君がいるから
さゆりんは鼻をすすっていた。おれは愛おしくて抱きしめた。さゆりんの頭に顔をこすりつけながらささやいた。
「じゃあ、忍びだなんてやめればいいじゃんか」
「ほんなこと言ったって、やめたって私には行くとこなんかあらへんもの」
さゆりんはおれの胸で揺れている。箕の下から抱き寄せる背中は震えている。
ひどく小さい背中。
おれを導いている背中がこんなにも小さかっただなんて。
「どうして、忍びなんかやっているんだよ」
「それは――」
さゆりんは奈良の生まれ、松永弾正忠という奴と、三好三人衆という連中の争いの戦火に巻き込まれて両親は殺され、みなし子となったさゆりんは甲賀の忍び集団に拾われた。
「甲賀では変装から暗殺の仕方まで仕込まれた。忍びになったら忍びの道しか生きられへん。私は嫌になって甲賀を逃げ出し、尾張に来たんや。最初は春日井児玉のただの奉公人やったけど」
丹羽五郎左衛門に忍びであることを見抜かれ、殺されそうになったところを、織田のために働くからと弁明して、それからは織田の忍びとなった――。
おれは思わずさゆりんを胸から離し、涙に潤んだ彼女の黒玉の光を見つめた。
「じゃあ、ゴロザ殿に命じられて忍び込んでいたのか」
さゆりんはこくりとうなずく。
「そんなの、おれが――」
おれがやめさせてやると言った。
さゆりんは唇を押しむすび、沈黙のまま、大人になりきれない少女の潤んだ瞳でおれに訴えってきている。
おれはもう一度、抱き寄せた。さゆりんの頭に顎を乗せながら口を開いた。
「おれが言ってやるよ、そんなの。やめさせろって」
「ほんなん無理に決まってるやん。丹羽様はあんたなんかよりお偉いさんやん」
「無理じゃない。おれはゴロザ殿の弱味を握っているんだ。ゴロザ殿がなんと言おうとおれはさゆりんをやめさせてやれるんだ」
「嘘ばっかり。そんな真似せんといて。私のためなんかに。牛太郎さんの立場が悪くなるだけやないか。私のためなんかにそんな真似せんといて」
「嘘じゃない」
「ほんならなんなの。丹羽様の弱味って」
おれは黙った。さゆりんを力強く抱き寄せる。
「嘘やないか。そんなの知らんくせに」
「とにかくゴロザ殿にはおれが言ってやる」
しばらくさゆりんは黙りこくった。おれにしがみついて、おれの胸に頬を預けたまま、おれの鼓動を聞くようにして、無言でいた。
ふいにさゆりんはつぶやく。
「でも、やめらへん。おやかた様は上洛するんやろ。忍びもかき集められるに決まっとる」
「だからって、さゆりんには関係ないじゃんか」
「おやかた様のやり方次第や。上洛だなんて私は聞いたこともないし、突然召集されたんじゃ、私はやめる口実を失う。たとえ、牛太郎さんが言ってくれたとしても」
さゆりんは頬ずりしてくる。
けれども、おれはようやく気づいた。さゆりんのそれは頬ずりじゃなくて、おれの服で涙を拭いていた。
さゆりんは鼻をすすり上げながら溜め息のようにして言った。
「私、女中でもええから、岐阜に帰ったら、牛太郎さんのそばにいたい。ほんま、あんたみたいな優しい人のそばにおりたい」
嗚咽とともにさゆりんの頭が揺れて、おれはさゆりんの頭に頬をこすりつける。
「いいよ。いて。おれのとこに来なよ」
「でも、でも、そう簡単にいかへんのや……。口実があればええんや。ほんでも、織田がこれからどうするつもりなんか知らへんから、予想も立たへん。口実も作れへん」
「どうするつもりって、どういうことなの? それがわかれば逃げ道が作れるの?」
「そや……」
さゆりんはおれの胸から顔を持ち上げて、頬につたう涙を見せてきた。
「なあ、牛太郎さん、上洛ってどういうことなん? おやかた様はいくさをつもりなん?」
「いや、それはわからないけど、たぶん、おれが思うのは――」
おれは信長の動きをまったく知らないし、いくさを仕掛けるのは北伊勢がどうのとサンザが言ってたから、よくわからなかったのだけれども、歴史通りだとすると――。
「幕府の将軍の弟の足利義昭ってのが逃げているんだ。おやかた様はそいつを担いで、次期将軍にする名目で上洛するんだ。たぶん、そうなんだ。明智十兵衛って奴と会ったことがあるんだけど、そいつはそういう動きをしていた。明智十兵衛はもうすでにおやかた様に会っているかもしれない」
「ほんなら、言うて。その前に言うて。丹羽様に言うて。私のことやめさせって。それが始まったらもう遅いんや」
「わかった。言う。帰ったらすぐに言うよ」
「ほんま? 大丈夫? 牛太郎さん、変なことにならん?」
「大丈夫。おれはそんなのさんざんやってきたんだから」
さゆりんはおれの胸に顔を埋めてくると、か細い腕でおれにしがみついていくる。
「ありがと。ほんまに、ほんまに一緒やで」
「うん」
おれはさゆりんの背中を優しく撫でる。しばらくするとさゆりんは安心しきったかのようにして眠ってしまった。
翌日、雪は止んで空は真っ青に晴れ渡っていたけれども、足首がすっぽり埋まるほど雪が積もっていた。
さゆりんは、今日もあばら家で待機しようと一度は言ったのだけれども、発言をすぐに撤回する。
馬の蹄の跡があると言った。おれも見た。確かに足跡があるのだけれども、おれには蹄の跡なのか、犬猫の足跡なのか区別がつかない。
「嗅ぎ回っておるんや。さっさと出なあかん」
おれたちの足跡が付いてしまうからどうかと思ったのだけれども、忍びのさゆりんを信じて箕笠を被る。
鏡のように映えた青空の下、雪化粧の銀世界を進んだ。
木曽谷から東美濃ルートを通るのは峠で武田が張っている可能性が高いとさゆりんが言って、伊那谷から三河国長篠に出る街道を選択した。
「長篠への道を取るとは思わへんはずや。ほんまは天竜川沿いに下っていって遠州に出たいんやけど、雪解け水で川が暴れておるから」
昨日までとは打って変わって、太陽の日差しが降り注いでいる。
鷹か鳶かが一羽飛び回っていて、笛のような鳴き声が響いている。
やがて伊那谷はすぼまっていき、真っ白な山へと入っていった。
梢から日差しが差し込んでいる。木の枝に積もる雪は輝きを放ちながら、溶け落ちて落下していく。
「ゆっくりでええよ。足下、気をつけてな」
たまにさゆりんがおれの手を取った。
たまにおれの体が重すぎて手を取っているさゆりんを引っ張ってしまうことがあった。そのつどあわてておれが受け止めて、二人で顔を見合わせて笑った。
ザクザクと雪を踏んでいきながら、おれは不思議な思いでいた。
さゆりんが愛しくてたまらないのだけれど、彼女とヤりたいだなんて思わなかった。
「家中では誰と仲良しなん?」
「仲良しってか、まあ、なんていうのかな――」
歩みを合わせながらごくごく自然に話していた。おれはさゆりんのことをたくさん知りたかったし、おれのことも知ってもらいたいという気持ちで、何かこう、楽しさというか幸せというか。
「前田又左衛門とか木下藤吉郎とかかな。仲良しってわけじゃないけれど、おれが織田に入ったときからの付き合いで。あとは森三左衛門には世話になっているかな」
なんというか、吉乃さんと喋っているような気がしていた。
「森三左衛門って重臣やん」
「あの人はわりと重臣ヅラしないんだ」
背の高かった吉乃さんとさゆりんは似ても似つかないのだけれど、飾らなさだったり、気が強いところだったり、それでいて面倒見のよさだったり。
「おれは牛、牛、って呼ばれていて、名前なんかないも同然だったんだ。けれど、サンザがおれに牛太郎って付けたんだ」
日が暮れると、山の中に隠れた。
さゆりんが集落の百姓から筵を買い取ってきて、それに二人でくるまってお互いにしがみついて丸くなった。
「牛太郎さんはおやかた様に気に入られとるの?」
「いや、気に入られてはいないだろ。斉藤方を切り崩せだの、武田の状況を把握してこいだの、毎度毎度めちゃくちゃだもの」
「それってでも、牛太郎さんだから命じられているんやないの?」
「そんなわけないさ」
翌朝も晴れていたけれども、雪はまだ残っていた。街道にはぽつらぽつらと足跡があるのだけれども踏み固められてはおらず、さすがに雪道はめったに出張らないらしい。
人とすれ違っても、近隣の百姓か旅人で、騎馬武者などとすれ違うことは一度もなく、もしもそうした人間とすれ違ったとしても、京都の公家の朱印状を持っているとさゆりんは言った。
塩座の行商人に偽装できるらしい。
「おれも家にあるよ。離宮八幡宮の朱印状」
「ほんま? やっていること忍びやん」
「忍び込むっていう意味ではそうかもしれないけど」
ふふ、と、さゆりんは白い歯をこぼしながら笑う。
「でも、さゆりんじゃ女の声だから駄目だろ。まさか変えられるのか」
「変えられるで」
と、言った声は男のように低音が響いていた。おれが目を丸めて驚くと、さゆりんはけらけらと笑う。
「ほんでも、もう使わん。牛太郎さんと一緒やもん」
おれは思わずにやけた。にやけた口許を隠すためにうつむいた。
「でも、牛太郎さんは油座に化けて何をしてたん?」
「まだ斉藤方といくさをしていたころ、美濃の調略のために。竹中半兵衛の家に行っていたりしていたから」
「竹中半兵衛? まさか、調略したん?」
「調略っていうほどのもんじゃないけど、まあ、おやかた様の直臣になったよな。西美濃三人衆っていうのがいて、そいつらも半兵衛が説得してくれたんだけどさ」
路傍のお地蔵様の祠の脇に腰を下ろし、沢から汲んできた水を飲む。竹筒をさゆりんに渡すと、さゆりんも口をつける。
「それにしたって、武田の連中と遭遇しないんだな」
「雪が積もっているし。それに木曽谷のほうには知らされていても、こっちには知らされていないのかもな。もうすぐ三河やし」
信州の最南端から奥三河に入っていけば、近頃今川方から徳川陣営に移り変わった長篠城があるらしく、徳川は織田との同盟者である。
到着は早くても明日になるらしいので、とにかくは歩く。
「吉乃さんに似ているよな、さゆりんは」
「吉乃?」
「おやかた様の側室だった人だよ。知らない? おやかた様のご嫡男の奇妙丸様のお母さんさ。まあ、吉乃さんは去年、死んじゃったんだけどさ」
「そうなん。おやかた様のお方様と知り合いやったん?」
「知り合いってほどでもねえけど、おやかた様に法螺話を聞かせてやれって言われて、たまに、そういう話を」
「へえ。どっかのお姫様やったんか?」
「違うよ。馬借屋の娘だよ。丹羽郡の生駒ってところの」
「そんな人が奇妙様の母御なん?」
「知らないの?」
「知らへん。斉藤道三の娘ってのは名前だけは知っているけど」
「濃姫様はあんまりおやかた様に好かれていないらしい」
「そうなん? 斉藤家のお姫様やから?」
「いやあ、わかんねえけど、たぶん、おやかた様の好みじゃないんだろ。おれも会ったことがないからわかんないけど、マムシらしいから」
日も暮れて、また、筵にくるまる。
闇とともに冷気が沈んでいる。さゆりんはおれの腕にくるまれながら、温かい、とつぶやく。
髪越しに頭に口づけすると、さゆりんは体を振って、やめて、と、笑いを含ませながらささやく。
「イタズラせんといて。声が出るやん。見つかるで」
おれはにやにやしながらさゆりんの背中をさすっていき、両手をケツのほうに下げていく。
「ほんまやめて。そういうのは帰ってからにしてや」
「いいじゃんか」
「駄目や。気が落ちる。それにあんた野盗やないんやから。武士やろ? ほんま、嫌いになるで。私、下衆な男は嫌いや」
おれは溜め息をついて、痴漢をやめた。
「帰ってからにして。帰ってからいっぱい抱きしめて」
さゆりんの甘え声にむずむずしながらも、雑念を振り払うようにしておれはさゆりんを強く抱き寄せた。
大野川という川に並行して歩いていると、山々に囲まれた行く手は若干開けていった。薄雲の流れる空も視界に広がり、雪もすっかりなくなっている。
すでに奥三河だとさゆりんは言った。武田領は脱したとも。
帰れた。
おれは空を仰いだ。
何日間の逃亡だったか忘れてしまい、武田信玄や山県クソ三郎の顔もなんとなくおぼろげになってしまったけれども、とりあえずは生き延びれた。今はそれだけでよかった。
早く沓掛に戻って腹いっぱいのメシが食いたい。
早く風呂に浸かりたい。
ねじり鉢巻きやクリツナ(仮)は無事だろうか。いや、あいつらのことだ、無事だろう。
太郎は心配しているに違いない。
早く無事であることを伝えないと、あいつのことだからまた追いかけてしまう。
そして、ゴロザにも知らせないと。ゴロザを説得しないと。
さゆりんを解放しろって。
「あのさ、さゆりん。岐阜には特製の釜風呂があるんだ。本当は檜で作りたかったんだけど、まあ、妥協しちゃってさ。結構、評判が良くて、家中の人間はすぐに入りに来るんだぜ。さゆりんもきっと気にいるよ」
「へえ。あんた、お湯を浴びるの好きなん? 湯村山でひどい目に合ったっていうのに」
「それはそれ、これはこれだよ」
「ふーん」
さゆりんは立ち止まり、微笑みながら振り返ってくる。
「ほんなら、そこに流れている川でも浴びてくれば」
すっかり安堵していたおれは、へらへらと笑っていた。
「冷てえだろうが」
「冷たい水で頭でも冷やせばええやん」
おれが笑ったまま突っ立っていると、さゆりんは箕の紐を解いて放り捨て、被っていた笠もほどいて放り投げた。
くるくると回っていった笠は大野川の川面に着地する。
雪解け水に激しい川の流れ、笠はさらわれるようにしてあっという間に消えていく。
髪を後ろで束ねていた縄も解き、下がった髪を頭を振って整える。
さゆりんが何をやっているのか、よくわからない。
「あんた、べらべら喋りすぎやないの? ほんでも、私の見込み通りやったけれど」
おれは笑みを浮かべたまま固まる。さゆりんが何を言っているのか、まったくわからない。
けれども、胸がとてもうずいた。
「楽しかったで」
さゆりんは懐に手を入れていた。
そこからは、銀色の刃が日差しを撥ねつけながら姿を現してきていた。
さゆりんは笑みを浮かべている。
しかし、猫目の瞼に支えられた黒い瞳は、おれの動揺を捉えて離さない獰猛な輝きだった。
おれは声が震えた。
「な、何をやってんだ?」
「冥土の土産に教えてやる。私は織田の忍びでも武田の忍びでもない」
怜悧な声を吐きながらさゆりんが一歩また一歩とおれに詰め寄ってき、おれは一歩また一歩と後ずさりしていく。
「私は六角承禎様が配下、甲賀流五十三家に属する忍びや」
震えが止まらない。
「じょ、冗談はやめろよ。どうして六角の奴が諏訪なんかにいるんだ」
「言うたやんか、織田と武田の間を行き交っている連中に接触しているって。そうしたら、あんたみたいにべらべらと喋ってくれる阿呆がいるってことや」
「やめろよ。くだらない冗談はやめろ」
「高島城で女中に扮していた私にあんたは言うた。上総介に上洛の動きがあるってな。上洛言うことは六角様の南近江を進むわけや」
「ち、違うっ!」
「何が違うんや? もう遅いで。あんたがうっかり上洛なんて言葉をついたから、私に付け狙われたんや。先代の公方様の弟君を担ごうとしているだなんて、ええことを聞かせてもらったわ」
「やめろ」
さゆりんにじりじりと詰め寄られるおれは、すでに大野川に続く崖の縁へと追い込まれていた。
不敵に笑うさゆりん。短刀を逆手に握りしめ、それはまるで女狐の牙だった。
「武田があんたを追っていると思っていたなんて大間抜けやな。あんたのことなんか追っておらんで。追っていたら伊那谷ですぐに捕まっておるわ」
おれは震える手で腰に差したアケチソードの柄を握りしめる。歯ががちがちと鳴ってしまって、止まらない。
「馬丁のおやっさんを木曽路に向かわせたのも、あんたと引き離すためや。あの馬は危なかったからな。ほんで、あんたに木曽路を取らせなかったのも、あんたを救うために駆けつける織田の連中に遭遇しないためや」
「う、嘘だろ。だって、だったら、いつだっておれなんか殺せたじゃねえか。ここまで連れてこなくたって良かったじゃねえか」
「あんたから織田の内部を聞くためや。まだわからへんの?」
さゆりんはとてもこわい顔をしていた。
とてもこわい笑みを浮かべていた。
夢であってほしい。
さゆりんはとても優しかったのだし、さゆりんはとても寂しそうにしていたのだし、さゆりんはおれを勇気づけてくれたのだし――。
涙が止まらない。
「嘘だろ? 嘘だろ? なあ? 冗談はやめてくれよ」
力が抜けてしまって、脇差しを握る手は柄からするりと落ちていってしまう。
「ほんでも、あんたが大したもんやったのは、私に手を出さなかったところやな。それだけは認めてやる」
「やめてくれよっ!」
「死ねや」
さゆりんの瞼がかっと開いて、短刀の先がおれの胸に突き刺さる。
おれは唇を震わせ、嗚咽が止まらない。
短刀の先は襟元で止まっていた。
静かな山間の街道、川のせせらぎは激しくも音は無く、日差しは薄雲に遮られてゆるやかに注ぎ込み、さゆりんは三白眼の殺人者の目つきで、おれをじっと見上げてきている。
「命だけは勘弁しといてやる。あんたみたいな阿呆、殺すほどでもない」
さゆりんはすうっと短刀を引いていき、懐の鞘の中にしまい込むと、縮れた髪を振りながらくるりと背中を向けてしまう。
おれは崩れ落ちそうな膝をこらえつつ、さゆりんの肩に手を伸ばす。
「じょ、冗談なんだろ?」
しかし、おれの手が触れようとしたとき、さゆりんは駆け出した。切り立った崖の上へ猫のようにして跳んでいってしまい、
やがては枝葉を踏んでいく音もなくなった。
「嘘だ――」
おれは両膝を付いて崩れた。地面に両手を付いて泣き崩れた。
夢だ、おれは悪い夢を見ている、これが夢じゃなかったら、おれはどうしたらいいんだ。
――でも、頑張り屋さんやね?
「どうして。どうして――」
絶対に嘘だ。信じたくない。
きっと、冗談なんだ。どこかに何かを盗みに行っただけだ。
帰ってくるんだ。
でも、さゆりんが捨てていった箕は、冷たいそよ風に吹かれて、さわさわとなびいていた。
役目を終えたかのように。
※
「おやかた様。摂津石山の顕如から戦勝を祝う書状が届いたそうで」
「ああ」
「刑部については何か書かれてありましたか」
「ない」
「左様ですか。もっとも、長島に手を出してしまえば一向門徒どもを向こうに回してしまいますから。ここは北伊勢を織田方の縄張りとしたところで、よしというところでは」
「おい、三左。貴様、そんなくだらねえことを喋るために来たのか」
「いえ、申し訳ございませぬ。実は牛殿なのですが――」
「信玄入道に殺されたか」
「いえ、我らが北伊勢にていくさをしていたさなか、長篠の奥平美作守の世話になっていたそうで。その後、沓掛に戻って安静にしておったのですが」
「長篠だと?」
「木曽路から東美濃を回らずに、伊那街道を奥三河に向かったようで」
「きゃつが奥三河を知っているはずがねえ」
「おっしゃる通り、実は、帯同していた馬丁の者は黙っておったのですが、実のところ、甲府から逃げたさい、見知らぬ若い女が付いてきたそうで」
「武田が忍びか」
「おそらく」
「うつけめ。おおかた色仕掛けで騙され、ろくでもねえことをべらべらと喋ったのだろう。事を大きくさせずにして間違いなかったわ。あんな鈍牛のために武田とこじれては話にならねえ」
「とにかく、女忍びに先導されて長篠に向かったのかと」
「竹っ! 竹はおるかっ!」
「ハッ」
「牛を呼べ!」
「恐れながらおやかた様」
「なんだ、三左」
「牛殿は憔悴しきってしまっており、拙者もさきほど屋敷を訪ねたのですが、寝床に閉じこもったまま姿を現さず、何も話さず、左衛門太郎の問いかけにも何も答えないようなのです」
「うつけが。ふざけやがって」
「左衛門太郎の言い分ですと、女に騙されたせいでそうなっていると。これまでも何度かあったようなのです」
「あの呉牛――。なんなんだ。きゃつはそんなに女にだらしねえのか。三十路を過ぎているだろうが。嫁も娶らずに。なんなんだ、きゃつは。五郎左のガキを養子に取って男気のあるもんだと思ったら、なんなんだ」
「まあ、甲斐性がないというか。だらしない訳ではないと思うのですが。まあ、おやかた様のおっしゃる通り、嫁でも娶れば変わるとは。ここは一つ、おやかた様の一声で牛殿に嫁御でも」
「竹っ」
「ハッ」
「又助を呼べ」
「太田殿で?」
「そうだ。さっさと連れてこい」
「お呼びでございましょうか」
「又助。牛はどうなっているんだ。あやつはなにゆえ嫁を娶らねえ」
「牛殿ですかー。その、うーん、話せば長くなるのですが、一言で済ませてしまうと、運がないのですな」
「運がない? どういうことだ」
「牛殿には明智庄にご執心のおなごがおったのですが、去年の斉藤方とのいくさが終わったあと、配下の山内伊右衛門とやらに取られてしまったのですな」
「なにい?」
「それでも、牛殿がそのおなごと祝言の予定を立てていたとかはなくて、ただ単に思いを寄せていたというだけで」
「情けねえ野郎だ。食い扶持を与えている者に女もくれてしまうとは」
「どうやら、菩提山の竹中半兵衛殿の宅に住み着いていたときにそうなってしまったようで、まあ、運がないのです。織田の働きのために使い切ってしまっているのではないんですかね」
「ほざけ。運だの不運だのあるか。女に限って言えば、きゃつが甲斐性のねえ野郎というだけだ」
「しかし、おやかた様。この森三左衛門、牛殿は存分に働いてきたと思うのです。牛殿なりに精一杯やってきてくれました」
「まあな。桶狭間といい西美濃三人衆といい、きゃつはたまにとんでもねえ斬り捨て方をする。それを見込んで信玄入道に当たらせたというのに、このざまだ」
「嫁を娶れば、その辺のところも矯正されるかと。しっかり者の嫁を娶れば。おやかた様、是非とも誰かを牛殿に」
「牛小屋に入る器量のいい女などどこにおる。ん? 三左。そんな者いるのか? ん?」
「……」
「又助、誰かいるか」
「……」
「いねえじゃねえか」
「……」
「……」
「――そういや、きゃつは権六の妹の梓がどうのこうのと昔にほざいておったな。なあ、又助」
「あ、梓殿でございますか?」
「なんだ?」
「いやあ……、そればかりは牛殿がお可哀想かと……」
「梓は年はいくつだ」
「二十四だと聞いておりますが」
「行き遅れもいいところだ。そうだ、梓がいい。牛には梓を嫁がせろ」
「いや、おやかた様、それは……」
「おやかた様、梓は権六が許さないかと」
「権六が許さねえもへったくれもあるか。権六とてじゃじゃ馬を放り出せてせいせいするだろうが。梓だ、梓。牛のような甲斐性なしには梓のような狂犬がいい」
「しかし、おやかた様、柴田様がこの又助にうっかり漏らしておったのですが」
「なんだ」
「実は……」
――。
「……というわけなのでございます」
「そうか。そういうことだったか」
「おやかた様、今の又助の話ですと、やはり梓は牛殿には」
「フン。おもしれえじゃねえか。なおさら牛には梓が似合っているじゃねえか」
「いやっ、おやかた様っ」
「竹。牛の屋敷に向かうぞ。出てこねえなら俺が這いずり出させてやるわ」
「おやかた様……」
「キャッキャッキャッ! こりゃ大変なことになるぞ! キャッキャッキャッ!」
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