恋にむくわれない男
稲葉山城改め岐阜城に織田家の本拠地が移されると発表されたが、美濃斉藤方の残党狩りがある程度終息した途端、信長は小牧山に帰った。
岐阜城は建設途中である。
尾張や美濃中から大工や百姓がかき集められ、稲葉山の斜面から石を切り取ってきては、数十人で巨石を引っ張っていき、こっちでは大手門建造のために材木を大鋸で切っていけば、木槌を打っていく。
略奪暴行で滅茶苦茶にしてしまった山麓城下にも大工の威勢のいい声が鳴り響いており、労働者目当てに行商人も押しかけてきている。
そしておれは、ふざけたことに沓掛に戻れないでいる。
墨俣砦をうっかり築城してしまったことで、セミプロ土方の沓掛勢が土木作業に駆り出されているのである。
郊外の願福寺というところで寝泊まりしているおれは、苛立ちをおさえられない日々だ。
チヨタンにプロポーズするために沓掛に戻らなくちゃならねえってのに、おれは戦後復興作業のために身動きが取れない。
こっそり沓掛に戻るなんてお手のものなのだが、マリオに監視されてしまっている。行方不明事件のせいで、どこかに出かけるときはマリオにいちいち報告しなければいけなくなった。
「沓掛? なにゆえだ。今は一日も早く岐阜を整備しなくてはならんのだ。そんな暇はない」
沓掛に戻りたいと言ってもマリオに一蹴されてしまう。
挙げ句の果てには、信長は小牧山に帰る前日、おれを呼び出してこう言ったのだ。
「竹中半兵衛を俺のもとに参上させろ。それが出来るまでは木曽川を渡るな」
ぐぬぬ……。
半兵衛の菩提山に行っていただなんて言わなきゃよかった。クソが。サルにつづいて勲功第二ぐらいのおれなのに、なんなんだこの扱いは。
願福寺の住職とかいうクソ坊主もなんだかうるさいし。
「先のいくさで本堂は焼け落ちてしまい、鐘はいつのまにか奪い取られていき、宝物もことごとく略奪されてしまったのです。当寺の経典や仏像などは古くから伝わるものなのです。簗田様、お助けいただけないでしょうか」
「そんなの知るか。どうせ売っ払われて行方不明だろうが。寝泊まりしているからって、恩着せがましい真似すんじゃねえっ」
どいつもこいつも。
「ああいった言い方はないのでは」
と、太郎もうるさい。おれの身の回りの世話をするために沓掛から呼び寄せたのだが、呼ばなければよかった。
「それに沓掛勢が作業に従事しているのに、聞けば殿は一度も姿を見せていないというではありませんか。一体、殿はどちらに行かれているのです」
「黙れ! イエモンに任せているんだ! おれがいたところで何も変わらねえだろうが! お前も張り切って手伝ってさっさと工事を終わらせろ!」
太郎はぷいっと顔を背け、寺の離れのおれの居室から出て行く。
こっそりとあとを付けていく。太郎は寺から出ていき、稲葉山のほうに歩いていったので、足軽どもの手伝いに行ったに違いない。
おれは半纏を羽織るとこそこそと稲葉山に向かう。
沓掛勢は山の中腹の曲輪整備に勤しんでいるという話である。おれの用は山の中にはない。太郎や沓掛勢に見つかることはない。
大工普請の賑やかな音と行商人たちの張り上げる声を耳にしながら、目抜き通りをこそこそと歩いていき、やがて稲葉山のふもとにやって来る。
山のふもとには信長の居館が作られる予定で、材木の香りが漂っている。三層造りの骨組みを石塀がぐるりと囲っており、労働者たちが、残土を運び、植木を運ぶ中を、おれはこそこそと居館の下まで歩いてくる。
棟梁が材木の上に腰かけて、小袖の裾をからげて、ふんどし一枚、設計図と睨めっこしている。
「どうもッス、オカベさん」
声をかけると、おれと同じぐらいの齢の棟梁は、無精髭の顔を上げてきて、「ああ、簗田殿」と設計図をたたんだ。
「どうッスか、例のものは」
「うーん」
棟梁のオカベは腕を組んで顔をしかめてしまう。
「ヒノキで風呂桶を作るってのは、無理じゃねえけどさ、やっぱり、のちのち大変なんじゃねえんですか。湯を張るわけでしょ? ほんだら、そのうちカビだらけになるし、腐っちまいますよ」
「いや、いいんですって。そんときはまた作り直せばいいんだから」
「わしは沐浴小屋のほうがいいと思うんだけどなあ」
と、言って、棟梁はどっかに歩いていき、戻ってくると、おれの屋敷の設計図を持ってきた。設計図を地面の上に広げて、おれに顔を覗かせる。
「庭のここにさ、床上の小屋を建てるんですよ。ほんで、床下には竈を二台置くんですよ。ほんだら、小屋が蒸気で蒸されるでしょ。京の寺なんかにある沐浴小屋はたいがいこういう仕組みですよ」
ほほう、サウナのようなものらしい。
「じゃあ、それも作ってくださいよ。ただ、風呂桶も作ってくださいね」
「いやあ、まあ、銭をくれるんなら別に構わねえですけど、いいんですかい、織田様にお許しを貰っているんですかい?」
「かまないかまない。どうせわかりゃしないって」
「うーん。知らねえですよ。まあ、こっちの織田様のお館が出来てから、簗田様んところは手がけますんで」
「風呂桶もお願いしますね」
「でも、木で造った風呂桶を燃やすわけにはいかないでしょう。どうやって湯を張るんですか。釜のほうがいいと思うけどなあ」
「大丈夫大丈夫。そこは考えているッスから。頼みますね」
おれはオカベの両肩をマッサージしてやって愛想をふりまくと、信長居館建造地をあとにする。
居館建造地のすぐ近くは家臣たちの屋敷町である。
おれの屋敷予定地は真ん中ぐらいにある。やって来ると、すでに家大工どもが骨組みを建てており、おれは冠木門をくぐって風呂場の予定地に行く。
風呂場予定地には柱をまだ建てないように伝えている。おれは鍬を取って穴を掘っていく。
風呂桶を据え置く場所は一段低くする予定だ。
信長が本拠地を移すということで、尾張の小牧山、清洲に屋敷を置いているおれたち家臣も引っ越さなければならなくなった。
で、急ピッチで屋敷が建造されていっているわけだが、ナメたことに、おれたちの屋敷の設計を信長が勝手にやってしまった。おれたちの要望など一つも聞かずに勝手に工事を初めてしまったのだ。
不幸中の幸いだったのは、マリオが岐阜城建設の総監督になっているということだった。おれはマリオに屋敷の設計図を見せてもらったのである。
すると、あろうことか、風呂がなかったのだ。
風呂がなくてどうやって生活しろってんだ、信長のクソ野郎が。
ということで、おれは黙って設計を変えてしまっているのだが、しかし、どうせなら釜風呂ではなく檜風呂にしたかったわけだ。
直火で湯を沸かす釜風呂ってのは、ゆっくりと背中をもたせ掛けられないのである。熱くて触れられないのである。釜の底に板を置いて、背中を丸めているしかないのである。
デブのおれはなおさら狭いわけで、だったら檜風呂にしようと決断し、マリオと設計の打ち合わせをしていた棟梁のオカベにこっそりと相談した。
オカベは熱田宮お抱えのすごい大工らしいが、檜風呂を作りたいと言うと、職人の血が騒いだのか、興味津々で乗ってきた。
性格的に慎重肌っぽいので、責任を負いたくないのだろう、しぶしぶといった感じだが、なんだかんだで設計図まで書いちゃってくれているのである。
ある程度、台座が掘れたおれは、鋤で土をならしていき、昼メシどきになったので、行商人から餅とどぶろく酒を買ってくると、おれの屋敷を担当している大工や左官たちに振るまう。
口止め代わりである。他所の屋敷では屋敷主でさえ現れないというのに、簗田屋敷では酒が振る舞われるという噂を聞きつけ、作業員が一日につき一人は増えていき、完成度はおれの屋敷が屋敷町の中でいちばん早い。
ただし、信長の居館より先にできてしまうのはまずいので、あれこれと指図をしてやり直しをさせ、竣工をなんとなく遅らせている。やり直しに不満を持つ生意気な奴は勝手に他所の現場に行くので、プラマイゼロである。
大工や左官たちと昼メシを食ったあとは、稲葉山の搦手方面に向かう。
長良川沿いの掘っ建て小屋では門の蝶番などの製作で、銅を溶かしている。
鋳物造りを仕切っているのは岡本太郎右衛門という若い青年の武将で、こいつは鉄砲の自家生産を試みるため、信長に命令されて、鋳物造りを学んだそうだった。
おれが土下座をして頼み込んだら、沓掛城主パワーで、しぶしぶ、信長には内緒で、風呂釜製作を請け負ってくれたのである。
「こんな小さい釜では、簗田殿は入れませんよ。それにこれってなんですか。銚子の口みたいなのは。ここにもどうして取っ手穴を設けるんですか」
おれが書いた設計図片手にオカモトタロウは首をかしげっぱなしなので、おれは肩を叩いて、
「いいからいいから」
と、言った。
ちなみに、先日、釜を作るための銅を持ってきてくれとオカモトタロウに言われたので、沓掛勢と一緒にひそかに願福寺の鐘を外してき、彫られていた文字も証拠になってしまいそうな部分はあらかた叩き潰して、稲葉山の裏手の茂みに隠してある。
「あれってどこの銅鐘ですか? 罰が当たりますよ」
「あれは捨てられてたんだよ。いくさのどさくさで畑の真ん中に。たぶん、かっぱらった奴は重くて持っていけなかったんだろうな。仏様も畑の真ん中に捨てられているより、釜桶にしたほうがいいって言うに違いない」
オカモトタロウは顔をしかめながらもうなずく。
おれは鋳物造りを見学していき、こんなものが鉄砲造りの役に立つのかと疑問になりつつも、鋳物小屋をあとにする。
屋敷の完成が待ち遠しい。
天才的発想を成し遂げたおれの偉業には誰も気づいていない。
檜の浴槽を計画したおれであったが、棟梁オカベが言っていたように、檜の浴槽を直火で燃やすわけにはいかない。
なので、お湯を沸かす大釜が必要だったのだが、大釜で沸かしたお湯をいちいち汲んで檜風呂に運ぶのは面倒である。
やはり、檜の浴槽は無理かと思っていた矢先だった。
鋳物小屋のそばを流れる長良川を眺めていて、ふと思いついたのである。
水は高いところから低いところへと流れるわけだ。
ということで、おれは風呂釜湯沸かし式の檜風呂を発想したのだった。
風呂釜には銚子の口のような出っ張りを設け、取っ手穴には縄を通す。風呂釜を竈から浮かした状態で固定し、そして、滑車を通した縄を引けば風呂釜が傾くようにすればいいのだ。
一段下がっている浴槽には、風呂釜の口から木枠の道を通してお湯が注ぎ込まれるわけで、お湯がぬるくなったら縄を引くだけで焚きたてのお湯が浴槽に注がれる。
一応、念の為に浴槽の底には栓も設けており、庭へと続く下水道も完備するつもりだが、残り湯の大半は、洗濯や掃除、クリツナ(仮)を洗車するときに使えばいい。
おれは天才だ。
そして幸運である。岐阜城には尾張美濃の建築作業員がかき集められているのである。何か不足があればその辺にいるものづくり名人に助けてもらえばいいのだ。
願福寺に戻ってくると、薪割りに精を出す。薪がなければ風呂は焚けねえ。
トンデモ戦国時代の野蛮人たちとは違い、綺麗好きのおれは毎日風呂に入るつもりである。割っても割っても無駄にはならないはずである。
チヨタンも大喜びに違いない。フヒヒ。チヨタンとお風呂で背中の洗い流しっこ。それどころか風呂桶は大人三人ぐらいが浸かることのできる大きさである。
まいったなあ。お風呂に一緒に入るだなんてまいっちゃうよなあ。
とはいえ、問題が二つある。薪割りが重労働すぎるのと、風呂製作のために棟梁オカベに支払わなくちゃいけないカネだ。
薪割り要員は奉公人を雇えばいい話だが、建造費の捻出はなかなか困ったものである。サウナ部屋まで造っちまうことになった。
風呂桶だけでも五十貫文ぐらいかな、と、オカベがちらっと言っていたので、サウナ部屋を建てるとなると百五十は必要だろう。
どちらにしろ、沓掛城のどこかには眠っているはずなんだ。カネがないというわけではない。城のどこかにはあるんだ。
沓掛城主になって七年、城下は発展しているし、所領の実高は上がっている。百人いた足軽を急遽百七十人に増やしてもやっていけているし、薪代うんぬんと言ってケチなマリオのことである、どこかに必ず貯蓄してある。
沓掛城の隠し財産をどうやって暴くかだが、マリオは口を割らないだろう。だったら、どうやってマリオを騙して百五十貫文を沓掛銀行の口座から引き出すかだ。
何かいい口実はないものか。
夕飯を食ったあとも、おれは寺の離れの居室にこもって、机の上に風呂場の設計図を広げながらも、カネの騙し取り方を考える。
何かないかな……。何か必要そうで必要ないものを買いたいっていうふうにして。
必要そうで必要ないもの。
おれの甲冑――。
駄目だな。気を利かせて用意してくれなかったケチマリオのことだ。綱鎧でいいだろうと言うに違いない。それに甲冑は風呂場の次に必要なのものだ。必要ないものではない。
仏像――。
仏像ってピンキリだろうから駄目だな。鋳物仕立ての仏像ならそこそこするかもしれないが、木彫りの仏像だってあるんだもんな。
鋳物……?
そういや、オカモトタロウは鉄砲の自家生産を試すために鋳物を勉強したって言ってた。
鉄砲自体は作るのが難しいので大量生産できないそうだが、鉄砲ってのはマリオを騙すにはいい手かもしれない。
高いらしいからな。いくらなのか知らないが。
沓掛勢に鉄砲隊を作りたいと言って説得すれば、マリオも二百貫文ぐらいは出してくれるかもしれん。マリオが許してくれなかったら、信長に直訴しよう。買わせてくれって。信長は長篠の戦いで大量の鉄砲を用意するんだろうから、絶対に許してくれるはずだ。
で、二百貫を騙し取り、余った五十貫で武器と防具をゲット。
ククッ。天下布武を目前におれの頭は冴え渡っているぜ。
というわけで、明日にでもマリオにお願いすることにし、にやにやと笑いながら風呂場の設計図を眺める。やっぱり下水道は裏庭に回したほうがいいな。裏庭には馬屋があるからクリツナ(仮)を洗車するためにはそっちのほうがいいだろう。
「殿」
戸の向こうから太郎の声がして、おれはあわてて風呂場の設計図を折りたたみ、漢語が並んだ難しい書物の間に挟み込む。
「なんだい?」
「祖父江殿がお話しがあると言っております」
ソフエがおれに話したいこと?
珍しいな。さてはイエモンが嫌になったから直臣にしてくれってことかな?
おれは戸を開けると、太郎のあとに付いていく。
離れの縁側の庭先には灯籠の明かりが照らされており、祖父江はそこに平伏していた。
「どうした。そんな仰々しい真似をして」
と、おれは縁側にあぐらをかいて座り、祖父江が「ははっ」と顔を伏せるので、おれは眉をしかめた。
なんだ、急に。
「や、夜分にお呼び立てしてしまい、申し訳ございませんっ」
「別に構わないけど。何?」
「こ、このたびのいくさにおかれましてはっ、す、墨俣築城に西美濃三人衆の寝返りと、簗田様の功績は、て、天下に響き渡ると思われる所存でございましてっ、く、沓掛城に明智庄の女子供をかくまうという寛大なお心も――」
「おいっ」
おれはイライラしてきたので、語気を荒らげる。
「何が言いてえんだ。そんなくだらねえ口上を述べるためにおれを呼んだのか。用件をさっさと言えやっ」
「も、申し訳ありませぬ」
で、ソフエは頭を垂らして黙ってしまう。
おれはせかせかと膝を揺らす。ソフエは嫌いじゃねえが、おれにはやることがあるんだ。風呂場の設計を見なおさなくちゃいけねえんだ。
「祖父江殿」
おれの苛立ちを察して太郎が言うと、「ははっ」と、ソフエはさらに頭を下げて、言った。
「こ、こ、このたびっ、まことに、まことに勝手ながらでありますがっ、拙者が主人の山内伊右衛門が木下藤吉郎様の直臣になりたいと申しておりましてっ。す、すでにっ、伊右衛門は木下殿から了承を――」
「なんだとっ!」
おれはブチ切れて腰を上げる。アケチソードに手をかける。
「なんだそれっ! 別にイエモンが藤吉郎殿の手下になりてえんだったらそれはそれで構わねえけどなっ。なんなんだそのスジの通し方はっ! おれにまず話をするのがスジってもんじゃねえのかっ! イエモンはおれをナメてんのかっ!」
「申し訳ありませぬっ! せ、拙者も、つい先日に知ったばかりでっ」
「イエモンを連れて来いっ!」
「そ、それがっ、伊右衛門は、きっと簗田様が激昂されるからと言って、い、いやっ、その、体調を崩してしまいまして」
「ふっざけやがって。テメーら、おれの録を七年も食んできたんじゃねえのかっ! なんなんだ、それはっ! テメーらのその不義理はおやかた様に訴えてやるからなっ! 覚悟しておけっ!」
「そ、それだけはご勘弁をっ。木下様からも丸くおさめろと言いつけられて――」
「だったら、藤吉郎殿を呼んでこいやっ!」
「そ、それが、木下様も、その、体調を――」
「嘘こけっ! あの野生児が体調なんか崩すわけねえだろうがっ! なんで藤吉郎殿まで仮病を使ってんだっ! ふざけんじゃねえっ! おれは絶対に許さねえからなっ! 明日、小牧山に直行してやるっ! 首を洗って待ってろっ!」
話にもならなくて、おれは居室に戻っていこうとしたが、ソフエがおれの足に飛びついてくる。
「ご勘弁くださいっ! 拙者も、拙者も、不義理を立てていると承知しておりますがっ、ここだけはっ、ここだけはっ。伊右衛門も嫁を娶ったばかりなので――」
「あっ」
と、太郎が声を漏らした。
おれは眉をしかめる。
太郎を見つめる。
生意気太郎がもじもじとうつむいてしまう。
「なんだよ。おい。伊右衛門が嫁を娶っただと? なんだ、それ。おい。太郎。あっ、ってなんだよ、おい」
太郎とソフエは固まってしまっており、灯籠の明かりだけが静かに揺らめいている。
おれはわなわなと震え出した。
「まさか……、チヨタンじゃねえだろうな……、おい……」
太郎とソフエは見つめても視線を逸らしてしまい、何も答えない。
おれは、何かが崩れていく音を聞いた。胸の扉がパカっと開いて、そこから何かが崩れ出ていく音を聞いた。
それはたぶん、夢だろうな。うん。夢だ。夢が崩れていく。
「ぶっ殺してやるっ!」
おれはアケチソードを鞘から抜いて、ソフエの頭を蹴飛ばすと、縁側に飛び降りた。
「殿おっ!」
と、太郎が腰にしがみついてきて、
「おやめくださいっ! そんなことをしても何も始まりませんっ! おやめくださいっ!」
「うるせえっ! 離せっ! ぶっ殺してやる、あのクソガキっ!」
「そんなことをすればおやかた様に咎められるのは殿ですっ! 前田様のように浪人になってしまいますっ!」
「うるせえっ! 離せっ!」
「千代殿は伊右衛門殿のものになったのですっ! 何もなりませんっ!」
おれはぴたりと止まった。
チヨタンがイエモンのもの――?
なんだそれ。
なんだその残酷。
どこの国の言葉だよ。
嘘だろ?
え?
嘘だろう?
「太郎。おい。なんだよ、それ」
太郎はぎゅうっとおれの腰に巻きつき、顔も背中に埋めてきて、何も答えない。
おれは右手のアケチソードをポトッと落としてしまう。
「申し訳ございませぬ。申し訳ございませぬ」
ソフエがおれの前で土下座して、泣きながら頭をこすりつけていた。
夢なんて見るもんじゃない。夢なんて結局は幻だ。現実になることのない幻だ。
ソフエを帰らせて、おれは居室で呆然自失だった。
「殿や拙者が行方知らずのあいだ、伊右衛門殿と千代殿はそういう仲になったそうで」
太郎も今朝方、ソフエに相談を受けて、そういう忌々しい現実を初めて知ったようだった。
だから、チヨタンはよそよそしくて、イエモンは更生したのか?
だったら、おれが行方不明になっていなかったら、そうじゃなかったんじゃないのか?
「拙者は伊右衛門殿にきちんと自らが殿にお話しするよう――」
「もういい。聞きたくない」
忌々しすぎる。イエモンという言葉やチヨタンという言葉が忌々しすぎる。耳の穴の中に粘土を埋められるかのようにして言霊が忌々しすぎる。
おれは一体何をやっていたんだ?
哀れなピエロとはおれのことじゃねえか。
何をムキになって頑張っていたんだ?
菩提山で辛抱して、必死こいて築城して、結局なんだ、この結末は。
くだらなすぎる。ひどすぎる。何もかもが残酷すぎる。
サルまで逃げて、なんなんだ、いったい。
どうせおれはキモオタってことかい。
何をしようと失恋ばっかりってことかい。
でも、おれはこれっぽちも悪いことなんてしていないじゃないか。むしろ、頑張ったじゃないか。それなのにいっつも理不尽な目に合う。いっつも裏切られる。
どうして?
おれ、頑張ったじゃん。
「殿。拙者も許せません。許せませんが、ここはこらえて、もう一度、一から」
生意気小僧の太郎が殊勝な表情で唇をむすんでいるので、おれはボロボロと泣いてしまった。太郎の前にも関わらず、突っ伏して泣いてしまった。
「殿、頑張りましょう。拙者も頑張ります」
なんだか、昔にもこんなことがあった気がする。
なんだか、いつまで経ってもおれはおれのような気がする。
殿、殿、と、太郎に揺さぶられながら、おれの心はズタズタだった。




