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ふりてんつもる(前編)  作者: ぱじゃまくんくん夫
第三章 沓掛三千貫の男
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真っ逆さまに堕ちて、絶望

 その晩、汚いベッドに寝転がりながら、市姫様のお顔ばかり思い浮かべていた。あのときの、ずぶ濡れになりながらも箕笠をおれに押し返してきたときの、あのときの笑顔。

 くうう、たまらん。

 あの天女様が今後成長したらどんな美人になってしまうんだろう。チクショウ。結婚相手が羨ましくて仕方ねえ。

 そう、おれは高嶺の花の市姫様を望むようなアホじゃない。例えば、聖母マリア様がえらく美人だったとしても、セックスしてえとたくらむようなバカは信者にはいないはずだ。

 そもそも、あずにゃんが待っていてくれているのである。

 さっさと迎えに行ってあげないとな。

 だが、おれにはもう一仕事残っているわけだ。ジロサブロウに同盟の約束を取り付けて、おれは外交官デビューである。桶狭間勲功第一に箔を付けて、誰にも文句を言わせないぐらいに高嶺の牛太郎に成り上がり、あずにゃんを迎えに行くのである。

 ゴンロク、文句は言わせねえぜ。

 翌日、おれは太郎と一緒に再び縫物屋に向かった。イエモンとソフエには沓掛に戻る支度として、おれのボロ家の大掃除をさせている。イエモンの野郎が昨日サボっていたっぽくて、掃除が済んでいなかったのだ。

 あと、昨日のうちにマリオにも沓掛への出立は午後からにしてくれって言っておいた。

 着物を持って帰らなくちゃならないからな。姫様たちはおれの半纏股引は似合っているだなんて言ってくれたけれど、さすがにジロサブロこと徳川家康に会いに行くわけである。将来の将軍である。身なりはピシッとしとかなくちゃならん。

 で、昨日と同じく壺を抱えて足軽長屋を歩いていったんだが、

「あっ」

「にゃっ」

 サルと出くわした。サルがちょうど誰かの足軽長屋から出てきたところだったのである。おれはちょうどそこを通ったわけなのである。

 サルはしかめっ面であった。おれはにやにやとした。

「あ。ども。桶狭間ぶりッスね、藤吉郎殿」

「なんだぎゃ、おみゃあ」

 と、サルは挨拶もろくにせず、おれを睨み上げながらすでに喧嘩腰であった。

「壺なんか抱えて何をやっているんだぎゃ。おみゃあ、沓掛におるんじゃなかったんかえ。それとも、うつけのおみゃあのことだから、もう知行は取り上げられたんかえ」

「いや、引っ越しの準備ッスから。残念ながら取り上げられてませんから」

 おれはにやにやが止まらなかった。サルはイライラが止まらない様子であった。フン、と、鼻を背けて去っていったが、おれは太郎を引き連れて、イライラと歩くサルの後ろを付いていく。

 サルはぴたっと立ち止まり、振り返って睨みつけてくる。

「なんだぎゃ。付いてくんなだぎゃ」

「いや、だってあっしもこっちに向かっているんスもん。別に付いていってるわけじゃないッスし」

 ぎりっと目玉を光らせてサルはおれを睨み続けてくる。おうおう怖い怖い。ま、なんでそんなに怒っているのかわからないけどナ!

「なんだぎゃ、その子供は」

 サルはイライラを眉間の皺に集めつつ、太郎を顎でしゃくってきた。太郎はサルにぺこりと頭を下げた。

「あ、こいつはあっしの小姓ッス」

「小姓だぎゃあと?」

「ええ。ま、三千貫の所領持ちともなると今までみたいに一人ではやってけないんで、とりあえず身の回りの世話をする小姓と、あと家来を二人召し抱えました。ま、三千貫ぽっちッスけどね」

 すると、サルはおれのお高く止まった姿勢に耐えかねたのか、急に口許を歪めて笑うと、声を裏返した。

「三千貫持ちの割には相変わらずそんな姿かえ!」

「いや、今から仕立てた服を取りに行くんスけど」

「にゃっ……」

「誰かさんに押し付けられたときみたいに絹の反物じゃありませんがネ!」

 どこまで行ってもおれにはかなわないサルは、可哀想なぐらいに目玉に怒りをしのばせておれを睨み上げてくるだけ。おれはおれでにやにやと笑いながら余裕綽々の目つきでサルを見下ろすだけ。

「今のうちだけだぎゃ」

 サルは背中を向けた。すたすたと歩き始めた。おれと太郎も後ろを付いていく。

「おみゃあがそうやってせせら笑っていられるのも今のうちだけだがや。そのうち、そのうちおみゃあなんて泣きべそかかせてやるだぎゃ」

「ところで藤吉郎殿は昨日からうろちょろしてるようッスけど、何してんスか」

 サルはぴたっと足を止め、横顔だけをおれに振り向かせてくる。

「人をかき集めているんだぎゃ。おみゃあみたいにうろちょろ遊んでいるわけじゃねえんだぎゃ」

 サルは再び歩き始める。おれも再び歩き始める。

「人を集めている? なんでッスか? またなんか悪巧みでも始めるんスか」

「おみゃあはおりゃあが何かすれば一言目には悪巧み悪巧みと。なんなんだぎゃ。おりゃあとて出世したんだぎゃ。そんだけ人が必要なんだぎゃ。おりゃあの手となり足となる者どもが必要なんだぎゃ。ま、おみゃあは三千貫の城主のくせに小姓一人と家臣二人で満足しているようなたわけみてえだぎゃあけどな」

「ふーん。人を集めてんスか」

 おれはサルにくっついていく。サルが足軽長屋から折れたので、おれと太郎も折れる。サルはまた立ち止まって、どうして付いてくるんだと騒いだが、おれは縫物屋に用があるからこっちに来ているだけだと言うと、サルは舌打ちしてまた歩き出した。

「んで、順調に人は集まってんスか」

「んなわけにゃあだろ。今度のいくさで俸禄が上がったのはおみゃあやおりゃあだけじゃねえんだぎゃ。俸禄が増えりゃ、人も雇える。人を雇わにゃ、次のいくさじゃ手柄を挙げられにゃあ。どいつもこいつも考えることは同じなんだぎゃ」

「ふーん」

 おれはサルの後ろを歩きながら考える。

 そんなに人が欲しいのか、このサル。

 だったらうってつけの野郎がいるんだが。

「藤吉郎殿、それじゃあ、紹介しましょうか、あっしが召し抱えたばっかりの奴」

「にゃあ? おみゃあが召し抱えたばっかりじゃないんかえ」

「いや、やっぱいらねえんス」

 すると、サルはまたまた立ち止まり、おれをじっと見上げてくる。

「遠慮しとくだぎゃ」

「えっ! なんでッスか。人手不足なんでしょっ」

「どうせおみゃあのことだから召し抱えたのがろくでもねえ奴だったんだぎゃ。だからおりゃあに押し付けてくる気なんだぎゃあろ。ろくでもねえ奴じゃなかったら、おみゃあがおりゃあに寄越すはずねえだぎゃ」

「そんなことないッスよっ。絶対活躍する人間ッスよっ。な、太郎?」

 と、おれは問いかけながら太郎に振り返ったが、太郎はシラーッとした目でいた。

「おいっ! それやめろって言っただろ!」

「相手にしてられんだぎゃ」

 と、サルはさっさと立ち去っていこうとした。イエモンなんか追い出したいおれはサルを呼び止めようとした。そうしたら、サルはふいに立ち止まった。門前町の目抜き通りの向こうを見つめて固まったまま立ち止まっていた。

 で、くるりと踵を返してきた。

「お、おみゃあも逃げたほうがいいだぎゃあぞ」

「え?」

「絡まれるだぎゃあぞ。逃げたほうがいいだぎゃあぞ。あっ、くれぐれもやめといたほうがええだぎゃあからな。おみゃあ、本当に諦めたほうがええだぎゃあからな。おみゃあのためを思って言ってんだぎゃあからな。とりあえずおりゃあは逃げるだぎゃあからな」

 サルは訳のわからないことを言い残し、桶狭間以来のダッシュで本当にどこかへ逃げていった。

 おれと太郎はぽかんとして顔を見合わせる。

 何に怯えて逃げ出したんだろうと思って、おれは露店やら買い物客やら旅人やらで賑わう門前町の通りの向こうに目を凝らしてみる。

 サルがビビって逃げ出す奴だなんて、誰だろうか。信長だったら逃げるはずないし、クローザかな。でも、クローザでサルが逃げるわけないな。ゴンロクか? それとも、おれが会ったことのない織田のゴリラが他にいるのか。

 すると、おれの視界には、あれかな、と思える、怪しい人間が入ってきた。

 なんだ、あの女。

 雛菊人形みたいなオカッパ頭で、小袖の上には、真っ赤な地に白い散らし模様の変な着物を型を崩して羽織っており、こっちに近づいてくるんだが、近づいてくるたびに女が腕に何個も巻いている数珠がじゃらじゃらと鳴る音が聞こえてくる。

「なんですか、あの女の人は」

 太郎が驚きを隠せない声音で呟いたが、無理もない。

 戦国トンデモ時代にやって来て一年弱だが、おれはあんなデザイアな女は初めて見た。もしかしてあれが傾奇者ってやつか?

 ましてや、姿形だけでもおかしいってのに、華奢な体からものすごいオーラを放ちつつ通りの真ん中を練り歩いてくる。当然、門前町を賑わせていた連中も、デザイアの雰囲気に圧倒されて、通りの真ん中からさあっと引いていく。

 だが、おれはようやくその姿がはっきりとして、唖然と立ち尽くした。デザイアが隣に引き連れているババアはおれの知った人であり、血の気が引いていくとはまさにこのこと、鳥肌が止まらないし、背筋は震え出すし、目の前の光景に頭が真っ白になってしまうし。

 デザイアの隣を気まずそうな顔をして歩いているババアは、お貞なのであった。

 そして、よくよく見てみれば、瞼の中から黒い瞳をくりくりとさせ、通った鼻筋、花つぼみのように小さい唇。

 オカッパ頭のデザイアはあずにゃんなのだった。

 おれは悪い夢でも見ているんじゃないだろうか。そう思ってほっぺたをつねってみたが、残念なことに痛い。

 瞼をこすってもう一度よおく見てみても、ババアはお貞であり、デザイアはあずにゃんなのである。

 嘘だろ……。なんで……。

 おれが知っているあずにゃんは、薄紫色の小袖の襟元を綺麗に締め上げていて、エメラルドグリーンがまぶしい腰帯で姿勢も良くして凛とたたずんでいて、麗しい黒髪を肩口にさらさらと流していて、そして、にこっと微笑んだり、たまにはきつい視線だけれど、厳しさの中にある優しさ、それがあずにゃんという美しさであったのに、デザイア――。

 じゃらじゃらじゃらじゃらアクセサリーにしているんだかなんだか数珠を鳴らして、羽織をだらしなくはだけさせていて、綺麗に揃えているのはオカッパ頭の切っ先だけ。

 いやっ……、人を見た目で判断しちゃいけない。たとえデザイアだったとしてもいいじゃないか、あれはあずにゃんなんだ。きっと、あずにゃんはお洒落の最先端を先取りしているんだ。

 そもそも、あずにゃんはおれに言ってくれたんだ。待っているって。おれが手柄を上げるのを待っているって。

 だから、おれはやれた。オジャマロとの格闘は傍観者だったけれど、あそこまでやれた。毛利新助がオジャマロを殺したとき、確かにすべてが変わった気がしたんだ。

 時代も、おれも。

 掴み取った勝利がおれを変えるんだ。おれは変わったんだ。そして、あずにゃんがおれを変えてくれたんだ。

 だから、あずにゃんがたとえデザイアになってしまっていても、いいじゃないか。

 おれを変えてくれたんだから。

「と、殿」

 太郎が怯えた声でおれを呼びかけてきた。というのも、デザイア――、もとい、あずにゃんがそこに立ち止まり、おれを見つめてきているからだった。

 おれの唇は小刻みに震えていた。唇が震えているから吐息も震えた。あずにゃんに再会できて嬉しいというよりか、デザイアに変貌したあずにゃんは圧倒的存在感を放っていた。おれはかなりビビった。

 告白するのは次にしよ……。うん。松平ジロサブロとの同盟の手柄を上げてからだよな。うん。

 とりあえずは、まあ、おれはあずにゃんに向けてちょこっと頭を下げた。

 すると、無言のままにおれを見つめてきていたあずにゃんは、鼻筋の通った鼻先を突き上げながら、小さい唇でにやっと笑った。

 隣のお貞はおれを見やり、あずにゃんを見やり、なんとも言えない気まずそうな顔でいる。

 そして、あずにゃんは草履をじゃりじゃりと鳴らしながらおれに歩み寄ってくる。

「出世したようじゃな」

「は、はいっ」

 あずにゃんは肩で風切って歩み寄ってき、そうして目の前で立ち止まると、不敵な微笑を浮かべたまま、怯え通しの太郎を見やり、おれを見上げてくる。

「勲功第一とはのう」

「あ、あ、はいっ。こ、これも、梓殿の、梓殿のおかげで――」

「ほう。わらわのおかげと。妙なことを言う。なにゆえじゃ」

 おれは緊張でずっと視線を伏せっぱなしだったのだけれど、ちらっと上げた。あずにゃんが瞳から放つ眼差しはギラギラとしており、おれはすぐに視線を伏せた。

 なんだかおかしい。おれの知っているあずにゃんでないような気がする。その声も、おじゃる言葉も、間違いなくあずにゃんなのだが、言葉の端々にはものすごい勝ち気さと、聞いているだけでも痛くなってくる刺々しさがあった。

「わらわはそなたなんぞになんら貸しなど与えておらん」

「い、いやっ、そのっ――」

「なんじゃ」

「いや、あの、あっしは、その桶狭間で、その」

「おやかた様に進言した。そうなんじゃろう。フン。やるでないか」

「い、いやっ、それはそうなんスけど、あの、あっしはその、今まではいくさとかしたくないなって考えだったんスけど、桶狭間では今川治部の首を取って手柄を上げたいってなって、それで、なんとか治部の前まで行って、ま、まあ、あっし自身で首を討ち取ることはできなかったんスけど、でも、その、そこまでやれたのは梓殿が、その、手柄を取ったら礼を聞いてやるって言ってくれて、その、あっしが手柄を取るのを待っているって言ってくれたんで、あっしは、その梓殿にお世話になりましたし――」

「何を言っておるんじゃ、そなたは」

「え?」

「わらわはそなたにそのようなことは申しておらんぞ」

「え、いや、言ったと――」

「知らん。わらわはそなたが手柄を上げようが出世しようが興味はない」

「えっ――」

「そなたなんぞに礼を申される言われはない。そしてそなたの顔なんぞ見たくもない」

 あずにゃんは訳のわかない言葉を吐き捨てると、呆気に取られているおれに笑みを見せたまま、ゆっくりと背中を向けていってしまい、そして、

「手柄を上げたからと言って浮かれているようなそんな顔なんぞ、見ているだけで反吐が出る」

 と、悪魔の一言を残し、腕輪をじゃらじゃらと鳴らしながら去っていった。

 おれは目が点になっていた。力が脱力してしまって、両膝ががっくりと地面についた。何も見えなかったし、何も感じなかった。この世がどうしてこの世なのか、そればかりが疑問だった。

 駆け寄ってきたお貞ババアがおれに何かを言っている。

「や、簗田殿、おめでとうございます。あまり梓様の言葉はお気になさらないでください。梓様は、少々気が触れてしまっておりまして」

 おれはなんら返事を持たなかった。お貞は頭を下げるとデザイアを追いかけていった。

 空が、青い。

 おれは、

 おれは、

 一体、おれは、

 何をやって来たんだろうか。

 おれは、

 なんのために頑張ったんだろうか。

 あんな言葉を聞くために命を張ったんだろうか。

 あんな悪魔の言葉のために。

 桶狭間までのことが思い出された。ハットリ君と喧嘩したことや、ヌエバアにごちゃごちゃ言われたことや。

 マタザが乗り込んできておれに稽古をつけたこと。

 サルとか寧々さんとかおまつと一緒に酒を飲んだこと。

 あの日々は一体なんだったんだろう。

 情けない。悔しい。どうしておれはあんな悪魔の言葉のために必死になってきたのか。なんて馬鹿馬鹿しいんだろう。おれはなんて馬鹿馬鹿しいんだろう。

「と、殿――」

 太郎が肩を揺すってくるので、太郎と顔を見合わせた。

 そうしたら、一気に涙が溢れ出てきて、こらえきれなかった。小さい太郎が本当に心配そうな顔でおれを見つめてくるので、こらえきれなかった。

 おれは壺を抱きかかえながら突っ伏し、嗚咽した。泣き上げた。そして叫んだ。

「なんでだよおォっ。おれが何したって言うんだよおォっ」








 

 


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