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ふりてんつもる(前編)  作者: ぱじゃまくんくん夫
第四章 美濃騒動戦
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天才とニートは紙一重

「簗田さん。簗田さん。起きて。簗田さん」

 うーん。なんだよ。誰だよ。おれを起こしに来るだなんて。

 おれはもうちょっとピザとコーラを食べ飲みしている夢が見たいんだ。

「もう。起きないとこうしちゃうゾ」

 ふうっ、と、吐息の音がしたと思ったら、耳の穴の中がエロスの風にさわさわと撫で回された。

 ビクッとして起き上がると、いたずらっ子のチヨタンが笑窪を作っておれを見つめてきている。

「おはよ。ふふ」

 ときめきの衝撃がぞくぞくっと背すじに立ち昇ってきたと同時に胸がぎゅうっと絞られて、おれのやさぐれた心が炭酸のように弾けて溶けていく――。

 長いまつ毛につぶらな瞳を覆いかぶせて、まるでチヨタンは恋人のようなほほ笑み。戸は開け放たれていて、朝雀のささやきと明るい群青色がこもれてきている。

 薄暗さの中でも黒黒としなやかに流れているチヨタンの髪、つやづやとなめらかなチヨタンの肌、黄色い小袖に締められた襟から覗くチヨタンの首元、胸の膨らみ――。

 あかんっ、チンコがっ。

「早起きは三文の得ですよ。はい、起きて起きて」

 チヨタンはおれの腕をむぎゅっと抱きかかえてきて、いやっ、おれを引っ張り起こしてきて、いやっ、そのまま部屋から連れ出していくのだけど、いやっ、ふんどしの下がっ、大変なことにっ。

 ふわふわおっぱいが当たっているしっ。

「ほらあ。太郎ちゃんは稽古してるよー」

 と、チヨタンの言うとおり、片肌脱いだ太郎が棍棒を振り回しているのだけれど、おれはそれどころじゃない。

「ち、チヨタン、ちょっと、離してくれないかな。さすがに、ね、城内では」

「あっ。ごめんなさいっ」

 チヨタンは即座に腕を離すと、唇をきゅっと結びながらもじもじとうつむく。

「いや、いいんだけどさ」とおれは言いつつ、前かがみになってふんどしの出っ張りをごまかしながら、縁側から草履を履いて庭に下りる。

 太郎が棍棒の手を止めて、シラーッと振り向いてきている。

「どうされたんですか」

 前かがみのおれに疑いの眼差し。

「いや、ちょっとな、大人の事情で」

「はあ。左様でございますか」

 太郎は侮蔑の視線を正面に戻すと、棍棒を振り回し始める。

 十三歳なんだからわかるくせに!

 と、思っていたら、チヨタンが縁側からいつのまにかいなくなっていて、すっかり目が覚めてしまったおれは仕方なしに裏庭に回って井戸水を手桶ですくって顔を洗う。

 それにしたってチヨタンったらやけに早起きだ。まだ、空には夜の青さが残っていて、お日様は昇ってきていない。

 でも、毎朝あんなふうに目覚まししてくれるんなら、それこそ早起きは三文の得かな。

 マジで恋人じゃん。フヒヒ。

 ああ、朝って素晴らしい。人生って素晴らしい。詐欺師にはさんざんっぱらひどい目に合わされてきたけど、今回ばかりは感謝しないとな。おサルの神様に。

 庭先に戻ってきたら、チヨタンが縁側から下りてきていて、木刀を両手に抱えながら太郎と何事かを話している。

「太郎ちゃんはいつも一人で稽古しているの?」

「千代さん。その呼び方はやめてもらえませんか。それと殿にべたべたと色目を使うのもやめてください。無礼ですし、殿はおなごに繊細なのです。やめてください」

「色目なんて使ってないじゃーん」

 まったく。あのガキ。おなごに繊細ってなんのことを言っているんだ? ん? 忌々しいことを思い出させるんじゃねえ。なんでフラれる前提なんだ。

 だいたい、いつの日だか言っていたじゃねえか。一に健康、二に器量、三四がなくて、五に笑顔って。まさしくチヨタンじゃねえか。

「何を持っているのです。それはどこから持ち出してきたのです」

「これは簗田さんのぶん。太郎ちゃん、簗田さんに稽古つけてもらえばいいじゃん?」

「なにゆえさん付けなのです。無礼にもほどがあります」

 ぷいっと太郎はチヨタンから顔をそむけて、ポニーテールを揺らしながら棍棒を振り下ろす。

「あっ、簗田さーん」

 やべっ。見つかっちまった。チヨタンは駆け寄ってきて、おれに木刀を押し付けてくる。

「一緒に稽古しなよ!」

「う、うーん、そうだね……」

 面倒だな。どうしておれが稽古なんかしなくちゃならねえのかな。チヨタンはどうしておれに稽古をさせるのかな。

 仕方なしに素振り。

 太郎が振り返ってきてじいっとおれを見つめてくる。

「なんだよ。何か言いたそうな顔しやがって」

「いえ」

 そう言って、太郎はビュッと棍棒を振り下ろす。おれに振り向いてくる。チッ。おれだってマタザに鍛えられた男だ。木刀を振り下ろす。

 ビュッが出ない。

「おい、ちょっと交換しろ。おれはそもそも槍のヤナダなんだ。長いほうが得意なんだからな」

 木刀と棍棒を交換する。むっ。ちょっと重いな。なんだこれ。何が仕込まれてんだ。太郎は小僧のくせにこんなのを振り回しているのか。

 振り下ろしてみる。

 無音。

「やっぱり棒は使いづらくて駄目だ。交換しろ」

 で、太郎が棍棒を振り回しているものだから、おれも負けじと木刀を振り回す。

 縁側に座りながら、チヨタンが両手に顎を乗せてにこにこと眺めてきている。

 チヨタンが見ているし、太郎がいつまで経ってもやめないしで、おれもやめられない。汗がだらだらとこめかみを伝う。太郎が突いたり振り抜いたり、目尻を切り結んで汗を飛ばしている。

 さっさとやめろ、このクソガキ。

「せっかくだから手合わせしたら?」

 と、チヨタンが言うので、おれは思わず顔をしかめてしまう。チヨタンはいったいなんなんだよ。どうしておれに鍛錬なんかさせるんだよ。

「いや――」

 と、おれは肩で息をつき、呼吸が整わない。半纏の袖で顔中の汗をごしごしと拭き取る。

 太郎がじいっと見上げてくるので、おれは笑う。

「いや――」

「せっかくなので、殿、お願いします。殿とは手を合わさせてもらったことがないので」

「おい――」

 ハアハアと言葉が続かないので、おれは手を上げて太郎を止めようとするが、太郎のバカは何を考えているんだか、棍棒を握りしめて構えてくる。

 この野郎……。

 カチンと来て、おれは木刀を構える。もしかしたらおれを倒せるとでも思っているのか。おれは前田又左衛門流の門弟にして、桶狭間でオジャマロと死闘を繰り広げた勲功第一の簗田牛太郎だぞ。

 腰を低めて棍棒を構えてくる太郎に対し、正眼に構えたおれは呼吸を整えていき、そして、フーッ、と、息を細長く吐き出していく。

 ちゅんちゅんと朝雀が館の屋根から飛び立っていく。

 覗いてきた朝日を受けて、流れる薄雲は赤紫色ににじむ。

 ゴンッ。

「と、殿っ!」

 おれは側頭部をおさえながら両膝をついて悶絶。殿、殿、と、太郎が棍棒を捨てておれを介抱してくるが、声が出ない。痛すぎて声がでない。痛すぎてゲロ吐きそう。

「簗田さん! 大丈夫っ?」

 チヨタンが草履をぺたぺた鳴らして駆け寄ってき、おれの肩に手を置いてくるが、このクソアマ……。こいつが余計なことを言わなきゃ。

「申し訳ございませんっ。てっきり殿が受け払ってくれるとっ」

 おれは顔を歪めながらも手加減を知らねえ太郎をにらむ。つーか、ものすごく速かった。つーか、棍棒が急に長くなったような気がした。

 このガキ、めちゃくちゃ強え。マタザ師匠並みじゃねえか。



 ぶん殴られたところが痛くておれは居室で寝転がる。たんこぶを冷ます水手ぬぐいを太郎に交換させる。太郎の両膝に目線を置いて説教する。ああいうのは不意打ちだと。ご主人様に不意打ちとはどういうつもりなのだと。もうしたくなったと。稽古なんてしたくなくなったと。

「申し訳ございません」

 太郎は顔を肩をすぼめて正座しているが、おれの怒りはおさまらない。そもそも普段の態度がなってないんじゃないかと。バカにしているんじゃないかと。ご主人様のおれが白と言えば白だし、黒と言えば黒なのだと。それが主従関係じゃないかと。

「申し訳ございません」

「朝御飯持ってきましたよー」

 チッ。説教の途中だっていうのにクソアマが図々しく入ってきやがる。メシなんて食う気分じゃねえってんだ。それなのにクソアマはおれの目の前に朝膳を置くわけだ。コメに、チンケな川魚を焼いたのが三匹、大根や茄子の煮付け、山菜の貧乏味噌汁、お慰みのように添えられた梅干し。

 城主だってのに。

「どうしたの太郎ちゃん、そんなにおとなしくして。太郎ちゃんのご飯も広間にあるよ。みんなで一緒に食べてきなよ」

「いや、拙者は殿のお世話が」

「だいじょぶだいじょぶ。私が代わってあげるから。はいはい食べた食べた。ほらっ、お吸い物が冷めちゃうから」

 太郎の野郎、クソアマに無理やり押し出された格好を装って逃げやがった。

 で、クソアマはおれの枕元に戻ってきて首をかしげて眺めてくる。チッ。さっさと帰れ顔も見たくねえ。

「痛い?」

 おれは瞼をつむって無視。本当は顔を背けたいけれど、たんこぶが痛いので寝返りは打てず。

 すると――、えっ? ほっぺたにすべすべした手が置かれて、瞼を開けばチヨタンの小袖に覆われた両膝が目の前にあるわけで。

「簗田さんの頬、熱い。ふふ」

 ああー。チヨタンが右手で優しくふわふわとほっぺたを揉んできて、ぐぬぬ、またクソアマペースに持っていかれそう。

「そんな怖い顔してちゃ治るものも治りませんよ」

 ふふ、と、チヨタンは笑ってきて、おれはにやにやとしてしまう。

「しょうがないナ。私が食べさせてあげますネ。はい、あーん」

 口元に湯気の立つコメを箸で添えられて、おれは、あーん。もぐもぐと咀嚼しながら、このうえない幸福を感じる。

「お魚食べる?」

「うん」

 と、おれがうなずくと、チヨタンはにこにこ笑いながら焼き魚を箸でほぐしていき、あーん。もぐもぐ。ああ、今まで食べた魚の中でいちばんうまい。

「簗田さん、私ね」

 チヨタンはおれに食事を運んできながら言う。

「やっぱり殿方には強くなってもらいたいの。いくさ場で死んでほしくないの。だからね、強くなってもらいたいの」

 チヨタンはほぐした大根をふうふうすると、おれの口に運んでくる。ああ、チヨタンの息がかかった大根を、おれは今、食べちゃっている。

「特に簗田さんはご城主様だから、いくさ場だと常に狙われるでしょ」

「うん。そうだね」

「私、一人ぽっちはやだな」

「えっ?」

 チヨタンは箸を止めており、物憂げな視線を膳の上に据えている。

「やだ」

 と、一言、つぶやく。

「はい。あーん」

 おれはもぐもぐと食べながら、呆気に取られてチヨタンを見つめる。チヨタンはにこって笑ってくる。

「好きな人には強くなってもらいたいな」

 おれは水手ぬぐいを剥ぎ取る。がばりと起き上がる。チヨタンに膝を進み出して、驚いて目を丸めているチヨタンの両手を握りしめる。

「おれ、強くなるよ。絶対にチヨタンを一人ぼっちにさせないよ」

「ほんと?」

「ああ。だからこの沓掛に、俺のところに――」

 すると、チヨタンはおれの口の前に人さし指を立ててきて、それをちょいっと唇に触れさせてきた。

「やだ。聞きたくない。織田様と刑部様のいくさが終わるまでは」

 人さし指を添えたまま、チヨタンは切れ長の目尻を細め、うらうらと緩んだ瞳をおれに寄せてくる。

「ね?」

「う、うん」

「お仕事頑張って。でも危ない真似はしないでネ」

「うん」

「自分で食べられます?」

「うん」

 おれはチヨタンに箸を手渡され、心臓が訳のわからない鼓動を打つまま、震える手つきで茶碗を手に取る。チヨタンはにこにこと微笑むまま、おれのかたわらに座っている。

 おれはメシをがっつく。訳のわからない感情に襲われながらメシをがっつく。

「私ね、思うんだ。簗田さんには頑張ってもらいたいって。誰よりも」

 おれは咀嚼を止めて、川魚の尾ひれを口から出したままチヨタンを見やった。

「頑張って、簗田さん」

「はいっ」

 チヨタンは腰を上げるとおれに手を振って居室から出ていった。

 おれは茶碗を置く。おれに食われようとしている焼かれた川魚を見つめる。

 苦節三十一年、おれはついに……。

 再びコメをかきこみながら、おれは思う。おれは決心する。さっさとこのいくさを終わらせなければならねえ。さっさとタツオキを殺すしかねえ。信長がとろとろしているんだったら、おれの手で終わらせてやる。

 だって、おれだったら出来る。

 歴史を知っているおれだったら出来る。

 チヨタンを奥さんに出来る。




 虎穴に入らずんば虎児を得ずと言う。

 斉藤方の懐に潜り込まなければ勝利は得られねえ。

 勝利のキーマンは竹中半兵衛だ。竹中半兵衛を織田方に引き入れれば織田は勝てる。天才軍師の才能でいくさを百戦百勝にさせるというのもあるが、稲葉山城を一夜で乗っ取った男だ、斉藤方の弱点を熟知しているはず。

 そんな男が織田方の軍師になれば、美濃は一気にひっくり返る。

 それに、竹中半兵衛が織田の家臣になるのは歴史が証明ずみだ。竹中半兵衛と言えば秀吉の片腕として有名になった奴なのだ。

 木下藤吉郎というサルが豊臣秀吉になるのかどうか、いまいち自信がないが……。

 とにもかくにも、おれはたんこぶが引くと、早々に沓掛を発った。

 竹中半兵衛が織田方になれば、いくさは一瞬で終わるのだから。

 ソフエに調べさせたところ、竹中半兵衛が引きこもっている菩提山とやらは大垣を越えた、さらに西美濃の奥深くなので、護衛のために太郎を連れていく。

 馬も一頭連れていく。サルが西美濃に行くときやっているのだが、敵地奥深くに入るので、行商隊を装う。隊と言っても二人しかいないんだが。

 馬の背中には油桶を担がせている。で、おれの懐には離宮八幡宮とかいう京都の神社の朱印状が入っている。

 サルに貰った。万が一のときは、これでオオヤマザキアブラザとかいう組合の商人を演じるらしい。油の組合だのと意味がわからなければ、サルはこれをどこで手に入れたのか不明だ。まあ、あいつは詐欺師だからな。

 馬は沓掛城の馬屋にいた、あの忌々しい栗毛に銀髪の馬である。子供の太郎の手でも言うことを聞いているが、おれを背負うと振り落とすというクソ駄馬である。

「この馬、今年の春に仔を産んだのですよ。腹の中には弟がいるはずです」

「あっそ」

 妊婦を連れ回すとはどうかしているし、産まれた仔馬をみんなで育てていると太郎は嬉しそうに話しているが、どうでもいいわ。どうせ駄馬だ。馬刺しにしておれの胃袋におさめたほうがまだマシだ。

 東海道を上っていく。西美濃の菩提山は遠いが、敵地に宿泊したくないので、木曽川を渡る前に一泊する。

 翌日は夜明け前に出発する。夏だから日は長い。日が長いのはいいことだ。夜になると真っ暗でマジでわからなくなるからな。

 日差しが強いし、じめじめしているしで、そこは勘弁してもらいたいところだが、四の五の言ってられん。

 途中、斉藤方の検問があったが、朱印状を見せて難なく通過できた。

 サルの話だと、おれとかサルには人相に現れていないらしい。どういうことかと訊ねたら、人を斬り殺したことがある人間は、どんなに変装しても人相に殺気が出てしまうそうだ。

 だから、おれやサルは疑われないのだと。

 サルには詐欺師の人相は出ているけどな。

 菩提山は西美濃の不破郡というところにある。美濃国と近江国の境目に近く、濃尾平野の端っこだ。街道沿いに広大に渡っていた田園風景も、不破郡に来ると連なる山々にすぼまっていき、平野は閉じ込められていく。

 菩提山はその山の一つ。

 どれなのかわからないので、おれは野良仕事をしているババアに訊ねる。教えられた山に入ったときには日も暮れかかっていた。

 山道を登りながらさすがに緊張してくる。ふらふらと出歩いているらしき竹中半兵衛が、まず、在宅しているのかどうか。本当は手紙を送ったほうが良かったんじゃないかと後悔もする。

 いや、信長の手紙さえ無視している野郎だ。直談判しないと駄目だ。

 うーん。襲撃されたらどうしよう……。

 いやいや、大丈夫なはず。明智庄で鉢合わせになったときの、あの声の感じだと、有無も言わずに槍をびゅんびゅん振り回すような野蛮人じゃない。マタザやウザノスケのようなバカじゃない。

 ストーカーっぽいからちょっと嫌なんだが。

 てか、山を登ったところでどうすればいいんだ。

 と、そこへ、森の中でがさがさと音がし、ビビッて立ち止まって目を凝らしてみると、薄暗闇の中でほっかむりを被った奴が立っている。なんだ、山菜取りの百姓っぽい。

「あ、すいません。油売りの者なんスけど、竹中半兵衛さんの家ってこっちでいいんスかね?」

「油? 拙者は頼んでおりませんよ」

 や、やべ……、この声は。

 百姓姿の若者はほっかむりを外しながらがさがさとこちらに歩み寄ってくる。

「ははあ。どこの間者かと思えば、その巨体は織田の簗田牛太郎殿ですか。拙者などに何用でしょう」

 おれは苦笑を浮かべながらへこへこと頭を下げ、太郎は噂の竹中半兵衛が目の前にいるとあってカチコチに直立不動。

 こめかみのほつれを耳の上にかき分けて直しながら、竹中半兵衛は二重の細目の瞼を緩め、女のような笑みを浮かべている優男だった。




 菩提山のてっぺんに竹中家の館があるらしいが、当主であるはずの半兵衛は中腹の林の中に小さいいおりを立てて住んでいるそうだ。

「弟や女房がいるので、一人になりたいと思い、毎日をここで暮らしています」

 にこにこしながら言うけれど、完全にニート。しかも女房持ちで引きこもっているだなんて、どうしようもねえ野郎だ。

 小姓の太郎は駄馬とともに外で待たせ、庵の中に上がったのだが、おいおい、部屋には物が散乱していて、典型的なニート。

 ぶん投げられているのは書物とか手紙とかだけではない。服は脱ぎ散らかしている。茶碗は転がっている。筆は落ちている。挙げ句の果てにはそれらを足でガサアって除けるだけでスペースを作り、「どうぞ、お座りくだされ」と笑顔で促す始末。

 なるほど、天才とニートは紙一重だ。

「しかし、押しかけてくるとは思いませなんだ。上総介の伝言でも持ってこられたのですか?」

 竹中半兵衛というニート君はそう言いながら火打ち石を打って囲炉裏を燃やしたのだけれども、そこに放ったらかしにされていた鉄瓶をそのまま置いた。

 ま、まさか、その中身をおれに飲ませる気なんじゃねえだろうな。

「い、いやっ、上総介の伝言とかではなくて、あっしが勝手に」

「勝手に? まあ、拙者に織田の扶持を食めと言いに来たのでしょう?」

「まあ、そんなところッス」

「それはさすがになりませんね」

 苦笑しながらニート君は書物をがさがさとかき分けていって、湯のみ茶碗を見つけ出してくる。笑みを浮かべたまま湯のみ茶碗を眺めている。んで、きれいな指先でふちをぬぐっておれの前に置いてくる。

 いや……、ちょっと……。

「そんなことより、拙者は簗田殿のお話しを耳にしたことがありまして、いろいろと訊きたいことがあるのです」

「あっしにですか?」

「ええ。なんでも上総介に桶狭間の奇襲を進言したのは簗田殿だと」

「ま、まあ、そうッスね」

「拙者はそれについて常々疑問を抱いてきたのですが、なにゆえ上総介は簗田殿の発言に耳をかたむけたのでしょう」

「う、うーん。まあ、うちのおやかた様はわりと聞くほうッスかね。だから、半兵衛殿の進言も聞いてくれるとは思います」

「まことでございますか?」

「ええ。本当ッスよ。現に浪人風情だったあっしの言葉に耳を貸してくれたんで、桶狭間ではああいう結果になったんスから」

「拙者は妙な噂を聞きましてね。簗田殿が上総介と初めて会ったとき、清洲の玉野川で自らは後世から来た者だと言ったとか」

「そ、それは、おやかた様に取り入るための戯れ言で」

「なるほど」

 ニート君は微笑を浮かべながらうなずくが、なんかやばい。こいつ、どうしてそんなことまで知っているんだろう。六年も前の話だ。沓掛城主になってからは、たまに信長が法螺吹きと冗談めいて言ってくるだけで、あのときを蒸し返してくる奴なんかは尾張の人間でもなかなかいねえ。

 ピーッ、と、鉄瓶が鳴って、ニート君は手ぬぐいで持ち手を抑えつつ瓶を取った。で、やっぱり、おれの手元の湯のみに白湯を注いでくる。ちょっと待ってくれよ。腹でもくだしそうなんだが。

「例えば――」

 と、言いながら、ニート君は自分の湯のみ茶碗に白湯を注いでいく。

「簗田殿は今後、この乱世がどうなると思われますか?」

「いやあ、どうなるって言われても、どうなるんスかね」

 欠けた湯のみ茶碗を口元に運んでいき、ふうふうと息で冷ましながらニート君はおれを見つめてくる。

「実は知っていますでしょう」

「はいっ? 何を言ってんスかっ?」

 ニート君は口許を歪めるようにして緩め、白湯をずずっとすすった。

 おれも仕方なしに覚悟を決めて湯のみ茶碗を手にする。なるたけ縁には唇をつけないようにして白湯をすする。

「桶狭間はあまりにもうまくできています。上総介が策を張り巡らせ、そこへいざなったのもありますが、しかし、それは、今川治部が桶狭間に腰を下ろすという確約がなければ、あのような真似はできませぬ。治部が桶狭間に着陣するというのは、いくさが始まる前からすると、これは確実性の薄い博打です」

 何を言っているのかよくわからねえが、ニート君がおれを疑っているのは間違いない。

「もし、治部が桶狭間に着陣しなかった場合、どうする気だったのですか。あのとき、視界を遮るほどの雨が降らなければ、治部はそのまま桶狭間を抜けたか、あるいは桶狭間の山に着陣したはずです」

 軍師だけあって、このニート野郎は戦争オタクなんだな。桶狭間の成り行きにすごい詳しいし。ふらふら歩いているついでに桶狭間めぐりでもしたに違いない。

 てか、まずい。訳のわからねえところをめちゃめちゃ突っ込んでくる。

「天候によっていくさの流れは左右されます。簗田殿は進言した以上、当然ながら雨が降らなかった場合を上総介に語ったのでしょう?」

「そ、そうッスね」

「どうするつもりだったのです?」

「うーん。それは秘密で」

「そんなものはいらなかった。後世の確約があったから。違いますか?」

 おれは無視して湯のみをすする。竹中半兵衛を説得しに来たはずが、おれが逆に攻め立てられているという有り様である。

 しかし、ニート君はふふんと笑い、腰を上げる。

「語りたくないのであれば、そういうことにしておきましょう。今晩は泊まっていきなされ。日も暮れてしまいましたから」

 ニート君は縁側から外へ下りると、庭に突っ立ったままの太郎を「おーい」と呼んで、上がるよう声をかけている。

 おれは茶碗の中身を囲炉裏にちょろちょろとひそかに捨てていきながら、参ったなと思う。織田への勧誘なんてまるで成功する気がしない。


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