簗田牛太郎政綱、誕生
毛利新助君がオジャマロをぶっ殺したあとから今まで、おれは何がどうなってここまで来たのかいまいちよく覚えていない。
というのも、なんだか上の空だった。
勝つんだ、とか、手柄立てるんだ、とか、そうやって息巻いていたおれだったが、オジャマロ死亡前まで持っていた胸の熱さっていうのは、オジャマロが死亡した途端にどこか高いところにふわふわと飛んでいってしまったような感じであった。
なにせ、おれは起こった出来事すべてへの実感がなかった。
オジャマロが死亡したときはあったかもしれん、でも、そこからここまで、周りで何が起きているんだか、よくわからなかった。
あれは桶狭間の戦いだったんだろうか。あれだけ騒いでいた桶狭間の戦いってのはあんなものだったんだろうか。
桶狭間以降、時代は変わる。
なのに、時代が変わっていく実感が湧かない。
沓掛城ってところにおれはいた。
新助君がオジャマロを殺したあと、なんとなく覚えているのは、陣幕が次々に破れ倒れていき、陣の近くで戦っていた織田勢の連中がオジャマロ死亡を確認した。
で、兜に甲冑姿の信長が馬に乗ったまま手下どもをかき分けてきて、新助君が信長に何かしらを叫ぶと、信長も何かしらを叫んだ。そうして、織田勢は一斉にうおーっと鬨の声を上げた。
そのあと、織田勢はドバーッと陣の外へ出ていき、
「貴様も行けえっ! 鈍牛があっ!」
と、信長に怒鳴られて、おれはあわててドバーッと織田勢のあとを追いかけていった。
おれはわけも分からず走るだけで、ときたま、織田の足軽が今川の足軽を殺すのを見かけていて、どうやらオジャマロ死亡を知った今川勢はなりふり構わず逃げ出したようであった。
そうして、桶狭間を出て、どこかへと走った。マタザ師匠もサルも見当たらなくて、おれは織田の知らない連中とともに東へ東へと走った。
走っている途中、黒いふろしき風船を背中に背負った奴や、赤いふろしき風船を背負った奴が、馬に乗っておれの横をものすごい勢いで駆けていき、そして戻ってきては来た道を駆けていき、何事かをさんざん喚き散らしながら行ったり来たりを繰り返していた。
そうして、沓掛城っていう城の前にやって来たときは、すでにお日様は西に傾いていて、城の前で織田勢は止まったので、おれも止まった。
そのうち、馬上の信長が子分どもに囲まれながらやって来た。
「城は空だっ! 今川はお恐れを成して駿府に逃げたぞっ! 者どもっ、我らの勝ちよっ! 織田は今川に勝ったのだっ!」
うおーっと織田勢は騒いだ。おれは何がなんだかわからなかった。
そうして、今は沓掛城の門をくぐって、館の前の広いところであぐらをかいて座っている。
「牛殿っ! 誰か牛殿は知らんかえっ!」
なんだと思ったらサルがどこかで騒いでいた。おれはのっそりと腰を上げ、ここにいるよと言って、大勢の足軽雑兵たちがおのおの車座になっている中で大きく手を振った。
「牛殿っ! 無事だったかえっ!」
サルは西日をハゲ頭に照り返しながら、猿みたいに飛び跳ねていた。おれは思わず笑ってしまった。足軽雑兵たちの間を、すんません、すんません、と頭を下げながらサルのもとへ歩み寄っていき、
「良かっただぎゃあ」
と、胸を撫で下ろしたサルを前にして、おれはなんだかこっ恥ずかしくなってしまい、
「どうも」
と、頭を軽く下げた。
「おみゃあのことだからどっかで迷子になっちまったか、転げて死んだかしたかと思っただぎゃあ。しっかし、おみゃあ、どこに隠れていたんかえ」
おれはむっとした。おれはこいつが本当に心配してくれていたんだと思って、とても気持ちのよい気分でいたのに、結局はこれだ。
むかついたついでにヒルモの件も思い出した。
「おれのヒルモ返せっ!」
おれはサルの胸ぐら掴み上げ、サルの体をぶんぶん揺すったが、木下組の子分どもに囲まれて、十人がかりで地べたに押さえつけられてしまった。
沓掛城っての尾張国の端っこで、ついさっきまで今川方の前線基地みたいなところだったらしい。
「治部が討たれたのを知って逃げ出したんだぎゃあろ。松平次郎三郎も丸根鷲津の両砦から引き上げたみたいだぎゃあし。まあ、完勝だぎゃ」
にゃっはっはっ、と、サルは高らかに笑い上げた。まるでテメエがこの戦いの大将だったみたいに笑っていた。
おれは木下組からちょっと離れたところからサルに睨みを送る。
クソが……。
サルが高笑いするのも無理はねえ。あの野郎は「おれのヒルモ」で桶狭間近くの村人を買収し、そいつらが今川方の本陣に酒を持って行ったみたいだから。
振り返れば合点がいく。今川方が具足を脱いで休憩していたのも、激弱だったのも、酒を飲んでだらけていたからに違いねえ。
ということは、サルのしたことは大手柄。
おれがサルと初めて出会ったとき、こいつにヒルモをだまし取られていなければ。
悔やんでも悔やみきれねえ……。
ましてや、木下組の子分たちは生首を持っていた。グロくて近づきたくなかったが、こいつらは手柄を取った証明として生首を持っているらしい。
そりゃそうだ、あんな血と汗が飛び交う戦闘中、誰かが呑気に記録しているはずがねえ。誰が誰かを殺しただなんて、そいつの首を持って帰ってこなくちゃ証明できやしねえんだ。
おれは――、当然、生首なんて持ってきてねえ。
せっかく、オジャマロの側近をボコボコにしたっていうのに。
あいつ、弱かったけど、絶対に名のある武将に違いないんだ。なのに、無知なおれは、あいつをボコボコにしたっていう証明を何も得ずに、バカみたいにふわふわとした気分でここまで来ちまった。
何をやってんだよ、おれは!
おれは頭を抱えるしかなかった。
すると、一人、負けた気分でがっかりと肩を落としていたら、辺りの連中の話し声が耳に入ってきた。
「今川治部を討ち取ったのは馬廻の新助らしい。俸禄三百貫に加増だってよ」
「さ、三百貫っ?」
「ついでに黒母衣みたいだ。まあ、親指噛みちぎられる格闘だったみたいだからな」
「指っ? うわあ。でも、大将首だもんなあ。くっそう、三百貫なら指ぐらいくれてやってもいいよな」
「あと、馬廻の小平太も加増だと。百貫」
「なんだい、あいつ、首級でも取ったのかい」
「いや、新助と一緒に治部とやり合ったらしい。小平太は治部に膝を斬られていたみたいだ」
「ふーん。二人がかりでも治部は簡単じゃなかったってことか」
おれは丸くなるしかない。
おれだって、おれだって、槍をぶん投げたんだし……。
でも、ハットリ君、良かったな。百貫じゃん。有言実行じゃん。
良かったな、ハットリ君。
おれは自分が情けなくて涙が止まらないが。
「木下組っ! 次っ、木下藤吉郎組っ! 庭先に回ってこいっ!」
と、遠くのほうでふろしき赤風船のやつが叫んだ。
サル以下、子分たちはすっくと立ち上がり、
「牛殿、おみゃあも連れて行ってやるだぎゃ」
と、にやにやと笑いながら誘ってきた。
おれは訳がわからないまま木下組の連中の後ろに付いていき、茂助にどういうことかたずねた。
「論功行賞ですよ」
ろんこうこうしょう?
「上げた手柄の確認と、手柄に対する褒賞です」
がっくり。
サルはテメエの手柄を見せびらかしたいがためにおれを誘ったわけか。
そんでもって生首一つも持っていない、おれ。
くうっ。
おれはなんのためにここまで頑張ってきたんだ。
今日この日のためにおれはマタザ師匠にしごかれてきたっていうのに。
今日この日のために信長に桶狭間を教えてやったっていうのに。
今日この日に何も成し遂げられなくて、どうしてあずにゃんを迎えに行けるっていうんだい。
くそう……。
おれは沓掛城の庭先に木下組とともに整列して地べたに両膝つけたときも、滲む涙をこらえられなかった。
館の縁側には甲冑姿の信長が座っており、その周りには森三左衛門を始めとしたゴリラどもが突っ立っていて、赤風船の奴ら、黒風船の奴ら、クローザやインチキ芸能記者なんかも褒賞式に並んでいる一員だった。
木下組の連中はゴザの上に生首を並べていき、その数は全部で十一個。
フン、バカが。
今川方は酒飲んであんだけ弱かったってのにこいつらは十一人しか殺せていないってのかい。
バカが。ザコが。
クソが……。
くううっ。
おれはゼロ。
「検分せい」
と、信長が言って、クローザが一人の武将を引き連れて、生首の前に立った。クローザが連れている武将は疲れきっていたが、生首を一つ一つ確認していった。
あの確認している奴、どうも織田方っぽくない。寝返ったのか、取っ捕まったのか、今川の武将っぽい。
「知れた顔はありませぬ」
と、武将がクローザに呟いた。
「そ、そんなことはねえだぎゃあろおっ!」
サルが腰を浮かせて騒いだが、「控えろ」と、クローザが冷たく言い放ち、サルは泣きそうな顔になりながら腰を戻した。
木下組の子分どもも揃って頭を垂らす。
おれは笑いをこらえる。生首はどれもこれもザコだったらしい。やばい、笑いが止まらん。
で、クローザは信長の脇にいる白髪混じりのオッサンに向かって首を振り、白髪混じりのオッサンは信長にぼそぼそと囁いた。
フン、と、信長は鼻で笑った。
「サル、そんなもんか」
「も、申し訳ねえですぎゃあっ!」
サルは両肩を震わせながら地べたにおでこをつけて這いつくばり、おれも一緒に土下座してやったが、笑いを見せられたくねえから土下座して隠しただけだ。
「だが、いいだろう。貴様は機転を利かせ、今川本陣に油断を作った」
えっ?
な、なんなの、おやかた様、その優しい声音は。いつもみたいにブチ切れて蹴飛ばして踏んづけるんじゃないの?
「足軽大将に昇格だ。俸禄は二百貫文をくれてやる」
おれは瞳孔を広げて、口をあんぐり。
サルも瞳孔を広げて、口をあんぐり。
白髪混じりのおっさんが声を大きくして響かせる。
「足軽大将、木下藤吉郎秀吉! 加増二百貫文にて! 大儀であった!」
「有難き幸せえっ!」
サルはおでこを地べたにつけて叫んだ。子分どもも一斉に頭を下げた。有難き幸せ、有難き幸せ、と、本当に、心の底から有難がっていて、幸せが爆発しているかのようであった。
唯一、おれ一人だけが呆然として頭を下げないでいる。
「なんだ、貴様」
はっ、として、おれは声の主の信長に視線を向けた。そして、あわてて両手をついて、頭を下げた。
「貴様、なにゆえサルとともにいる」
と、さきほどの声音の優しいおやかた様は、打って変わっていつもの信長に変貌していた。
「い、いやっ、そのっ」
「貴様は足軽組衆か? ああっ? 貴様はいつからサルの手下になったんだ。どういうことだっ、サルっ!」
「い、いえっ、ち、違いますだぎゃあっ、きゃ、きゃつが勝手に付いてきてしまいましてっ」
なっ!
なんて野郎だ、クソザルっ! ヒルモを騙し取ったばかりか、テメエの罪をおれになすりつけようとしてやがるっ!
「貴様らあっ、勝手な真似をしているんじゃねえっ!」
信長の怒号は庭先いっぱいに響き渡り、勝利の余韻でどこか浮ついていた気配もすっかりしんと静まり返ってしまった。
「まあ、大目に見てやっては。勝ちいくさにて」
森サンザが――、いや、森三左衛門さんが信長をなだめてくれていた。
「フン。ならば、三左の顔に免じてやる」
た、助かった……。
勝ったいくさのあとでボコボコにされるだなんて、たまったもんじゃねえや。しかも、手柄はなんもねえし。これでぶん殴られたんじゃ、まさに泣きっ面に蜂だ。
だが、ほっと胸を撫で下ろしたのもつかの間、信長はまたおれを呼びかけてきた。
「で、牛」
「は、は、はいぃっ」
「貴様はねえのか」
「えっ? あっ、いやっ、す、すんませんス……」
「ねえのか」
と、しつこいので視線をちらりと上げてみると、信長はおれではなくて、庭先に集っている連中を眺め見ていた。
「お、恐れながらっ!」
おれは声の主に振り返った。ハットリ君か、と、思ったら、ハットリ君だった。オジャマロに斬られた足を引きずりながら、自分の立っていたところからちょっと前に出てきた。
「う、牛殿はっ、拙者や新助とともに、治部大輔に立ち向かった次第でありますっ。牛殿がおらんかったら、拙者は治部に斬り倒されていたに違いありませんっ」
西日が涙で滲んだ。
瞼に溜まった熱いものをおれは拭わずにはいられなかった。
「おやかた様っ、牛殿にも褒賞をっ」
信長はハットリ君をじいっと見つめ、そうして、隣の白髪混じりのオッサンに顔を向けた。
「小平太や新助以外に、牛が治部と争ったところを見たという者はいたか」
「いえ。簗田牛太郎マサシの戦いを見た者はおりませぬ」
「そうか。まあ、いいだろう」
信長は口許に笑みを浮かべながらおれに視線を向けてきた。
えっ、えっ、えっ、お、おれにも手柄が? くれるの? 加増してくれるの?
「簗田牛太郎マサシ?」
ところが、信長は急に眉根をしかめ、白髪混じりのオッサンに顔を向けてしまった。
「なんだ、牛太郎マサシとは」
「こやつの通称は牛太郎、諱をマサシと聞いておりますゆえ」
「いつ、かような名を持った、貴様」
「えっ、い、いやっ、ま、前にもおやかた様に言ったはずが。あ、あと、牛太郎ってのは三左衛門さんが」
信長はくるりとサンザに向いた。サンザはおどおどしながら視線を下げた。
「フン。まあいい。だが、マサシとはなんだ、マサシとは。どのように書くのだ、あん?」
「えっ、えっ、そ、その、政治の政です……」
「ならば今日から政綱を名乗れ。貴様は綱を巻いているからな。それに俺は一文字は好かんし。二文字にしろ。褒美だ、その巻いている綱もろともくれてやる。政綱を名乗れ」
……。
なんじゃい、それ……。
褒美がこのどうでもいい綱と、無形でしかない「綱」という文字だと? そんでもって今日から簗田牛太郎政綱だと? おいおい、おれの自由ってないのかい。そんなクッソみてえな名前がこれまで頑張ってきたことへの褒美かい。
なんなんだよ、それ。
なんなんだよ、クソ信長。
「して、簗田牛太郎、貴様の論功であるが――」
ん?
「この一戦、桶狭間への奇襲を俺に進言したのは他でもない貴様だ。貴様の進言がなければ今日の勝利はなかった」
えっ……。
「えっ」
と、声に出したのはおれじゃない。サルや、サルの子分ども、庭先に集っている連中、信長の脇を固めている連中、皆が皆、「えっ」と目を丸めて顔を上げていた。
信長はいたずら好きの子供みたいにして黒い瞳をきらきらと輝かせながら、口端にいっぱいの笑みを浮かべている。
「貴様をこのいくさの勲功第一とする」
途端、皆がざわついた。
「褒美はこの沓掛城及び、沓掛の所領三千貫よ。わかったかっ、牛っ!」
おれは何がなんだかわからなかった。唖然呆然として信長に見とれているだけだった。
「さ、三千貫って、あの、あっし、あっし、あっしの俸禄って十貫なんスけど……」
「頭を下げんかっ! この鈍牛っ!」
と、クローザがニヤニヤ笑いながらもずかずかと歩いてきて、おれの髪の毛を引っ掴んで、地面に打ち付けた。
「礼を申せっ!」
「あ、あ、ありがとうございますっ!」
そうして、白髪混じりオッサンの大きな声が、夕闇迫る沓掛城の庭先に響いた。
「珍奇衆筆頭、簗田牛太郎政綱、このいくさの勲功第一にて沓掛三千貫の褒美とするっ!」




