一
「これが、総務から回された貴殿への仕事だ。受け取れ」
金糸が織り込まれた上等な服を身に付けて椅子に腰掛けた女は、目の前の人物に命令を下し、持っていた紙を投げた。
個人が仕事をするにしては無駄に広い空間にばらばらと数枚の紙が舞う。
それらの紙が地面に落ちる前に相対する人物が徐に手を差し出すと、紙は宙で翻り、重力法則を無視して高い位置にある手の中へと収まった。
まるで無機物である紙が意思を持ったかの様な不自然な動き。
しかし、女も、未だ一言も喋らぬ黙した人間も、それを気にする様子はない。
手に滑り込んできた紙束を捲りもせずにサラリと斜めに見たその人は、胸に空いた手を当てて深々と頭を垂れ、仰々しい程の礼を取る。
横目でそれを確認した女は鍛えられて引き締まった長い腕を伸ばして広い机の上に積み上げられた山から新たな書類を手に取り、自ら呼びつけた人物を見ることなく言い放った。
「貴殿への伝達事項は以上だ。早急にこの部屋より出ていくといい」
それを聞いて、黒いローブに身を包んだ人は下げていた頭をゆったりと上げ、手に持った紙束を小脇に抱え直して外へ出た。
扉の外は吹き抜けの廊下となっており、爽やかな春の風が重々しい色のローブを不満げに揺らす。
先程の部屋も全面に亘る白い壁が陽の光を反射して大層明るかったが、黄金色の柱が整然と並ぶこの廊下は一層光輝いており、吹き抜けの先にある大庭園で草花に水を恵み続ける噴水の水音でさえも風と同様、場所に似合わぬ暗い色を身に纏う人物を責めているようであった。
しかし、当の本人は競わんばかりに種々の花々が咲き誇る庭園に目も留めずに、仕事をこなす為、黙々と廊下を進む。
多くの人間が勤めており、隅の方は寄宿舎となっているため入り組んでいる軍令棟だが、所属してからそろそろ9年が経とうとしている者にとって、いくらリュネブルクの迷宮と噂されている建物であろうとも自らの家のようなものである。
一度奥へ入り込んでしまったら二度と出てこれないと言われる王宮と、数え切れない女性が寵を求めて争う花園―後宮はいざ知れず、慣れ親しんだ軍内を歩む足取りに迷いはない。
門へと続く長い廊下をそのまま真っ直ぐに進んで行く。
すると、脇道と云えども広い通路に赤い髪をした年若い少年が廊下の壁に待ち構えていたかのように寄り掛かって立っていた。
ローブを視界に入れた少年は、発展途上ながらもしっかりとした体をグッと起こして、壁から勢いよく離れる。
「まぁた将軍にケンカ売ったのかァ?」
アッタマワリーな。もっと賢く生きろよォ。と言ってケラケラ笑う少年に、面倒臭そうに顔を顰め、表情を隠すようにフードを前に押し下げつつ横を通り抜ける。
少年はローブの人間がその顔を誰かに晒すのを嫌っていることを知っていたが、掴むその手が離れる瞬間を狙って、歩みに合わせて揺れるフードを引っ張った。
頭から滑り落ちるフードからさらりとした濡れ羽色の髪が現れ、額に掛かる。
未だにフードを掴み続ける少年の手を払い除けた人物は、流れるように少年に一瞥を寄越した。
臆して足を止めてしまった少年は、相手が自分を置いていこうとしている事に気付き、慌てて後を追い、隣へ並ぶ。
「今度は何やったんだヨ」
「……」
「ナァナァ」
「…別に」
前に回り込み、屈むようにして目を合わせようとする少年が邪魔になったのだろう。
ローブに覆われた腕で少年の頭を押し退て、渋々といった様子で言葉を返す。
「書類に目を通さず任務を請け負っただけさ。どうせ拒否させてくれないしね」
「仕事熱心な将軍に対して、相変わらず大胆なコードーなことで。けど、対象の詳しい情報も確認しないで受けて、良かったのカ?手に負えない奴だったらどうすんだヨ」
「どうするもこうするも」
再びローブを掴む手を今度は強く叩き落として、肩に掛かる程度の髪を気怠げに、かつ上品に払うと、前を見据えたまましっとりと濡れた唇を開いた。
「命令された以上はやり遂げるさ」
「お前のその心意気はショーサンするけどさァ……」
目の前の荘厳な門扉を通り抜ける小柄な人影を見送った少年は、その短い髪を掻き上げる。
そして、くしゃりと顔を歪ませて、誰に聞かせるでもなく呟いた。
「殺せなかったら犬死にだぜぇ」