お前一人が生きてお前一人が死ぬわけじゃない
「あ、あなた様は前田又左衛門殿では――」
ハットリ君は棒立ちしてマタザを眺め見る。
そこであぐらをかいたままのマタザは、拳をぎゅっと握りしめながらも、追い立てられた獣のような目をハットリ君に向けている。
プーックスクス。
さあ、ハットリ君、ダッシュで城に伝えに行くんだ。指名手配犯がここにいると、あの冷徹非道のクローザにでも伝えに行くんだ。
ふー、と、囲炉裏の火で雑炊を作りながら、ヌエバアが吐息をついた。
「いかにも前田又左衛門さんがね」
ヌエバアは色褪せた瞳をちらっと転がす。
「ほんで、小平太は何の用ね」
「何用も何も、なにゆえ牛殿のお宅に又左衛門殿が。まさか、かくまっておられるのですか」
「い、いや、そういうわけじゃないんだけど……」
おれは顔を伏せる。笑いが我慢できなさそうだったので。
「どちらにせよ、おやかた様にお伝えしなければなりませぬ」
「ちょい待ち小平太!」
と、にわかに奇声を発したヌエバア。普段は幽霊みたいなババアのくせして仇取りにでも遭遇したかのような目をハットリ君にぶつけている。
「又左衛門さんの話も聞いてやらんがね」
「話も何も、拙者はそれを聞く立場ではないんだ。話を聞くのはおやかた様なんだよ。バアちゃん、こればかりは言うことは聞けないよ」
そだそだ! どうしてヌエバアがマタザの肩を持っているんだか不明だが、こいつは殺人者なんだ。悪党なんだ。無法者のゴリラなんだ。さっさと飼育員に伝えて檻の中にぶち込み殺処分すべきだ!
「こ、小平太とは、お主、馬廻の服部小平太か」
と、マタザが最後の悪あがきかどうか、おれなんかには絶対に発することをしない情っさけない声を出しつつ、目玉を泳がせていた。
ハットリ君はしばらく無言でマタザと見つめ合っていたが、
「いかにも」
と、言い、目つきは徐々に徐々に、厳しい武士のものとなっていく。
すると、突如としてマタザはドカドカとハットリ君の足元に駆け寄っていき、そこに両膝をつき、見るも無残、これがあの笄斬りの又左衛門かい、というぐらいの愉快すぎる情けなさでハットリ君に命乞いを始めた。
「聞いてくれ、俺の話をっ。俺はまだおやかた様に顔向けできん。この首が斬り落とされたとしても、この首をおやかた様に見せることはできん。家中に騒ぎを起こした以上、せめておやかた様にこれまでの恩を返してから、この首を御前に晒したいのだ」
「そうは申されましても、拙者は――」
「聞いてくれっ。今、織田は危機だと知った。おやかた様がかき集められるは直参の手勢ぐらいのものだと聞いてしまった。馬廻を務めているお主ならわかるはずだ。今は一人でも多くの武者が必要ではないだろうか。俺はこの身を盾にしても織田を守りたい。それが俺の唯一の罪滅ぼしなんだ。頼む。ここは目を瞑ってくれ。頼む」
そして、マタザはおでこを床にこすりつけ、ハットリ君に土下座した。
おれはしらーっとした気分で鼻糞をほじる。ハットリ君には土下座して、おれにはなぜ土下座しなかったのか。
ほじり出した鼻糞をピンと弾き飛ばし、マタザの背中にヒット。
「しかし――」
「小平太。お前には男の気概ってもんがないんかえ。又左衛門さんが悪いことをしたなんて思っている人は、この尾張に一人もいないんじゃないんかえ。おやかた様以外は」
「わかり申した」
えっ?
「ここで又左衛門殿は見なかったことにしておきます」
「え、いや、ちょっと、ハットリ君」
「恩に着るぞ、服部小平太」
「いや、え、ちょっと」
「ところで牛殿、祖母の件ですが」
「……」
ハットリ君はおれをじいっと見つめてくる。土下座していたマタザも頭を上げ、おれをじいっと見てくる。犯罪者を信長に引き渡す話などなかったかのようにして。
おれは唇を尖らせた。
「はい。どぞ」
ハットリ君は一礼すると、草鞋を脱いで居土間に上がった。んで、雑炊をかき回すヌエバアの前に膝を下ろした。
隅っこでふてくされているおれを、マタザはじいっと見つめ続けてくる。
「な、なんスか」
「テメー、さっき鼻糞投げただろうが」
げっ。
「な、投げてないッスよっ!」
ちらっとハットリ君を見やったマタザ、おれに目線を戻すとにやっと笑う。
「いい度胸してんじゃねえか。あとで半殺しにしてやる」
「い、いやいやいや、投げてないッスって」
おれとマタザの問答をよそに、ハットリ君はヌエバアに清洲から避難すべきだと話していた。
案の定、ヌエバアはハットリ君の話に耳を傾けず、お椀に雑炊をよそっていく。
「バアちゃんっ。意固地になっている場合じゃないんだよっ」
「何を言っているんがね、お前は。わっちは旦那様の面倒見るためにここにいるんがね」
「だからっ、牛殿には別の人にお願いするって。牛殿のお世話はその人がすればいいんだって」
お。話が早いじゃないか、ハットリ君。
「お前、何を言っているんがね」
ヌエバアは手を止めて、ハットリ君を睨み据える。
「お前の言っていることはおかしいんじゃないんがね。今川方がこの城下を焼き払うんなら、お前の言うその別の人が焼かれるんじゃないんがね。わっちの代わりに」
「いや、だから、若い人ならすぐに逃げられるだろ。バアちゃんはそんなに早く走れないじゃないか」
そだそだ。若いおにゃの子寄越せ。フヒヒ。あっ、でも、このゴリラが居候しているとなると、せっかく来た若いおにゃの子がレイプされかねん。クソ。それならおにゃの子の前にゴリラを追い出さなければ。
「たわけえっ!」
ところが、ババアは金切り声で発狂した。ババアの癇癪ぶりにおれの背筋はぴんと張ってしまう。
「老いさらばえたとはいえ、わっちとて戦国の女がや! いつだってそんな覚悟はできとるんがね! お前はそんな覚悟ができとらんのがね! 戦国で生きるいうことはね、お前の家族も失うっちゅう覚悟を持たないかんのがや! お前一人が生きて、お前一人が死ぬわけじゃないんがや! このたわけがっ!」
そして、ババアはお玉を振り回し、ハットリ君の顔面にぴしゃっと雑炊をぶっかけた。熱っ、と、もだえるハットリ君。
おれは心外ながら、ババアの迫力に縮こまってしまう。ちらっと見やれば、マタザもなぜかうつむいている。なんだ、この野郎。まるで自分が説教されたかのようにして。
あ、そっか。逃亡中だからな。テメーはテメエの家族にさんざん迷惑かけているだろうからな。かわいそうなまつにゃん。
「女子供を逃がすちゅう前に、女子供を守るっちゅうふうに考えないかんじゃないんがね。この小僧が。世の中知ったふうな口をきくんじゃないんがね」
クスクス。ババアが簡単に出ていってくれそうもないのが嫌なところだが、それでも、おれをバカにしまくったハットリ君が罵倒されている光景は愉快この上ない。さらにバカマタザまでしょんぼりしている。ほっほう。テメーがそんな繊細な心の持ち主だったとは意外だなあ。
まあ、しかし、この分じゃババアは出ていってくれないだろう。それに万が一出ていってくれたとしても、代わりのおにゃの子が来たところで野獣マタザにレイプされちまうからな。
ここは当初の通り、ハットリ君に百貫文の活躍をしてもらい、約束通りにババアに出ていってもらおう。そして、それまでにはまだ月日があるはずで、その間に指名手配犯マタザをクローザあたりに捕縛してもらおう。
ということで、おれは腰を上げ、ハットリ君の肩をぽんぽんと叩いた。
「ハットリ君。バアさんの言うとおりだ。生きるか死ぬかではなく、まず、おれたちが考えることは勝つか負けるかなんじゃないか?」
すると、ハットリ君、ババアの説教にしおれていたくせして、急に眉をしかめておれを見上げてきた。
「牛殿はまだそのようなことを申されておるのですか」
「は?」
「この状況で、今川治部を討ち取ろうなどと、まだ」
おれを睨み上げてくるハットリ君の瞼の中は濡れていた。ヌエバアの説教がよっぽど応えたか悔しかったか、それに付け加えて、怒りの熱さの涙を目の縁いっぱいにしている。
さすがのおれも胸が痛くなった。まだ半分程度しか大人になっていない、そして残り半分程度は少年でいるハットリ君の思い、この世の中の不条理さや理不尽さに対する怒りをあらわにしたハットリ君の表情を前にして、おれはなんとも言えない気持ちになった。
すると、なんだか、ハットリ君をあんまりけしかけちゃいかんような気がしてき、おれは、とりあえずは力なくうなずいた。
「まあ、ハットリ君には、別におれなんかを信じる筋合いはないさ」
そして、羽織りの袖で瞼を拭うハットリ君に背を向け、すごすごと隅っこに引っ込んでいったのだが、腰掛けたおれをじっと見つめてくる野獣の目が。
「なんだ、お前」
と、マタザは真顔で言う。
「治部を討ち取ろうと企んでやがるのか」
おれはマタザに目を合わせたが、そのまま無言で目線をそむけた。
「ならば俺も手伝ってやる。治部が尾張に入る手前、俺とお前の二人で殺してやろうじゃねえか」
「えっ?」
「どうせは捨てる覚悟の命だ。単騎乗り込んで返り討ちに合おうとも、それも本望だ。そうだな、牛」
「いや、何を言ってんスか……」
しかし、当惑のおれをよそにマタザはげらげらと笑い上げた。
ダメだこいつ……。早くなんとかしないと……。とんでもねえ勘違いをしてやがる。
おれの中では桶狭間の戦いっていう前提で今川義元が討ち取れるってことなのに、このバカは桶狭間の戦いどころか、織田の危機っていうふうになっているから、忍者でもねえのに暗殺しに出かけようとしてやがる。
かといって、マタザなんかに桶狭間のチャンスなんか教えたくはねえ。こいつのことだからそのままの勢いで今川義元をぶっ殺しちゃいそうだし、そうしたら手柄を立てたってことで織田家に戻ってきちゃいそうだし。
だからと言ってマタザに桶狭間の戦いを教えなかったら、おにゃの子をレイプされるどころか、おれがマタザの道連れになりかねん。
クソが、疫病神が。こんなバカはさっさと追い出さないととんでもないことになっちまう。




