功名誰か復論ぜん(2)
葉栗郡は織田方斉藤方の睨み合いの緊張がもっとも高まっている地域であり、前田又左衛門は例のようにして無断参戦するつもりでこの地に居候している。
だが、去年、そして年が明けてからに起こった二度の小競り合いに又左衛門は加わらなかった。
(俺が飛び入ったところでどうなるのか)
ふとそう思ってしまい又左衛門は手を下ろす。槍の鍛錬も身が入らず、坪内屋敷の裏庭にて白濁とした空を仰ぐ。
きつい香りに誘われて、植木の在りかに歩み寄ってくと、やはり沈丁花である。硬くたくましい緑の葉から、淡い赤紫色の花びらをひらいている。
(綺麗な色だ)
大きく息を吸うと、春の現れの烈しい香りは鼻孔から身の内をまざまざと貫いてきた。又左衛門の胸をしめつけるのは、女房のまつであったり、娘の幸であったりした。彼女たちの色、匂い、わがまま風情を働いたこの自分はすっかり忘れてしまった。
息を吐き出せば、この身はぐったりと重い。
(俺は愚か者だ)
裏庭に足音があって、又左衛門は振り向いた。不敵に笑いながらそこに立ったのは、又左衛門の背丈の半分ほどしかない小人であった。
「久方ぶりだぎゃあな」
又左衛門は顔つきを変えると、藤吉郎に歩み寄っていき、彼の小さな体を左手で退かした。槍を両手に握りしめ、空間を突く。
尾張清洲にいたころは両手を揉みながら媚びへつらってきたくせに、さすがは足軽大将に出世した男である。まるで古くからの顔なじみのように、むしろ、昔からの悪友かのようにして藤吉郎は不遜な態度である。
「川並衆をどうにかせいって、おやかた様に命じられてだぎゃあな、ほんだら、おみゃあがいたってわけだぎゃ」
又左衛門が槍を振り回しているのをよそに、藤吉郎はべらべらと喋りながら戸が開け放たれた縁側にひょいと腰かけ、懐から干し柿を取り出してぺちゃくちゃと食べ始めた。
「そういや、おりゃあ、杉原の寧々と契りを結ぶことになっただぎゃ」
べっ、と、唾とともに茎を吐き飛ばした。
「おみゃあも会ったことがあっただぎゃあろ。ほれ、牛殿の家におまつ殿と押しかけていったとき」
又左衛門は藤吉郎には見向きもせず、汗の流れるまま槍を振るう。
「おやかた様に下知をもらえたんだがや。いや、おやかた様っちゅうんは本当に人情味のある御方で、寧々の母御がおりゃあを反対しているから、おりゃあと牛殿が泣いて頼んだら見事な差配を下してくださって――」
「なにゆえ、そこに牛がいるんだ」
と、又左衛門は槍を下ろした。藤吉郎は日向ぼっこでもしている老人かのようにちんまりと、干し柿の種を爪でほじくっていた。
「牛殿にはおりゃあに恩があるだぎゃあから」
フン、と、又左衛門は顔を背け、再び槍を振り回す。
「お前に恩があるだなんて、牛の口からは一度も聞いたことがねえがな」
「それにしたっておりゃあはますますおやかた様に恩を返さなくちゃならにゃあ。働いたって働いたって返せにゃあかもしんねえけど」
又左衛門は槍をまた下ろし、藤吉郎を睨みつけた。
「テメー、コラ。さっきからべしゃくしゃとほざきやがって。嫌味か皮肉でも言いに来たのか、あ?」
藤吉郎はあからさまに目を丸めて首をかしげる。
「何か気に触ることでも申したかえ?」
「何しに来やがったんだ、テメーは」
「だから申しただぎゃあろ。川並衆の――」
「俺に用件はねえだろうが」
「それもそうだぎゃ」
藤吉郎はひょいっと縁側から下りて、干し柿をかじりながら裏庭を出ていった。
「クソが!」
又左衛門は槍を振り落とす。突く。振り払う。夢中になって槍を振り回す。しかし、わだかまった鬱屈は、いくら汗水を垂らしても、又左衛門に付いて回った。
槍を下ろせば、虚しさが呼吸となって口からついて出る。
(あんなサルごときに。俺はそこまで落ちぶれたのか)
どこかでひよどりがはげしく鳴いていた。縄張りを示しているのか、雌を招いているのか、うなだれる又左衛門には耳障りなほど、春の盛りであった。
自問自答の毎日であった。
己の行いは正しかったのか、間違っていたのか。
拾阿弥を斬り捨てていなければ、今でも又左衛門は、奴に嘲笑されていただろう。奴を斬り捨てたことを責める者は上総介ただ一人であって、森三左衛門も柴田権六郎も、帰参の許しを上総介に願ってくれているという。
(間違ったことはしていない。俺は俺に正直に行動した。だから、森殿も柴田殿も尽力してくれている)
しかし、藤吉郎のような者も現れるし、女房のまつが一体どのような思いでいるのか。荒子の実家の世話にはなっているだろう、しかし、流浪の夫を抱える幼妻は不安な毎日を送っているに違いない。
何が正しいのか、何が正しくなかったのか、又左衛門にはわからないでいた。
そんなある日、又左衛門に珍客があった。又左衛門を訪ねてきたというよりも、やはり、藤吉郎と同じようにして、坪内喜太郎の客だったのだが、
「ど、どもッス。お久しぶりッス。こ、こんなとこにいたんスね。アハハ……」
と、簗田牛太郎は裏庭にへこへこと頭を下げながら現れたのである。沓掛三千貫の城主だというのに相変わらず白小袖の上に短小袖を帯も締めずに軽々と羽織って、下は股引という出で立ちである。
隣には小姓を連れていた。主人の牛太郎とは段違いに小奇麗に総髪を結っていて、藍染の小袖に帯を締め、腰には短刀も差している。
木下藤吉郎がこの辺一帯をうろつき歩くのはなんとなくわかるが、葉栗郡とは正反対の沓掛の城主である牛太郎が訪ねてくるなど思いもよらなかったので、又左衛門は率直に訊ねた。
「なんだ、お前。どうしてこんなところをほっつき歩いているんだ」
「いや、実は――」
近い将来、織田はここから木曽川を渡ったところでいくさを仕掛けるつもりなので、上総介に命じられたのだと言う。桶狭間を導き出したように、次は斉藤方との戦いで勝機を見つけろ、と。
しかし、そう言う牛太郎を、小姓の太郎とやらが白々しそうにして見上げていた。
「なんだよ。その目、やめろって言ってんだろ」
牛太郎が叱りつけると、太郎は又左衛門にきっぱりと語った。
「殿の申し分には語弊があります。殿は沓掛にいても怠けているので、丹羽様がおやかた様にご注進され、おやかた様はお怒りになられて殿にそう命じられたのです」
牛太郎は拳骨を落とした。しかし、太郎は体を後方に下げてひょいっとかわしてしまい、牛太郎はぎゃあぎゃあと喚く。
又左衛門は呆れて笑いながら、「まあまあ」と言って彼ら主従の間に割って入った。すると、牛太郎と太郎はぽかんとする。
「なんだ」
と、訊ねると、牛太郎は言った。
「ずいぶん丸くなったなって」
「あ?」
「いやっ、なんでもないッス!」
居室の縁側を巨体でどっかりと埋めてしまった牛太郎であったが、頭を抱えてぶつぶつと呟いていた。
又左衛門は槍を振るい、小姓の太郎が興味深そうにまじまじと眺めてくるので、又左衛門は槍を持たせてやった。子供の体には重くて長すぎるが、太郎が一生懸命になって又左衛門の真似事をするので、彼の愛くるしさに又左衛門はついつい手ほどきしてしまう。
そうしている間も牛太郎はぶつぶつとつぶやいており、それはひとり言というよりも、明らかに構ってほしいための呟きであった。
「なんだ、お前、さっきからうるせえな」
仕方なく構ってやると、牛太郎は、
「いやあ」
と、言う。
どうしたらいいものかわからない、と。
上総介にいくさのために策を練れと言われたが、命じられたのはそれだけで、何をどうすればよいのかわからないと嘆く。
又左衛門は鼻先で笑う。
「調略を命じられたのはお前だけじゃねえんだ。何もできぬなら何もできぬまでよ。それしきの男だったということで、おやかた様に不評を買うだけだ。沓掛でしているように怠けていりゃいいじゃねえか」
「そういうわけにはいきませんっ!」
思いがけずに太郎がわめいた。
「殿はおやかた様から数多くの恩義を頂戴しているのです! その恩義に甘んじて怠けるなど沓掛三千貫の城主として恥ずべきことです!」
又左衛門は小さな太郎の真っ直ぐな視線にびっくりして、ついで、笑った。
「お前はうるせえんだよ! ガキ! なんなんだお前は! ちっちゃいくせにこまっしゃくれやがって。おれに対する恩義はねえのか!」
「私は至極まっとうなことを申しているつもりです!」
また再び言い争いを始めたので、又左衛門は失笑しながら間に割って入る。
そもそも、牛太郎は桶狭間を上総介に進言した男だ、頭を抱えるほどでもないだろう、と、又左衛門が言うと、牛太郎はあれは幸運だっただけだと言って頭を抱えた。
「ああ、このまんまじゃおやかた様にボコボコにされちゃうッス。マタザ殿、なんかないッスかね」
「おれは浪人だ。あるわけがねえ」
「でも、ここらの居候者じゃないッスか。ちょっとは詳しくなってんでしょ。居候しているんだから」
居候という言葉をわざわざ二度も使ったので、とりあえず、槍の柄で一発頬を殴って吹っ飛ばすと、又左衛門は牛太郎を踏んづけながら縁側に腰かけ、手ぬぐいで体の汗をぬぐい取っていく。
「そもそも、お前はわかってんのか。おやかた様がなんのためにいくさをしようとしているかってのを」
足下に踏んづけられながらも、牛太郎は涙目を持ち上げてくる。
「斉藤方を潰すためでしょ」
「そりゃそうだが、だったらお前は斉藤方をどのようにして攻略するのだ」
「いや、だから、攻めて」
「どこを」
「どっかを」
「墨俣だ」
又左衛門は仕方なしに牛太郎を居室に上げると、尾張北西部一帯の簡略な地図を書いた。ここにはこれこれという豪族がいて、木曽川を越えたここにはこれこれという城がある、というふうに、牛太郎に教えていく。
「ゆえに、墨俣という場所は織田方と斉藤方とのいくさの中で、もっとも重要な場所なのだ」
「じゃあ、この墨俣城の長井ナントカって奴を織田に寝返らせれば済む話ッスね」
「たわけ。寝返るわけがないだろうが。お前が斉藤左京大夫だったら簡単に寝返るような者を重要な拠点の城主とするか?」
「しないッス」
「調略は無理だ。かといって力で攻めこむのも無理だ。葉栗には斉藤と内通している川並衆がおるだろうから、渡川の間に知られてしまって一網打尽だ」
「じゃあ、ここはどうッスかね」
と、牛太郎が指差したのは森部城であった。墨俣から木曽川沿いに南下した場所である。城主は川村久五郎なる者である。
「こいつ、寝返りますかね?」
「それは知らん。おれはこっちのほうまでふらついていねえ」
「こいつが寝返ったら、川を渡れているわけだから、のちのち墨俣には攻めやすいッスね。そうだそうだ。こいつを織田方に取り込めばおやかた様にもボコられなくて済む」
「そう簡単に寝返るわけねえだろうが」
「ちょっと坪内さんに今日は泊めてくれって言ってきますよ。明日にでもこいつんところ行って寝返れって言いますから」
「お、おい」
牛太郎は意気揚々として喜太郎のもとへと居室を出ていったが、又左衛門は思った。
(あいつの言う通り桶狭間のあれは幸運だったんだな。うつけだとは思っていたが、あんな能なしのうつけだとは思わなんだわ)
又左衛門は心配になって、牛太郎に森部城に行くのを思いとどまるよう何度も詰め寄った。しかし、牛太郎は聞く耳を持たなかった。又左衛門が牛太郎を侮っているように、牛太郎もどこかで又左衛門を小馬鹿にしているようであり、又左衛門の言うことなど当てにならないとでも言いたげに失笑を返してくるだけであった。
又左衛門はさすがに頭に来て、放り捨てた。
(うつけが。沓掛三千貫で調子に乗りやがって。死んでしまえ)
ところが、翌日、牛太郎は森部城から無事に生還したのである。ましてや上機嫌であった。又左衛門は牛太郎が無事に帰ってきたことにも驚いたが、その成果にはさらに驚いた。
川村久五郎はあっさりと承諾したと言う。
「お前、だまされてんじゃねえのか」
「なわけないじゃないッスか。まさか僻んでいるんスか? ということで、あっしは清洲のおやかた様に報告してきますんで。それじゃ」
又左衛門は思った。確実に牛太郎は調略返しされたと。
しかし、二三日が経って、坪内喜太郎が予想外の事実を伝えてきた。
斉藤左京大夫、急死。
(だからか……)
その情報が織田方に入ってくるまでには間違いなく実際の死亡日より日にちが経っている。つまり、牛太郎が何も知らずにのこのこと森部城を訪ねたときには、川村久五郎はすでに斉藤家当主の死亡を存じており、おそらく実際の死亡日からそこまで日が経っていなかったのだろう、今後の斉藤方の運営に不安を覚えていた絶妙な時期に牛太郎がやって来たのである。
もしかしたら川村久五郎は、牛太郎がその死亡情報を持っているからやって来たとして、それが迅速だと勘違いし、したたかさと勘違いして、恐れおののいたかもしれない。
(なんて幸運な奴だ……)
自分が命を賭けて大功を上げても帰参がかなわぬ一方で、牛太郎のような人間があっさりと成果を上げてしまうのだから、この世の中はどうなっているのかと又左衛門は笑うしかなかった。




