第11話
王に凌辱されたエレオノール。そして、更なる事実がジュビリーたちを襲う。
ジュビリーとモーティマーは、ソーキンズの旗艦ゴールデン・ラム号が率いる船団と共にホワイトピークへと帰港した。二人は下船すると、久しぶりの大地の感触にほっと息をついた。ホワイトピーク港は、ソーキンズの凱旋に沸き立っていた。事前の打ち合わせにより、ジュビリーらを出迎えたウィリアムは、熱狂的に出迎える市民の様子に顔をしかめる。
「かつてこんなに歓迎された海賊がいたか」
「大変な人気ぶりですね」
ウィリアムの言葉にジュビリーも肩をすくめて答える。王家にとってはありがたい財源とはいえ、所詮は海賊。生真面目なウィリアムにとっては無法者に過ぎない。それでも、祖国を脅かす大国を相手に大暴れする存在は、国民にとっては偉大な英雄なのだ。ジュビリーは歓声を上げる人々の歓喜の表情を見守った。だが、その時。ジュビリーは押し寄せた野次馬の奥で、乱れた服装の騎乗の青年に気づいた。目になじんだ明るい栗毛。華奢な身体。あれは……。
「義兄上!」
喧噪の中、その叫びだけが耳を裂く。
「ジョン?」
ジョンは転がり落ちるようにして馬を降りると駆け寄ってくる。が、ホワイトピーク城の兵士に阻まれ、罵声を上げる。
「どけ! 離せ!」
「下がれ! 私の義弟だ!」
ジュビリーの叫びに兵士が道を開けると、ジョンはよろめきながら義兄に抱き着き、声を上げて泣き出した。
「義兄上……!」
「ジョン、どうした。何があった。泣いていてはわからん」
戸惑いながら声をかけるジュビリーの後ろで、ウィリアムとモーティマーも困惑の表情で顔を見合わせる。
「あ、姉上が……、姉上が……!」
譫言のように繰り返す名に、ジュビリーの顔から血の気が引く。
「……エレオノールがどうした。……ジョン! エレオノールがどうした!」
ジョンはごくりと唾を飲み込み、悔しげに搾り出すように呻いた。
「王に……、陵辱されました……!」
その瞬間、ジュビリーの頭が真っ白になる。そして、全身が冷水を浴びせかけられたように凍りつく。が、背後でどさりと物が落ちる音がし、彼は鋭く振り返った。
「……そんな……」
そこには、荷物を取り落とした王の秘書官が真っ青で立ち尽くしていた。傍らのウィリアムも息を呑み、目を見開いている。ジョンがしゃくり上げながら、言葉を継ぐ。
「ち、父と、マリー様が、側についています……」
それを耳にするや、ジュビリーはジョンの腕を取って立ち上がらせた。そして、兵士が用意していた馬に跨ると手綱を引く。
「は、伯爵……!」
モーティマーの怯えた声など耳に入らぬ様子で、ジュビリーは馬の腹を蹴ると走らせた。すぐにジョンが後に続く。がたがたと震えるモーティマーに、ウィリアムが問いかける。
「叔父上には愛人が多い。クレド伯夫人は……」
「違います! 違います!」
モーティマーは頭を振って叫んだ。
「伯爵は……、長い婚約期間を経て奥方をお迎えに……。そんな奥方を、陛下に差し出すわけがありませぬ!」
では、奪ったのか。廷臣を国外に追いやった隙に、貞淑な妻を。ウィリアムの口許が歪む。その時、背中に海賊のしわがれ声が投げかけられる。
「おい、伯爵はどうした?」
その声に、モーティマーは我に返ったように顔を上げる。
「は、伯爵は……」
ごくりと唾を飲み込み、言葉を選ぶ。
「き、急用で、一足先に、帰られた」
ソーキンズは呆れたように肩をすくめた。
「せっかちな野郎だな」
ホワイトピークからイングレスまでの道のりはやけに長く感じられた。休憩もせず、ジュビリーらはまっすぐ王都へ向かった。プレセア宮殿に戻り、アプローチではなく官舎の裏口から乗り込むと、いつもは賑やかなロビーががらんとしている。ジュビリーは誰もいない廊下を駆け抜けた。居室に到着すると扉を開け放つ。と、そこでは、侍女たちが身を寄せ合って震えていた。
「旦那様……!」
ジュビリーは肩で息をしながら、忙しなく呼吸を繰り返した。侍女たちは恐怖で両目を大きく見開き、ただ見つめてくるばかりだ。そして、寝室の奥から切れ切れに悲鳴が聞こえてくる。
「離して……! 離して……! 死なせて……! あぁ……!」
悲鳴の合間に、耳に馴染んだ声が。
「義姉上……! お願い、落ち着いて……! 義姉上……!」
ジョンが恐る恐る義兄を見上げる。ジュビリーは足早に寝室に向かうと、そっと扉を開いた。
「兄上……!」
寝室の中央。寝台には、ギルフォード子爵とマリーエレンに押さえ込まれたエレオノール。妻は、夫の姿に気づくとびくりと体を震わせた。大きく見開いた瞳は真っ赤に充血し、美しい黒髪が蒼白の頬にまとわりついている。あの、愛らしかった妻が、今では――。
「……エレオノール」
「いやーッ!」
エレオノールは狂気に満ちた悲鳴を上げた。
「来ないで! 来ないで! わ、私……、私……!」
ジュビリーはもつれる足で妻に駆け寄ると抱きしめた。
「や……、は、離して……! わ、私、あ、あなたを……!」
「エレオノール……!」
かすれた声で叫び続けるエレオノールに、ジュビリーは苦しげに囁いた。
「おまえは……、私の妻だ……!」
エレオノールの真っ赤に泣き腫らした目から大粒の涙が溢れ出る。
「……ジュビリー……!」
彼はがたがたと震える妻の肩を必死で掻き撫でた。
「誰が何と言おうと、おまえは、私のものだ!」
その言葉を耳にすると、エレオノールは震えながら目を閉じた。そして、がくりと体を夫に預ける。
「エレオノール……!」
ギルフォードが囁く。ジュビリーは息をつくと顔を上げた。
「……ジョン」
「は、はい」
「馬車を用意しろ」
「えっ?」
「早くしろ!」
叫ぶや否やジュビリーはエレオノールの細い体を抱き上げた。
「あ、兄上……! ど、どこへ……?」
マリーエレンが泣きながら兄の後を追う。
「帰る」
兄は短く吐き捨てた。
「クレドへ帰る……!」
王の執務室。外から騒がしいざわめきが響いてくるのが聞こえ、思わずエドガーが傍らのセヴィル伯と顔を見合わせる。と、突然扉が荒々しく開け放たれた。
「……ロバート?」
乱れた胴衣。髪も振り乱した秘書官にエドガーは息を呑んだ。そして、わずかに遅れて息を切らしたウィリアムがやってくる。
「陛下!」
モーティマーは王に駆け寄ると、胸倉を掴まん勢いで迫った。エドガーもセヴィル伯も、いつもはおとなしいモーティマーの暴挙に唖然とする。
「何てことを! 何ということをなさったのですか! 陛下!」
心当たりがあるエドガーは、怒り狂ったモーティマーをただ見上げることしかできなかった。秘書官は顔を歪め、目を細めてなおも叫んだ。
「陛下もご存知のはずでしょう! クレド伯がどれだけ奥方を愛していらっしゃるか! 成人するまで五年待って結婚された経緯を、お忘れですか!」
「わ、わかった、ロバート。わかったから、落ち着いてくれ……!」
王が怯えた声を上げ、セヴィル伯とウィリアムがモーティマーを引きはがす。
「衛兵を呼べ!」
「呼ばずともよい!」
ウィリアムの怒鳴り声にセヴィル伯が困惑の表情で振り返る。ウィリアムはまだ興奮状態のモーティマーを下がらせながら続ける。
「モーティマーに落ち度はない。そうですね、叔父上」
エドガーは突然のことに呆然としながらも恥じ入るように項垂れ、静かに頷いた。セヴィル伯は、まだ怒りで体を震わせている秘書官と、力無く肩を落としている王に視線を彷徨わせた。ウィリアムは大きく息を吐き出すと頭を振り、叔父の耳許に口を寄せた。
「叔父上。あなたは今この瞬間に、アングルにとって大きな力になるであろう廷臣をひとり失いました。それどころか、これは国に戦火を招きかねない。今後のあなたの言動ひとつで、国の運命は大きく変わる。……おわかりですな」
冷静な甥の言葉を最後まで聞いたエドガーは、溜息をつくと口を開いた。
「……やり過ぎた」
蚊の鳴くような声で囁き。
「……調子に乗りすぎた」
ウィリアムは、やりきれない思いで頭を振った。
それから、一ヶ月が経った。クレドの領主が帰ってきたらしいが様子がおかしい、と伝え聞いたベネディクトはクレド城を訪れた。
城はひどく静まり返っていた。アプローチで待たされていると、やがてマリーエレンとジョンが出迎える。
「……どうした、マリーエレン」
明るく、快活なはずのマリーが面痩せし、暗い顔を強張らせている。傍らに控えるジョンも険しい表情で項垂れ、ベネディクトは胸騒ぎを感じた。
「ベネディクト様……!」
突然マリーが両手で顔を覆って嗚咽を漏らし、ベネディクトは慌てて抱きしめる。そして、隣で辛そうに黙り込んでいるジョンに視線を向けた。
「一体、何があったのだ」
「……姉が」
ジョンが悔しそうに顔を歪める。
「姉が、王に襲われました」
「……何だと」
ベネディクトの顔から血の気が失せる。
「あ、兄は、顔が変わりました」
腕の中でマリーが囁く。
「まるで、人が変わったように……」
「それでも、一日中姉の側についています。身内以外は側へ近寄らせないため、医師の診察もままならず……」
「……何てことを……!」
ベネディクトは怒りに震えながらマリーを強く抱きしめた。あの男は、愛娘のケイナだけでなく、息子同然のジュビリーの妻まで。初めてケイナをプレセア宮殿に連れて行った時の光景が蘇る。あの時、獲物を見つけたように嗤った王の嘲笑が今でも忘れられない。ベネディクトは悔しげに目を閉じた。
応接間で待っていると、やがてジュビリーが現れた。マリーが言う通り、顔付きがまるで違う。無精髭が目立つ頬は痩せこけ、目だけぎらぎらと獰猛な光を帯びている。ベネディクトは眉根を寄せた。
「……マリーエレンから話は聞いた」
ジュビリーは項垂れ、ただ黙り込んだままだった。ベネディクトは彼の腕を取ると椅子に座らせる。
「……容態は」
力無く顔を振り、躊躇いながら口を開く。
「……食べないのです」
低い声が口から漏れ出る。大きく息を吐き出し、震える手で額を押さえる。
「食べようとしても、体が、受け付けなくて……」
ベネディクトは辛そうに頷いた。ジュビリーの目が悔しげに眇められ、眉間に険しい皺が刻まれる。
「……騙し討ちです」
絞り出すような囁きに、ベネディクトは痛ましげに顔を歪める。
「わ、私を、アングルから追いやった間に……。騙し討ちでなくて何です!」
「落ち着け……!」
「あんな男が王ですか! 私は、あんな男に臣従を誓ったのですか? エレオノールだけじゃない! あいつは……、あなたからケイナ様を……!」
獣のように吠えるジュビリーを黙って抱きしめる。ケイナが王の愛人に迎えられた時、ジュビリーは憤り、涙を流してくれた。そして今、愛する妻まで。
「……許さない」
地獄の底から響いてくるようなジュビリーの呻きに、ベネディクトは息を呑んだ。
「絶対、許さない……。許すものか……!」
「ジュビリー……。おまえの気持ちはわかる。だが、今はレディ・エレオノールの健康を取り戻すことが先だ」
ベネディクトの呼びかけに、ジュビリーは震えながら顔を上げた。
「彼女を救えるのも、支えられるのも、おまえだけだ。そうであろう」
彼が黙って頷いた時。扉が突然開け放たれた。
「兄上!」
取り乱した様子のマリーが部屋に飛び込んでくる。
「あ、あ……、義姉上が……、義姉上が……!」
マリーは泣きながらまくし立て、男たちは息を呑んで立ち上がった。
寝室へ向かうと、ジュビリーはぎょっと立ち尽くした。寝台にエレオノールがぐったりと横たわり、夜具が真っ赤に染まっている。それが鮮血だと理解するまで、少しの時間を要した。医師が妻の手首に包帯を巻いている様子を、ジュビリーは呆然と見つめた。
「……ちょっと、め、目を離した隙に……」
まだ混乱したままの侍女が譫言のように囁く。そして、床に転がっている血塗れのハサミを目にしたジュビリーはかっとなって怒鳴りつけた。
「何故置いていた! そんなものを!」
「お、お許し下さいませ……!」
必死に頭を下げる侍女を、ベネディクトが下がらせる。ジュビリーは体中の震えを抑えられないまま、マリーとジョンが泣きながら血で汚れた夜具を取り替える様子を呆然と眺めた。やがて、手当てを終えた医師が立ち上がる。
「伯爵、お命に別状はございません。ですが……」
医師はジュビリーを寝室の隅に連れていった。そして、険しい表情で囁く。
「……奥方様は、身篭っておられます」
その言葉に、震えがぴたりと止まる。ジュビリーは目を見開き医師を凝視した。
「……子ども……?」
ジュビリーの呆然とした呟きに、マリーらが息を呑んで振り返る。医師は溜息をついた。
「恐らく、ご自分でもお気づきになられたのでしょう。だから……」
その途端、ジュビリーはその場に崩れ落ちた。
「ジュビリー!」
慌てて駆け寄ったベネディクトが彼の背を支える。ジュビリーは放心状態で空を見つめていた。ずっと、子どもを待ち望んでいた。二年近く子どもができなかったのに、何故今……!
その時、ジュビリーの脳裏にケイナの言葉が響いた。
「あの子は、幸せになれるかしら」
彼は口許を歪め、両手で頭を掻き抱くと言葉にならない叫びを上げた。
翌日になっても、エレオノールは意識が戻らなかった。
「生むにしても、堕ろすにしても、非常に危険です」
診察を終えた医師は、顔を強張らせて囁いた。
「体力が低下している今、堕胎すれば母体に危険が……。それよりは、お子と共に体力をつけ、出産に臨まれる方が……。ただ、それでも心身ともにご負担がかかることは確かです」
「……生めというのか」
若い伯爵の呟きに、医師は言葉を失った。ジュビリーは荒んだ表情で椅子に座り込んでいた。眉間に刻まれた深い皴。落ち窪んだ目。腰を屈め、両腕は力なく膝上にかけられている。医師は目を閉じて息をついた。
「……ご無礼を承知で申し上げます」
ジュビリーは目だけ上げると医師を見つめた。
「私は、医者です。どんな命でも救いたい。……そう願います」
医師の言葉は、ジュビリーの脳裏にある情景を蘇らせた。
ケイナが抱いていたキリエ。あの娘も王の血を引いている。だが、ケイナが生んだ子だ。だから、あんなに可愛かったではないか。そして何より、キリエを抱くケイナの幸せそうな笑顔が頭を離れない。
「キリエが愛しい。可愛くて仕方がない……」
脳裏に響くケイナの囁き。ジュビリーは目を閉じると、震える溜息を吐き出した。
その晩、ジュビリーは一睡もせずにエレオノールの寝顔を見つめて過ごした。窓から差し込む青白い月明かりがやせ細った頬を照らし出す。その頬をずっと撫で続けていた手を止めると、不意に涙が溢れてきた。後から後からこぼれ落ちる涙を、ジュビリーは止められなかった。どうして、こんなことに。声を押し殺し、エレオノールに覆いかぶさって抱きしめる。
クレド城で初めて出会ったあの時。穢れを知らない純粋無垢な少女。あの笑顔に惹かれたのだ。そして、彼女は自分の思いに応えてくれた。五年という長い時間を待ってくれた。ようやく、結ばれたのに。なのに……! 食いしばった口から嗚咽が漏れた、その時。彼は思わず目を見開いた。背中を撫でる感触。顔を上げると、エレオノールが虚ろな瞳でぼんやりと見つめてくる。
「……どうして……」
妻はかすれた声で呟いた。
「どうして……、私、生きてるの……」
ジュビリーは妻の頬を包み込むと必死に言い聞かせた。
「駄目だ、死ぬな……! 死ぬなんて、絶対に許さない!」
ジュビリーの姿を映し出した瞳が揺れる。
「……私、もう、生きては、いけないわ」
「エレオノール!」
彼女は不意に顔を歪めると、震える手で髪を掻きむしった。
「こんな……、こんな体で、生きていたくない!」
「エレオノール!」
手を押さえ付ける夫に、エレオノールは叫んだ。
「殺して! お願い……、殺して……!」
「馬鹿者!」
ジュビリーは肩を掴むと怒鳴り付けた。そして、震えながら囁く。
「……おまえが死ぬなら、私も死ぬぞ」
エレオノールの目が見開かれる。
「……一緒に死ぬか」
その囁きに、涙が溢れ出る。
「……駄目」
妻の呟きにジュビリーは乱れた髪を撫でた。
「あなたは、死んじゃ駄目……。死んでは駄目!」
「だったら、生きてくれ……!」
ジュビリーは必死に呼びかけた。
「おまえがいないと生きていけない。頼む、生きてくれ……!」
「で、でも、私、私……、こ、この、体に……」
どもりながら譫言のように囁く妻に、ジュビリーはそっと囁いた。
「……生んでくれ」
見開いた両目から大粒の涙が溢れ出し、ジュビリーは大きな手で拭ってやる。
「二人で育てれば、二人の子になる」
エレオノールは呆然と夫を見上げた。
「おまえがいるなら、それでいい……!」
「あぁ……、あああっ……!」
声を上げて泣きじゃくるエレオノールを、ジュビリーはしっかりと抱きしめた。エレオノールを、絶対に守ると誓いながら。
数日後、寝室ではエレオノールのためにジュビリーがパン粥を食べさせる光景が見られた。慣れない手つきでスプーンを運び、少しずつ粥を口にする妻にジュビリーはようやく顔をほころばせた。
「今日はよく食べたな」
そう言ってエレオノールの頭を撫でると、彼女は少しだけ口許をゆるめる。
「あなたが、食べさせてくれるの、上手になったから……」
「……不器用ですまない」
彼はそう言って優しく背を撫でた。エレオノールは疲れた表情のまま夫を見上げた。
「……私」
「どうした」
だが、エレオノールは再び目を伏せてしまった。
「何でもない……」
何か言いたげな彼女に、ジュビリーが身を乗り出した時、扉が叩かれる。振り向くと、扉からマリーエレンが強張った顔を覗かせた。
「……兄上」
応接間に向かうと、ジュビリーは目を眇めて訪問者を凝視した。
「クレド伯……」
王の秘書官は、相変わらず生真面目な顔付きで立ち尽くしていた。どこか怯えが見え隠れする表情で丁寧に頭を下げるモーティマーに、ジュビリーは眉間の皺を深めた。
「私を捕えに来たのか」
「伯爵」
モーティマーの表情が困惑で歪む。
「職務を放棄し、王の許しも得ずに領地に帰還した私は反逆者と見なされるだろう」
「……いいえ」
弱々しく呟き、項垂れたモーティマーはしばし沈黙し、やがて気力を奮い起こすように顔を上げた。
「ホワイトピーク公が、陛下に諫言なさいました」
ウィリアムの名にジュビリーは眉を寄せる。
「陛下の蛮行は忠実な臣下を失うことになるであろうと、仰せられました。……陛下も、後悔していると」
「後悔」
毒でも吐き出すような勢いで口走ったジュビリーに、モーティマーは予期していたように口をつぐんだ。
「後悔などなさらぬ。あのお方は!」
太い声で一喝され、モーティマーは返す言葉もなく立ち尽くした。が、ジュビリーは苛立たしげに顔を振り、大きく息をつく。
「……わかっている。そなたを責めても詮無いことだ」
それでも黙ったままのモーティマーに、ジュビリーは改めて鋭い眼差しを向ける。
「では、何をしに来た」
「……陛下の許可なく領地に帰還したことは不問に付されております。そのご報告と……、居室の家財を運んで参りました」
モーティマーが口ごもりながら述べた言葉に、ジュビリーは目を伏せると顔を背ける。
「……宮廷のことは思い出したくない。全て、処分してくれ」
「承知いたしました」
その答えを予想していたモーティマーは静かに頷いた。そして、哀しげに項垂れる。
「……お許しください。私の独断で運んで参りました」
ジュビリーは眉間に皺を寄せて顔を上げた。
「モーティマー。もう私に関わるな」
「伯爵……」
「私に関わればそなたにも累が及ぶ。もう、誰かが傷付くのはたくさんだ」
「しかし……!」
モーティマーは悔しげな表情で身を乗り出した。
「私は……、私は納得できません!」
まだ若い秘書官の悲痛な叫びに、ジュビリーは顔を振った。
「もういい。……すまない」
項垂れる伯爵の姿に、モーティマーは沈黙せざるを得なかった。そして、小さく吐息をつくと、懐に手をやる。
「……伯爵。これだけは、お持ち下さい」
そう言って、柔らかな布の包みを取り出す。ジュビリーは目を眇めて包みを見つめる。やがて無言で受け取ると包みを開き、目を見開く。布に包まれていたのは、美しい細工が施された青蝶の髪飾りだった。モーティマーは遠慮がちに囁いた。
「これは、レディ・ケイナのご遺品では……」
ジュビリーは思わず髪飾りをそっと撫でた。彼の脳裏に、妻と共にケイナに会いに行った日の光景が蘇る。生まれたばかりのキリエを囲み、皆が笑顔だった。そのケイナは病で早世し、キリエは教会に預けられた。エレオノールと自分は今、絶望の淵に立たされている。……どうして、こんなことに。静寂が続く応接間で、二人の男はしばし立ち尽くした。やがてジュビリーは小さく呟いた。
「……すまなかった、モーティマー」
モーティマーはかすかに顔を振った。そして、恐る恐る口を開く。
「……奥方様は」
「床に臥している」
伯爵の言葉にモーティマーは顔を強張らせた。
「一日も、早くお元気に……」
涙で語尾が震える秘書官に、ジュビリーは黙って頷いた。
だが、ジュビリーが恐れていた火の粉は別の者に降り懸かることになった。