ずっと抱えていたこと
「そんなもの虚言に決まっております」
太郎はきっぱりと言った。
むしろ苛立たしげに大根の漬け物を口に放り込んだ。
「そういうことだ、あいりん。おれはな、何度も何度も、ああいうふうに騙されてきたんだ」
広間のすみで膝を揃えて正座しているあいりんは、唇を押し込めてうつむく。
そして、おれは詐欺師の大頭目を見やる。山菜の雑炊をかき込んでいるサルはおれの睨みにお椀を下ろし、首をかしげ、あいりんにお代わりと言ってお椀を突き出す。
あいりんが夕飯にありつけないのは、野次馬どもが押しかけてきたせいである。野次馬どころか、マタザとサルは夕飯にまでありついていやがる。
テメエどもの家にはメシが用意されているはずなのに、風呂から上がってきたバカどもは、旅館の宿泊客まがいに居座っているのだ。
「しかし、一介の女中のバアサンがいちいち飛び出てくるか? そういう話だったからじゃねえのか?」
人の家のメシを食らっておいて、反論してくるバカマタザ。
「いいえ。お言葉を返すようですが」
太郎は言う。
「拙者はあのとき、父上が罵倒された日、柴田様の屋敷に行っているのです。そんな素振りなんてまったくありませんでした。むしろ、柴田様は拙者をあの女からかばい立て、白湯まで振る舞ってくれたのです」
「おみゃあ、でもだな、母御になるんだから、あの女呼ばわりはやめたほうがええだぎゃあぞ」
「いいんだ、太郎。母上なんて呼ばなくていいんだからな」
「牛。そういうわけにはいかねえだろう。柴田殿の妹御だぞ」
「もういいじゃないッスかその話は。もう聞きたくないッスよ」
「そんなこと言ったって、城下ではおみゃあの話で持ちきりだぎゃあぞ」
おれは溜め息を大きくついて、雑炊をかっこむ。
「それにいいじゃにゃあか。おみゃあ、昔言ってたじゃにゃあか。梓殿に惚れているって」
「そうだ、言ってただろうが。水に流せ」
「水に流せるわけないでしょうよ。あっしはともかく、この太郎だってこれなんスよ。てことはわかるでしょ? よっぽどだったんスよ」
「あきらめろ。むしろ、その女中の話を信じたほうが楽なんじゃねえのか。おやかた様の下知だ。逆らえねえんだからな」
「そうだぎゃそうだぎゃ。マタザの言うとおりだぎゃ。おみゃあ、柴田様にも挨拶しにゃあとならねえだぎゃあろ」
「挨拶なんかしねえッス」
「お前よお」
「おみゃあよお」
「勝手に段取りして、勝手にこの屋敷に来ればいいんスよ。こっちは部屋を用意しておくから、勝手にそこに住んでりゃいいんスよ。あっしらには知ったこっちゃねえ。なあ、太郎」
「拙者から柴田様に挨拶しておきます」
サルとマタザは眉をしかめながらお互いに顔を見合わせ、こいつらって仲が良かったんだろうか、気色悪いのでさっさとメシを平らげ、野次馬どもを置いて居室に戻った。
次の日、野次馬としてはさらにタチの悪い人が来た。
おれは溜め息をつきながら広間にやって来、寧々さんの前に腰を下ろす。
「なんスか」
「あいりちゃんから聞きましたよ。牛殿は太郎さんと親子揃ってふてくされているって」
「おい! あいりん! べらべら喋ってんじゃねえっ!」
敷居の向こうにちんまりと座っているあいりんを怒鳴りつけたら、寧々さんが眉尻を吊り上げた。
「おやめなさい! あいりちゃんは牛殿たちのことを思って相談してきたんでしょう!」
おれはあいりんにすまんと言って謝ると、正座して首を垂れ下げ、丸くなる。
「牛殿は何をそんなに塞ぎこんでいるのです」
「塞ぎこんでなんかいないッスよ」
「さんざん騙されてきただのとおっしゃっていたようですね」
おれは無言で板床をじっと見つめる。
寧々さんが首を伸ばして下から覗きこんでくるので、ぷいと視線を逸らす。
「確かに牛殿は騙されてきたかもしれませんよ。藤吉郎さんに騙されていましたから。でも、騙されたからってへこたれる牛殿だったのですか?」
「へこたれてなんかいないッスよ」
「なら、いいじゃありませんか。立ち向かえば」
おれは溜め息を大きくついた。
「だって、あっしは言われたんスよ。反吐が出るって。太郎でさえあのときのことは忘れてないんスよ。門前町の、あんな人がいっぱいいるところで、あっしは罵られたんスよ。あっしの顔を見ると反吐が出るって」
「でも、いくさの前は言われたんでしょう? 待っているって。牛殿が手柄を立てるのを待っているって」
「だから、それは嘘だったんスよ。あっしをからかっていただけなんスよ」
「牛殿は惚れていたんでしょう?」
「惚れてなんかいないッスよ」
「じゃあ、おまつさんも呼んでくる? 牛殿はわたくしたちの前でおっしゃったましたよ。梓殿に惚れているって」
「そりゃ昔の話じゃないッスか!」
「惚れていたじゃありませんか」
「だから昔の話だって言っているじゃねえッスか」
「牛殿は、梓殿がそういう嘘をつく人だと思って惚れていたのではないんでしょう? 梓殿を信じていたんでしょう? だから、桶狭間で手柄を上げるだなんて息巻いていたんでしょう?」
「それはだから昔の話だって――」
「昔の話、昔の話、と、どうして梓殿に何かがあったと思わないのです。そんなものだったのですか、牛殿の気持ちは。そんなことだから、甲斐性なしだなんておやかた様に言われてしまうんじゃありませんか」
肝っ玉おっかさんにやり込められそうなおれは腰を上げ、縁側に座っているあいりんに言う。
「あいりんの気持ちは痛いほどにわかったから、ちょっと、その、席を外してくれないかな」
あいりんはこくっとうなずき、おれは腰高障子を閉めると、再び寧々さんの前に正座する。
「あいりちゃんだって、肩身の狭い思いをしているんですよ。千代ちゃんの件で」
「その話だけは勘弁してくださいよ」
「でもね、牛殿。あなた様がそうやって塞ぎこんでいると、つらい思いをする人だっているんですよ。もう牛殿はあのときの牛殿じゃないんですよ? 太郎さんに頼り切りになるの? まだ十五歳よ? 牛殿が家長としてしゃんとしなければいけませんでしょう?」
おれがぐったりとしてうつむいていると、寧々さんは首を伸ばしてまた再び下から覗きこんでくる。
「もう牛殿は一人ぼっちじゃないんですよ? 牛殿が養わなくちゃいけないのはこの屋敷の人だけじゃないでしょう? 沓掛にも大勢いるんでしょう?」
「はい……」
「事を荒立てたら、路頭に迷う人だった出てきてしまうかもしれないのですから」
「はい……」
「とにかく、牛殿のお気持ちはわかりますが、ぐっとこらえなきゃいけませんでしょう。牛殿は当主なんです」
夕方、おれはインチキ芸能記者の太田又助の屋敷を訪ねた。
あいりんが漬けた糠漬けを太田の奥さんに渡す。太田の奥さんは恐縮して頭を下げてきた。いつもいつも旦那が風呂を貰いに行って申し訳ないと。
「いや、そんなことないッス。奥さんも気兼ねなく来てください」
広間に通されると、ややもして太田がやって来る。太田は渋面を作って頭を掻きながらおれの向かいに腰かける。
やっぱり来たかとでも言いたそうな顔だった。
「今日はどうされたんですかなー」
「風呂に入らせているんだから知っていたら教えてくださいよ」
太田はおれに目を合わせないまま、面倒そうにしてうなずく。
「昨日、柴田殿の女中があっしんところに来て喚いていったんスけど――」
お貞ババアが叫んでいた話の内容を言い終えると、太田は茶碗を手にし、白湯をずずっとすすって何も答えない。知っているとも知らないとも答えなければ、目も合わせてこない。
「昔、言ってたッスよね。太田さんはおやかた様直臣に取り立てられる前、ゴンロク殿の家臣だったから、屋敷には出入りできているって」
「よく覚えてますなー。感心しますわー」
太田は湯のみ茶碗を床の上に置くと、大きな溜め息をつきながら腕を組み、しばらく黙った。
太田がちらっと視線を持ち上げてきて、口を開く。
「柴田様には拙者から聞いたと言わないでくださいよ」
「はい」
「その女中が申していたことはちと大袈裟ですが、梓殿がおかしな真似をし始めたのは柴田様に一因があるのは違いないですな」
おれは拳を握った。ババアの野郎、やっぱり嘘をついていやがった。手があまりにも震えるんで、白湯に手がつけられなかった。
「簗田殿。桶狭間のいくさの前、門前町で藤吉郎と騒ぎを起こしておりましたな? そこで梓殿に出くわしましたな?」
「はい……」
「そんで、簗田殿は梓殿におっしゃいましたな? 今川とのいくさには必ず勝つから、見回りするような真似はせずともよいと」
「はい……」
「今川方とのいくさに勝って帰ってくるから、そのときに礼を言わせてくれとも」
おれは相槌さえ打たなくなった。若気の至りが恥ずかしくなってきたし、こいつはどうしてそこまで知っているんだ。
まあ、くだらねえことまでこまめにメモしているからな……。
「それで、梓殿はこう言った。手柄を立ててこいと。手柄を立てるのを待っていると。それが恩返しじゃないかと」
太田の奥さんが漬け物を切って運んできたので話は中断した。
太田はつまんで口に放り投げ、バリバリと食べ、うん、うまい、と言う。
白湯をすすって舌を休めた太田は、腕を組んで続ける。
※
簗田殿と梓殿が手柄うんぬんと取り交わした話がですな、人伝えに柴田様の耳に入ってしまいましてな。
ところが、人の噂話なんてのは伝わるたびに尾ひれはひれが付いてくもんでしょう? 柴田様の耳に入ったときにはいろいろとふくらんでおったんですわ。
簗田殿が梓殿に求婚したと。手柄を立てて帰ってきたら嫁に来てくれと。
当然、柴田様は激怒されたわけですわ。
それでも柴田様は思ったそうです。牛殿なんかが手柄を立てられるわけがないと。
今川とのいくさも籠城策だと決め付けていたから、手柄を立てられる場所もないのだと。
柴田様はそういうことでほっといたのです。
そうしたら、牛殿が勲功第一になってしまったでしょう?
一報を聞いた柴田様はあわてて梓殿に訊ねたのです。
もちろん牛殿のもとに嫁ぐような真似はしないだろうと。
なにせ、梓殿は柴田様の言うことなんて聞きませんから。
梓殿が嫁がないと言えばそれで済むわけですが、もしも梓殿が嫁ぐなんて言い出したら柴田様は何もできやしません。
それで、梓殿は嫁ぐと申したんです。
信じられないといった顔をしてますけれども、これは本当ですから。
拙者は柴田様に直接聞いたのですから。
拙者も桶狭間から帰った次の日ぐらい、噂話に尾ひれがついているのを知って柴田様の屋敷に行ったのです。
もしかしたら大変なことになっているんじゃないかと思って。そうしたら大変なことになっていたんですな。
それで、拙者は真実を話したんですがね。
牛殿はそこまでは言っていないと。礼をしたいと言っただけだと。
柴田様は笑って安堵しておりましたよ。
なんだ、そんなことかと。まったくあの牛は人騒がせな奴だなんて冗談を叩きながらね。
それでまた柴田様は梓殿を呼んだのです。
拙者の前で。拙者の目の前で言ったのです。
この又助から聞いた。牛はそんな話をしていないだろう。むしろ、そんな勘違いを起こしては、牛にとっても迷惑じゃないか。
ところが梓殿はあの細い眉を吊り上げながら、あのころころした黒い目玉をぎらぎら光らせてこう言ったのです。
牛殿はわらわにそう申した。手柄を立てた牛殿はいずれ来るんじゃ。わらわはそれを待っておるんじゃ。だから嫁に行くんじゃ。
柴田様も拙者も唖然としましたね。
なんというか、梓殿ってのは小さいころから真っ直ぐな娘でしてな。真っ直ぐすぎるのが玉にキズなんですが。
梓殿はあのとき十七でしたっけかな。多感な時期ですわ。
それでも嫁の貰い手の話も出てきませんわ。柴田の梓と言えば跳ねっ返りのじゃじゃ馬娘。あんなものを嫁に貰えばご先祖代々の我が家は潰されてしまううんぬんだなんて、皆が陰口を叩いていたもんですわ。
柴田様からも見て三人の姉御は皆が嫁いでおられます。
家長の柴田様も梓殿の貰い手を探していたんですな。でも、良い返事などありませぬ。
当然、梓殿はそれを知っておったでしょう。
それに、初めてだったんじゃないんですかね。牛殿に――、男にあんなふうに言われたのは。
あのときの清洲は今川方の兵数二万とも三万とも誇張されておりましたっけ。清洲は終わりだ、織田は終わりだ、なんてね。
それでいて兄上は籠城籠城と騒いでいて、女子供を清洲から自領に避難させる者もおりましたな。
森殿や丹羽殿が風聞を流してくれたおかげで、今川方に勝てるだなんて誰も思っていなかったわけですわ。拙者とて女房と別れの盃を交わしたもんです。
拙者は今川方に投降する気はない。直臣に取り立てていただいたおやかた様と共に討ち死にする覚悟ゆえに、だなんてね。
梓殿も織田の終わりを感じていたに違いありませんな。
そこへきて、簗田殿は申されたのですよ。
今度のいくさ、間違いなく勝つと。
何を言っているんだ、この鈍牛、やはり法螺吹きかと最初は思ったかもしれませんが、牛殿は大真面目な顔をしているわけですわ。
ましてやこう言ったわけでしょ?
「こんなことをこんなところで言うのはなんスけど、あっしは清洲に来て半年とちょっとッス。嫌になることばっかりでしたけど、なんとかやってこれました。それは多分、あっしが清洲に来たばかりのとき、梓殿がいろいろと優しくしてくれたおかげかもしんないんス」
「次の、その、織田が今川に勝って帰ってきたとき、そのときお会いしてくれませんか。そのとき、お礼を」
ほんと、牛殿は愚直で不器用な男ですわな。ましてや嫁入り前の生娘を目の前にして。
それでも、拙者は牛殿のそういうところ嫌いじゃありませんよ。
そこにいた野次馬どもや、それこそ梓殿が求婚だと捉えてしまうのも無理はないですかな。
ましてやそんなことは言われたためしはなし。織田は終わりだという状況下。
本気で考えたんだと思いますわ。
手柄を立てろと言ったのはそういうことですな。俸禄十貫文の牛殿にまさか惚れられるわけがない。
いや、惚れてしまったけれども、嫁げるはずがない。
しかし、織田は勝った。牛殿は勝った。
おやかた様は申された。
「この一戦、桶狭間への奇襲を俺に進言したのは他でもない貴様だ。貴様の進言がなければ今日の勝利はなかった」
勲功第一沓掛三千貫。
誰も文句は言いませんよ。
ところがですわ、文句を言う人が一人だけおったんですな。
牛殿はいずれ来ると、すでにその気でおった梓殿に柴田様は血相を変えて申されたのです。
「たわけっ! お主は何を言っておるのだっ! そんなもの許すはずがないだろうっ!」
「どちらにしろわらわの貰い手なんぞいないのだからよろしいではないか! わらわを貰うと言っている者がおるんじゃ! 沓掛三千貫の所領主ぞ! 分相応ではないか!」
「ほざけっ! ただの三千貫と野良牛三千貫は違うわっ! どこの馬の骨だかわからぬ成り上がり者にお主を嫁がせられるかっ!」
「成り上がり者も何も、こたびのいくさは彼の者の働きぞっ! 籠城籠城と歩き回っておやかた様に捨て置かれた兄上が大口叩ける分際かっ!」
「ならんならんならん! あんな野良牛をわしの義弟などにさせてたまるかっ!」
柴田様はわりかし梓殿に逆らえないので、目の当たりにしていた拙者も驚きましたよ。
まあ、牛殿がよっぽど嫌いだったんでしょう。嫉妬もあるでしょう。十貫文の牛殿が突如として三千貫文の所領主ですぞ。嫉妬しない者がおったでしょうか。
それに、牛殿が大活躍、織田の大勝に清洲は沸く一方、かたや柴田様はといえば、おやかた様にいくさ場に連れていってもらえず、屈辱ですわ。
梓殿とはいえ、おなごですよ。そのおなごに分際でもないと言われてしまえば、かあっとなるもんです。
柴田様は余計なことを申してしまったのですわ。
「お主! まさか惚れているのかっ! あの野良牛風情に惚れておるのかっ!」
これは言ってはならない言葉でしたな。柴田様は後日うなだれて反省しておりましたな。
跳ねっ返りの梓殿ですぞ。
もう、あのときの梓殿の顔ったら今でもここに焼き付いておりますわ。
燃えるように顔中を真っ赤に染めて、目も血走らせてね。
「惚れているわけなかろうがっ!」
そこからはもう柴田様はめったうちですわ。鬼梓のあの恐ろしさときたら拙者はうっかり小水を漏らしてもおかしくはなかったですわ。
「わらわが惚れるわけなかろうがっ! あの者がそう言っただけの話じゃっ!」
素直じゃないというか、子供というか。
そういうわけで、牛殿にもきつく当たったわけですな。
自分は牛殿には惚れていないんだと。そう思われては困ると。
あんな出で立ちを始めたのは、まあ、柴田様に対する当てつけかもしれませんし、他にも理由があるんでしょうが、そこまではわかりません。
梓殿にはさすがに根掘り葉掘りとお訊ねできませんわ。
そもそも、その前から奇天烈な娘だったじゃありませんか。奇行は不思議なことじゃありませんよ。
あっ、失敬。牛殿の嫁でしたっけ。
※
太田の屋敷をあとにしたときはすでにお日様が西にかたむいていた。
白濁としていた空は、まばゆい太陽に染まり渡って、光の粒が降り注がれているような果てのない明るみだった。
日暮れも近くなると、屋敷町の通りにも往来の人が増える。行商人は声を枯らして物売りに励み、勤めを終えて城や千畳敷から帰宅する同輩たち、「簗田殿、どうも」と見知った馬廻の者に声をかけられれば会釈を交わし、袴を履いた子供たちは女の子もまじえて棒切れを振り回して追いかけっこしている。
どこかの屋敷から沈丁花のきつい香りが流れてくる。
まだ少し肌寒い。
自宅に差し掛かると、おれの屋敷の門をくぐり出てくる人の姿があった。
おれは立ち止まって見つめた。
デザイアとお貞ババアもおれに気づいてそこに足を止めていた。
切り揃えた前髪の下から二重の瞼をまぶしげに細めて、おれを遠くからのように見つめてくる。
彼女は薄い紫色の小袖の上に花ちらしの真っ赤な小袖を着流していた。柔らかい日差しの中で、まるで別世界から来たかのような派手な装いだった。
おれは細長い息を胸から抜くと、視線を伏せぎみにして歩み寄っていった。
「どうかされましたか」
と、デザイアとお貞ババアの前に来たところで、おれは彼女たちに顔を向けた。
デザイアは背高のおれをじっと見つめたまま、蕾のような唇を開く。
「昨日、この者が押しかけて取り乱したと聞き、詫びを入れに参ったのじゃ。すまんかった」
デザイアはおかっぱ頭の髪をさらさらと流しながら頭を下げ、お貞ババアも揃って頭を下げてきた。
「この者から聞いた。しかし、お貞を許してほしい。この者は、昔、わらわがそなたに暴言を働いてしまったがため、そなたとわらわがうまくいかないと思ってそうしてしまった。責めるならわらわを責めてくれ。すべてはわらわが仕出かしたことじゃ」
おれは溜め息をつきながら、空をあおいだ。
雲がうっすらとして流れていた。
「だったら、梓殿。本当のことを教えてもらえませんか」
顔を下ろしたが、デザイアは地面に顔を伏せたままでいる。
一つも動かないでいた。
「あっしの気持ちがどうのこうのという話じゃなく、もう、あっしは七、八年前の自分じゃない。一人じゃないんだ。あのときのことについて納得できない人間がいるんです。頭を下げるぐらいなら、本当のことを教えてください」
「すまんかった」
「すまんかったなんていらないんだっ! そんなよそよそしい真似なんてやめてくれよっ! おれの奥さんになるからってそんな真似をしているのかっ?」
「申し訳ございませぬっ!」
と、お貞ババアが突然その場に土下座したので、おれは視界を滲ませながらも吼え上げた。
「やめやがれっ! そんなことしたって何になるんだっ! お前がいまさら頭を下げたところでどうにかなるもんじゃねえんだっ!」
ババアがぐずぐずと泣いているが、おれはただただ頭を下げているだけのデザイアに顔を向け、言った。
「わかった、もういい。この話は金輪際終わりだ。おれだって背負っているものだってそれなりにある。守らなくちゃいけないものもある。梓殿はその一人になる。バアさんもその一人だ。土下座なんかする必要ねえ。みっともねえ真似すんな。あんたらのみっともねえところなんて見たくもねえ。だったら自分がみっともねえほうがまだマシだ」
おれは苛立ちながらデザイアの脇を通りぬけ、門をくぐっていく。
そう、いまさら頭なんか下げられたくもなかった。
おれはそんなの大嫌いだ。
「わらわは――」
おれは眉をしかめながら振り返った。デザイアがいじけたガキのようにして黒玉の瞳を湿らせながらおれを見つめてきていた。
しかし、デザイアは切り揃えた髪をさっと翻してしまい、腕輪をじゃらじゃらと鳴らしながら足早に去っていってしまう。
お貞ババアが訴えるような目で見上げてくるので、おれもさっさと屋敷の中に逃げ込んだ。
刀掛けに脇差しを置き、床の間を背中にして腰を下ろす。いつものように左手の斜向かいに太郎が座っており、ねじり鉢巻きがその隣に、シロジロはその向かい、あいりんはいちばん右手奥。
膳の上に並んでいるのは玄米メシにねぎごぼう大根に芋を入れたあつめ汁、ごぼうの炒め煮、黒豆、あとは大根の糠漬け。
「太郎、今日、あの人が来たんだが」
おれが箸をすすめながら言うと、太郎はうなずいた。シロジロから聞いたと。
「それで、まあ、門前で出くわして話したんだが、あの人も反省しているような感じだったし、おれももう水に流すって言っちまったんだ。だからお前もそうしてくれないか。やるせない気持ちはあるかもしれないけれど、おれもお前も駄々をこねているわけにはいかないだろ。織田の将なんだから」
太郎はお椀を持ったまましばらく黙っておかずを見つめていたが、しぶしぶうなずいた。
「父上がそうおっしゃるんであれば」
「それで明日の夕方にでもゴンロク殿のところに行こうと思うんだけど、お前も一緒に来てくれないかな」
「かしこまりました」
それきり食事は静かだった。
おれは物思いにふけるばかりで、太郎はふてくされているので、鉢巻きもシロジロもあいりんもおれたち親子に遠慮しておとなしかったが、静まり返っているとシロジロがくちゃくちゃとうるさいのが目立った。
「お前、うるせえんだよ」
「へ? 何がッスか?」
「くっちゃくっちゃうるせえんだよ。お前だけクリツナ(仮)と一緒に馬屋にするぞ。口を閉じて噛めや」
「は、はい」
説教したあとは居室に戻り、しばらくすると太郎の部屋を訪ねた。
「実は――」
と、太田から聞いた話を太郎に伝えた。
「そんな馬鹿な」
太郎は険しい顔つきでいた。
「すべて人伝えの話じゃありませんか。拙者はあのとき柴田様の屋敷に行ったのです。わっぱの拙者に柴田様はお優しくしてくれたのです。それに柴田様は拙者にも申されたのですよ。父上にも謝っておいてくれと」
「でも、あの人に今日あった限りだとやっぱり太田の話は……」
「父上に惚れるおなごなんているはずないじゃないですか。人伝えの話なんて信じないでくださいよ。そうやって今まで何度も痛い目にあってきたというのに。自分なんかに惚れるおなごなんていない。そう考えたほうがいいんです」
「お前、そういう言い方はねえだろうが」
「申し訳ありません。今のは失言でした」
「あんまり生意気言っているとあいりんを追放するぞ」
太郎が怒って睨みつけてきて、気分を害したおれは居室に戻った。
ろうそくの火を吹き消すと布団の中にもぐりこみ、暗闇の天井を見つめながら溜め息をつく。
おれがデザイアに傷つけられたことに変わりはないんだけれど、もしもあのとき罵倒にもめげずに追っかけ続けていたらどうなっていたんだろう。
もっとも、そうなっていたらなっていたで、太郎を息子にすることはなかったのだろうから、あのときのことなんてどうだっていいのだけれど。
どうだっていいのだけれど――。
やっぱりおれを待っていてくれていたのは間違いなかったんだ。
それに、夕方の逃げていったときのデザイアは、ちょっと可愛かったな。
可愛かったな。
もやもやしていたからカッコつけちゃったけど、もうちょっと優しくすれば良かったかな……。
変な格好しているし、行き遅れだとかと蔑まれてもいるけど、実は昔のまんまで可愛いかったもんな。
そうだよ、なんだかんだてあずにゃんなんだから。
あのあずにゃんが奥さんになるんだもん。
だったら、昔は好きだったとかじゃなく、ずっと好きだったってことにしちゃおっかな。
意地を張って関係をこじらせると仮面夫婦になっちゃって童貞脱出できないもんな。




