが駆け込んできた。
なんだろうと思っておれが突っ立っていたら、あずにゃんはおれに飛びついてきて、おれの首に両腕を回して乗っかってくると、おれの唇に唇を付けてきた。
すぐにあずにゃんはおれから下りた。
おれは頭の中が真っ白。
あずにゃんは今まさにおれと合わせた唇をきゅっと結びながら、頬をほんのりと赤く染めて、おれを睨むように見つめてくる。
そうして、くるりと踵を返し、すたすたと行ってしまう。
あわわわ――。
おれはあわてて追いかけた。
「あっ、あのっ、も、もう一度してくれませんかね。ちょっと、よくわからなかったので」
「嫌じゃ」
「も、もう一回。お願いします。もう一回」
ぴたと立ち止まると、おれを睨むあずにゃん。
「言っておるではないか。わらわは嫁入り前の生娘じゃ」
そう言って、またすたすたと歩いてしまう。
「だ、だってさっきしてくれたじゃないッスか――」
そうしたら、急に立ち止まった。おれに振り向いてきた。
キスした。
今度は長めに。
目と目を閉じながら。
「もう終わりじゃ」
あずにゃんはすたすたと歩いていくが、おれはしばらく放心してしまい、歩けない。
初めてのキス――。
だって、柔らかかった。だって、気持ちよかった。
たまらん。
ああ、あずにゃんたまらん。あずにゃん好きすぎる。おれの奥さんたまらん。
やった、やったよ。
おれはとうとうおにゃの子とキスしたよ!
おれ、結婚するんだよ!




