呉牛、酒に吼える
囲炉裏を挟んで、マタザとまつにゃんは向かい合っていた。
燭台の火がゆらめく居土間で、半年耐え忍んだ怒りをぶつけんばかりに目許を切り結んで見つめるまつにゃん、どうして来たんだと言わんばかりに眉間に皺を集めているマタザ。
半年ぶりに再会した若夫婦はただひたすら無言で見つめ合っていて、そんな生唾飲み込む沈黙の空間に恐れを成して、おれはサルと二人で台所と居土間を仕切る間口から覗くだけ。
寧々さんは両手を胸の前で握り締めたまま、玄関に突っ立って、まつにゃんを見守っている。
ゴシゴシと音がするのは、ヌエバアは素知らぬ振りで、野菜をたらいで洗っているからだ。
「てか、藤吉郎殿」
おれはサルにひそひそと耳打ち。
「おまつ殿とは寧々さんも面識があったんスか」
「そりゃそうだがや。あの女は世話焼き姐さんで、顔が広いだぎゃ」
「はあ。納得」
それにしたって、当然ながらまつにゃんはマタザを我が家に連れ戻すだろう。きっと、実家の兄貴とも話がついているはずだ。兄貴ともどもマタザは信長に土下座しに行くのか、それとも信長に会いに行くどころか実家で腹を切らされるか。
師匠がいなくなったらおれは一人で修行か。
せめて師匠には地味な筋力トレーニングだけではなくて、槍捌きのいろはぐらいは教わっておきたかったが。
「まつ」
と、沈黙を破ったのはマタザからだった。破った途端、マタザはゆっくりと腰を下ろし、その場にあぐらを組んで、腕も組んだ。
「お前がなんと言おうと、荒子の兄者がなんと言っていようと、俺は帰らん。連れ戻そうとするならばまた逃げる」
マタザは目を瞑った。大仏様のようにしてそこから動かんとする意志を表していた。
まつにゃんは厳しい眼差しをマタザに注ぎ続ける。
「俺は俺が正しいと思うままに行っただけだ。それは今でも悔やんでおらん」
「わかっております」
と、まつにゃんは口を開いた。静かに、諭すように、まるでマタザよりもずっと年上のお姉さんかお母さんかのように。
そうして、まつにゃんは足元に置いてあった桐の箱を持ち上げ、目許を厳しく結んだまま、箱をマタザに差し出した。
「旦那様は戦国の御仁、私は戦国の女、旦那様に嫁いだその日から何もかもを覚悟しております。ゆえに、今日はこれをお渡しに參りました」
ゆっくりとまつにゃんを見上げ、マタザはたずねる。
「なんだ、それは」
「赤母衣です」
アカボロ……?
そういや誰かが言っていたような。
マタザは信長に抜擢された赤母衣衆とかいう精鋭の集まりの一人で、いくさのときは赤いボロを着るのだとかなんだとか。
つまり、赤いボロは信長に認められた証、名誉のボロだということで。
むう…。
まつにゃんって、なんて出来たおにゃの子なんだろうか。
それに比べて男ってのはわがままで情けないもんだ。
「そうか、まつ……。すまん……」
師匠は詫びの言葉をひねり出しながら桐の箱を受け取った。
情けない奴。
おれはあんな野郎には絶対にならない。師匠の真似をするのは師匠の腕っ節だけだ。誰かの人生を犠牲にしてまでテメエのわがままを貫き通すような前田マタザエモンの生き様なんて絶対に真似してたまるか。
おれは男の生き様の王道を行くんだ。
きっちり正攻法で手柄を取って、あずにゃんの耳にこの名を伝えるんだ。
「にゃあにゃあ、しみったれた話はそこまでですぎゃあ。今晩は酒を持ってきておりますだぎゃ。積もる話は酒を舐めながらにしましょうですぎゃ」
サルはタイミング良く居土間に入っていくと、玄関に置いてあった酒の瓶を寧々さんに持ってこさせ、
「そうだぎゃあな、牛殿」
と、にやっと笑いながらおれに振り返ってきた。
ヌエバアが腕を振るって作った塩っ辛い料理と、寧々さんが持ってきたという干物と、見返りありきのサル持参の酒によって、ほのぼのとした宴会が始まった。
まつにゃんとサル、寧々さんは、昔から見知った間柄らしいが、話によれば、マタザとは一言二言会話を交わした程度のようだった。また、マタザは元赤母衣衆、サルは野良猿上がり、寧々さんは足軽組頭の娘という程度なので、マタザと膝を突き合わせて酒を飲むなどもっての他らしいが、今ではマタザはただの浪人である。いや、それどころか指名手配中である。最初はこびへつらってマタザに酒を注いでいたサルであったが、
「木下藤吉郎。そう気を使わねえでくれ。俺は今は追われている身。お前に遠慮されると俺の肩身が狭い」
マタザがそう言ってサルに酌をした途端、いつもの馴れ馴れしいサルが始まった。
「にゃあにゃあ、清洲に潜伏していくさの日を待っているとは見上げた男だぎゃ」
などと、又左の肩をバチバチ叩きながら酒をすすり、ちらっとおれを見やってくる。
「ほんで、又左殿と牛殿は、二人で何をたくらんでいるんですかえ?」
「たくらんでいる?」
お椀になみなみ注がれた酒をずずっとすすったマタザは、すでに目の縁が赤くなってきている。
「何もたくらんじゃいねえ。今川治部が尾張に来たら、俺とこいつで迎え撃つ、それだけのことだ」
「ほーん。迎え撃つ。槍の又左殿が、牛殿なんかと」
にやにやと笑いながら、サルはおれを見つめてくる。おれはじいっとサルを見返すまま、お椀の酒をちびりと舐める。
「お前様」
と、寧々さん。
「もういいではありませんか。せっかくおまつさんは前田様にお会いできたんですよ。さっきからいくさいくさと。せめて今日だけは忘れられませんか」
「いや、私などよろしいですわ、寧々さん」
まつにゃんと寧々さんは酒を飲んではおらず、料理をてきぱきと小皿に分けては、たまに料理をつまんで食べる程度である。それでいて楽しそうである。
おれは目尻を緩めるまつにゃんと寧々さんをじいっと見つめながら、お椀の酒をちびりと舐める。
「というか、木下藤吉郎、このおなごはお前の奥か。お前は独り身だと耳に挟んだことがあったが」
「まあ、そんなもんですぎゃ」
「そんなもんってどんなものなんです。言っておきますが、私はお前様とはただの知り合い程度ですよ」
「ええ? 左様でございますの、寧々さん」
「ええ、そうなんですよ、おまつさん。ま、この人が私を貰いたいのならくれてやりますけどね。いつまで経っても私の父母には貰いたいと言い出せないようですが」
そう言って、寧々さんはサルをじろっと見やる。サルは無言で酒をすする。
「杉原さんとこのおっ母は怖え人やからねえ」
と、ヌエバアが台所から口を挟んできて、げらげらと笑い上げたのはマタザ。
「そんなことじゃいつまで経ってもお前はこいつを貰えんではないか!」
「いんや、又左殿、ほんとにおっかねえんですぎゃ……」
「でも、それは口実かもしれませんけど。胸の内では他のおなごにもちょっかいを出したいからと考えているのかもしれませんけど」
「おみゃあは黙っとりゃれえ。さっきからうるせえんだぎゃ」
「まあ、こんなにおとなしい藤吉郎さんをお目にかけたのは初めてですわ」
まつにゃんがそう言って、再びげらげらくすくす笑い上げる一同。
おれはまったくおもしろなくて酒をちびり。
そんなおれを目ざとく見つけてきたマタザ。
「なんだ、牛。お前もずいぶんとおとなしいじゃねえか」
「いや、あっしは酒はあんましあれなんで……」
「おいおい、酒ぐれえ飲めるようになれや」
げらげら笑いっぱなしの愉快そうなマタザ。
……。
なんだこいつ。
この野郎、テメエの今の立場がわかってんのか? あ? 指名手配中だぞ、コラ。しかも、「すまん」だなんて情けない声でまつにゃんに詫びを入れていたじゃねえか。それがなんだ、このザマ。
てか、マタザだけじゃねえ。サルだって、寧々さんだって、まつにゃんだって、ヌエバアだって、どいつもこいつもなんなんだ、この戦国ヌクモリティ。
人の家に突然押しかけてきて、突然宴会始めて、イチャイチャイチャイチャ、こちとら手柄を立てるために一分一秒を惜しんで体を鍛え上げているってのに、イチャイチャイチャイチャ、一週間後には今川の大軍は押し寄せてくるってのに、イチャイチャイチャイチャ、くっだらねえ和み話ばっかしやがって、イチャイチャイチャイチャ、ただでさえまずい酒が更にまずいってんだ、このクソ野郎どもめ。
「そういや」
すでに目が据わっているマタザは、酔っぱらいの例に漏れないだらしない口の緩みをおれに見せてきた。
「牛。お前が惚れたおなごって誰だ?」
すると、イチャイチャしていただけの居土間の空気は、急に好奇心旺盛なワクワク感に支配され、
「えっ? 牛殿にはそうした御方がいらっしゃるのですか?」
と、さっきまでキリッしていたくせに、まつにゃんは突如として詮索したがりのおにゃの子になった。
にやにやと笑っている、というよりか、苦笑か失笑している寧々さん。
「まさか、あの御方じゃありませんよね、牛殿」
「あの御方。どの御方だ?」
マタザはバカみたいに目をきらめかせている。
「あの御方だったら、身の程知らずもいいところだぎゃ。てか、この前はあのあとどうしたんだぎゃ。まさか、おりゃあを売ってねえだぎゃろうな。なあ、牛殿。売ってねえだぎゃろうな」
何に怯えているんだか、サルはしつこく念を押してくる。
「おい、誰だ、あの御方って。おい、牛」
おれはため息をついたあと酒をちびりとすすり、もう一度、ため息をついてから言った。
「柴田ゴンロクさんの妹さんの梓殿ッスよ」
マタザはぽかんと口を開けた。
「あ、梓殿って、柴田様の妹様の梓殿でございますか?」
「いや、おまつさん、だから、その通りにあっしは言ったじゃないッスか」
「は、はあ」
まつにゃんは一瞬ぼけえっとしたが、視線をそそくさと板床の上の料理に移し、ごまかすようにして漬け物を一枚箸で取って、口の中に運んだ。
「まったく……」
と、寧々さんがため息まじりに呟き、サルは一言、
「うつけだぎゃ」
「何がッスかっ!」
おれは唸り散らすと、お椀の中身をがぶがぶと飲み干し、空っぽになったらガツンと床に叩き置いた。
「何か、あっしの言っていることはおかしいッスかねっ! 皆々様っ!」
イチャイチャ野郎どもはしーんと黙っておれに答えず。
「そりゃ確かにねえっ、身分不相応かもしんないッスよっ! んでも、好きになるぐらいは自由じゃねえんスかっ?」
酒をちびりとすすり、漬け物をポリポリと食べ、何も答えないイチャイチャ野郎ども。
「それにねえっ! あの人はおれに言ったんだっ! 待っているって! おれが手柄を立てるのを待っているって!」
「ええっ!」
と、しーんとしていたくせに、急に飛び上がったイチャイチャ野郎ども。
目を白黒させていれば、互いが互いに顔を見合わせ、おれは酒瓶をサルの手元からひったくってきて、お椀にびちゃびちゃと注いでいき、
「おい、牛、くだらねえ法螺吹くんじゃねえ」
と、マタザは興ざめしており、
「まさか梓様が牛殿に、ねえ?」
と、寧々さんはまつにゃんに首を傾げて見せて、まつにゃんはおれをうかがいつつも、こくりと首を縦に振り、
しかし、サルだけはじっとしてぐびぐびと酒を飲むおれを見つめてきていた。
再びお椀を叩き置いたおれは叫ぶ。
「別に信じてくれなくてもいいッスよっ! あっしはあんたらに信じてもらうために手柄を立てるんじゃないんスからっ!」
「手柄手柄って」
サルが横で呟く。
「おみゃあなんかが手柄なんか立てられるわけねえだぎゃあろが」
「そんなのやってみねえとわかんねえじゃねえッスか」
「何を言ってんだぎゃあな。今度のいくさは籠城だぎゃあぞ。例えおみゃあが武勇の者だったとしても、手柄を立てる好機なんて生まれねえんだぎゃ」
「へっ。そうやってほざいてりゃいいじゃねえッスか」
「ほざいてんのはおみゃあだぎゃあろ。夢でも見ているんかえ。梓殿がどうのこうの、森殿がどうのこうのと法螺ばっかこいて」
「だからあ、法螺じゃねえって言ってんでしょうよっ」
「法螺だぎゃあろが。おみゃあなんかが森殿と口がきけるわけねえだぎゃろうが」
「口がきけるわけねえって、口をきいたんだから法螺じゃねえだろうがっ!」
「ほんだら、なんて口をきいたんかえっ! 言ってみんかえ、この法螺牛っ! どうやって手柄を立てるつもりなんかえ、この野良牛っ!」
「桶狭間だよっ!」
「にゃあ?」
「今川の兵隊が二万だろうが何万だろうが、織田は桶狭間で奇襲を打つんだよっ! いいかっ、これはおれが信長に言ったんだっ! その案を信長が採用したってのを森ナントカさんが言ったんだっ! わかったかっ、このエテ公っ!」
「そういうことかえ」
ずずっと酒をすすったエテ公。
「お、桶狭間……」
ぼそっと呟いたマタザ。
熱い息を鼻の穴から吹き出し、おれは酒瓶からお椀へ酒をびちゃびちゃと注ぐ。
「フヒヒ。そうそう桶狭間だよ。おれは知ってんだから。そこでおれは手柄立てんだから。あずにゃんが待っているんだから」
ぐいっと酒を飲んだおれは、酒瓶を持ったまま腰を上げると、マタザの隣にどっかりと座り込み、師匠のお椀に酒をびちゃびちゃと注いだ。
「師匠、頼んますよ。おれは手柄立てたいんスから。おれをみっちり鍛えてくださいよ。ねえ、師匠」
「お、おう……」
「飲みが足んねえじゃねえんスかあっ、師匠っ」
「お、おう……」
おれはマタザの肩をバチバチと叩いたが、次の日には宴会の記憶はほとんどなかった。




