第2話
ジュビリーとマリーエレン兄妹の前に現れた小姓のジョン。彼の存在は、もうひとつの出会いをもたらした。その出会いは、運命の歯車を動かし始めることになる。
ジョンはそれ以来自信がついたのか、以前にも増して熱心に訓練に取り組んだ。だが、その熱心さが裏目に出たのか、訓練中に落馬するという事故を起してしまった。
「痛いです、先生! 痛い!」
「静かにせんかい」
営舎付きの医師は普段兵士らを相手にしているため、荒っぽい上に処置も雑だ。
「だって、だって、痛いものは痛いです……。痛ぇッ!」
「やかましいガキだな」
とは言え、骨折こそしなかったが全身を強く打ち、右足を捻挫している。ジョンは目に涙を浮かべながら痛みを訴えた。その時、
「まぁ、ずいぶん痛そうな声」
少女の声にジョンはがばっと体を起こした。
「れ、レディ・マリーエレン……!」
「落馬したんですって? 大丈夫?」
心配そうな顔つきの伯爵令嬢に、ジョンは顔を真っ赤にさせた。
「な、なんのこれしき! い、痛くも痒くもありません!」
「痛くも痒くもねぇ」
医師がぼやきながら傷口をちょいとつつく。途端に言葉にならない絶叫が上がる。
「ふん」
医師が鼻で笑い、マリーは顔をしかめる。
「先生、よろしくお願いします」
「レディ・マリーエレンのお願いとあらば」
マリーは微笑むと手にしたバスケットからお菓子を取り出した。
「きっとがんばりすぎたのね。ゆっくり体を休めて。ほら、ジャムとビスケット。好き?」
「だ、大好きです……!」
「うふふ、良かった」
一介の小姓に過ぎない自分に領主の妹君が見舞いに訪れるなど、身に余る光栄にジョンは緊張で頭に霞がかかったようにぼんやりとしてきた。顔を真っ赤にして動揺する少年に、マリーは思わず吹き出した。
「本当に可愛い子。私もこんな弟が欲しかったわ」
「お、弟、ですか……」
「なぁに、こんなお姉さんなんか嫌?」
「ち、違いますッ!」
ジョンは慌てて言い訳した。
「た、ただ、私にはもう、姉がいますので……」
「あら、そうなの。ジョンのお姉様ってどんなお方?」
「あ、姉ですか?」
ジョンはわけもなく顔を赤くしてしどろもどろに答えた。
「……マリーエレン様と同じ歳ぐらいで……、その、マリー様みたいに、世話好きな姉です」
「まぁ。お会いしてみたいわ」
やがて、マリーの願いは叶えられることになる。
ジョンが落馬してから数日たったクレド城。中庭から営舎に向かうアプローチに、ひとりの少女が恐々と辺りを伺っていた。営舎の周りにたむろしていた兵士らは突然現れた場違いな少女に一斉に視線を向けた。
「隊長、見て下さいよ。見慣れない娘が」
「うん?」
衛兵隊長が顔を上げると、営舎の窓から兵士らが身を乗り出している。
そこには、強面の兵士らの視線に晒され、その場に立ち尽くしている少女がいる。それなりに洗練された身なりで、召使や小間使いといった身分ではないらしい。それに何より、愛らしい顔つき。兵士らは顔の表情をゆるませて少女の一挙手一投足に注目した。
「こら、おまえら! 御婦人に失礼じゃないか」
隊長はそう言いながら兵士らに下がるよう手を振る。
「失礼ながら、営舎に何か御用でしょうか?」
黒髪の少女は、不安そうにつぶらな目を潤ませながら顔を上げた。
「あ、あの……、弟が、落馬したとお聞きしましたので」
「落馬?」
兵士らがあっと声を上げる。
「ジョン・トゥリーの姉君?」
「はい」
兵士らは一斉に身を乗り出した。あのジョン・トゥリーに可愛らしい姉が! 営舎は一瞬にして人だかりができた。と、背後から男の声が上がる。
「お嬢様! お待ち下さいと申し上げたのに……」
皆が振り返ると、従者らしき男が小走りにやってくるのが見える。
「モーリス……。だって、早くジョンに会いたくて……」
モーリスと呼ばれた従者は衛兵隊長に深々と頭を垂れた。
「トゥリーより参りました。若殿が落馬されたお知らせをいただき……。今、若殿はどちらに」
報せを聞いたジョンは寝台から飛び降り、激痛に唸りながら部屋を這い出た。営舎の薄暗い廊下の先の入り口に、見慣れた人影が目に入る。
「姉上……!」
「ジョン!」
痛々しい包帯姿の弟を目にした少女は悲鳴のように名前を叫んだ。そして駆け寄ると思わず抱きしめる。
「良かった……! 馬から落ちたというから、もっとひどいことになっているかと……!」
久しぶりに会う姉に抱きしめられ、ジョン思わず胸が締め付けられたが、はっと周りからの視線に気づいて慌てて姉を押しのける。
「こ、子ども扱いしないで下さい、姉上!」
「まぁ、よくもそんな偉そうなことを!」
「姉上……」
ジョンは困り果てた様子で姉を見上げた。
「お怪我はともかく、お元気そうで安心いたしました。若殿」
モーリスもほっとした様子で囁き、皆に心配をかけたことに今更ながら気付いたジョンは、申し訳なさそうに頷いた。そして、周囲の視線を感じながら、彼は姉の手を引くと部屋へと案内した。
「でも、本当に安心したわ。起き上がれないぐらいひどい怪我かと思ったから」
姉の言葉にジョンは苦笑いを浮かべる。
「これでもやっと歩けるようになりました」
「あら、意外と片付いているわね」
ジョンの部屋は四人部屋だった。弟の寝台の周りはきちんと片付けられている。
「マリーエレン様が色々と手伝って下さるので」
姉は顔色を変えた。モーリスも息を呑む。
「ご令嬢のマリーエレン様?」
「はい」
「なんて恐れ多いことを……!」
「で、でも……」
マリーは毎日のようにジョンの部屋を訪れると、何かと世話を焼いていた。ジョンが自分のような者に手を煩わすことはないと懇願しても、マリーは聞く耳を持たなかった。彼女は、「弟」の世話をしたかったのだ。
その時、廊下からざわめきが聞こえてきたかと思うと、部屋に城主とその妹が現れた。
「殿様……!」
ジョンが声を上げ、姉も慌てて居住まいを正す。ジュビリーはジョンの隣にいる少女を目にして首を傾げた。
「家族か?」
「はい、姉のエレオノールです」
「は、初めまして」
エレオノールは緊張に顔を強張らせながらその場に跪いた。
「トゥリー子爵の長女、エレオノールと申します」
「あなたがジョンのお姉様ね」
ジュビリーの後ろからマリーが声をかける。
「は、はい」
「まぁ、こんな美人なお姉様がいらっしゃるなら、私なんかいらないわね」
「ま、マリー様ッ!」
ジョンは顔を真っ赤にして叫んだ。ジュビリーは思わず笑いをこぼすと、目の前に現れた少女をじっと見つめた。
艶やかな黒髪に、円らな瞳。幼い顔立ちの割にはしっかりした雰囲気。その不均衡さが不思議な印象を醸し出している。エレオノールは、じっと見つめてくる若い伯爵を不思議そうな顔つきで見上げた。が、やがてにっこりと微笑んだ。
ジョンは気丈に振舞っていたが、怪我の具合は良くなかった。エレオノールは泊り込みで弟の看病に励んだ。その間にもマリーエレンも足しげくジョンの部屋に通い、同い年だった彼女とエレオノールはすぐに打ち解けあった。同じ年頃の友人がいなかったマリーエレンにとって、控えめながら聡明なエレオノールはとても魅力的な存在となったらしい。
そんなある日、マリーは兄の部屋を訪れた。
「ねぇ、兄上。レディ・エレオノールが長弓の訓練を見てみたいと仰るの。いいでしょう?」
ジュビリーは読んでいた本から目を上げた。
「ロングボウの?」
「ジョンが見かけたロングボウの訓練をお話したら、一度見てみたいって」
「……まぁ、いいだろう」
ジュビリーがマリーと共に営舎へ向かうと、杖を突いたジョンとエレオノールが待っていた。
「ジョン、怪我の具合はどうだ」
「だいぶ良くなりました」
慣れない杖を突きながら歩こうとするジョンを、マリーがさりげなく手を取る。エレオノールは思わず微笑むと領主を見上げ、ジュビリーも肩をすくめる。
「すっかり姉気取りだな」
「うふふ」
四人はゆっくりと中庭を抜けると、城の裏手に広がるロングボウの訓練場に向かった。ロングボウ隊はクレドの軍の中でも特殊な訓練を課せられている。訓練は過酷だが、破格の扱われ方をしているのも事実だ。彼らは選び抜かれた精鋭で、顔つきからして緊張感を漲らせている。
「第一隊、前へ!」
隊長の号令に射手らが進み出る。
「構え!」
射手はさっと膝を突くと巨大な弓を差し上げ、矢をつがえる。その一連の動作は流れるように美しい。
「……てぇッ!」
その怒号と共に太く長い弓が夏の大空に放たれる。が、射手らは目にも留まらぬ速さで次々と矢を放ち続ける。エレオノールは呆然と眺めた。
「すごい……!」
いつもは落ち着いた佇まいのエレオノールも、子どもらしい表情で呟いた。
「お噂には聞いておりましたけれど……、こんなにすごいなんて……!」
「アングルのロングボウは世界一だ」
ジュビリーは胸を張って答えた。
「アングルのロングボウ技術は我がクレド伯爵家だけが継承することを許されている。国王陛下のため、アングルの民のため、日々の鍛錬が重要だ」
「素晴らしいですわ」
エレオノールは明るい笑顔で振り返った。
「皆のために、アングルのために大事なお仕事を任されるなんて、すごいことですわ」
無邪気な屈託のない笑顔に、ジュビリーは思わず胸を突かれた。
「そして、その伯爵にお仕えしている弟は、なんて幸せ者なんでしょう」
「……光栄だな、レディ・エレオノール」
ジュビリーの言葉にエレオノールはくすりと微笑む。が、やがて眉をひそめると、ちらりと後ろを見やる。少し離れた場所で、ジョンとマリーがやはりロングボウの訓練に目を奪われている。
「……あのぅ、伯爵」
「何だ?」
「弟は……、他の子どもたちにいじめられてはいないでしょうか」
その言葉にジュビリーは思わず傍らの少女を見下ろした。
「見ての通りおとなしい子で、人と争ったり、競ったりすることは苦手です。大勢の小姓たちの中でやっていけるのかどうか……」
心配そうに眉をひそめて呟く少女に、ジュビリーはふっと微笑んだ。
「大丈夫だ、レディ・エレオノール。確かに体も小柄だし、最初は剣術もなかなか上達できずに思い悩んでいたようだが、先日槍の試合で勝利を収めてからは皆が一目置きだした。心配は無用だ」
エレオノールはほっとしたように微笑んだ。
「そういえば、手紙が届きました。試合に勝てたことを伝える手紙が。よほど嬉しかったのでしょうね、ジョンったら、『一生伯爵にお仕えいたします』って」
「気が早いな」
二人は声を上げて笑った。そんな兄の様子を見たマリーが目を丸くする。
「……兄上が、あんなに楽しそうに笑っているなんて」
ジョンも振り返って同様に首を傾げる。
「私も、殿様のあんな笑顔は初めて見ます……」
それから数日した頃。晩餐を済ませ、書斎に籠もったジュビリーの許にハーバートが訪れた。
「殿、荘園から報告が」
数種類の書類を受け取り、目を通しながらふと思い出して尋ねる。
「そういえば、レディ・エレオノールはどうしている」
「いや、そのことですが」
ハーバートの口ぶりに眉をひそめて振り返る。
「小姓たちの間で絶大な人気でして。ちょっとした怪我をすると皆レディ・エレオノールの許へ行くのですよ」
「何」
「ほら、営舎のランサム医師は手荒で容赦ない治療でございますから」
ジュビリーは思わず苦笑を漏らした。優しくて愛くるしいエレオノールに手当てをしてもらう子どもたちの様子が目に浮かぶ。が、ふと眉を寄せる。
「ジョン・トゥリーはどうしている。姉のことでからかわれたりはしていないか」
「ございませんとも」
ハーバートは笑いながら顔を振る。
「ジョン・トゥリーをいじめようものなら、姉のレディ・エレオノールに嫌われてしまいますからな。そのような愚かな真似をする輩はおりませぬよ」
「なるほどな」
納得して表情をゆるませるジュビリーだったが、ハーバートは身を乗り出して声をひそめた。
「しかし、殿。小姓たちは皆家族と引き離されて奉公しております。ジョン・トゥリーへいつ妬みの目が向けられるか……」
その言葉に、ジュビリーは書類をめくる手を止める。しばし考えた挙句、小さく息をつく。
「良い機会だ。レディ・エレオノールに行儀見習いとして礼儀作法を教えよう。小姓たちとは少し離れさせろ」
主君の判断にハーバートがほっと息をつく。
「それはよいお考えです。では早速、そのように計らいます」
本当はエレオノールをトゥリーに帰しても構わなかった。だが、あの気立ての良い娘を帰してしまうのは惜しいと感じたジュビリーは、行儀見習いとして城の奥向きに上げることにした。これで、曖昧な立場だったエレオノールは城に留まる理由ができた。そのことにどこか安堵しながら書類を机に投げる。が、まだ背後に控えているハーバートを振り仰ぐ。
「まだ他にあるのか」
ハーバートは居住まいを正し、真顔で頷いた。
「……大事なお話がございます」
いつになく改まった態度が気になり、ジュビリーは眉をひそめた。
「どうした」
「ローバー侯爵と、レイノルズ伯爵から縁談が参りました」
思わず胸が圧迫されて口をつぐむ。ジュビリーは顔をしかめた。
「……まだ早い」
「早くはございません。遅いぐらいです」
ハーバートはきっぱりと言い切った。が、気の毒そうに眉をひそめて続ける。
「殿のお年頃ならば婚約者がいらっしゃるべきですが、残念ながら父君が早く他界されてしまい、婚約者を得る機会が失われてしまいました。お早いうちに縁談を……」
もちろん、ジュビリーも自分の結婚について考えていないわけではなかった。臣従の儀のためにイングレスのプレセア宮殿を訪れた際、出会った人々から例外なく結婚のことを聞かれ、彼は自分の立場を自覚したのだ。
「殿だけではございません。レディ・マリーエレンにも婚約をというお話が……」
ジュビリーはきっと振り返った。
「マリーはまだ子どもだ」
「だからこそ、お早いうちにご結婚相手をお探ししておかねば。殿、バートランド家はアングルのロングボウを継承する唯一の伯爵家。その血脈を途絶えさせることは許されません」
ハーバートの言葉にジュビリーは反論できなかった。彼は溜息をついた。
「……ベネディクト様に相談してみよう」
「そうですな」
だが、ハーバートは居心地悪そうに咳払いをした。
「……先日、グローリア伯のお噂を耳にしました」
「噂?」
「アングル中の貴族の子弟がレディ・ケイナとの結婚を狙い、水面下で激しい攻防を繰り広げている、と」
ジュビリーは眉をひそめた。幼い頃から愛らしい容姿のケイナだったが、大人になるにつれてその美しさに磨きがかかっていった。美しい女相続人を狙う男たちは多いだろう。
「それどころか、グローリア伯の後妻におさまろうとする女性も後を絶たないとか」
「……ベネディクト様も大変だな」
ジュビリーは眉間に皺を寄せて吐息をついた。
それから間もなく、エレオノールは行儀見習いとして本格的に礼儀作法を習い始めた。彼女も子爵家の令嬢。貴族の子女としての立居振る舞いや、様々な礼節を学んだ。それは、仕える主人の世話も含まれていた。
ある日、城下のクレド大聖堂への礼拝に出かける際のこと。
「兄上、見てくださらない?」
弾んだ声で呼びかけられ、出かける準備をしていたジュビリーが振り返る。そこにいた妹は、濃い灰色の長衣にレース遣いの帽子をかぶっていた。嬉しそうにその場をくるりと回ってみせると「どう?」と尋ねる。
「そんな帽子があったのか」
「もう、それだけ?」
少し頬をふくらせるとマリーエレンは唇を尖らした。
「素敵な取り合わせだと思わない?」
「少し大人びた感じだな」
マリーエレンはにっこりと笑うと、部屋を出てエレオノールの手を引いて戻ってきた。
「今日の衣装はエレオノール様に選んでもらったのよ」
「ほう」
エレオノールは緊張した面持ちでマリーエレンの隣でかしこまっている。ジュビリーは顎に手をやり、改めて妹の装いを眺めた。
「なるほど。大聖堂の厳かな雰囲気にも合うな。素晴らしい」
「まぁ。急に褒めだして」
そう言って吹き出したマリーエレンだったが、ジュビリーは穏やかな表情でエレオノールに声をかけた。
「しっかり学んでいるようだな」
「はい」
エレオノールは控えめに微笑むと、丁寧に頭を下げた。
エレオノールが行儀見習いを始めてから小姓たちの住む営舎も本来の雰囲気に戻り、ジョンも治療に専念できるようになった。エレオノールが城にいることが当たり前の風景になっていった、ある日のこと。
「失礼いたします」
書斎のジュビリーに小さな声がかけられる。振り返ると、銀の盆を捧げ持ったエレオノールが強張った顔つきで頭を下げた。
「……お茶を」
なるほど。茶や薬湯のもてなしも大事な嗜みだ。ジュビリーは表情をゆるませると頷いた。
「頼む」
「は、はい」
城主に出される茶葉も茶器も貴重な高級品。エレオノールは緊張しきった顔つきで危なっかしくも茶を淹れる。
「……落ち着いてやれ」
「は、はい」
ますます顔を引きつらせる少女に、ジュビリーは思わず微笑を漏らす。と同時に、脳裏に在りし日の出来事が浮かぶ。まだ幼かったマリーエレンが、ケイナに茶の淹れ方を教わっていた光景。失敗して湯をこぼし、涙ぐむ妹をケイナは優しく慰めていた。
「……どうぞ」
少し震えた手つきでカップを差し出される。受け取ったカップから立ち上る香気を吸い込み、唇をつける。エレオノールは固唾を呑んで見守っている。
「……美味しい」
短いその言葉に少女の顔がふっとほぐれる。
「ありがとうございます」
「どうだ。勉強の方は」
「はい。毎日がとても新鮮です。もっと学んで、子爵家に相応しい女性になりたいです」
生真面目な言葉に頷くと、ジュビリーはふと遠くを見やる。
「そなたを見ていると幼い頃の妹を思い出す」
エレオノールはかすかに首を傾げた。
「マリーエレン様でございますか」
「ああ」
カップを机に置き、小さく息をつく。
「私たちは幼いうちに両親を亡くした。特にマリーエレンは母の記憶も曖昧だろう。だが、幸いなことに、私の後見人であるベネディクト様のご息女が私たちの姉代わりに世話をしてくれた」
エレオノールの表情がどこか寂しげなものへと変わる。
「本来ならば母から娘へと伝わるべきことを、ケイナ様が教えてくださった。それだけではない。マリーエレンにとっては安らかな拠り所だ。……妹に甘えられる存在がいて、本当に良かったと思っている」
その言葉に、エレオノールの表情が変わる。
「……伯爵、あなたには?」
ジュビリーは眉をひそめて振り返った。エレオノールは真剣な眼差しで見つめてくる。
「伯爵には、甘えられる存在がいらっしゃったのですか」
幼いはずのエレオノールが投げかける言葉に、ジュビリーは即答ができなかった。音をなくした書斎の空気がふたりを包み込む。エレオノールは痛ましげに眉を寄せた。
「……ご両親を亡くされて、苦しい思い、寂しい思いをしたのは伯爵も同じでしょう。伯爵は、きちんと甘える時間がおありだったのですか」
「馬鹿な」
咄嗟に強い口調で吐き捨て、相手はびくりと体を震わせた。
「私は、甘える立場にない」
険しい表情で言い放つ伯爵に、エレオノールは後ずさると頭を下げた。
「お許し下さい……! 差し出がましいことを……!」
言い過ぎた。そう思ったが遅すぎた。エレオノールは怯えた表情で背を向けると書斎を飛び出していった。ジュビリーは後味の悪い思いで眉を寄せ、溜息をついた。
それからの数日間、ジュビリーは悶々とした日々を過ごす羽目になった。城内で侍女頭がマリーエレンとエレオノールを指導する光景をよく見かけたが、声をかけるのは憚られた。エレオノールが怯えているのは遠目にもわかったからだ。あんなことを言わなければよかった。心が晴れないまま、時間だけが過ぎていく。そんな、ある日のこと。
書斎で引き籠り続けるのも嫌気が差し、ジュビリーは珍しく中庭に面したバルコニーで過ごしていた。中庭の一角には薔薇園があり、そこから柔らかな薔薇の芳香が運ばれてくる。薔薇の季節もあと少しだ。そんなことを考えていると、背後から控えめに声をかけられた。
「あのぅ……、失礼いたします」
幼い少女の声。
「……マリーか」
「えっ」
思わず振り返ると、びっくりして飛び上がる。
「失礼。レディ・エレオノールか」
彼女は緊張しきった面持ちで頭を下げた。
「申し訳ございません、おくつろぎ中に……」
「いや、大丈夫だ」
こうしてエレオノールと言葉を交わすのはずいぶんと久しぶりな気がした。相手はまだ怯えた表情で見上げてくる。仲直りしなければ。ジュビリーは頭の中で必死に言葉を探した。だが、
「申し訳ございませんでした」
エレオノールが勢いよく頭を下げてくる。
「先日は、行儀見習いの身で失礼千万なことを申し上げてしまいました。……お許し下さい」
ジュビリーは大きく溜息を吐き出した。まだ怒っていると勘違いしたエレオノールは、泣き出しそうな表情で顔を上げた。
「……先を越された」
「……はい?」
震える声に、ジュビリーは困ったように眉を寄せた。
「謝ろうと思っていたのだ。私も大人げなかった。許してくれ」
「そ、そんな、失礼を申し上げたのは私が……!」
「レディ・エレオノール」
柔らかな声色で制すると、ジュビリーはバルコニーの手すりに寄りかかり、微笑を浮かべた。
「……そなたに胸の奥底を見透かされたようだった。だから、ついあんなことを言ってしまった」
エレオノールは眉をひそめ、首を傾げて見上げてくる。
「思えば、両親を亡くしてからずっと、兄として、父の代わりとして、マリーを守っていかなければと思い続けていた。誰かに甘えるなど許されない。……本当は誰かに甘えたかったのかもしれない。だが、それを認めたくなかったのだろう。……許してくれ」
「伯爵……」
ふたりを包む静寂と薔薇の香り。それ以上の言葉を交わす必要はない。ふたりは自然と穏やかに笑い合った。ジュビリーはおもむろに手摺りから体を起こした。
「仲直りができて良かった」
「……ありがとうございます」
喜びを噛みしめるように囁くエレオノールだったが、小さく言葉を添えた。
「……お暇をいただく前で、良かったです」
お暇? ジュビリーの表情が変わる。エレオノールは、寂しそうに手紙を差し出した。
「弟の怪我も治っただろうから、そろそろ帰ってくるようにと、父が」
手紙の予告どおり、しばらくするとトゥリーから従者が迎えにやってきた。秋の気配が忍び寄り、営舎に面した庭に乾いた風が吹き抜ける。迎えの馬車を前にしたエレオノールが眉をひそめて従者に問いかけた。
「父上はいらっしゃらなかったの?」
「はい。若殿に里心がついてはいけないと」
「そう……」
そうするうち、ジュビリーがマリーエレンとジョンをつれてやってくる。エレオノールは慌てて跪いた。
「わざわざお見送りにいらっしゃるなんて……」
「当然だ。客人の出立だ。道中気をつけてな」
「はい」
そして、杖を持たずに歩けるようになった弟に呼びかける。
「ジョン。領主様にこんなに良くしていただけるなんて、考えられないことよ。しっかりお仕えするのよ」
「はい」
ジョンも表情を引き締め、律儀に頭を下げる。
「寂しいわ。もう行ってしまうなんて」
マリーエレンの寂しげな言葉に、エレオノールは顔をほころばせた。
「レディ・マリーエレン、本当にありがとうございました」
二人はしばし黙ったまま微笑み合った。やがて、エレオノールは再びジュビリーを見上げた。何か言いたげな表情は、寂しさを訴えているように見えた。彼女は、こんなに小さかっただろうか。ジュビリーはそう思いながら目の前の娘を見つめた。
「……レディ・エレオノール、ご苦労だったな。子爵によろしく伝えてくれ」
エレオノールは恐縮して頭を下げた。
「お世話になりましたのに、父が不在で申し訳ございません。ジョンに里心をつけたくないと……」
「それと、他の小姓たちへの配慮だろう」
彼女ははっとした様子で目を見開いた。ジュビリーは小さく頷いた。
「ジョンは責任を持って私が一流の騎士へ育てる。安心してくれ」
「はい。よろしくお願いいたします」
幼い子爵令嬢は長衣の裾を摘まむと、優雅に膝を曲げた。そして、少し眉をひそめると身を乗り出す。
「……伯爵」
ジュビリーは首を傾げながらも歩み寄る。エレオノールは爪先立つと小さく囁いた。
「……マリーエレン様が、ご心配されています」
その言葉に眉を寄せる。エレオノールは声を低めて続けた。
「時折……、伯爵が思い詰めた表情をなさっていると、ご心配されています。おひとりで悩み事を抱えていらっしゃるようだと……」
思わず妹を振り仰ぐ。マリーエレンは大きな目を瞬かせ、不思議そうに見つめてくる。
「マリーエレン様は、いつもご自分を大事にしてくださる兄君のお力になりたいと仰っていました」
少女の囁きに、ジュビリーは痛ましげに顔を歪めた。五歳年下の妹は、まだ幼い子どもだとばかり思っていた。だが、舞い込み続ける縁談に頭を悩ませている自分の苦悩を、感じ取っていたというのか。
「……ありがとう、レディ・エレオノール」
領主の言葉に、エレオノールはほんの少しだけ安堵の表情を見せると、静かに頭を下げた。
やがて従者に手を取られ、馬車を乗り込むエレオノールをジョンが寂しそうに見守る。その肩を強く叩くと、途端に背筋を伸ばす。
「良い姉上だな」
「はい」
馬車の窓から頭を下げる様子が見える。マリーエレンが名残惜しそうに手を振る。やがて御者が馬に鞭をくれ、馬車はゆっくりと走り出す。その様子を、ジュビリーは黙って見送った。胸にぽっかりと空いた穴を感じながら。