野良牛が迷い込んだか、この清洲に
昔の日本は、こんなに貧相だったのか。
町っぽいところに入ってきたが、ほったて小屋ばかりが並んでいる。板葺きの屋根やら、土壁やら、建て付けの粗末そうな引き戸やら、火事でも起きれば、燃え広がって全滅だ。
道行く人たちもこれまた貧相だ。どいつもこいつも汚っタねえ身なり。
半纏みたいなものにツギハギしている奴ばかり。
と、思えば、今、おれとすれ違った野郎は、上着一枚、ズボンも履いてない。ふんどし一丁。汚っタねえケツを半分出してやがった。
もっとも、こいつらからしたら、おれのほうが変人に見えるようだ。なにせ、おれはグレーのスウェット上下だ。
そして、裸足、髪はボサボサ。
時代がどうのこうの関係なく、我ながら、なかなかの変人だ。
とにかくも、あずにゃんとババアのあとを黙って付いていく。
やがて、町並みは、ボロ小屋の詰め合わせから、毛の生えた屋敷町になってきた。
瓦葺きの門が通りにせせり出てきている。
あずにゃんは、身なりや口ぶりからして、どこぞのお嬢さんなんだろう。
「わらわの住まいじゃ」
あずにゃんとババアが立ち止まった先は、門を構えた屋敷であった。
門をくぐっていき、開け放たれた玄関の前までやって来た。
「さすがに兄上に了承を得なければならん」
あずにゃんとババアは先に玄関に上がっていった。
おれはやや待たされた。
あずにゃんの兄貴が家主ということか。
あの妹にして、兄貴はイケメンに違いない。年齢はおそらく二十五、六ってとこか。んで、兄妹そろって世話好きなんだ。「記憶が戻るまで遠慮なく我が家にいるがよい」なんてね。
そのうち、さっきのババアが玄関から出てきた。
「こちらへ」
などと、ぶっきらぼうに建屋をぐるりと回って庭へうながされる。
「こちらでお待ちを」
ババアは戻っていった。
おれはそこに突っ立った。目の前には縁側だった。廊下かな。
戸が開いていて、中の広間が見える。そこの広間には誰もいない。薄暗くもある。時代劇によくある。
と、そこへ、ドカドカとやって来た。和服を帯で締めている、ヒゲむくじゃらのゴリラみてえな野郎が。
キョドった。
ゴリラは、縁側の真ん中でぴたっと立ち止まり、おれをギラッと睨みつけてくる。
突然、
「くせ者っ!」
カミナリみてえな大声を飛ばしてきた。
ヤッベえ……。なんだよぉ、こいつぅ……。
「あ、あ、あ、あ、あ、あのぅ――」
「今川の手先っ! いいやあっ、斉藤方あっ。ここが柴田権六の屋敷と知ってかあっ!」
このオッサンは何を言ってんだあっ!
何をブチ切れてんだよおっ!
「斬り捨ててやる……」
えっ!?
なぜだか、帯に差している刀をヌルリと抜いてくる。
「い、いやっ、ちちち、違うスっ! 誤解ッスよォっ!」
「何が違う! このくせ者っ!」
ゴンロクは縁側からガバリと飛び降りてきて、おれはあわててダッシュ。玄関のほうへダッシュ。そのまま門の外へとダッシュ。
「逃がすかあっ!」
おれはとにかく走り逃げた。生まれてこの方、速度は最高の出来栄えだ。
なにせ、殺意とともに凶器を振り回されたことなどないのだから。
ようやく振り返ったら、ゴンロクの姿はなかった。屋敷町は見えなくなっていた。無我夢中のあまりけっこうな距離を走ってきたようだった。
助かった……。
いや、なんじゃい。
どうして、将軍を約束されたおれが、ゴンロクとかいうゴリラザムライに追われなきゃならねえ……。
クッソ……。
おれは見知らぬ時代の、見知らぬ道をイライラと、しかし、トボトボと歩く。
道と言ってもアスファルトじゃねえ。固められた土だ。風が吹けば砂埃がまう。
さきほどとは逆の方向に歩く。町に行けば再度のアクシデントが起こりそうだ。また再び、ゴンロクみてえなバカが刀をぶん回して襲ってきそうだ。
とにかく、人間の気配のありそうな場所は避けたい。
チックショウ、裸足なもんだから、足の裏に小石が食い込んできて、痛いったらありゃしない。涙が出てくる。
てか、この時代、この先をどうしたら良いものかわからなすぎて、マジで泣けてくる。不安すぎる。
やばい……。
おれみたいな奴が将軍になれるはずがない。あんな血気盛んなゴリラザムライを敵にして、おれなんかがやっていけるはずがない。
んなことより、おれは、いったい、なぜ歩いている。
いったい、ここはどこなんだ。どうしておれがタイムスリップしたんだ。
あてもなくトボトボと歩いていたら、いつのまにやら、幅広の川に行く手をさえぎられた。
川か……。
入水自殺しようかナ……。
青空の真ん中に、一羽の鳥が旋回し、ピーピーと鳴いている。
川の真ん中から、何者かがおれをじいっと見てきている。
「ひいっ」
思わず後ずさり。
川の中からちょんまげ頭がぽっこり。なんなんだあの野郎……。
スウェットを着ていても肌寒いっていうのに、どうしてあの野郎は川の中に浸かっている。
てか、考えているヒマなんてない。あの変態はゴンロクの比じゃない。ヤバさがビシビシと感じられる。
逃げろっ。
しかし、おれが踵を返した途端、
「くせ者よおっ!」
変態野郎が鳥の鳴き声まがいの甲高い声を発した。
で、おれが突っ立っていた周辺の草の陰から五、六人の和服どもががばりと飛び出てきた。全員が刀を抜いていた。
ひいいいいいっっっ!
和服どもはとんでもねえ素早さでおれをあっという間に取り囲み、全員が全員、刀をおれに向けてきて、おれは唖然呆然、膝はガクガクブルブル、それどころか、小便まで漏らしちゃって、スウェットのスボンはビシャビシャ、与えられた恐怖と、小便を漏らした恥ずかしさから、涙をだくだくと流した。
「うう、堪忍してくださいぃ……」
おれはがっくりと地べたに両膝を付けた。両手も付けて、ううっと泣いた。
「堪忍してくださいぃ……。あっしは、あっしは――」
しかし、おれを取り囲む五人は事務的すぎるほどの無言の冷たさでおれに刀の先を向けてくるだけ。
うう……。もう……、嫌ぁ……。
ボクを元の時代に返してぇ……。
「何奴」
がっくりうなだれているおれの背中に、さっきの変態野郎の声があった。変態野郎は川から上がってきたようだった。
「こやつ、尿を垂らしておりまする」
刀を向けてきている連中の一人がそう言うと、
「なにい」
と、変態野郎は鼻で笑いながらだった。
「乞食か。いや、乞食にしては妙にでかい。貴様、もしや牛か。野良牛が迷い込んだか、この清洲に」
すると、おれはスウェットの襟首を掴まれた。掴み上げられた。もんの凄い力で掴み上げられ、そのままずるずると引っ張りだされた。そんでもって、川にぶん投げられた。
いいいっっ、ちべたいっっ! てか、溺れるっ! ううっ! なんなんじゃあっ、この仕打ちいっ! おれが何したって言うんだあっ!
そんなおれを川べりから見下ろして、ふんどし一丁素っ裸の変態野郎は、キャッキャ、キャッキャ、と、やっぱり鳥みたいなとんでもない笑い声を発しながら、
「見ろっ! これしきの水かさでこのざまだっ! 呉牛月にあえぐとはこのことよっ!」
と、変態野郎の訳のわからぬ言葉を受けた五人の和服どもにげらげらと笑われながら、おれは川面にぶくぶくと沈んでいくも、そこでようやく、この川が腰丈程度の水深だと知った。
呉牛月にあえぐ……過度に恐れること。「呉牛」は水牛のこと。 南方は暑さがひどいので、そこにいる水牛は暑さを非常に恐れ、月を見ても太陽かと思ってあえぐという。