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ふりてんつもる(前編)  作者: ぱじゃまくんくん夫
第五章 門出
71/147

暗闘、湯村山

 赤備えとかいう目立ちたがり屋集団や織田の雑兵たち、それにカモンの手下たちも館に残され、山県一人がおれとカモンを山道へと導いていく。

 湯村山の入り組んだ山道を進むたびに日は西へ西へとかたむいていき、山の中腹の湯治場に着いたときには、甲府盆地はすっかり朱色に染まっていた。

 温泉には武田信玄のオッサンがたまに宿泊するという館が備わっている。

 おれはクリツナ(仮)とねじり鉢巻きを門前に残し、山県やカモンとともに中に入っていく。

 まるで旅館のように三人の下人と二人の年増ババアに出迎えられ、奥の一室の板間に案内される。

「とりあえず、湯に浸かる前に酒でもどうか」

 と、山県が言いつつ、すでに女中が酒の膳を運んできていた。メシもある。

 チッ。おれはとっとと温泉に入りてえってのに。こちとら五日間も着のみ着のままなんだ。酒なんかより、お湯だ、お湯。

 ましてや盃に酒を注いでくるのはババアだし。

 山県ってのは気が利かねえ野郎だ。

 酒をすすりすすり(おれは飲んでいるふりだったが)、メシを突っつきながら、おもねりカモンは赤備えは勇壮だのなんだのと山県におべっかを使っていた。

 山県は大して人付き合いが上手いようでもなさそうで、「ふむ」とか「左様」とか、その程度の相槌しか打たない。

 そもそも、信玄のオッサンから「もてなせ」と言われたわりに、オッサン三人だけがチビチビとやっているこのざまだ。

 おにゃの子がいないのはともかくとして、信玄のオッサンの後ろにはあれだけのメンツが控えていたのだ。

 それなのにおれとカモンを接待しているのは朴念仁の山県のみである。

 耐えかねたか、カモンはおれに話を振ってくる。

「お湯と言えば簗田殿ですな」

 余計な話を。

 もっとも、カモンは武田信玄の娘を輿入れさせたいのが目的で、山県なんかと談笑していたところでなんら進展はないと思ったのだろう。風呂の話を持ち出せばさっさとこの場を閉められると考えたに違いない。

「まあ、あっしは温泉は入ったことないんで、なんともですが」

 ところが、山県はそんなくだらない話には乗ってくるのだった。

「お湯と言えば簗田殿とは、いかに」

 カモンは鮎の甘露煮をパクパクと食べている。さすがのカモンも山県相手に喋るのが面倒くさくなっちまったらしい。

 しょうがないのでおれが口を開く。

「あっしの屋敷には風呂釜がありまして。まあ、近所の織田家中の者が入りに来るのです」

「ほう。例えば?」

「え?」

「ん?」

「いや、例えばってどういうことッスか」

「例えば、どのような将がやって来るのかということだ」

「恐れながら、かわやを拝借してもよろしいですか?」

 と、カモンが言った。山県は戸の向こうに控えているババアを呼び、カモンを案内してやるよう伝えると、

「ついでに温泉に浸かったらどうか」

 と、言った。

「あ、それじゃ、あっしも」

「いや、簗田殿はよろしいじゃないか。話の続きがまだある」

 カモンがおれに目配せで合図してくるので、おれは仕方なく腰を下ろす。チッ。カモンは出て行ってしまい、おれと山県の二人きりになってしまう。

 おれはしいたけの煮付けを口の中に運ぶ。

 山県は酒をずずっとすする。

 ……。

 燭台のろうそくの火がぼんやりと照っている。おれは床に伸びた山県の影を眺めながら咀嚼する。

 おれだって元はといえば人見知りなんだ。

 戦国時代だから面識のない連中を相手にしても無理をして渡ってきたが、なんの情報も引き出せないようなこんなボンクラとお喋りするのはまっぴらごめんだ。

 カモンの野郎、ふざけやがって。

「酒が進んでおらんではないか」

 沈黙を破ったと思ったら偉そうに振る舞う。

 おれはじいっと山県を見つめる。生意気な口を叩いてんじゃねえという言葉を視線に込める。

 山県はむっとして唇をむすぶ。

 おれは鼻で笑った。

「あっしは下戸なんで」

 大根の漬け物に箸を伸ばし、それをバリバリと噛んで鳴らした。

「上総介も下戸のようだな」

 おれは漬け物を飲み込むと、山県を睨みつける。

「どうして人のところのおやかたを呼び捨てにしてんスかね?」

「何?」

 山県は眉間に皺を寄せておれを睨み返してくる。しばらくのあいだ、おれと山県は眼光の飛ばし合いを繰り広げる。

 山県が折れた。

「ああ。すまなかった」

 お椀を手にし、ふてくされた顔で白いコメを頬張っていく。

 それきり会話はなく、黙々と食事を進めるという苦痛な時間が続いた。

 温泉に浸からせろと言えば済むところだったが、そう言ってしまうと山県に負けたような気がして、おれは我慢する。

 カモンの野郎、いつまでのんびりしてやがるのか。

 食事も平らげてしまって、酒に手をつけないおれは腕組みをし、両目を閉じてただただ座しているだけである。

 山県も前方一点を見つめてただ黙っている。

 接待をされているどころか、地獄だ。

 ついさきほどに初めて会った奴と二人きりにされて、挙げ句の果てにはそいつがコミュ障という悪夢である。

 本気で思う。こいつ、バカなんじゃねえのか、と。

 おそらく、いくさ場しか知らねえ脳筋野郎なんだろうけども、マタザだってここまでひどくはねえ。

 まあ、はっきり言えば、こいつらこそ田舎モンだ。

 と、そこへ、ようやくカモンが戻ってきた。

「簗田殿、入らんのですか?」

 バカが……。どいつもこいつも。

「いや、入らせてもらいます」

 そう言っておれが立ち上がると、なぜか山県も腰を上げた。おれは眉をしかめて山県を見つめる。

 山県はこう言う。

「拙者が案内する」

「いや、いいッスよ」

 おれと山県は再び火花を散らし始めたが、カモンが腰を低くしながらおれの袖を引っ張ってくる。

「ここはひとつ、山県殿に甘えて」

 チッ。逃げていたくせにこれだ。

 おれがしぶしぶうなずくと、山県は無言で部屋を出ていき、おれはカモンに目玉を剥いて睨みつけてやったあと、山県のあとを付いていった。

 館の渡り廊下から脱衣場的な離れの東屋に連れてかれ、ここで服を脱ぐよう言われて直垂をほどいていくが、なぜか山県も素襖を剥いでいっている。

「何をやってんスか」

「おやかた様より簗田殿をもてなせと申し付けられておる」

「は?」

「武田ではそれは背中を流せということなのだ」

「いや、いいッスよ」

 すると、ふんどし一枚で胸の筋肉をあらわにしてきた山県は鼻先を持ち上げて吐き捨てた。

「我らがおやかた様のご厚意に唾を吐くのか」

 まさか――、おホモだち……。

 だから、おにゃの子がいなかったのか?

 こいつはおれなんかのおホモだちに選ばれたのが不服で機嫌を悪くしているのか?

 かといって、武田信玄の厚意がどうのと言われたら立場上従わざるを得ないし……。

 もしかして、カモンの奴、これがわかっていて逃げ出したのか?

 まずい……。

 仕方なしに素っ裸になったおれは見たくもねえオッサンのケツの後ろにつづいて東屋から飛び石へと足を下ろし、屋根を被せた石囲いの温泉へ進んでいく。

 ちょろちょろと湯が注がれており、立ち昇る湯気が灯籠の明かりにぼんやりと照らされている。

「熱いので、ひとまずは湯加減を触ってみたほうがよい」

 山県はお湯を囲う石の上に立って、顎をくいっとお湯のほうに向ける。

 汚ねえチンコが丸出しじゃねえか。隠せよ。

 おれは鼻から吐息をもらしながら並ぶ石の前に屈み込み、張っているお湯の面に右手を伸ばしていった。

 そのときだった。

 ドンッと、後ろから背中を蹴飛ばされ、おれは落ちないよう空中でクロールを掻いて踏ん張ったのだけれども、更に蹴飛ばされて、ざっぱんと温泉の中に落ちた。

 おれはあわてて体を起こそうとする。

 山県がおれの背後から乗っかってきていた。おれの髪を両手で鷲掴みにし、頭をお湯の中に押さえこんできた。

 おれは両手で山県の両手を掴み込む。引き離そうとする。引き離せない。

 山県が背中に乗っかってきているのでなんとか背中で持ち上げる。お湯の中から脱出する。体ごとひっくり返って山県を湯面に叩きつける。

 山県が手を離したので、起き上がる。ゲホゲホとむせていると、山県もお湯を頭から垂れ流しながら立ち上がってくる。

 この野郎――。

 山県がおれの顔面に右拳を振るってきた。おれはまともに右フックをもらった。

 が、大したことねえパンチだった。

 ナメてんじゃねえ。おれは信長にさんざんボコられてきたんだ。そんじょそこらのオッサンのパンチ一発でやられる簗田牛太郎じゃねえ。

 おれはお返しに一発、山県の顔面をぶん殴る。山県はよろけながらも、踏ん張って止まり、おれを睨みつけてきた。

 おれは吼える。

「どういうことだテメーっ!」

 山県は素っ裸のままで鼻で笑った。東屋のほうへ後ろ足にゆっくりと引き下がっていきながらも、口許を歪めながら言う。

「お前をもてなせというおやかた様からの下知だ」

「はあっ?」

 山県は灯籠に手を伸ばした。そこから出てきたのは長い棍棒だった。

 棍棒を片手でくるくると回すと、両手で握って止めて、棍棒の先をおれに向けてくる。

「酒で酔って温泉で溺れたとあれば、何の疑いもないだろう。違うか? 織田の策士よ」

 棍棒を手にした途端、自信に満ち溢れた山県の顔を前にして、おれは背すじを凍らせた。

 そういうことかよ、あのオッサン――。

 おれは武田信玄とのやり取りをよくよく思い出した。


 ――桶狭間の成り行きは存じている。上総介に進言した。そうであろう、簗田殿?


 オッサンはそう言った。そう言ったあと、シュリとかいう狐目のオッサンが武田信玄にこそこそと耳打ちし、それを聞いて信玄は再び言った。


 ――なかなかの策士だそうだな、簗田殿。上総介もお主がおらなんだ、桶狭間も美濃取りもなかったのではないか?


 ましてやこうも言った。


 ――なかなかのおもしろい御仁だ。今晩は簗田殿に湯村山の温泉でも馳走してやれ


 カモンの名前が入っていなかった。

 ということはつまり、おれだけを殺せってことで、

 やべえ……、武田信玄大僧正様はおれを買いかぶってくれているようで。

 織田一門のカモンを殺しちまえば外交上まずいのだろう。もしくはカモンなんて殺すほどでもないのだろう。

 おれが溺れたことにしてしまえば、カモンは――、報告を受けた信長は納得せざるを得ない。納得できなくても、武田と事を荒らげたくない織田としては泣き寝入りするしかない。

 おそらく、おれを殺したあとに山県はカモンに死体を見せる手はずだ。

 だから山県は槍じゃなく棍棒を用意している。血を見せないために。

 手下を用意していないのも真実を秘匿するため。

 コミュ障の山県が接待役だったのも、こいつがおそらく猛将のため。

「簗田」

 山県は温泉をちゃぷちゃぷと波打たせながら、ゆっくりと間合いを詰めてき、毒のような声を吐く。

「お前のような者が甲州に来た理由など一目瞭然なのだ。領内を見聞し、武田が将と接触するためであろう。斉藤方を切り崩したようにな」

 たぶん、シュリとかいう狐目オッサンは、西美濃三人衆や半兵衛の件を武田信玄に話したに違いなく、山県も武田信玄の暗黙のうちの指令でそれを感じ取ったのだろう。

 だけど、それだっておかしな話でもあるんだ。

 織田家中のたいがいの奴は半兵衛の勧誘はサルがしたと思っているんだ。サルの与力になったからそう思っているんだ。

 カモンのように信長本人の口から聞いていないと、半兵衛とおれが接点を持っているだなんて、ほとんどの人間は知っていないんだ。

 西美濃三人衆の件だってそう。おれとあいつらは直接交渉していない。あいつらが連判状を信長に直接送ったのだ。

 調略の内訳は織田家中の人間でもあまり知られていない。それにも関わらず、武田の連中は知っている。

「どうした、さきほどまでの威勢の良さは。呆気に取られた顔をしおって」

 ヒットマンと化した山県クソ三郎は、水を得た魚のように生き生きとし始めていた。

「お前のような世間知らずの尾張の田舎者に一つ教えてやろう。織田のたいがいのことはおやかた様には筒抜けなのだ」

 今更そんなことはどうだっていい。

 この場を切り抜けなければならん。

 東屋に逃げ込むには山県の棍棒をかいくぐらなければならない。

 おそらく、このバカはいくさ場で槍を振るう感覚で棍棒を握っているに違いなく、我が息子の太郎がおれをぶん殴ったときみたいにして頭を狙ってくるはずだ。もしくは喉を一突きだろう。

 それに不幸中の幸いなのは足下が温泉であることだ。踏ん張りは大してきかないはず。マタザ師匠ほどの背高でもないこのバカだ、頭と喉さえガードしておけば、体格差でおれの勝ちだ。

 おれは腰を低めると鼻で笑ってやった。

「テメーが一人でおれを仕留めようだなんて、あさはかだったな山県」

 すると、山県も鼻で笑う。

「ほざけ。お前が呉牛鈍牛と侮られているのは承知しているのだ」

「ははあ。テメーはおれが桶狭間で今川治部と正面切って闘ったことは知らねえようだ」

「笑わせおって。地獄の餓鬼相手にその大法螺吹いていろ」

「あっ! カモン殿!」

 おれの流言工作に引っかかった山県は咄嗟に棍棒を下ろし、それを背中に隠しながら東屋に振り返る。

 すかさず湯面をじゃばじゃばと突進していって、「おのれっ」とバカヅラを振り返らせてきた山県の首元に渾身の牛ラリアット!

 山県を温泉の中にざっぱんと叩きつけると、そのままダッシュで東屋に飛び込んでいく。

 折りたたんでいた直垂と小袖を抱きかかえ、ついでに山県の着物も胸に掻き寄せる。

 素っ裸のフルチン姿のまま東屋を飛び出していき、渡り廊下から山県の着物をぶん投げ捨てる。

 そうしておれは素っ裸のまま館の廊下を突っ切っていき、目を丸めて棒立ちしている下人やババアを突き飛ばしていくと、奥の間の板戸を叩き開けた。

「カモン殿!」

「なっ。何をそんな格好でっ」

 刀箪笥からアケチソードを掴み取ったおれは、膳の前に座って唖然としているカモンの手を引っ張ると、奥の間から連れ出していき、

「な、何があったのですっ」

「襲われたんスよっ! 山県クソ三郎があっしを殺そうとしてきたんスよっ!」

 館の外の暗がりまで連れ出していって、そこでようやくおれは小袖を羽織っていく。ふんどしを巻いているヒマがないのでノーパンである。

「ど、ど、どういうことですっ」

 小袖の上に小袖を羽織り、おれは帯を締めながらかくかくしかじかと話していく。

「だから、あっしは甲府から逃げさせてもらうッスよっ」

「い、いやっ、しかしっ」

「しかしもへったくれもないっしょっ! 信玄の親分はあっしのことを殺そうとしているんだ! こんなところに泊まっていったら、明日にでもあっしはホトケサマッスよっ!」

 直垂を羽織ってアケチソードを腰に差す。

「だからと言ってここから岐阜まで帰るには」

「あとはカモン殿がうまくやっておいてください!」

 おれは板塀をよじ登って館の外に出る。あっ。履き物を忘れた。クソッ。

「鉢巻き!」

 かがり火の焚かれた門前からクリツナ(仮)の口輪を取ってねじり鉢巻きが駆けつけてくる。

「ど、どうしたんだよっ」

「襲われた。ここにいると殺される。早く乗せろ」

「乗せろっつったってどこに行くんだっ」

「帰るんだよ岐阜に。早くしろっ。追っ手が来るかもしれねえだろっ」

 泡を食っている鉢巻きが差し出してきた掌に右足を乗せてクリツナ(仮)の背中に跨る。手綱を手繰ってクリツナ(仮)を小走りに走らせる。

 チッ。クッソ。のんびり走りじゃ山県が追ってきちまう。プロレスだったらおれの勝ちだが、槍を手にされたら山県の勝ちだ。

「おいっ! クリツナ(仮)をどうやって走らせるんだっ!」

「ほ、本当に帰んのかっ」

「だから言っただろうっ! 早く逃げねえとおれは殺されるんだっ!」

「わ、わかった。旦那、あぶみから足を抜いてくれ。俺も跨る」

 鉢巻きに言われた通り足を抜くと、クリツナ(仮)を小走りに走らせるまま鉢巻きがおれの後ろにひょいっと跨ってきた。

「手綱は俺に取らせろ。旦那はクリの首にしがみついていてくれ」

 おれは手綱から手を離してクリツナ(仮)の背中に腹ばいになって首にしがみつく。

「絶対にクリの首から手を離すなよ、旦那」

「わ、わかったよっ。早くしろっ」

 おれの両脇から腕を伸ばして手綱を握った鉢巻きは鐙に足を入れるとクリツナ(仮)の腹を蹴飛ばした。

 すると――、

 げっ。

 途端にクリツナ(仮)が怒ったようにして鼻面をぶるぶると左右に振りながら前脚を高々と掻き上げてしまい、後ろ脚の二本足でほぼ直角に立ちながら、夜空に突き上げるような鳴りでいなないた。

 クリツナ(仮)のいななきを初めて聞いたのもさることながら、のんびり屋さんのクリツナ(仮)の変貌ぶりは、山県に襲われたとき以上の恐怖である。

 よだれをまき散らし、目も切れ上がってしまっていて、おれは振り落とされまいと必死でクリツナ(仮)にしがみつく。

 ドスン、と、前脚を下ろしたクリツナ(仮)は、狙いを定めた猛獣のように重心を低める。

 鉢巻きが手綱を振るいながら声を張り上げた。

「クリっ! 今日は満月だ! そこそこ走れんだろ!」

 鉢巻きの声を受けて、クリツナ(仮)はとんでもないスピードで駆け出した。

「お、おいっ!」

 月明かりがほんのりと差し込む山道に落っこちていくようにしてクリツナ(仮)は突っ込んでいき、

「ブレエェェキイイィィッ!」

 細い急カーブが迫ってきたら重心をかたむけてざざあっと突っ切っていき、

「やめろおおぉっ! 死ぬうぅっ!」

 あろうことか崖をジャンプした。

「バカ野郎オォッ!」

 浮いている、飛んでいる、こうこうと輝く満月に照らし出された甲府盆地が眼前に広がっている。

 おれは死を覚悟する。もはや息が止まる。武田に殺されるどころか、クリツナ(仮)に殺される。

 四本脚を折り曲げて空中に浮いていたクリツナ(仮)の馬体は、飲み込まれるようにしてすうっと木々と木々の間の地面に落ちていくと、土塊を噴き上げながらずざあっと着地した。

 んで、また、駆け出す。

 おれの心臓は口から吐いて飛び出てきそうなほどバクバクしている。

「やめろ……。死ぬ……」

「今更何を言ってんだよっ!」

「やめろお、クリツナ(仮)。頼むう」

 しかし、クリツナ(仮)はおれの訴えも無視し、むしろ楽しんでいるかのようにして危険な走りを連発するのだった。



 東の空から真ん中の空へと張り出ていく丸いお月様を背中にして、クリツナ(仮)は駆けに駆けた。追っ手なんて追ってこれないほどの素早さだった。

 甲府もすっかり夜闇の彼方へと消えてしまうところまで逃げてくると、クリツナ(仮)が足を緩め、小川の岸辺へと勝手に下りていくので、鉢巻きが下馬する。腰が腑抜けてしまっているおれは、岸辺の草の茂みに自ら落っこちた。

 ようやく自由になれたおれは、枯れ草の中に埋まりながら、げっそりとした眼差しで夜空をあおぐ。

 大の字のおれを覗き込むようにして、真っ白な月がなかぞらに張り付いている。

 思えば、吐く息が白い。クリツナ(仮)が温かかったので、寒さを初めて感じた。

 小川の水をぐびぐび舐めているクリツナ(仮)とともにねじり鉢巻きも手桶で水をすくっている。

 ふざけんな武田……。

 お月様が笑っているように見えるのは気のせいだろうか、くそったれの武田信玄のほくそ笑むハゲ頭に見えなくもない。

 使者を暗殺しようだなんてとんでもねえ。そもそもおれを買い被りすぎだろうが。そんなに臆病な武将だったのか、武田信玄ってのは。

 フン。そうやって伸し上がってきたってわけかい。何が日の本一の武田騎馬隊だ。ただの悪党じゃねえか。

 クソッタレ。絶対にぶっ殺してやる。

「旦那、とりあえず今日はどこかの森の中に隠れて夜明けを待つしかねえだろう。真夜中に峠越えはさすがに危ねえ」

 ということで、再びクリツナ(仮)にまたがると、今度は鉢巻きが口輪を取って小走りに移動した。

 人里離れた適当な森を見つけると、その中へと忍び込んでいき、クリツナ(仮)から下りて、骨を休める。

 寒い。鉢巻きが火打ち石を持っていたが、追っ手を放っていたとしたら見つかってしまうので火も焚けない。

 寝そべったクリツナ(仮)を枕にしているが、冷えた空気が突き刺さるようでいて、体が震える。

「鉢巻き。お前、寒くないのか」

「慣れてるよ」

 野性味をかもし出している鉢巻きは笑って見せたが、チックショウ、お先真っ暗だ。

 クリツナ(仮)をすっ飛ばしたところで岐阜まで三日はかかるはずだ。

 挙げ句の果てには帰り道は全部が武田領だ。尾張育ちの鉢巻きが甲州信州の裏道を知っているはずもねえ。

 メシだってどうするんだ。

 やっぱり、湯村山を飛び出してきたのは早まっただろうか。

 いや、どちらにしろ殺されていた。

 悪党武田は寝込みを襲うだなんて、どうせお手の物だ。

 とにかく、逃げるしかねえ。生き延びるには草食ってでも逃げるしかねえ。

 けれども、おれは寒さに何度も目が覚めて、むしろ目が覚めるとなかなか寝付けなかった。死ぬほど寒くて思わずクリツナ(仮)に抱きつく。震えが止まらん。

 夜明け前になってねじり鉢巻きが出立しようと促してきたが、頭がうんざりと重たくて、体中のふしぶしが軋むように痛い。

「駄目だ」

 と、おれはひっくり返った。

 風邪を引いてしまっている。お湯を浴びたまま寒い夜に飛び出、ノーふんどしのままクリツナ(仮)に跨っていたせいだ。

「おい、旦那、捕まると殺されちまうんだろ。しっかりしろ」

 鉢巻きは肩を揺さぶってくるが、気持ちを踏ん張ろうとさせても気力が湧かない。体が起きない。

「駄目だ、動けん」

 クリツナ(仮)が顔を覗き込んでくる。ぺろぺろと舐めてくる。おれは力なく笑いながらクリツナ(仮)の鼻を撫でる。

「鉢巻き、もうおれは駄目だ。動けねえ。もういい。クリツナ(仮)に跨って、お前だけでも岐阜に戻ってくれ。太郎によろしく伝えておいてくれ」

「旦那っ。そんなこと言ってんじゃねえよっ」

 木々のこずえの隙間から覗ける空はうっすらと水色だった。山に囲まれた分だけお日様の登場も遅くなるのだろう。空はすっかり明けている。

 この世は戦国時代だ。こんなふうに野垂れ死んでいく野郎は大勢いるのだろう。

 甘かったのかなあ、おれは。

 信長のおかげでなんとか七年はやって来られたけれど、結局はこんなにも呆気ないんだもんなあ。

 あのハゲダヌキといい、あのクソ三郎といい、鉄砲で蜂の巣にしてやりてえところだけれども、おれなんか、ホンモノに牙を剥かれたら何もできやしねえ。

「鉢巻き、太郎に伝えといてくれ。この仇、取ってくれって。武田をぶっ潰してくれってよ」

「しっかりしろよ」

「そや。しっかりせんと」

 鉢巻きが咄嗟に腰を上げた。クリツナ(仮)も首を持ち上げた。おれも死に損ないの体をかたむけた。

 声の主は木の枝に股引の足をぶら下げて座っている。

 鉢巻きが身構える。

「だ、誰だ、お前」

「忍びや」

 ひょいっと女は飛び下りてきた。

 ボサボサの髪の毛を後ろで一つに縛っており、綿の詰まった小袖を羽織って、裾はからげ上げていて、細身の股引足をあらわにしている。

 見覚えのある団子鼻――。

 にやにやと笑っていた。

「そうは言っても武田の忍びやあらへん。織田の忍びや」

 懐から巾着袋を取り出してき、それをねじり鉢巻きの足下に放り投げてきた。

 諏訪でおれを罵倒してきたおにゃの子。

「それ飲みや。しばらくすれば熱が引くで」

 さゆりんだった。


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