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黒衣の伯爵  作者: カイリ
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第10話

エスタドの船を襲い、奪った財宝を王宮に献上する海賊ソーキンズ。ジュビリーは王宮に潤いをもたらす海賊を王都に連れてくるよう命じられる。それが、悪夢の始まりだった。

 それから数日後、ジュビリーはカラム伯の訪問を受けた。男二人が話し込んでいる様子を、エレオノールは少し不安げな様子で見守った。やがてカラム伯は帰っていったが、ジュビリーは眉間に皺を寄せて考え込んでいる。

「あなた……」

 エレオノールが恐る恐る声をかけると、ジュビリーは溜息をついて顔を上げた。

「カラム伯が、マリーエレンを妻にしたい、と」

 夫の言葉にエレオノールは驚いた。だが、ジュビリーは険しい表情を崩さないまま言葉を続けた。

「カラム伯……。私が聞いた限りでは良い噂は聞かない。何度か浮名を流したそうだが、相手は皆有名どころだ。野心家なのだろう」

「……どうなさるの?」

「本人の印象を聞いてみる」

 ジュビリーはそう呟くと、机の引き出しから紙とインクを取り出した。

 三日後、早速クレドから手紙が届いた。妹の返事をジュビリーは何度も読み直した。

「お返事ですか」

「ああ」

「それで、なんと?」

 ジュビリーはかすかに苦笑いを浮かべながら答えた。

「あんな殿方、絶対に嫌です、だそうだ」

「まぁ」

 エレオノールは眉をひそめた。

「あの方はジョンを侮辱しました。もう会いたくありません、とある」

「何があったのかしら」

「それは書いていないな。よほど嫌な思いをしたのだろう」

 そういえば、クレドへ帰る前にジョンはどこか寂しそうな表情をしていた。

「では、カラム伯には……」

「お断りしよう」

 夫の言葉に、エレオノールはどこかほっとした表情になった。そして、じっとジュビリーを見つめると小さい声で囁く。

「……ジュビリー。ジョンと、マリーのことだけど……」

「わかっている」

 ジュビリーはそう答えると手紙から目を上げた。エレオノールは思わずくすりと笑いをこぼす。

「あら、あなたはてっきり気づいていないかと」

「馬鹿を言うな」

 妻の言葉にわざとしかめっ面をして言い返す。

「いくら鈍感な私でも、あれぐらいすぐわかる。……わかりすぎる。特にジョンはな」

 エレオノールは穏やかに微笑んでいたが、やがて少し心配そうに眉をひそめる。

「どうするの?」

「……ジョンはまだ子どもだ」

「まぁ。あの子ももう十七歳ですよ。あなただって、十八歳の時に求婚して下さったじゃない」

 ジュビリーは思わずぐっと黙り込むが、慎重な顔つきで答える。

「もう少し様子を見よう」

「そうね」

 エレオノールも特に反論することなく、頷いた。

 その後、カラム伯には縁談を断る旨を伝えたが、彼は諦めなかった。もう一度マリーに会いたいと言い出し、ジュビリーを困らせた。


 そんな落ち着かない状況のまま年が明け、宮廷に新たな問題が持ち上がった。

 プレセア宮殿の会議の間では、廷臣らが浮かない表情で集まっていた。

「陛下。エスタド大使から、ホワイトピーク海峡から大陸沿岸に及ぶ海域に出没する海賊を取り締まってほしいと……」

「これで三度目の要請でございます」

 廷臣の言上にエドガーは険しい表情で耳を傾けていた。エスタドは東方の国々と積極的に貿易を行っており、莫大な金銀財宝の流れがあったが、その運搬船が海賊に襲われる被害が多発していた。そして、そのほとんどがアングルの海賊だったのだ。

「被害総額は、去年だけでも五十万スターリングは下らないそうでございます」

「我が国の海賊が襲撃をやめなければ、エスタドとの関係が悪化します」

「陛下、いかが計らいますか」

 エドガーは不機嫌そうに額を手で押さえ、目を眇めた。

「捨て置け」

「は?」

 廷臣らは戸惑いの顔つきで王を見つめた。

「アングルはエスタドと縁戚を結んだだけであって、属国に成り果てたわけではない」

「陛下……」

 エドガーはいらだたしげに息を吐き出した。

「カルロスを図に乗らせるな。海賊に襲われるなら、自分で何とかするがいい」

「し、しかし」

「大使には『努力する』と言っておけ」

 エドガーは玉座を立つと会議の間を出ていった。

 王が海賊を放置すると宣言したものの、廷臣たちは慌てた。ひそかにホワイトピークへ使者を遣わし、海上の警備を強化するよう要請。ウィリアムも事情を察し、取り締まりに乗り出した。だが、それでも海賊の横暴ぶりは収まる様子もなかった。エドガーの専横ぶりは今に始まったことではないが、宮廷の内外で外交に関する不安と懸念がくすぶり始め、それはジュビリーにとっても他人事ではなかった。国内の争い事の仲介や、独立部族との国境警備などを取り仕切るジュビリーの許には不穏な情報が入り乱れ、神経をすり減らす日々を強いられることになった。

 ある晩。寝室の扉を開いたエレオノールは、夫が寝衣のまま寝台の淵に腰を下ろし、何枚もの書状を読み耽っている姿を目にして眉をひそめた。暗い寝室。ランプの明かりは眉間に皺を寄せたジュビリーの表情を赤く浮かび上がらせている。

「風邪をひくわ」

 そう言いながら、長椅子に投げられたガウンを夫の背にかける。

「ああ、すまない」

 溜息をつきながら目頭を押さえるジュビリーに、エレオノールは心配そうに寄り添った。

「お勤めのこと?」

「……ああ、厄介な問題ばかりだ」

 多くは語らないが、夫の言葉から深刻な様子が伝わる。エレオノールはジュビリーの広い背を小さな手で撫でた。

「無理しないで……」

「ありがとう」

 ジュビリーは口許をゆるませて囁いた。が、もう一度溜息をつくと膝の上から一枚の手紙を取り上げる。

「執務だけではない。こちらも大問題だ」

 手紙に残る封蝋に顔をしかめる。

「カラム伯?」

「ああ。まだマリーエレンを諦めていないらしい。しぶとい奴だ」

 苦々しげに呟く夫に眉を寄せ、手紙を凝視する。

「クレドへ赴いて直接求婚するとまで言い出したから、それはやめてくれと返事を送った。ハーバートに気を付けるよう伝えねば……」

 夫の不安な気持ちを感じ取ったエレオノールは、やおら立ち上がると彼の頭をぐいと抱き寄せ、自らの胸に押し付けた。

「お、おい」

 少し狼狽えた声。エレオノールは構わずにジュビリーの頭を掻き撫でた。

「……あなた。甘えてくださいな」

 ジュビリーは口をつぐむと妻の言葉に耳を傾けた。

「覚えている? 幼い頃、あなたは甘える時間がなかったのではないかと聞いたわよね。今もあなたは誰にも甘えることなく、皆のために心を砕き続けている」

 エレオノールは小さく吐息をつくと夫の髪に頬を押し付ける。

「そんなあなたを誇りに思うわ。だけど……、二人でいる時は私に甘えて。お願い」

 心に染み入る妻の言葉に、ジュビリーの表情が徐々にほぐれてゆく。ああ、ここだ。自分の安らぎはここにある。ジュビリーはエレオノールの細い腕を愛おしげに撫でた。

「……おまえと一緒にいると子どもでいられるな」

 夫の囁きにエレオノールは目を細めた。

「ありがとう、エレオノール。おまえが側にいてくれることが何よりの安らぎだ」

 エレオノールは嬉しそうに夫を抱きしめた。が、ふと思い出したように眉をひそめる。

「子どもと言えば……、キリエ様はどうしているのかしら……」

 ジュビリーは目を見開いた。

「だって……、あんなに、あんなに小さかったのに……」

 エレオノールは乳飲み子のキリエの姿しか目にしていない。ジュビリーは体を起こすと妻の細い肩を抱いた。

「グローリアの教会に預けられているそうだ。今のキリエ様を知っている者がいるか、探してみよう」

 だが、エレオノールは黙って夫にしがみついてきた。美しい黒髪を撫でていると、彼女は絞り出すように囁く。

「……赤ちゃんが欲しい」

「……エレオノール」

 たしなめるように、思わず強く背を撫でる。それでもエレオノールは涙の混じった声で悲痛な思いを吐露した。

「キリエ様のような、可愛い赤ちゃんが……、欲しい……!」


 それから数ヶ月。アングル側の生ぬるい対処にエスタド側は不満を募らせるままだった。そして、春の到来に人々が心を弾ませていたちょうどその頃、イングレス市内は大きなざわめきに包まれた。金銀財宝を満載した何台もの馬車がホワイトピーク港から送り込まれたのだ。そして、その馬車の行列はプレセア宮殿へと向かっていった。

「陛下!」

 執務室に篭っていたエドガーにセヴィル伯が興奮気味にやってくる。

「フィリップ・ソーキンズと名乗る男が、陛下に財宝を献上したいと……!」

「何だと?」

 唐突な申し出にエドガーは顔をしかめた。側に控えたモーティマーも顔を強張らせる。エドガーがセヴィル伯の案内で宮殿の宝物殿へと向かうと、そこにはうず高く積まれた財宝の山が輝きを放っていた。少なく見積もっても十万スターリングにはなる。廷臣らは感嘆の声を上げた。だが、モーティマーは眉を寄せ、探るような眼差しで財宝を見つめる。美しい磁器の壺や皿。香木が仕舞われた木箱。妖しい光沢を放つ彩り鮮やかな布地。その他、大陸では目にすることのできない不思議な宝の数々。これらは東方の交易品だ。

「財宝はこれだけではございません。まだ運び込まれております」

「……ソーキンズとやらはどこだ」

「それが、自身はすぐに出港してしまったようで……」

 エドガーは満足げな笑みを浮かべた。

「仕事熱心ではないか」

「はっ。どうやら、エスタドの貿易船を襲い、奪った財宝の一部を献上したものと思われます」

 そして、セヴィル伯は恐々と王を見上げる。

「……いかが計らいますか」

 不安げな廷臣たちに一瞥をくれると、エドガーはふんと鼻を鳴らした。

「ソーキンズに遣いを送れ。大儀であったと」


 海賊ソーキンズが王宮に財宝を献上したのは、この一度だけでは終わらなかった。毎月のように財宝を満載した馬車が送り込まれ、イングレス市内はフィリップ・ソーキンズの話題で持ちきりになった。大陸の最強国エスタドの鼻を明かし、まんまと財宝を強奪するその鮮やかな手腕に、市民は惜しみない喝采を贈ったのである。王宮は大いに潤った。そして、エドガーはソーキンズという男に会ってみたくなった。

 その後の廷臣会議でもエスタドからの再三の抗議が議題に上がったが、エドガーは相変わらず海賊の取り締まりに本腰を上げようとはしなかった。ソーキンズの国民的人気もさることながら、貴重な財源であることに変わりはなかったためだ。そして、エドガーは機嫌が良さそうな様子で言い出した。

「誰か、実際にソーキンズに会った者はいるか」

 廷臣らは顔を見合わせ、黙り込む。

「噂では、見かけは普通の海賊だという話です」

「普通の海賊か。判断が難しいな」

 王の言葉に皆が笑い声を上げる。場が和やかになったところで、エドガーはこんなことを言い出した。

「王宮はずいぶんと助けられた。彼の働きに報いてやりたい。騎士号を授与しよう」

「それは……」

 廷臣らは驚いて口ごもる。セヴィル伯が恐々と口を開く。

「海賊に騎士号を授与したことがエスタドに知られれば……」

「放っておけ。何とでも言い訳はできる」

 王の強気な発言に皆は困惑しながらも黙り込んだ。廷臣たちを眺め渡したエドガーは、やがて末席に座している若者に声をかけた。

「クレド伯」

「はっ」

 彼は驚いて顔を上げた。

「ソーキンズを連れてまいれ。一度どんな男か見てみたい」

「……御意」

 王の思わぬ命令に、ジュビリーは戸惑いながらも頭を下げた。エドガーはじっとジュビリーを見つめると、やがて秘書官を一瞥した。

「ロバートを連れていけ。頼んだぞ」


「何だか心配だわ」

 出発の日、エレオノールは浮かない表情で呟いた。

「海賊をお迎えする任務だなんて……」

 旅装に着替えながらジュビリーも肩をすくめる。

「山育ちの私にお命じになられるとは、どういうおつもりかな」

「それは、あなたが頼りにされているということだわ」

 妻は誇らしげに顔をほころばせた。

「それに、ちょっと羨ましいわ。私、海も船も見たことがないから」

「そうだな。帰ったらホワイトピークまで遠出するか」

「ええ」

 エレオノールの嬉しそうな顔にジュビリーは微笑んだ。すると、従者がやってくると主に呼びかける。

「伯爵、サー・ロバートがお越しです」

「モーティマーだ。行ってくる」

「お気をつけて」

 ジュビリーは妻と口付けを交わすと短く抱きしめた。

「留守を頼むぞ」

「はい」

 居間を出ると、旅装姿のモーティマーが佇んでいる。

「クレド伯、よろしくお願いいたします」

 生真面目な口調で述べると丁寧に頭を下げる青年に、ジュビリーは頷いてみせる。

「こちらこそ、道中頼むぞ」

 エレオノールが微笑を浮かべて進み出る。

「サー・ロバート、夫をよろしくお願いします。あなたもお気をつけて」

「はい、ありがとうございます」

 若い秘書官は顔をほころばせた。

「じゃあ、行ってくる」

「お早いお帰りを」

 ジュビリーが微笑むと、エレオノールも笑顔で手を振った。

 だが、ジュビリーが彼女の明るい笑顔を見るのは、これが最後になった。


 ジュビリーとモーティマーはまずホワイトピークに向かった。そこでホワイトピーク公ウィリアムから海軍の艦船を借り受けた。

「海賊に騎士号とはな。叔父上らしい酔狂な振る舞いだ」

 言葉は柔らかなものの、その表情は不満とも不安ともとれる表情のウィリアムにジュビリーは曖昧な返事しかできなかった。そして、沿岸警備隊や港湾関係者からソーキンズの行方を尋ねたが、彼は北アングル海へ向かって出港したばかりであり、いつ帰港するかわからないとのことだった。仕方なく、ジュビリーはとりあえず北アングル海へ向かうことにした。

 ジュビリーは宮廷に出仕してから何度かホワイトピークを訪れ、海は目にしていたものの、船に乗るのはこれが初めてだった。船独特の揺れに慣れない彼は、顔をしかめて海原を見つめていた。すると、まだ緊張した様子のモーティマーが側にやってくる。

「船は初めてですか」

「ああ。そなたは慣れているようだな」

「ええ。ホワイトピーク郊外で育ちました故」

 ジュビリーは、心なしか顔を引きつらせた秘書官に笑いかけた。

「緊張しているのか」

 モーティマーは恐縮したようにはにかんだ。

「こういった、廷臣のお方のお供をさせていただくのは初めてですので……」

 歳に似合わぬ落ち着きぶりだが、モーティマーはまだ若い。ジュビリーは船縁に体を預けると、眩しい太陽に目を眇めながら尋ねた。

「そなた、何歳だ」

「二一歳です」

「私の妻よりひとつ上だな」

「覚えておりますよ」

 モーティマーは懐かしそうに答えた。

「伯爵の婚約報告が伝えられた際、皆が驚きました。幼い子爵令嬢が、クレド伯のお心を見事射止めたと」

「そんな噂が流れたのか」

 ジュビリーは思わず顔を赤くした。

「今も変わらず仲睦まじいご様子で安心いたしました」

「……まぁ、な」

 照れ隠しに口ごもる若い伯爵をモーティマーは穏やかに見守った。が、思い出したように身を乗り出す。

「そういえば……、クレド伯はレディ・ケイナとはお知り合いでいらっしゃいましたね」

 ケイナの名を耳にして、ジュビリーは目を見開いた。

「……幼馴染みだ」

「先月、グローリアのレディ・キリエのご様子を見て参りました」

「……キリエ様?」

 彼は思わず船縁から体を起こした。モーティマーはジュビリーを安心させるように微笑を浮かべた。

「陛下の命により、毎年ご様子を見に行かせていただいております。お元気でございましたよ。五歳におなりです」

「……そうか、もう五歳か……」

 ジュビリーはそう呟くと船縁に手を突き、光る海原を見つめた。そんな彼に、モーティマーはやや眉をひそめて呟いた。

「レディ・キリエは……、すでにご自分が孤児だという認識でいらっしゃるそうです」

 ケイナが生きていれば、母娘ふたりで暮らせたであろうに……。キリエは、両親に愛されていた記憶をどれだけ覚えているのだろう。彼女の無邪気な笑顔が頭から離れなかった。

(……ケイナ様。キリエ様は、お元気だそうですよ)

 ジュビリーは、胸の内で亡きケイナに呼び掛けた。


 ホワイトピークを出港して二日経った頃、船上が俄かに騒がしくなった。

「ソーキンズの艦隊と思しき船影を発見しました」

 艦長の報告にジュビリーは眉をひそめた。

「艦隊? 船団を組んでいるのか」

「私が耳にした話ですと、最低でも常に五隻の海賊船を率いているそうです」

「……大した海賊だ」

 ジュビリーは肩をすくめたが、険しい表情は崩さない。

「追ってくれ」

「承知いたしました」

 海軍艦はすぐに船団に接近した。黒い帆を掲げた五隻の船がはっきりと見えてくる。艦長は望遠鏡を覗き込んだ。

「……一仕事終えた後かもしれませんな」

「何?」

 艦長はおどけたように肩をすくめた。

「速度が遅い。お宝を満載しているようです」

 その言葉に、モーティマーは思わず背筋に冷たいものを感じて息を呑んだ。

「停船を呼び掛けます」

 艦長は部下を呼ぶと命令を下した。程なくして、船団は呼び掛けに応じて停船した。王立海軍の旗を掲げた艦船の命令に従ったのだ。しばらく手旗信号で交信がなされ、艦長はやや興奮した様子でジュビリーを振り返った。

「大当りです。フィリップ・ソーキンズの船団です」

 ジュビリーは静かに頷いた。

「ボートを用意してくれ」

「はっ」

 慌ただしく用意されたボートにジュビリーとモーティマー、数人の衛兵が乗り込み、船団の誘導に従ってソーキンズの旗艦に向かう。近付くにつれ、物珍しげに甲板に集まった乗組員たちが見えてくる。皆一様に凶悪そうな顔付きをしており、どう贔屓目に見ても善良な水夫には見えない。ジュビリーはごくりと唾を飲み込んだ。船体に横付けすると、縄梯子で甲板に上がる。そこは、いかがわしい連中がひしめく異様な世界だった。ジュビリーは、海賊たちの中でもひとりの男にすぐ気づいた。舵輪に寄り掛かった痩身の男。三角帽を目深にかぶり、表情はうかがい知れない。

「おい、フィル」

 一人の男が後ろを向きながら呼び掛けると、舵輪に寄り掛かった男がめんどくさそうに体を起こす。そして、ゆっくりと階段を降り、ジュビリーの前へ進み出る。男は帽子をちょいと持ち上げるとにやりと笑った。

「……ようこそ、ゴールデン・ラム号へ」

 浅黒い顔。細かな傷がたくさんつけられ、深い皺は刻み込まれているものの、思った以上に若い顔付きだ。ジュビリーは頷いた。

「クレド伯爵ジュビリー・バートランドである」

「国王直属秘書官ロバート・モーティマーである」

 ジュビリーに続いてモーティマーが強張った顔付きで名乗る。

「フィリップ・ソーキンズだ」

 男は笑みを絶やさずに応じた。

「勅命により、そなたを迎えにきた」

「チョクメイって何だ?」

 ソーキンズはおどけた表情で聞き返した。周りの海賊たちも皆薄ら笑いを浮かべ、興味津々に身を乗り出している。

「悪ぃが学がないもんでな。難しい言葉はわからねぇ」

 船長の言葉に海賊たちがどっと笑う。

「王のご命令のことだ」

 ジュビリーは特に表情を変えることなく答えてやった。ソーキンズはおかしそうに肩を揺する。

「ほぅ、そりゃそりゃ……。わざわざ国王陛下からのお呼び出しとはね」

「陛下はそなたの働きに大変満足しておられる。そして、その働きに報いたいと、騎士号を授与なさるおつもりだ」

 海賊たちの間にどよめきが起こる。だが、それは感嘆ではなく、笑い話でも聞いたような反応だった。ソーキンズは相変わらずにやにや笑いながら尋ねた。

「騎士号ってのは、何だ。いくらぐらいになるもんだ?」

「名誉だ。金には換えられぬ」

 ソーキンズはひっひっと引きつったような笑い声を上げると傍らの男にしな垂れかかった。

「聞いたか、ホッジ。騎士号ってのは煮ても焼いても食えねぇとよ」

「フィル」

 ホッジは顔をしかめて船長をたしなめた。ソーキンズは笑いながら若い伯爵を見つめた。

「金にもならねぇ騎士号とやらを頂戴してどうすりゃいい? えぇと……」

「クレド伯だ、ソーキンズ」

 強張った顔つきでモーティマーが助け舟を出す。ジュビリーは静かに一歩踏み出した。

「騎士号を授与されれば、世界中の船乗りがそなたに一目置くだろう。海では確かに無用の長物だろうが、いつか船を降りた時に、必ず役に立つ」

 ソーキンズはジュビリーの言葉に目を細めた。彼は辛抱強く呼びかけた。

「もらえるものはもらっておけ。邪魔にはならん」

「確かに」

 にやりと笑うとソーキンズは仲間たちを振り仰いだ。

「久しぶりにイングレスでも行ってくるか。その間おまえらはホワイトピークで飲んだくれとけ」

 仲間は一斉に歓声を上げた。ジュビリーはひそかにほっと胸を撫で下ろした。


 その頃、エレオノールは王宮で夫の帰りを待っていた。夫の不在は心細かったが、そんなエレオノールを侍女や召使らが支えた。エレオノールは優しくて穏やかだったため、下働きの者たちからも慕われていた。

「旦那様がお帰りになられたら、薔薇のお茶をお出しするのよ」

 奥方は嬉しそうに主人の出迎えを計画していた。

「それから、鳥肉のパイと、シチューもね。鱈のフライもお好きだし……」

「奥様、食べ切れませんよ」

 侍女の言葉にエレオノールは肩をすくめた。

「そうね」

 思わず笑い声を上げる主に、侍女たちも微笑んだ。

 その日の、深夜だった。クレド伯の居室の前に、数人の男たちが音もなくやってきた。辺りは青い闇に包まれ、明かりは男たちが手にする小さなランプだけだ。彼らは鍵を開けると静かに扉を開いた。侍女や召使の部屋が並び、一番奥は伯爵夫妻の寝室だ。男が一人、その隣室の扉を開ける。寝台では侍女がすやすやと眠っている。男は忍び足で近付くと、突然口許を押さえる。侍女は驚いて体を起こそうとするが押さえ込まれ、あっという間に猿轡を噛まされる。

「うぅ……!」

「静かにしろ」

 男が侍女の耳許で囁く。

「黙っておけば、危害は加えん」

 侍女が恐怖に満ちた目で男を凝視する。そして、その体ががたがたと震え始める。男はさっと立ち上がると後方に呼びかけた。

「大丈夫です」

 戸口に立ち尽くしていたもう一人の男は、それを耳にするや踵を返した。そして、伯爵夫妻の寝室の扉をそっと開く。

 寝室には、覆いを被せられたランプのぼんやりとした明かりが静かに揺れている。大きな寝台に、たった一人で眠る若い娘。男は音もなく歩み寄った。枕許までやってくると、手にしたランプをゆっくり近づける。エレオノールは侵入者など気づかないまま、あどけない寝顔を晒していた。黒髪がランプの明かりを受けて艶やかに光る。長い睫が寝息と共に上下する様子を見つめ、男の手が薔薇色の頬をそっと包み込む。不意に感じた温もりにエレオノールはぼんやりと目を開けた。そして、

「ひッ!」

 悲鳴を上げて飛び起きようとするが、夜具に押しつけられる。

「やっ、いや……! 離して!」

「静かにするがよい」

 手を振り払おうともがいたエレオノールの動きが止まる。そして、がたがたと震えながら男の顔を凝視する。やがて、恐怖に満ちた声で呟く。

「……陛下……!」

 ランプの光を背に受けたエドガーの黒い顔。その口許に凄絶な笑みが浮かぶ。

「あれから五年、これほどまで美しくなったとはな、知らなかった」

「は……、離して……!」

 身をよじるエレオノールの腕を押さえつけると、エドガーは彼女の首筋に唇を寄せた。

「おとなしくしろ。今宵だけだ。今宵だけ予の女になれば、そなたの夫に侯爵位をやろう」

 そう囁くと、首筋を舌で舐め上げる。エレオノールの体に冷水のような衝撃が走り抜ける。

「やめて! いや……! 助けて……!」

 エレオノールは声を限りに叫んだ。

「助けて……! ジュビリー……! ジュビリー!」


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