乱世に光る一粒の玉しずく
クソが……。
いくら川の流れが穏やかだからって、いくら浅瀬を選んでいるからって、日が暮れてから川を泳ぐだなんて自殺行為じゃねえか……。しかも、丸太なんかを浮き輪代わりにして。
どうしてサルなんかと一緒に丸太を抱えてバタバタ足を打たなくちゃならねえってんだ。
着物と荷物を頭に縛り付けてふんどし一丁でさ。絶対にこの姿は見るも無残なみっともなさだぜ……。
だいたい木曽川を渡るのって何回目だ、クソ。もう、覚えてねえぜ、クソ。
ようやく向こう岸について、今回も幸運なことに溺れずに済んだ。本当に俺は水泳がうまくなった。
濡れた体を手ぬぐいで拭きとっていきながら、俺は溜め息も出る。いつまで経っても埒が開かねえんだから。
四年だ。森部のいくさで勝利してから四年も経ってやがる。
その間、信長の野郎ったら何もやらねえ。斉藤ナントカが死んで、斉藤方の親分はタツオキとかいうバカ息子だっていうのに、信長はいつまで経っても稲葉山城を攻め取らねえ。
織田を裏切った信長の親戚の犬山城を攻め落とし、つい先日も東美濃あたりのナントカって奴が寝返ったみたいだけど、性懲りもなく小競り合いばっかり。
さっさと潰せ。
「何をとろとろしているだぎゃ。さっさと支度しろだぎゃ」
「何を言ってんスか。日も暮れたってのに今日はどこに行くつもりなんスか。昼間に行っても裏切ってくれねえから、夜に行くってんですか? バカらしい」
「文句ばっかりうるせえ野郎だぎゃあな。さっさと支度しろだぎゃ」
偉そうに。
おれは沓掛三千貫の城主だぞ。
城主らしいことは何もやってないけど。
いつまでも目付けのマリオがすべて取り仕切っていて、おれはこうして城を留守にしていても何も問題ないんだけれど。
それでいてマリオの野郎は美濃の武将を何人か寝返らせている。自分の領地だけならず沓掛の領地を差配しながら、調略まで成功させているとは、おれの面目丸つぶれであり、おれもそこそこ焦ってはいる。
おれは股引を履いて半纏の帯を締め上げると、サルの後ろにしぶしぶ付いていく。
こうしておれまで南美濃の調略に参加されちまっているのは、四年前、うっかり森部城の川村久五郎を寝返らせちまったせいだ。
出すぎた真似をしちまった。
「牛は何もしてねえ、だから引き続き調略でもやっていろ」と信長がほざいたわけだ。論功行賞で何もくれねえドケチのくせしてよ。
んで、サルに取っ捕まり、おれだって南美濃がどうのこうのなんてよくわからないし、やる気も沸かないからサルにくっついて歩いているけれども、サルはとんでもねえ野生児で、川は泳いで渡るわ、野宿はするわ、食い物に困ったら泥棒してくるか、草を食っているかで、おそらくおれはここ四年で五キロは痩せている。
それでもって、調略はいつも不発。マリオは地道に成果を上げているから、おれは焦る。
近頃になってようやく、クマ男の蜂須賀小六や、川並衆とかいう連中を織田方に従うよう持っていけたけれど、それはサルの手柄だし、それにサルとおれとの共同手柄にしようとしている南美濃の武将が相変わらず首を縦に振ってくれない。
まあ、いいよなサルなんかは。
寧々さんと結婚もできてさ、ハッピーな生活を送っているだろうから。
マタザなんかも、子供が女の子に加えて男の子もいるからな。
そういう連中は仕事のやり甲斐ってもんがあるだろう。いいさ。そういう連中はな。川も渡れるもんだ。我慢して草も食っていられるもんだ。
ひるがえって、おれはなんなんだ……。
奥さんどころか、齢三十一にしていまだに童貞。
何が戦国時代だバカ野郎クソッタレ。何がタイムスリップだコンチクショウ。同じ童貞なら現代の家でピザとコーラを食べ飲みながらゴロゴロしていたほうがマシだ。
「何、ぶつぶつ呟いているんだぎゃ。着いただぎゃあぞ」
「は?」
おれは眉をしかめながら辺りを見回す。
日も暮れて、群青の夜空の下にひっそりと沈んでいるのは、ただの田んぼ。
延々と田んぼ。
遠くにぽつねんとしてかがり火が照っているが、あとは田んぼ。
夏の夜風にさらさらと音を立たせて、暗闇に稲が広がる田んぼ。
おれは呆れ半分疑い半分で訊ねる。
「着いたって、ここで何をするんスか」
「この辺りに砦を造るだぎゃ」
おれは鼻くそをほじって人さし指で弾き飛ばす。
「ここに砦を造るんは織田の悲願だぎゃ。ここに立てれば稲葉山城は目と鼻の先、形勢は一気に傾くだぎゃ。だけんども、あすこに見える火は斉藤方の墨俣城だぎゃ。気付かれてしまえばすぐに追い払われてしまうだぎゃ」
「じゃあ、無理じゃないッスか」
「そうだぎゃ。無理だぎゃ。けども、川並衆を使えばなんとかなるかもしれんだぎゃ。東美濃で切り取った木を木曽川の舟で運んできて一気に集めるんだぎゃ」
「ふーん。それは藤吉郎殿がおやかた様から命令されたんスか?」
「されてはいにゃあけども、やれって言われているもんだぎゃ。今はまだ準備が間に合ってにゃあからあれだけども、そのときが来たらおみゃあも沓掛勢を寄越すんだぎゃあぞ。大工仕事は無理だぎゃあけども、材木を岸から運んだり、堀を彫ったりしなきゃならんから」
このサル……。おれを連れ回している理由はこのためだな。ここに来てようやくわかった。
マタザにちらっと聞いたが、サルが川並衆に接触し始めたのは森部のいくさのころかららしい。
それから丸四年、こいつはどうしてコツコツと石を積み重ねる猿みたいにして地道に活動しているのかと思っていたら、敵前に砦を立てるだなんていう博打のために木曽川を泳いで渡るという犬でもしねえことを続けてきたわけだ。
そんでもって簗田牛太郎直属の沓掛近衛軍団を土木仕事に寄越せと言い出す。
しまいにはカネまで寄越せと言い出しそうな予感が――。
「そんなの藤吉郎殿が勝手にやってくださいよ。あっしは関係ないッスから」
「何が関係ないだぎゃ。ここに造れば織田は勝つんだぎゃあぞ」
「造る前に追い払われる可能性が大じゃないッスか」
「だから、言っているだぎゃろうが。そのために準備をしているってにゃあ」
「あっしは関係ないッス」
「なんなんだぎゃおみゃあ。ここまで来といて放り投げる気かえ。今までの苦労も水の泡だぎゃろうが」
「だってあっしは別に構わねえッスもん。斉藤方を潰せようと潰せまいと。あっしの何が変わるわけでもないんだし。どうせ手柄を上げたって褒賞は出ないんだし。まあいいッスよ、藤吉郎殿は。あっしは、藤吉郎殿やマタザ殿みたいに家族がいるわけでもねえッスもん」
やさぐれ街道まっしぐらのおれは、ぺっ、と、唾まで吐き飛ばして、サルなんかに協力しないことをあからさまに強調する。
しかし、サルはじっとおれを見上げてき、しばらくすると言ってくる。
「なんだぎゃ、おみゃあ。おなごでも出来ればやるんかえ」
「まあ、そうッスかね。寧々さんやおまつみたいな素晴らしい奥さんがいたら、あっしも藤吉郎殿みたいに草でも食って我慢できますかね」
俺は嫌味ったらしく言ったのだが、サルは真顔で黙っている。ぽりぽりと頭を掻いて夜の闇に沈んだ田んぼを眺める。
「ほんだら、背に腹は代えられんだぎゃ」
む――。
サルはかつてない顔つきで眉をしかめている。忸怩たるというか、迷っているというか、悔しがっているというか、なんとも言えない顔で田んぼを見つめている。
そうして、決心したようにしてサルはおれに振り向いてくる。
「おみゃあ、約束するかえ」
「何がスか」
「おみゃあをおなごに引き合わせてやるだぎゃ。本当はおみゃあなんかにくれたくねえけど、おみゃあが沓掛勢を回してくれるって約束するんなら、おりゃあはそのおなごをおみゃあにゆずるだぎゃ」
「いや、いいッスよ。藤吉郎殿のお手つきだなんて」
「手なんか付けておらんだぎゃ。生娘だぎゃ。チッ。美濃攻めが終わったらおりゃあのもんにしたかったのに。おみゃあなんかには見合わねえベッピンだぎゃあぞ。約束するかえ」
ほほう。こいつが嘘をついていなければ、サルが狙っていたおにゃの子である、間違いなく可愛いおにゃの子に違いない。サルはおれと同じホモ嫌いらしいからな。ということは女には目がないってわけだ。
それにこの悔しがりよう、詐欺師も今回ばかりは観念しているらしい。
「まあ、そのおにゃの子を見てからッスかね、返事をするのは」
「フン。ほざいていろだぎゃ。おみゃあのことだから一目惚れに決まっているだぎゃ。明日合わせてやるだぎゃ」
「あ、そうッスか。じゃあ、とっとと尾張に帰りましょうよ」
「尾張じゃにゃあ。東美濃のおなごだぎゃ。ほんだから、今夜はここで野宿だぎゃ。おみゃあ、絶対に約束するんだぎゃあぞ」
「それは藤吉郎殿次第ッスよ」
お互い鼻先を背けたあと、おれとサルは川岸に戻る。背負っていた鉄製の陣笠を解いてそれに水をすくい、枯れ木を集めてきて火打ち石で火を起こす。陣笠を鍋代わりにして餅や味噌玉や干物をぶちこんでいき、煮えるのを待つ。
「しかし、いつまで続くんスか、こんな生活。いくさでもないのにこんなもんばっかりで」
「それはおりゃあとおみゃあ次第だぎゃ。今は辛抱のときだぎゃ」
「むくわれればいいんですがね」
「むくわれるだぎゃあろ」
四年もやっていると野宿も慣れた。おれとサルは煮えた餅をふうふうと息で冷まし、口に運んでいく。
お目当てのおにゃの子は石川小四郎とかいう奴の孫娘だとサルは言う。
というわけで、河原で乞食同然に寝ていたおれとサルは、夜明けの太陽の光とともに目を覚ますと、陣笠と野宿セットの荷物を背負い、東美濃の可児郡明智庄を目指す。可児郡は尾張犬山の向こう側、木曽川を上流にさかのぼっていけば行き当たるわけだが――。
明智……?
道中、気にかかったおれはサルに訊ねる。
「もしかして、そこって明智光秀の根城ッスか」
「アケチミツヒデ?」
サルはいったん足を止めて夏の朝空をあおぐ。しなびた梅干しみたいな首をかしげる。
「知らんだぎゃ。長山城の城主だった明智兵庫頭なら名だけは知っているだきゃあけども」
交友範囲の広いサルが知らないんじゃ、明智光秀はザコらしいな。後々のことを考えるとあまり関わりたくない奴だ。
夏の日差しに焦がれている川波を右手に眺めながら、上流へとひたすら歩いていく。
「明智兵庫頭は――」
道中、話すこともないので、サルは知識をひけらかす。
古くから明智庄を牛耳ってきたのは武家の名門・土岐源氏の支流だという明智氏で、長山城を根城に美濃の守護大名に仕えてきた。
マムシの斉藤道三が下克上を起こすと、当主の明智兵庫頭はマムシの妹を嫁に貰って繋がりを強めたそうだが、マムシが息子の斉藤左京大夫に殺される。マムシ側に付いていた明智兵庫頭も左京大夫に攻撃された。長山城は陥落し、明智氏は滅亡したらしい。
「おみゃあにくれてやるおなごの祖父さんの石川小四郎は明智兵庫頭の家臣だったぎゃ。今の斉藤方に投降して命は免れたんだぎゃけども、それはひもじい生活を送っておるだぎゃ」
「藤吉郎殿はどうしてその石川小四郎を知っているんスか」
「内通しておるからだぎゃ」
「あっしは一緒に行ったことないんスけど。西美濃はさんざん連れ回すくせして」
途端にサルは口をつぐむ。今までべらべらと喋っていたくせに、川面を見やりながら口笛を吹き出す。
おおかたそのおにゃの子を独り占めにするつもりだったからだろう。
相変わらず信用のならねえ野郎だが、それでも、サルが独り占めしようとしていたぐらいだ、おにゃの子はきっと上玉に違いない。
わくわくどきどきしながら川の上流へ上流へとひたすら歩き、途中、日陰でメシを食う。川から千切ってきた草を混ぜ、ゴミ雑炊だ。
明智庄に到着したのは、ぎらつく太陽で汗が止まらない昼下がりだった。
ここまで木曽川をさかのぼると、あれだけ開けていた田園風景も狭くなっている。緑のまぶしい小高い山々に囲まれて、みんみんと油蝉の鳴りもひときわかまびすしい。
明智庄はさすがに負け犬の集落らしく寂れていて、まあ、その辺の村と変わりないっちゃないんだが、行商人や旅人の往来が激しい沓掛に比べたら悲惨である。
軒を連ねる家々はおれの清洲宅のようなボロ家が続き、人だって、野良仕事をしているババアを見かけただけだ。山から注いでくる蝉の鳴き声も余計に響いている。盆休みのド田舎のような夏の静けさである。
で、サルは一軒のボロ家を訪ねた。戸が開け放たれたままでいて、サルは薄暗い居土間を覗き込みながら「たのもー」と小さい声で呼びかける。
おいおい、と、おれは戸惑う。負け犬風情とはいえ、石川小四郎とやらは明智ナントカの家臣だった奴じゃねえのか? そんな奴がこんなボロ家に住んでいるっていうのか。
まさか明智ナントカが存命のときからこんなあばら家に住んでいたわけじゃないだろう。
おれはなんだか気持ちがしぼむ。にわかには信じがたいが、負け犬になるとこんな有り様になっちまうのかと思って。
ところが――、
「はーい。どちらさまあ?」
そんなおれのしぼんだ気持ちは、真夏の空に流れる入道雲のようにしてすぐに膨れ上がり、打ち上げられる花火のようにして弾いてきらめいた。
「あーっ。木下さーんっ。お久しぶりっ」
あわわわわ……。
サル――、いや、サル殿、いや木下藤吉郎様、まさか、まさか、この十六、七歳ぐらいのおにゃの子をおれに紹介してくれると?
まるで、乱世に光る一粒の玉しずく。
「あれっ? そちらのお方は?」
肩のあたりで切り揃えた髪を揺らしながら顔をかたむけてくる。おれに向けてつぶらな瞳をくりっと輝かせてくる。小さく膨れた唇の口許に天真爛漫の笑み。こぶりな鼻すじ、ぷっくらと丸い鼻頭は愛嬌の証、それでいて切れ長の瞼の目尻が聡明に伸び上がっていて。
「こちらは沓掛城主簗田牛太郎殿だぎゃ。牛殿、こちらは石川殿のお孫殿の千代殿だぎゃ」
千代……。
チヨタン――。
「は、は、は、初めましてっ。せ、せ、拙者、沓掛の簗田牛太郎ですっ」
「簗田さん?」
と、チヨタンはほっぺたに笑窪を作ったまま、おれをまじまじと眺めてくる。おれはもうやばい。その笑顔、その瞳に見つめられて、おれはもうやばい。
「沓掛城の簗田さんってことは、桶狭間の勲功第一の簗田さん?」
「そそそ、そうですっ!」
「わあ。巨漢の牛太郎さんって聞いたとおり」
と、チヨタンは居土間から草履を履いて下りてきて、おれの前にぺたぺたと寄ってくると、おれの真下からおれをくりくりの瞳で見上げてくる。
「本当、背もすごーい高い。ふふ。噂もたまには本当のときがあるみたいネ!」
て、てか、おれの、そのお腹に当たっている黄色い小袖ごしの膨らみは、おっぱいなのでは……。
小男のサルがおれを睨みつけながら咳払いする。
「ほんで、石川殿はおらんのかえ」
「お祖父様は近くの畑に出ているの。呼んでくるわ。ささ、お二人さんとも上がって上がって」
チヨタンはおれとサルの手を握り取ってぐいぐいと引っ張っていこうとするのだけども、いやっ、草鞋を脱いでいないしっ、てかっ、手がめっちゃすべすべしていて、なんじゃい! この高級陶磁器のような肌触り!
「あっ。ごめんなさいっ。草鞋だったのね。ふふ」
白湯を用意すると言ってチヨタンは台所にドタドタと足音を鳴らしながら引っ込んでいき、おれは思わずチヨタンに握られた右手の甲を撫でてしまう。
サルもにやにやと笑って同じことをしていた。
クソ……。こんなことなら木曽川に浸かって体を洗ってくりゃ良かったぜ……。おれは絶対に汗くせえはずだ。クソ……。まさかサルがこんな絶世のきゃわわっ子を紹介してくれるだなんて夢にも思わなかったからな……。
独り占めにしたいサルの気持ちもわかるぜ。
いや、この野郎、まさか、おれをここに連れてきただけで終わりってわけじゃないだろうな。
「木下殿、いつもいつも、ご足労かけて申し訳ございませぬ。拙者どもはなかなか進展せずにいて」
チヨタンのジイサンの石川小四郎は、ジイサンというほど老けてはいないが、鬢に白髪が混じっていて、負け犬らしい気苦労が顔の皺の年輪にも刻まれている。
「いんや、そう焦っても仕方にゃあことだし。前にも申した通り、来年だぎゃ。畳み掛けるのは来年になるだぎゃろうから、それまでには」
石川小四郎は覇気なくうなずきながら、泥土に黒ずんだ爪の右手で白湯の碗を取り、ずずっとすする。
サルと小四郎のオッサンは何事かをたくらんでいるようだが、おれはそんなものはどうだっていい。
あそこにいるチヨタン。
裏庭に続く土間の戸が半分開いているんだけれども、そこに半分だけ体を隠し、ニコニコと笑いながらこちらを好奇心いっぱいに見つめてきている。
可愛いのう。あの、お茶目なカンジ。
で、うっかり目が合うと、チヨタンは手を振ってくる。そよ風のような明るさで手を振ってくる。くうっ。なんていう天使なんだろう。おれはにやつきを押さえられずにうつむくが、胸のどきどきが止まらない。
「痛っ!」
と、おれは飛び跳ねた。サルが太ももをつねってきていた。
「なんスか!」
「おみゃあ石川殿の話を聞いてんのかえ!」
「聞いてますよっ。たくっ」
サルとおれの悶着に小四郎のオッサンは目を細めて笑い、「それにしても」と白湯の碗を床に置く。
「あの事件以降も稲葉山のやかた殿は相変わらず酒色に溺れているそうで、愛想が尽き果てている者もちらほらといるとは聞いております。何かのきっかけがあれば、我らのように織田様に傾倒すると思われますが」
「そうだぎゃあな。きっかけだぎゃあな」
サルはうんうんとうなずく。おそらく墨俣の砦をそのきっかけにするつもりだろう。
「あの事件と言えば、竹中半兵衛殿は今でも菩提山にこもっておるんですかえ?」
「そのようには聞きます」
竹中半兵衛――。
チヨタンにうつつを抜かしているおれだが、さすがにそいつの名前にはゴクリと固唾を飲み込んでしまう。
いずれはサルの手下になるのだろう、おれの時代でも天才軍師と語り継がれている人物で、その通り、竹中半兵衛は天才だった。
斉藤方の将として竹中半兵衛が出陣してきた小競り合いのいくさで、織田勢は二度、こてんぱんに叩きのめされた。おれは参戦していなかったが、竹中半兵衛が田んぼの中に隠しておいた足軽兵卒の襲撃にあってボロカスにやられたり、織田勢に正体不明のデマが飛び交ってしまって混乱し、味方を敵と間違えて同士討ちまでしてしまったらしい。
さらに竹中半兵衛ここにありと尾張美濃、もしかしたら全国に名を轟かせたのが、いわゆるあの事件。
稲葉山城乗っ取り事件。
たった十数人の仲間とともに稲葉山城内でクーデターを起こし、当主のタツオキを捕縛しちまった。信長がこれだけ手をこまねいている斉藤家を一夜にして掌中にしちまった。
けれども、竹中半兵衛の名前に箔が付いたのが、奪いとった稲葉山城をすぐにタツオキに返しちゃったところだ。
ボンクラバカ息子のタツオキを戒めるためにそれをやったということで、竹中半兵衛はその後、斉藤家を出奔し、西美濃のはずれのはずれ、菩提山という自分の実家にこもって隠居してしまっているという。
隠居って言ったって竹中半兵衛はまだ二十二、三歳って話だが。
「おやかた様に言われておるだぎゃ。竹中半兵衛殿を織田に引き入れろと」
サルは困り顔でなかば愚痴ったが、おれもサルとは別に信長にそう命じられている。
信長は稲葉山城乗っ取り事件の竹中半兵衛をめちゃくちゃ気に入り、おれやサルならず、自らも書状を送り、破格の待遇で隠居もどきのニート野郎を迎え入れようとしているらしいが、ニートは所詮ニートなので、信長を無視して出てこない。
おれもニートだったので、その面倒くさい気持ちはわかる。
「拙者からも竹中殿には話をしてみますが、無理でしょうな。あの御仁はなかなかの変わり種で」
そうだろうな。変わり種だろうな。頭のいいニートにはよくあることだ。おれには竹中半兵衛の気持ちがすこぶるわかる。
「それはそうと、今日、おりゃあたちが来たのには提案があるんだぎゃ」
「提案、とは?」
小四郎のオッサンが声を低めると、サルはおれをちらっと見やってきた。
「にゃあ。というのも、石川殿はひそかにおりゃあたちと内通しており、さらにはおりゃあたちの調略にも手を貸して、なかなか危険な立場だぎゃ。いつ刑部(斉藤竜興の通称)に感付かれるかわからんだぎゃ」
「それは覚悟の上でございます。今の斉藤方は道三公亡き後、見る影もなく落ちぶれています。そんな稲葉山に仕えるのならば、死など恐るるに足りませぬ」
「にゃあにゃあ、お気持ちはわかるだぎゃあけども、そうした乱世の習いで女子供を巻き込むわけにもいかんだぎゃあろ」
小四郎は唇を固く結んで白湯の碗に手を伸ばす。土間に隠れながら見てきているチヨタンにおれとサルは目を向ける。
頭をかたむけ、瞼を細めながらの笑顔のチヨタン。あはあ。かわゆす……。
サルもにやついているが、白湯をすすって小四郎のオッサンは溜め息をつく。
「そのときはそのとき。拙者だけならず、明智庄の者どもは皆が覚悟の上です。十兵衛様が戻られるその日まで苦労を耐え忍ぶ所存です」
「そうは言っても、もしも感づかれたら、明智庄は刑部に攻め立てられて一網打尽だぎゃ。そこでなんだぎゃ、せめて女子供だけでも避難させてみないかえ」
「避難?」
「にゃあ。おりゃあも、おりゃあがこうして通じているせいで、万が一女子供が殺されてしまうんは心苦しいだぎゃ。なもんで、将来のある娘だったり、幼い子だったり、まあちょっと、老人は難しいかもしれんけども。なにせ、ちょっとばかり遠いから」
「しかし、いくらこの小さな明智庄とは言え、若い女と子供だけでも七、八十はおりますゆえ。そんなに大勢を避難させる先など一体どこに」
すると、サルはおれの肩にベチンと掌を置いてきた。
「こやつの沓掛だぎゃ。なあ、牛殿」
ニヤリ。そういうことか。
さすがサル。さすが詐欺師。
そうともなればおれはチヨタンを沓掛に連れていけるというわけだ。そうともなればおれは沓掛にチヨタンを閉じ込められるわけだ。毎日毎日チヨタンにお会いできるわけだ。
おれはなんて素晴らしいトモダチを得たんだろう。神様仏様おサル様である。
「ええ。あっしの沓掛城でしたら、長屋も揃っていますし(揃っていないが)、尾張の西部の端っこなので、斉藤方の手が回ることはありません。ちょっと前には三河の徳川次郎三郎と織田は同盟を結んだので、安心安全ッス」
「うーん。お言葉ありがたいが、しかし、うーん」
「私、行きたい!」
と、土間からすかさずチヨタンが上がり込んできて、小四郎のオッサンの隣にさささっと両膝をついてくる。
「なんだ、お前は。おなごはすっこんでおれ」
「やーだ。ねーえ、お祖父様。私、行きたい。だって、そっちのほうが安全よ。私だけじゃなくって、みんなが安全よ。それに、退屈だもの、ここ」
「お主はすっこんでおれ!」
ぷいっと顔を背けたチヨタン。舌を打つ小四郎のオッサン。
「まったく。この孫娘は元気すぎるというか活発すぎるというかなんというか、自分が男に生まれたらなどどほざいているしょうもないおなごなのです。このような粗相を働き、申し訳ありませぬ」
「粗相なんか働いてないじゃなーい。ねーえ、木下さん? 簗田さん?」
小四郎が頭を下げてくる横で、チヨタンは笑顔を投げかけてきながらきゃぴっとウインク。
「にゃはあ。そうだぎゃ。粗相なんか働いてにゃあだぎゃ」
「あはあ。そうッス。全然構わないッス」
「千代っ!」
小四郎のオッサンが喚くと、チヨタンはネズミみたいな素早さで土間に逃げ出していき、あはあ、そのちょこちょこ走りもかわゆす……。
「ま、まあ、木下殿と簗田殿のご厚意は受け止めて、明智の他の者どもと話をしますゆえ」
「私行くよー」
「黙っとれ!」
フヒヒ。来たぞ来たぞ。ようやくおれにも来たぞ。戦国時代にぶん投げられて足掛け六年、草を食って泥水すすって早四年、ついにおれが沓掛城主というステータスを存分に振るうときが来たぞ。




