出陣前夜
朝起きたらマタザ師匠はいなかった。二日酔いを頭に響かせながら居土間を眺めやると、確かに昨晩はどんちゃん騒ぎをしていたのに、いつものすっからかんの居土間、酒や肴で酔いどれていた痕跡はなかった。
おれは頭を押さえながら裏庭に出てみる。案の定、ヌエバアが井戸水で洗濯をしていた。
「バアさん。マタザ殿は?」
「又左衛門さんなら奥方が連れて帰ったがね」
「え?」
ヌエバアはごしごしと洗濯をするまま、背中だけをおれに見せて言う。
「旦那様は寝ちまってたから知らんだろうけども、荒子の実家のご家来とかいう若いのが来て、酔い潰れた又左衛門さんを奥方と一緒に連れて帰ったがや。ほんで、藤吉郎さんと寧々も帰ったがや」
「そ、そっか」
八っちゃんだな。八っちゃんが来たってことは、やっぱり、まつにゃんは最初からマタザを連れて帰るつもりだったんだ。どうせ言うこと聞かないからマタザを酔い潰すという作戦で。
「そっか。んじゃ、おれは行ってくるわ。帰ってきたときには朝メシよろしく」
「行く? どこに行くんがね」
「いや、いつもの通り走ってくるんだが」
「飲み過ぎじゃないんがね。ほんな千鳥足で行くんかえ」
「二日酔いだからって毎日やっていることをやめるわけにもいかねえじゃん」
ということで、おれは朝のマラソンに出かける。
はー、気持ち悪い。
初夏の日差しも鬱陶しいほどに気持ち悪い。気持ち悪すぎてたまにジョギングになってしまう。んでも、テメエの生ぬるさに叱咤激励し、ダッシュする。
勝たなくちゃいかんのだから。
織田は今川に勝つ。それをおれは知っている。おれが寝ていても織田は勝つ。
しかし、それじゃおれが勝ったわけではない。
だから、手柄を立てる。
違う。
情けないながら人生二十六年目でようやく知った。いや、おれにわからせてくれたのは無為に過ごしてきたこの二十六年の月日ではなくて、この時代にやって来てからたった半年ばかりに起こった嫌になるほどの様々な出来事と、嫌になるほどの腹立たしい連中たちだ。
ぶん殴られた、騙された、虚仮にされた。もぐら叩きのもぐらみたいに出るとこ出るとこピコピコハンマーでボコボコ叩かれた。
人生とはここまでうまく行かないものかと思い知らされた。せっかくのタイムスリップ男だっていうのに何もできやしねえんだから。
だから、ここで手柄を立てる。
違う。
おれはここでテメエ自身に勝たなくちゃならねえんだ。手柄とか、銭貫文とか、おにゃの子とかじゃねえ。そんなものは全部、テメエがテメエ自身に打ち勝ったときに後から付いてくるものだ。
テメエ自身に勝てなかったところで、欲しいものが手に入るはずがねえ。世の中そんなに甘くはねえ。おれは戦国時代に叩き落とされて、つくづく知ったんだ。果報は寝て待って来るものじゃなく、テメエ自らが掴み取りに行くものだと。
マタザはバカだが、あいつのおかげで知った。指名手配中のあいつの見っともなさを目の当たりにしていたおかげで知った。見っともないなら見っともないなりに戦わなくちゃならねえってことを。あいつはバカだが戦っているわけだった。バカがバカなりに精一杯頑張っているわけだった。あいつは寝て待ってもどうしようもなく、自らが戦わなくちゃ浮かばれないのだから。
おれはなんとなくわかる。どうせあのバカはまつにゃんや兄貴のところからも脱走するに違いない。
じゃないと、テメエ自身に勝てないだろうから。おそらく、あいつの中では。
ダッシュとジョギング、ランニングを繰り返しているうち、おれは信長と初めて出会った川にやって来た。
川の水でじゃぶじゃぶと顔を洗い、喉が乾いていたので掌にすくった水を飲もうとしたが、やめた。腹を下しそうだった。
「呉牛か」
おれは掌にすくった川水を見つめたまま呟いた。川水は指の間からちょろちょろと漏れ出ていく。そのうち、掌は空っぽになった。
空は透き通るほどに青く、雲はこの手に掴み取れそうなほどに白く際立っている。
風が吹いていた。草木の香ばしさを乗せていた。
瞼を閉じれば、川の流れに音はない。
「呉牛」
その声にはっとして振り返ると、なだらかな土手の上には馬上のクローザがいた。
「あ、ども」
「何をしている」
「いや、別に。朝一番に走っていただけッス」
「朝一番というほどの朝ではない」
チッ。うるせえな。今となってはこの野郎にはマタザよりも会いたくねえ。
クローザはおれなんかやり過ごしてさっさとどっかに行きゃあいいのに、馬に跨ったまま土手を下りてきて、下馬して杭に手綱を締めると、いちいちおれに歩み寄ってきた。
「お主、近頃は毎朝城下を走り回っているようだな。何をしている」
「だから、ただ単に走っているだけッスよ」
「その走る理由を問うているのだ」
チッ。
「体力つけるためッスよ。あっしは体力がないんでね。いくさのときに走っただけで疲れちまったら使い物にならないと思ったんスよ」
「又左にそうしろと言われたか」
「別に」
「又左はどうしている」
「おまつさんが連れて帰りましたよ。その後、どうするかは知らないッスけど」
「左様か。ならいい」
「なんでですか」
「あの奥方は幼いながら賢い。ゆえに又左が不利になるような行いはせん」
あっそ。テメーの話なんざどうでもええわ。帰ろ帰ろ。
と、踵を返したら、ビュッ、と、刃先が飛んできて、おれの首元には光り輝く鋭利なものが。
眉根をしかめてちらっと見やれば、突如として抜刀してき、おれの首に太刀を留め置くクローザ、奥がありそうでなさそうな冷たい瞳をおれに据えてきている。
「なんスか?」
「なにゆえ怯まん」
「は?」
「俺が手元を動かせばお主は死ぬぞ」
「何言ってんスか? あっしにはクローザさんに斬られる理由でもあんスか?」
何も答えずにクローザは太刀を握ったままじいっと見つめてくる。
なんだこいつ。おれは刃先を親指と人差し指でつまみ、持ち上げてどかしてその下をくぐり出て、スタスタと土手に向かう。
背後では、カチャ、と、太刀を鞘におさめる音が。
「見違えたな、呉牛」
おれは振り返って眉をひそめた。
「は?」
「先年、お主が初めてここに現れたときは、失禁しておったではないか。だが今ではぴくりともせん。むしろ、ふてぶてしい」
フン、と、鼻で笑って、クローザは杭に繋いでいる馬へと歩み寄っていく。
「おやかた様がお呼びだ。付いて参れ」
「ちょっ! クローザさんっ! なんでおやかた様に呼ばれたとか言って、あっしが牢屋にぶちこまれなくちゃなんねえんッスかっ! あっし、なんも悪いことなんてしてねえッスよっ!」
「今川が着陣するまで、お主を城に繋いでおけとのお達しだ。しかし、城にはお主なんぞを寝泊まりさせる部屋などない。ゆえにここだ」
「いやっ、あるでしょっ! せめて馬小屋ぐらいはあるでしょっ!」
格子の向こうのクローザはおれの叫びも無視してくるりと背中を向けてしまい、とっとと立ち去っていってしまった。
あんの野郎だきゃあ……。
クソッ!
二畳分程度の狭い牢屋。便所もねえ。てか、寝泊まりする部屋がねえっていうだけの理由なら、わざわざ扉に板鍵を下ろさなくたっていいじゃねえか。嫌がらせじゃねえか、どう考えても。
いや、まさか、おれはいつのまにか罪人になったんじゃ……。
マタザを匿っていたという理由で……。
ないな。それだったら、即、信長に呼び出されてボコられるはずだ。やっぱりこれはクローザの嫌がらせだ。
チッ。仕方ねえ。筋トレするか。
清州城の牢屋に監禁されて一晩が経ち、格子の窓から朝日が差し込んで目が覚めて、また夕方になって、いつまでおれを監禁してやがるのか、それとも本当におれは罪人に仕立て上げられちまったのだろうか、でも、朝昼晩と(粗末な)メシは出てきて、うんこか小便がしたけりゃ大声を出して門番を呼び出し、その間だけ牢屋から出られる。
どうして監禁されているのか、門番に訊ねてみれば、「知らん」の一言。
すると、暮れになって、おれあてにたずね人だと言って、門番が連れてきた。
ヌエバアともう一人、見知らぬオバサンであった。
「旦那様が戻ってこなくなったんで訊いて回ってみたら城におるっちゅうんで」
バアさんに付いてきたオバサンが誰なのか格子越しに訊ねたら、バアサンの息子の嫁、ハットリ君のお母さんだと言う。
「旦那様はいくさまで戻られん言うのを聞いたがね。んで、持ってきたがね」
ババアがそう言うと、オバサンが背負っていた箱を格子枠の手前に差し出してきて、中身を見せてきた。目を凝らして見てみると、足軽雑兵が身につけている籠手とか脛当てとか鉄板入りの鉢巻きとかだった。
「なんだよ、それ」
「死んだ倅が使っていたもんがね。槍や刀は小平太が持っているんでねえけども、家で埃を被っているだけだったから旦那様に着けてほしいんがね」
「え、いや……」
と、おれは遠慮した。妙にババアが辛気臭いツラしているんで、気色悪いのもあった。
「ただ、胴丸だけは、旦那様の図体じゃ小さいんで、これで勘弁してくれんがね」
「え、いや……」
「どうせ、準備してないんやし」
むう……。
おれが気色がって難しい顔をしていると、オバサンのほうが言った。
「簗田様。うちの小平太をよろしくお願いします」
「え、いや……」
「ほんだらどうでもええ。女は用が済んだらさっさと行くもんがや」
と、ババアは手をついてお辞儀をしていたオバサンの襟首を摘んで起こし、牢屋の前から消えていった。
おれは愛想のねえババアのしように腕組みをして考えた。
なぜ、ババアはそんな大事なもんをおれなんかにくれたのか。
ババアはババアなりにおれに託したいものがあるんだろうか。
手をついてお辞儀をしてきたオバサンと同じようにして、ハットリ君をよろしくという意味なのだろうか。
それとも、また別の何かがあるんだろうか。
おれは門番を呼んで、そこにある箱を中に入れてくれるよう頼んだ。おれは多分罪人でもないので、門番はすんなりと中に箱を入れてきて、また消えた。
おれは筒袖の短着の上から箱の中の籠手袖に腕を通し、股引の足に脛当てを装着してみて、額に鉢巻きを縛り付けてみた。
ババアの死んだ倅の汗水を感じたような気がした。
門番以外の人間が牢屋にやって来たのは翌日の夜更けのことだった。食い散らかした茶碗とお椀をぶん投げてぐうぐう寝ていたら、牢屋の前にのっそりとした気配が現れたので、クローザの野郎かと思っていきり立ち上がってみたところ、森サンザさんであった。
「あっ、ども」
サンザさんは、おれを見てふっと笑った。
「なんだ、お主。いくさの支度をすっかり済ませておるのか」
「あ、いや」
で、サンザさんは鍵板を外し、牢屋の扉を開けてきたのだが、おれは呆然と立ち尽くす。
「あ、あの、なんでサンザさんが」
「お主を城に入れておくよう命じたのはわしだ」
「えっ?」
「お主が桶狭間の立案者だからな。ゆえに漏らされたら困る」
「も、漏らさないッスよっ! てかっ、あんまりじゃねえッスかっ! 牢屋だなんてっ!」
「すまんすまん」
サンザさんは笑ってごまかしているが、おれは籠手袖の拳をぎゅうっと握り締め、いくらなんでもサンザさんだからって我慢ならねえこともあるってこった。
「あっしは罪人でもなんでもねえんッスよっ! 漏らされたら困るの一言ぐらい言ってくれりゃあ、あっしだって口でも縛り付けたっていうのにっ!」
「よく言うわい。又左衛門を匿っていたくせに。どころか、又左衛門が我が家にいると吹いて回っていたくせに」
ぐっ……。
「そういうところ、お主はちっとも信用できん」
ぐぬぬ……。こ、このサンザの野郎、この前はおれを信用しているって言ったくせに。
「それより、付いて参れ。おやかた様がお主をお呼びだ」
「えっ?」
「出陣よ」
と、サンザは牢屋から踵を返した。
「えっ?」
おれはサンザの背中を眺めながら呆然と突っ立った。
出陣――。
その言葉を初めて現実的な形あるものとして耳にしたとき、おれは足がすくんで体中が震え、武者震いか、恐れおののいているんだか、とにもかくにも鳥肌が立つほど寒くなってしまった。




