Trigger Memory
「Memory」の続編的な物語です。
思い出したいのに、思い出せない。
強く求めているのに、決して手に入れられない。
何度もその記憶が「何」だったのかを知ろうと追憶に思いを馳せた。けれども、確かな答えはいつもぎりぎりの所でこの手からすり抜けていってしまうのだった。
……
「おい永伊、お前最近気ぃ抜けてんぞ。もっとしっかりしろよな」
「……はい」
ノルマが終わって帰ろうとしたところを上司に引き留められて、俺はそんな風に説教を受けた。
「その返事も、態度も……最近忙しくなってるとはいえ、かなりたるんでる。新入社員の時期は終わったんだからいつまでも甘ったれてると困るんだよ」
「申し訳ありません……」
「……はぁ、やれやれ。明日からはシャキッとしてくれよな、シャキッと!」
「はい……」
呆れ顔の上司からもういいと退却を命じられ、俺は日に日に重くなっていく気のする鞄を片手に会社を出た。
会社前には俺の名前もよく知らない同僚達がたむろしていて、「永伊ドンマーイ」とケタケタ笑っていた。一応のお義理で言葉をかける。
「最近のお前はたるんでる、だってさ」
「あの上司、ビビってんじゃね? なんたってお前はエリート君だからさぁ」
「やめろって」
「大学も主席で卒業だろー? 頭のお出来が俺らと違うっていう。羨ましい限りでー」
「はは、そんな世辞要らないよ……」
彼らの言葉に内心では苛立ちを感じていたが、ここ数年で磨き上げた最高の作り笑顔を揺らがすことは無かった。
「そうだ、お前これから暇? 俺達合コン行くんだけどお前もどうよ?」
「あー……悪い、パス。家で片付けなくちゃいけないことがあるから」
「さっすが真面目! んじゃ、またなー」
「おう」
そんなに強く誘わなかった所を見て、社交辞令で誘っただけだったのだろう。彼らは即座に俺に背を向けて立ち去っていった。
「……ふぅ」
人前では絶対に見せるかと我慢してた溜息と表情が思わず出てしまったのは、俺が相当疲れてきている証拠なのかもしれない。
……
人工的な光に包まれた、昼間とは違う顔を見せる決して眠りにつくことのないこの街。
街頭で不自然な笑顔を顔面にべったりと張り付けた人々が、明日の生活やら遊ぶ金の為に様々な形で雑多な広告を拡散している。
そんな人々の間をかいくぐるようにして、俺は時折軽く頭を下げつつ早足に歩いていく。
「只今無料キャンペーン中! これを機会にご利用してみてはいかがですかぁ!」
「ねぇおにーさん、あたし達のお店に寄ってかない? ちょっとでいいから……ね?」
「貴方の少しの慈悲の心が、貧しき人々を救うのです……主はいつでも貴方の事を見ていらっしゃいますよ……」
あぁ全く、疲れてるんだからいちいち話しかけてくるなよな……。
呟かれた無音の言葉は行き場をなくして心内の何処かに溜まっていく。もしこれが溜まり続けて限界を越えてしまったらどうなるんだろうな、気がおかしくなって逆に楽になれるのかな……。
こういった危ないことを無意識に考えてしまうのも、最近では特に珍しくもなくなってきていた。
……
『他に女がいるんでしょ!? あたしのこと、全然構ってくれないじゃない! もう尋哉にはもううんざりよ……さよなら、もう連絡してこないで!』
一着だけ入っていた留守番メッセージを聞き終わり、俺は今日二回目の溜息を吐いた。一回目よりも格段に重たい調子で。
(新しい恋人ができたのはそっちだろうに……)
大学を卒業する日、その場の流れで半ば強制的に彼氏にさせられた俺。それでも、仕事が忙しくてなかなか会えなくてもいいから、と笑いかけてくれた彼女を信じようと決めたのに。
(変わってしまったのは俺だったのか、彼女の方だったのか……)
自分が意外に引きずる人間だったことを特に驚きもせず淡々と受け止め、俺は彼女からの最後のメッセージをボタン一つで消そうとした。「消して良いですか?」はい。「本当に消して良いですか?」しつこいな。……決意が揺らぐ。
結局俺はメッセージを消せずに、伸ばしていた腕をそのままだらりと降ろした。そんな優柔不断な自分に軽い自己嫌悪を起こす。こんな自分だから彼女は愛想を尽くしたのかもな、と軽い言い訳をつけてソファに倒れ込む。
しばらく顔をうずめていたが、次第に息苦しくなって仰向けに体勢を直した。別に大して生きる意味なんかないくせに……あぁ、ネガティヴな自身がさらに嫌になる。
……それにしても何だろうな、今日は一段と体がだるい。立ち上がろうとして足がもつれ、再び軽い衝撃を伴ってソファと乾燥した口づけを交わす。頬にひりひりとした痛みが走った。
(何やってんだろ、俺……)
呼吸してんのも面倒臭いなぁ、と長い溜息を吐く。
……朧気になっていく思考。
(風呂入って、飯食って、仕事して……そんで明日に備えて……)
重たくなっていく瞼。とろとろと緩やかに無意識の領域に流れ込んでいく意識。
(あぁ、だけど何だか凄く眠い……もう抗えそうにない……だから……今日、だけ……)
肉体的な疲れと精神的な疲れ、その二つから生み出された強烈な眠気に俺は素直に身を委ねた。
……
繰り返しに見る、奇妙な形をした夢。
(誰かが俺を見てる気がする……)
(誰、だろう……)
それは不快感があるわけではなく、かといって本来の夢が持つ安らぎといったものなんて欠片も存在せず……。
(真っ直ぐな視線が向けられている……)
ほぼ毎夜に感じる、夢の中での誰かの視線。俺を遠くからそっと見守るように、そして言葉をかけるのを我慢しているように。ただじっとその視線は送られている。
けれども当然ながら、それが何者なのか分かるはずもなく。
ただ……そこに誰かがいるのは分かるのだ。多分、その人は自分がよく知った人物であろうということも。
(分かりそうで……分からない……)
心を掻き乱すもどかしさに強く焦り、今日こそはとそいつの正体を暴いてやろうとする。
錆び付いたシャッターのように重たい瞼をこじ開けて、ぼんやりと輪郭の歪んだそいつに震える腕を懸命に伸ばす。
けれど、今夜もまた。
(あぁ……)
手が触れようとしたその瞬間に、俺は何か大きな力に強引に引っ張られて夢の世界を終えてしまうのだ。
最後の一瞬だけ、そいつが今にも泣き出しそうなくしゃくしゃになった顔でも笑いながらこちらに手を振っている……相手の顔すら見えないのに、そんな光景を脳裏によぎらせて。
……
「今朝のピックアップニュースです。昨夜11時頃、__県__市で女子高生が何者かに腹部をナイフで刺され死亡する事件が起きました」
そうして俺は今日も、昨日と大して変わらない一日を過ごす為に目を覚ます。
顔を洗い、寝癖の付いた髪をセットし、何錠かのサプリメントを口に放り込んで、クローゼットに入ったスーツを身に纏う。
「被害者は__市の__高校に通う、上森雫さん16歳。雫さんの両親は「娘を返してほしい、犯人は絶対に許せない」と泣きながら警察に訴えました。警察は事件当時の状況を近隣住人に聞き込むと同時に、第一発見者で才果さんの同級生である少女からも事情を詳しく……」
ピッとテレビのリモコンを押し、不快な事件を頭の中から追い払う。こうして毎日嫌なことばかりを覚えていったら、大切な記憶が塗り潰されて失われてしまうから……。
(記憶を守りたいってか? 馬鹿馬鹿しい……)
けれども同じことの繰り返しである毎日に、俺は心なんて呼ばれるものが消耗されてそんな暗い気持ちばかりが募っていくのだった。いつまでも溶けない、重たい雪の層のように。
まるで死ぬ為に生きているみたいだ。
かちゃり、と家の鍵を閉める音が何故だか酷く感傷的に聞こえた。
そして俺は、皆の思う「トワイ ヒロヤ」としてこの世界で生きていく。
繰り返しに続く何の変哲もない毎日。
果てのない螺旋階段のように抜け出すことのできない日常生活。
それらに埋もれていく、大切な思い出。
貴方にとっての「シアワセ」とは何ですか?