太郎の魂百まで(前編)
奇抜な衣装の女に悪態をつかれて崩れ落ちた主人牛太郎であったが、ようやく腰を上げた。しかし、なおのこと、壺を抱えて清洲宅に戻るまでの間、嗚咽を繰り返していた。彼は清洲宅に戻ってくると、壺を置いて、寝床にうつ伏せになってしまい、そのまま寝床を右拳で叩き、おれが何をしたって言うんだ、と、何度も何度も吐き捨てていた。
足取り軽くして出ていったと思ったら、泣きべそかいて帰ってきた主人の様子に、山内伊右衛門と祖父江勘左衛門は当然、戸惑った。
山内伊右衛門がおそるおそる寝床の牛太郎に歩み寄る。
「ど、どうしたんだ、殿」
「うるせえっ! ほっといてくれっ!」
山内伊右衛門と祖父江勘左衛門は顔を見合わせた。そうして、二人は終始付き人であった太郎に視線を向けてきたのである。
祖父江が太郎の目の高さに屈んでき、訊ねてくる。
「ど、どうしたんだ、簗田様は」
太郎は真っ直ぐに主人牛太郎を見つめたまま、首を横に振った。
そうして、後ろに結んで下ろしている髪を仔馬の尻尾ように揺らして、くるりと踵を返す。
「丹羽様のお宅に行って参ります」
それだけを言い残し、太郎は一人、城下へと向かう。
春日井の児玉の町娘の子として生まれ、つい最近沓掛城主の小姓となった。
わずか八歳。
怒っていた。
(あの悪女め。殿を虚仮にして)
つぶらな瞳を支える二重の瞼を切り結び、怒り任せに歩みを進め、その心は忠義に燃えている。
唯一の肉親は母だけである。その母親も病床に伏せている。
例の桶狭間合戦があった翌日、それまでも時折母と自分を訪ねてきていた丹羽五郎左衛門が、太郎に新城主の小姓を薦めてきた。太郎は母親を一人残すことにためらったが、母は仕えてみろと言ってきた。母親の面倒は自分が見る。もしくは誰か介護の人間を付けると丹羽五郎左も言った。
太郎は常々、武士になりたいと思っていた。丹羽五郎左が稽古をつけてくれる日もあったし、読み書きを教えてくれる日もあった。たくさん稽古をして、たくさん学問を覚えれば、いずれは武士にさせてやると言われたので、太郎は一人でも稽古をしたし、読み書きを覚えた。
そして、児玉をあとにするとき、母が青白くやつれた顔ながらも、太郎に言葉を送ってきたのであった。
「太郎。今日から母のことは忘れなさい。太郎は簗田様のためだけに働きなさい。たとえ母が死にそうになっても、決してここに来てはいけませんよ。簗田様のためだけに太郎は命を預けるんですよ」
正直、沓掛城にやって来、簗田牛太郎に付き添うようになって、本当にこんな変人のために命を預けていいものかと葛藤したが、どうしてか、たまに主人から温かみを感じた。物心ついたときから父がいない太郎が初めて味わった温かみ。父のような、兄のような、それでいてどこか間抜けで、でも、桶狭間で勲功第一の男。
(殿はああ見えても桶狭間の出世頭なんだ。それなのに女の分際で。あの悪女は殿の何を知っているんだ)
昨日、牛太郎と一緒に丹羽五郎左の清洲屋敷を訪ねていたので、道は知っていた。城下の屋敷町にやって来、丹羽五郎左宅の門をくぐると、下男に簗田牛太郎の使いで来たことを述べた。
ほどなくして胴長短足の丹羽五郎左が玄関口にやって来る。
「どうした、太郎。簗田殿はどうしたのだ。お前は小さいのだからあんまり一人きりで歩くんじゃない」
「殿が体調を崩してしまったので、沓掛への出立は明日に延ばして頂けませんか」
「なに?」
丹羽五郎左は口髭をさすりながら、目つきを怪訝そうに細めた。
「また簗田殿は何か仕出かしたのか。いや、何か仕出かすつもりか」
「違います。まことに殿は体調を崩してしまわれたのです」
太郎は真っ直ぐな眼差しできっぱりと言う。丹羽五郎左は口髭をさすっていた右手を止めて、太郎をじっと見つめる。
やがて、うなずいた。
「そうか。太郎がそう言うのならそうなのであろう。しかし、わしらは支度をしてしまった。わしらは先に行っておるから、簗田殿には体調を整えてから沓掛に来るよう伝えおけ」
「はい。あと、赤い羽織りを着流して、手首に数珠をいくつも巻いている、童女のような河童頭の女を丹羽様はご存知ですか」
「なに? なにゆえだ」
「いえ」
「なにゆえそれを訊く。簗田殿が体調を壊したのと関係があるのか」
「ありません。失礼いたしました」
「待てっ、太郎っ」
頭を下げたあとに太郎は走って門から飛び出していってしまい、丹羽五郎左の声も振り切って屋敷町をあとにした。
もっとも、あんな派手な女だ、道行く人に訊ねればすぐに知れるだろうと思い、太郎は騒動が起こった門前町へと向かう。
すると、門前町の通りに折れたところで知った顔があった。昼食を済ませたあとなのか、楊枝で歯を削りながら歩いているのは、さきほどの木下藤吉郎だった。
木下藤吉郎は悪女を知っていた様子であったし、それに主人牛太郎と小人の彼は、仲が悪いようで仲が良いような気もするので、太郎は駆け寄っていった。
「木下殿!」
「にゃっ? なんだぎゃ、おみゃあ。牛殿の小僧じゃにゃあかえ。どうしたんかえ、一人でほっつき歩いて」
「さきほどの悪女は一体何者なんですか!」
「おっ、おみゃあっ」
藤吉郎はあわてて楊枝を放り捨て、太郎の口をしわくちゃの手で覆ってきた。
「や、やめんかえっ。人に聞かれたらどうするんだぎゃ」
うーうーもごもごと太郎は藤吉郎に話しかけるが、口をおさえたまま抱きかかえられ、軒と軒の間の路地裏に連れ去られた。
「言わんかえ? 言わんかえ? 言わんだぎゃあな? 悪口叩かないだぎゃあな?」
口を押さえつけられたまま太郎はうなずく。
「よし、ほんだら話を聞いてやるだぎゃ」
藤吉郎に手を離してもらった太郎は、ケホケホと咳き込んだあと、袖の下から取り出した手ぬぐいで唇の周りを拭い、手ぬぐいを戻してようやく禿げ頭の藤吉郎を見上げた。
「さきほど、私と殿がご一緒だったとき、木下殿がお逃げなさった女はどなた様なのですか」
「なんだぎゃ、まさか、牛殿は惚れてる好いてるだのと、あの方に言っちまったんかえ」
深刻そうにして声を低める藤吉郎に対し、太郎はうつむいた。首をかしげ、じっと思い出す。
「そういうことはおっしゃってなかったと思いますが、ただ、そんな調子だったかもしれません」
「まあ、おおかたそうだぎゃろうな。きゃつは法螺吹きのくせに頭の悪い甲斐性なしだからにゃ」
「殿を侮辱されるのですか!」
「にゃあにゃあ。侮辱なんかしておらんだぎゃ。事実を正直に申しただけだぎゃ」
「侮辱してます!」
「にゃあにゃあ、わかっただぎゃ。すまんだったぎゃ。ほんで、おみゃあはあの方を知ってどうするつもりなんかえ」
「殿に詫びるよう申しつけます」
「何を申しておるんだがや、おみゃあは」
藤吉郎は真っ直ぐに見上げてくる太郎に溜め息を吐いて掛けると、失笑しながら家屋の板壁に背中を預けて座り込んだ。
「おみゃあ、ちょっと来んかえ」
と、手招いてくる。太郎は藤吉郎の膝の前に立つ。すると、藤吉郎に両脇を持ち上げられて、くるりと反転し、そのまま股ぐらの間に座らされた。
藤吉郎が太郎の小さな肩をぐいぐいと両手で揉んでくる。
「何があったか知らんだぎゃあけど、そうカッカしてもろくなことはねえだぎゃあぞ。ほら、力抜けだぎゃ」
そういうのが上手いのか、藤吉郎の手つきで太郎のこわばっていた体が柔らかくなっていき、太郎自身も一辺倒だった気持ちがどこかほぐれていった。
「ほんで、何があったんだぎゃ。おりゃあに聞かせてみんかえ」
すると、太郎は心のたがが緩んでしまう。怒気にこわばっていた唇も自然と開いていく。
「殿は、あの女に申しておりました。桶狭間で勝てたのはあなたのおかげだとあの女に申しておりました」
「ほんで」
「そうしたら、あの女は殿に反吐が出ると言って罵ったのです。殿は、泣いてしまわれました」
「そうかえ」
揉みほぐしの手が止まり、太郎はくるりと返された。
そうして、藤吉郎は瞼の中に奥深い光を差し込みながら太郎の鼻に鼻先をつけてきて、静かに言う。
「でもな、そういうもんだぎゃ。この世はそういうもんなんだぎゃあぞ。頑張ったって報われにゃあときもあるんだがや。ほんでも、そういう悔しさがあるから、次もまた頑張ろうって思うんだぎゃ。だから、早まっちゃいかんのだぎゃ」
「でも、許せませんっ! 殿は何も悪いことはしておりませんっ! 悪に報いるには正義をもってし、善に報いるには善をもってせよと孔子も言っておりましたっ!」
「にゃあ……」
太郎が目玉を真っ赤にしながら藤吉郎に放ち、よくわかっていない藤吉郎はただただぼけえっと太郎を眺めるしかできない。
「難しいことはおりゃあはよくわからんだけども、ほんでも、おみゃあがそこまで言うんなら、付き合ってやるだぎゃあか……。放っておくとおみゃあは本当に何かしそうだぎゃあからな」
そう言って腰を上げた藤吉郎は、腰にぶら下げていた汚い手ぬぐいを抜いてきて、それで太郎が瞼に浮かべていた涙を拭い取ってきた。
「連れていってやるだぎゃ」
太郎は藤吉郎に手を取られ、門前町の目抜き通りに出る。
「それはそうと、おみゃあ、賢いだぎゃあな? おりゃあの家臣にならんかえ? 牛殿なんかよりおりゃあのほうがええだぎゃあぞ?」
太郎は当然、首を振った。




