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ふりてんつもる(前編)  作者: ぱじゃまくんくん夫
第三章 沓掛三千貫の男
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もののあこがれ

「貴様のそのくだらねえ行いは許せねえが、市が勘弁してやれとほざいているから、今回だけは勘弁してやる」

 信長の居室の敷居をまたがずに廊下で土下座しているおれは、おでこを床にこすりつけて謝った。

 やっぱりボコられるパターンだったか。

 でも、市姫様が信長を止めてくれたと言う。

 なんて……、お優しいお姫様なんだろう……。天女じゃないか。まったくもって、このトンデモ戦国時代へと、天国から舞い降りてきた一輪の花じゃないか。

 その天女様は、敷居の向こう、正面でゴザの上にどっかりとあぐらをかいている信長の斜向かいで、水色の小袖に様変わりして両膝を揃えており、隣に黄色い妹を従えて、にこにこと微笑んでいらっしゃる。

 あぁ……、その微笑みだけで、おれはおれの存在をなくすまで溶けていってしまって、このまま清州城の塵芥ちりあくたになってしまいそう……。いや、なりたい。塵芥になって、市姫様の着物に張り付きたい。

「今日、貴様を呼んだのは、こいつら妹どもが貴様の珍奇な話を聞きたいとやかましいからだ」

「あ、はい……」

「申せ」

「えっ?」

「申せと言ってるんだ、申せ」

 こ、この戦国暴力団の組長は突然何をおっしゃっているんだろうか。まず何を言っているのか意味がわからないし、まあ、珍奇な話をしてみろということなんだろうが、それにしたって唐突に「申せ」はねえだろう。こういうお話ってのは、言葉と言葉を交わし合うコミュニケーションから始まるもんだろうが。それとも信長はコミュ障か? 多分、そうだろうな。

「そ、その、急におっしゃられましても、何から話せばいいのか、何を話せばいいのか」

「あ?」

「そうですわ、兄上様」

 と、助け舟を出してきたのは市姫様! 天女! 戦国時代に咲いた一輪の花! 本当に信長みたいなクズの妹だとは思えないほど、その度量とお美しさは広々と渡る青々とした海のようにお広い。

「急におっしゃられても牛殿は困ってしまいます」

 信長、顎をしゃくり上げたまま、おれを正面の遠くから見下ろして、無言。

 ……。

 ほっほう。この野郎、誰彼構わず短気を起こすくせして、妹にはかなわないのか? クスクス。桶狭間でオジャマロを倒して天下に名乗りを上げた野郎とは思えないぜ。プクク。

「犬もそう思いますでしょう」

「はい」

 満面の笑みを浮かべてこっくりとうなずいた黄色い妹。

 黄色い妹は信長や市姫様に顔立ちが似ておらず、まあ、笑顔に愛嬌があって、可愛らしいことは可愛いんだが、わりとイケメンな信長や天女美少女お市様に比べると、割引感はいなめない。

 てか、犬って……。犬っていうのは、名前なのか?

 つくづく思うが、戦国時代の奴らってのは何を考えているんだろう。人間に犬なんていう名前を付けて、ましてや女の子。おかしいだろ。現代じゃ絶対に出生届は役所を通過しねえだろ。

 ましてや、犬という名前でも、このようにして皆が当たり前な感覚ときたもんだ。

「牛殿は兄上様と初めてお会いしたときに後世から来たとおっしゃられたのよね?」

 市姫様が首をかしげつつ、廊下で土下座をしているおれを覗き込みながら、お優しい声音でたずねてきたので、おれは「はい」とうなずいた。

「まことなの?」

「え、えっと、その、あの、ま、まことかもしれませんし、まことじゃないかもしれませんし」

「まあ」

 市姫様はくすくすと笑った。何がおかしいのかよくわからないが、妹の犬姫様に「わからないんですって」と声をかけて、犬姫様も小さめのお手々を口許にあてがい、くすくすと笑う。

 信長が言う。

「こやつは大法螺吹きなのだ」

「まあ」

 市姫様と犬姫様はいっそうくすくすと笑う。

 何が天女様をそんなにおもしろくさせているんだろう……。それともお優しい気持ちの持ち主の天女様だから、お柔らかい心はちょっとしたことでもふわふわと弾むんだろうか。

「しかし、こやつは俺に桶狭間を進言した。法螺は吹く、身なりはみっともねえ、やることは何事も気狂い しかし時折、妙に賢い。だが、それを褒め称えると与えられた城の蔵を破壊しようとする有り様よ」

「え、えっ? な、なんでおやかた様が」

「市と犬の顔に免じて不問にしてやる」

 おれはあわてて頭を垂れ下げたが、マリオの野郎ォ……。チクってやがったのか、クソ野郎が。

「あら、なにゆえ蔵を壊そうとしたの?」

「い、いや、その……」

「みっともねえ身なりに嫌気が差したが、一文無しゆえん、城の銭貫文を頂戴せしめようとたくらみ、足軽どもをたらしこめて丸太で門をぶち破ろうとしたのだ」

「ええ? そうなの? 牛殿?」

 おれはしょんぼりとうなずくが、急にべらべらべらべらと口数が多くなったかと思えば、市姫様の前でくだらねえ話をしやがって。

「そうなんですって、犬」

 市姫様が犬姫様に声を掛け、犬姫様はぼうっとおれを見つめたあと、すぐに市姫様に顔を合わせ、

「でも、犬は牛殿のお姿はよろしいと思います。牛殿のお姿は珍妙でよろしいかと思います」

 途端、信長がキャッキャッキャと笑い上げた。

「ゆえん、こやつはたった一人で珍奇衆なのだ!」

「あんまり笑って差し上げるものじゃありません、兄上。でも、私も犬の言う通り、牛殿らしくってよろしいかと思うわ。牛殿。ね?」

「あ、あああ有難き幸せ」

 どもっているのがおもしろかったらしく、市姫様と犬姫様もくすくすと笑った。

 褒められているんだかけなされているんだかわからねえが、市姫様のおっしゃられることだ、きっと、お褒めに預かっているはずだ。

 それに、信長が上機嫌ならいいんじゃないのかな。

 お姫様たちだって愉快そうだし。

 上機嫌だし、愉快そうだし……。

 おれはなんだか切なくなっていくが。敷居の向こうの部屋が愉快そうであるたび、切なくなっていくが。

 いつのまにか雨は上がっている様子だった。

 どこからともなく、地面を打つしずくの音が、ぽつらぽつらと聞こえてくる。

 ざんざん振りの雨音が響きわたっていたこの空間であった。しかし、今は止んで、昼下がりのゆっくりとした時間、のびのびとした爽快な空間へと広く開けていた。

 夏の初めの風がさらさらと吹き込んでくる。

 姫様たちの笑い声の華やぎがこの空間を柔らかい優しさに包み込み、信長もまた目を細めて笑っていた。

 空の光が障子窓を透かして差し込む。

 おれは唇を絞ってうつむいた。

 市姫様――。

 桶狭間の戦いが起こって、信長は予定通りに今川義元を倒した。おかげでおれは大出世した。今後、おれの人生がどうなるかはわからない。信長は必ず天下布武の道を歩んでいくのであろうが、おれの知っている歴史通りに事が運ぶのだとしたら、市姫様の将来には波乱の生涯が待ち受けている。

 それでいいんだろうか。おれは知っている。でも、知っているだけでいいんだろうか。

 今日初めて会ったばかりで、今後しょっちゅう会えるとも思えないが、なるたけ、市姫様には素敵な人生を選んでもらいたい。こんなにお優しくて可愛い市姫様には、悲しい思いをしてもらいたくない。

 もしかしたら、おれはそれを知っているから、市姫様がまぶしく見えてしまっているのかもしれないが。

「あっ。姉上様。雨が上がりました」

 急に言い出した犬姫様がすっくと立ち上がり、こちらに駆け寄って敷居をまたいでくると、おれの横を通り抜け、縁側から青く晴れ上がった空を眺めた。

「上がりましたよ、牛殿」

 犬姫様は黒髪を振ってくるりとおれに向いてきたら、満面の笑顔だった。未来にときめいた瞳で、少女の明るさをおれにきらきらと与えてきた。

「もう、犬ったら」

 市姫様は黄色い妹に目を細めて微笑んでおり、信長は鼻先を突き上げながらも口許を緩めていた。


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