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ふりてんつもる(前編)  作者: ぱじゃまくんくん夫
第二章 さあ、桶狭間
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人間五十年、下天のうちを比ぶれば、ゆめまぼろしの如くなり

 日は暮れていない。しかし、折からの雨雲が屋敷を陰らせていた。

(児玉の五郎左が訪ねてくるとは珍しい)

 両の袖をかき合わせつつ寒さをごまかして、森三左衛門は自邸の廊下を行く。来客者は丹羽五郎左衛門、諱を長秀。出自は春日井郡の児玉であり、齢は主君上総介の一つ下だったと聞いたことがあるので、二十五か。

 待たせている部屋の戸を開けると、丹羽五郎左はこちらに向き直り、三左衛門に対して深々と頭を下げてきた。

「どうした。かような雨の日に」

 と、三左衛門はあえて笑顔を繕った。

「恐れながら、来たる今川勢の侵略において、拙者が存念を」

「存念、か」

 三左衛門は床の間を背にして丹羽五郎左に向かい合う。五郎左はすかさず膝を滑らせ、三左衛門に向かい直る。

 そのしように、三左衛門は思わず「むう」と唸ってしまう。

(堅苦しい奴だ)

 上総介は昔から丹羽五郎左を弟分のようにして使い回しているが、不思議なものだと思うのは、奇行気まぐれの上総介が真面目一辺倒を判で押したような顔つきの五郎左を好いているところである。

(まあ、信用に値する男ではあるが)

「お主が存念とはな。わしに直に訴えてくるとはよっぽどのことではないか」

 鼻の下にたくわえた髭を揺らしながら、五郎左はこくりとうなずく。

「して、なんだ、お主の存念とは」

「大高、鳴海、両城の救援に今川治部が出兵するのは火を見るより明らか。ところが、我が織田に従うはずの尾張勢は来るいくさの行方に日和見する向きがあり、さらに巷の風聞では反今川の盟友である知多の水野藤四郎が寝返るのではないかと」

「ふむ」

 三左衛門は深刻そうにして腕を組み、うなずいた。それは演技である。

 尾張の土豪勢が上総介の下に結集しないのではないかという疑いも、水野藤四郎の心変わりの噂も、三左衛門自身が暗に広めた流言である。

 年明けの桶狭間にて、上総介にこき下ろされた挙げ句、挑発までされた三左衛門は、「発奮するもんかい」などと言い聞かせていたくせ、なかなかどうして暗躍していた。

(わしはおやかた様の期待以上の働きをしている)

 と、自負さえしている。

 ただ、決め手は足らない。

 治部が鼻息を荒くしてやって来てくれるような決め手がまだまだ足らない。

「森殿」

 と、言って、丹羽五郎左は稚魚の目のような瞳をじいっと据えてくる。

「拙者、清洲にて籠城策がよろしいかと」

「なに」

 三左衛門の目が初めて険しくなった。

(おかしい)

 話が逸れている。

 今、織田方と今川方とが暗黙に妥結しているいくさの勝敗の決定は、大高城、鳴海城の支配権である。

 ところが、丹羽五郎左は清洲城に籠城すべきと言う。これはおかしい。そんなものは今川方が尾張の中心にまで攻め上ってくるときである。大高、鳴海の争奪戦に対して清洲から兵を出さないのならば、いくさ場に向かわないのも同然、その瞬間に敗北なのである。

(こやつ、何を申している。ここまで無能だったのか)

 しかし、丹羽五郎左は三左衛門の当惑をよそに続ける。

「我ら織田は足並みが揃っておりません。今川方はおそらく一万から一万五千の兵を引き連れてくるのに対し、おやかた様が確実に揃えられる兵というのは、馬廻、直参の足軽衆、弓衆、そして森殿のように確実に忠誠を誓っている各々方、それらすべてひっくるめても、せいぜい五千かと。そうともなれば、大高、鳴海近辺で今川一万五千と対峙しても敗北は火を見るより明らか。ならば大高、鳴海は早々に見切りをつけ、持久戦に持ち込んだ上で、三河勢などの分断を狙うのが上策かと」

 三左衛門は眉をしかめたまま、その眉尻を指先でぽりぽりと掻いた。

 あながち間違いではない。

 しかし、丹羽五郎左の申し出は、始まる前の話である。いくさはまだ始まっていないのである。今川方の兵数も、織田方の兵数も、明確に勘定するにはまだ早い。

 いや、違う。そもそもが違う。

 丹羽五郎左は三左衛門の調略に翻弄されているだけだ。何も知らないのだけなのだ。これはすべて作られていく途中の虚構なのであり、それを成し遂げる前にとやかくかき回されるのは非常に困る。

「お主の言い分もわかる。が、しかし、籠城策とはいかにも。大高鳴海に限って言えば、我らは優勢なのだ。奴らの米びつは底を尽きかけているのだ。それなのに何も、籠城策とは」

「今川方は着々と準備を進めております。対して我らは進んでおりません。むしろ、悪化の一途を辿っているのです。ならば早々と意志を明確にするべきかと」

「ならん。断じてならん」

 三左衛門は頑として首を振る。

「そもそも、もしも、もしもだ、おやかた様が籠城策を取ったとしても、我ら織田の中には必ず今川の間者が存在する。さすれば、治部に我らのいくさの仕方を教えているものではないか。籠城をするとわかっていたら、治部はそれこそ悠々と東海道を上ってくるぞ」

 そこまで言って、三左衛門は、はっと息を呑んだ。

 矛盾していた。

(そうか――)

 今川治部には悠々と東海道を上ってきてほしい三左衛門なのであり、上総介なのである。

 そして、五郎左は「籠城」などという意味不明な方針を進言し、それを今川方に伝えようとしている。

 三左衛門は口端を持ち上げた。

「そういうことか、五郎左」

 生真面目を判で押したような顔つきの丹羽五郎左はにこりとも笑わない。

「お察しになったのであれば、その通りにてございます」

 敵を騙すなら、味方も騙さなければならない。

 おそらく、五郎左は、織田が不利だという流言の出元が三左衛門とは知っていないであろう。そして、三左衛門も、五郎左が主君の命で籠城策を喧伝しているとは知らなかったのである。

(おやかた様は策をどこまで張り巡らしているのやら)

 虚構の全容を把握しているのは、素知らぬ顔のふりの上総介のみ。

「まあ。お主の真の存念はわかった。さすれば、柴田権六あたりならお主の説得に巻かれるだろう。そして、あやつのことだから声を大にして喚き散らすに違いない」

「それはおやかた様も申されておりました」

 と、五郎左は顔をやや伏せて苦笑した。今日初めて見せた笑みは、自分も同感だと言っているようなものであった。


 強い風は季節の寒さのすべてを薙ぎ払った。夜になってもなお、館の戸という戸を叩き、ありとあらゆる柱をきしませていれば、屋根そのものを吹き飛ばさん勢いでいる。

 そんな風を受け止めながら、館のてっぺん、夜空の真下に上総介は突っ立っている。

 正面から吹き込んでくる風に浴衣の裾は煽られる。己の存在を知らせるかのようにばたばたとはためく。

 上総介は笑う。

(確かに俺は狂っている)

 風が強いからといって、なぜ、こんな夜に屋根にいちいち登って、たった一人、季節の変わり目を味わっているのか、自身でもわからない。

(いや、狂っているというよりか――)

 上総介は夜闇の彼方から吹いてくる風を眺めながら思う。

(変質的に自己愛が過ぎる)

 今この行為はとても無意味であり、ものすごく滑稽であり、奇人である。

 しかし、上総介はこの己の奇人ぶりを愛す。己でも理解できない行動を起こしている己を心から尊重して止まない。

(つまり、俺は意識して奇人をしている。誰に見られるのでもなく、誰に認められるのでもなく、俺が俺だけの世界の中で俺を眺め見、俺を認め、俺自身に興奮している)

 よって、

(俺は恐ろしいほどにくだらん)

 と、急に冷めた。

 己に固執するばかり、己の世界からすべてを排除し、己に陶酔する。そこに比較対象はない。自分より優れている者は当然のことながら、自分より劣っている者すらも存在させていない。たった一人、ここで存在している事象だけに酔っている。

 この行為、何になろう?

 生産性は皆無であり、ただただ自分に自惚れたいあまりの自慰行為である。

 それに気づいたら、上総介の口から吐息が滑り出た。がっかりとしてしまう。自己陶酔の自分に気づかなかったらお幸せ者だが、気づいてしまったらこれほど情けない自分はいない。

 自分は奇人ではない。

 しかし、奇人を演じる。

 なんのためにか、それでしか自己存在を打ち立てられないから。自分は人とは違うということを、それでしか確認できないから。

(くだらん)

 今日の疲れがどっと湧き上がる。

 上総介は膝を曲げ、体をゆっくりと下ろしていく。屋根の頂上であぐらを組んで、腕を組み、吹きつける風をただただ浴びながら、瞼を閉じる。

(空虚だ)

 自分が何者なのかがわからない。

 なぜに誕生したのか。なにゆえ生きているのか。

 己に課している狂気ゆえんの豪気とは、まさか、そうした疑問を埋めるための目くらましなのであろうか。自身の矮小さをかき消そうとするために光を放とうとしているのだろうか。

 であれば、この虚しさは何が埋めてくれるであろう。

(人か?)

 だが、他人に説明したところで、この空虚な思いは、誰にもわからないであろう。それに織田上総介の立場からして誰にもわからせてはならないのだ。

 むしろ、幼少の時分からそうしてきたのだし。意識的にも、無意識のうちにも。

 瞼をつむるままに吐いたため息は重い。風が軽々しくさらっていってくれるのだが。

(くだらん。俺はくだらん)

 自己愛が過ぎての、行き過ぎた自己嫌悪。

 もうこうなってしまうと、何をどうすればいいのかわからなくなってしまう。

 眠ったら、明日の朝にはすっかり忘れているのだろう。

 しかし、このまま眠りたくはない。

 自分が何者なのか、はっきりとさせたいときがある。

(何者だ――)

 上総介はふと瞼を開けた。

 答えを知る者にすがるようにしてゆっくりと夜空を仰ぎ見る。

 それぞれの星はそれぞれの一点にあって瞬いていた。地上の喧騒とは裏腹に、薙ぎ払われることもなく、ただそこに、静かに。

 なぜ、星はそこにあるのか。

 誰も知らない。

 昔からずっとそこにあった。

 すると、じっと見つめ続けていた上総介は、風とともに、空と闇との間にたゆたうぬくもりを肌で感じた。

 そのとき、まるで、夜空を彩るありとあらゆる星が語りかけてきた。

「お前などが存在する遥か以前から俺は存在しているのだ」

 と。

(なるほど)

 上総介は目線を頭上から地上へと下ろしていき、腰を上げればまた再び全身に風を浴びる。

 瞼を細め、何ら見とめることのできない遥かな夜闇を見据えながら呟く。



「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、ゆめまぼろしの如くなり」



 風は吹く。どこからか吹いてくる。遥か遠くの彼方からこの全身に何かを与えに吹いてくる。

 上総介は愉快げに微笑んだ。

(高尚な思考に辿り着こうとも、天にしてみればそれもくだらんのだ。だが、くだらん限りに必死こいて生きてみろ。必死こいてくだらん思考のうちに苦しめ。悩め。絶望しろ)

 すると、風は今夜のように伝えてくれるはずなのだ。

 生きている実感を。

 瞳孔をくわっと押し広げた上総介は、立ち向かうべき闇をこの目とこの意識にはっきりと認識しながら、胸のうちに吼えた。

(負ける気がしねえ)

 白い歯もあらわに、風の唸りも跳ね飛ばさんばかりに、上総介はキャッキャッキャと高らかに笑い上げた。


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