3-2、旅立
「行ってきまーす」
ふあぁ……。
いつもと同じ時間。緊張してほとんど眠れなかったため寝不足で重い目を擦りながら、いつも通りに家を出て、山に向かう。籠の代わりにいつもより大きい肩掛け鞄を下げて、まだ人通りのない道を足早に進んだ。
山道を軽やかに進み、人目につかないところについてようやく一息つく。誰かに見られたらバレてしまうかもしれない、試験にいけなくなってしまうかもしれないと、そんなはずもないのに思えてしまったのだ。
「さて、と。これからどうすればいい?」
とりあえずいつも通り山に来てしまったけれど、これからの道をエルトは知らない。今日も大人しくエルトについてきた二匹に問えば、にゃーさんの方がひらりとエルトの腕の中から地面に降り、エルトを先導しだす。それに任せてついていくこと十数分、ついたのは先日リューゼと出会った場所だった。
「ここでいいの?」
“にゃあ”
にゃーさんに肯定されて思わず辺りを見渡す。なんて事のない、山の中では比較的開けているだけの広場だ。ここから首都に行けるなんてとても思えないけれど――――
羽の羽ばたく音が聞こえて、ティーアが足元に降りてくる。にゃーさんと向き合い声を交わす。
「ねえ、僕はどうしたら……」
そんな二匹に戸惑いながら声を掛けた瞬間、
「うわっ!!」
急に視界に半透明な白い光が溢れ、思わず手で遮る。ぶわっという暴風のような音が周囲に満ちて、そして突然ふわりと体が浮き上がった気がした。慌ててエルトが目を開くと、エルトは確かに宙に浮いていた。
「すごいっすごいよ、ティーア、にゃーさん!」
ティーアの力で発生したのであろう球体状になった風がエルト達を内部に入れて、急速に上昇していく。風で出来ているのに中は無風で、エルトは球体の底に立っている状態だ。
ティーアはエルトの肩に止まりながらまぶしいほどの光を放っていて、ティーアから発生した光は球体に吸い込まれて風となっていった。反対側の肩に載ったにゃーさんもよく見れば微かに黒い光を帯び、球体に光を送っているようだった。
二匹が少し自慢げにエルトに擦り寄ってくる。
「触れるのかな……」
二匹を撫でたあと、恐る恐る風の球体に手を伸ばすと、内部には何やら柔らかい透明な膜のようなものがあるようで、つついた指先は弾力のある膜を凹ませるだけに終わった。球体の内部に、エルトが立てているのだから膜があるのは考えたら当たり前の話だ。
そうこうしている間にも、風が上向きにエルト達の入った球体を持ち上げていく。
透明だから当然下もよく見える。風で揺れる空気の向こうに、とても小さくなった町が見えていた。自分の家を探そうとしたが、あっという間に小さくなっていく町の中から一つの家を見つけることは難しかった。
「本当にすごい……」
これが生術なのだろうか。生術はこんなことも出来るのか。
やがて高度が十分になったのか、球体は上昇を止め、上空の早い風に押されるように横に動き出す。時折動く向きが変わるのはティーアが行先を調整しているからだろうか。
柔らかい壁に手をあてて、飽きることなく景色を見ていたエルトだったが、景色の大半が雲だけになった辺りで、ようやく落ち着いて腰を下ろす。透明な浮いている床に座るのはとても不思議で落ち着かない気分だ。今にも落ちてしまいそうなのに、柔らかいのにしっかりと床はそんな不安を感じさせなかった。
座ったエルトの膝にすぐさまにゃーさんとティーアが下りてきて、くつろぎ出す。光を放ちどこか幻想的な二匹を撫でながら、エルトはぼんやりと空を見ていた。
「空が近いな」
基礎学校で、高いところに行けば行くほど寒くなるのだと習った。確かに夏でも山の上の方は肌寒かったので実際にそうなのだろう。それならばきっとこの高さなら相当寒いはずなのに、エルトのいる内部はいたって快適な温度だった。きっとそれもティーア(もしくはにゃーさん)が調整してくれているのだろう。
生命体は本当にすごい。もしかしたら生術師とは、生命体とはエルトの考えているよりももっと大変なモノなのかもしれない。ぼんやりと空を見上げながらそんな取りとめのないことをエルトは考える。
生術は何を創る?
生術は何を生む?
生術師には何が出来る?
生術学校には答えがあるだろうか。この先に答えはあるのだろうか。
生まれてきてからずっとエルトは山と共に育ってきた。山が大好きだし、山のことをもっと知りたいと思ってきた。それに嘘はないし、いまもそう思っている。
でもそれ以上に。
空に飛びだしたエルトは。遠い遠い、両親ですら行ったことのないだろう街に一人で行けるようになったエルトは、もっと広い世界について知りたいと思った。
山だけじゃなくて、町を人を、社会を言葉を、歴史を未来を、そしてこの世界を知りたいと思っていた。生術を知れば、外に出れば知れるだろうか?少しでも分かることがあるだろうか?
もし、そうならば。
たとえそれが家族を泣かせることになっても、僕は外に出ていきたい。世界を知って、世界と共に生きていきたいと。
遮るものが何もない、空を見上げながらエルトは自然と願った。自分ではない何かが思っているような、どこからか湧き出てきたような突然で不思議な願いだった。願っている自分に気づいてびっくりしていた。
だって知らなかったのだ。世界がこんなに広いなんて、エルトは知らなかった。ずっと山から見上げていた空が、山から見下ろしていた地上がこんな遠くまで続いているなんて初めて知ったのだ。地図の上でしか見たことのなかった場所は確かに存在していた。
「楽しいなぁ……」
誰にともなく呟いて、遥か下に広がる緑の間に段々と茶や灰色の人工物が増えていく様を、飽きることなく見つめ続けた。
それから一時間もすると眼下に緑は無くなり、人工物に覆われた場所にたどり着いた。高速で動いていた球体が徐々に高度を落としていき、灰色の塊が、大きな建物の集まりだと分かるようになっていく。
「そういえば、これどうやって降りるんだろう?」
このままいけば、確実に地面に墜落だ。エンディアとは違い広い空間も見当たらない巨大な街にどうやって着地すればいいのだろう?そんな疑問を込めて、エルトはこの球体を飛ばしているティーアに視線を向ければ、ティーアは相変わらずエルトの膝の上でゆったりとくつろぎながら目だけ透けて見える地面に向けている。
だ、大丈夫かな……。
ティーアの隣のにゃーさんも落ち着いた様子で、何となく大丈夫かなんて聞くに聞けない空気だ。幾分速度が落ちたとはいえ、ぐんぐんと近づいてくる地面に思わず体に力が入ってしまう。
もう少し速度落とした方が……などという、エルトの心配なんて素知らぬ様子で着地というより落下していく球体は、ティーアのコントロールが上手なのか、幸い真下は人のいない小さな空き地の様だが、そんなことを考えているうちにあっという間に地面にあと数メートルのところまで下りてきていた。
落ちる!
落下の衝撃を予想してにゃーさんとティーアを抱え込むように体を強張らせ、目を閉じるエルト。
そんなエルトの周りを一際大きい風の音が包む。それと同時に体がふわりと浮き上がり、そのままそっと地面に下ろされる。
はっと気づいた時にはエルトは地面に座り込んでいた。
次は入学試験です。