Episode 0
――――風が、雲を連れて流れて、繊月が顔を見せる。
微かな月明かりがうっすらと辺りを照らす。さわさわと青々しい草が歌うように、靡く。細い、月明かりが一筋、道のように照らすものがある。――――家屋だ。新しいものではなく、むしろ古めかしい居宅だ。あちこち穴が空いている箇所から時折鼠が出入りしている。ぽろぽろ、と広間の壁紙が崩れ落ちていく。広間を抜けると、かつて応接間として使われていたであろう部屋にはぼろぼろになった調度品があちこちに散らばっている。
かたり、とチェスト・タンスが音を立てた。ぽろり、と木屑が落ちる。
それを避けるように鼠が小さな鳴き声を上げながら走り去っていく。
「……違った」
部屋の隅からぼそりとつぶやく声に、暗闇の中からこそこそと返答があった。
「また、ただの鼠か…せめて火鼠ならまだ体裁がよかったものを」
「体裁ってなんだよ そんなもん必要ないだろ そもそも火鼠なんかいたらこんな廃居宅、俺たちごとファイアーだろ」
「はっ!あんな鼠ごときにそんな魔力あるものか せいぜい蝋燭に火を灯す程度だろうが」
「いや、火種としちゃ十分だろうが つかもう少し詰めろ 狭いしくすぐったい」
ぼそぼそとした会話は徐々にだが、確実に刺々しくなっている。
漆黒の暗闇のなか、剣呑な舌打ちが響いた。
「……まったくなんだってこんな凄まじく非効率的で気の長い策に出たのか理解に苦しむ」
「だったらベティは他になにかいい方法でもあったのかよ?」
大仰な溜息と一緒にたらたら文句を口にすれば明らかに気分を害したらしい声が不満だとばかりに返してくる。
「そういうのを考えるのはお前の仕事だ 自分で考えずすぐ人を頼ろうとするのは感心しないな」
やれやれとばかりにもう片方が容赦なく切り捨てた。それはもう見事に。
うぐっ、と潰れた蛙のような呻き声を上げた相手に対して「ベティ」と呼ばれたほうは、さらに畳み掛けた。まるで鬼の首を取ったかのようだ。
「やれやれ……今夜も収穫なしか…なんて意味の無い夜だろうか…夜というのは本来読書をし暖かい紅茶を嗜み眠りにつくものだというのに」
つらつらと厭味とも皮肉とも取れた発言に答えたのは不機嫌突破の低い声。
「だったらさっさと帰れよ!ていうかあんたその風体でなに抜かしてんだ!どう贔屓目にみても幻獣のくせに!紳士みたいなこと言ってんじゃねぇよ!!」
「この私を幻獣と一緒にするな これだから小童は……これがブラックウェルの次期当主だとは…実に遺憾だよ シリウス・P・ブラックウェル……ああ、まだ昔のほうが可愛げがあったな…いったいどこに棄ててきてしまったのか」
嘆かわしい、と前半は明らかに侮蔑を含んだ声音で後半はさめざめと実に態とらしく嘘くさい声音に、シリウスは冷たく返した。
「……どう見ても幻獣にしか見えないしあんたと会ったのは三ヶ月くらい前だったし、その頃俺はもう12歳だったと思うんたが…」
暗闇しかない空間にわずかに、笑う気配がした。
「ばれたか つまらんな」
このやろう、とシリウスが怒りと呆れを綯い交ぜにした溜息吐くとふと、空気がざわついた。
ざわざわとした冷たい空気が徐々に形を成す。じっとりとした汗がシリウスの背を伝う。ようやく姿を現したのでこれで今までの苦労も報われるというものだ。あまり気が長いほうではないと自覚している自分がよく三日も我慢したと褒め称えたい。昨日まではおおっぴらに待ち構えていたのだが警戒されて現れなかった。いい加減屋敷のベッドで眠りたい一心でシリウスは知恵を絞って姿を隠すという案を出した。同行者からは文句ばかり出たが結果成功したのでいいではないかと内心鼻高々だ。
このまま、真正面からいくのがやはりベストだろうか。――――それとも。
つらつらと忙しなく思考しているシリウスの耳にぼそりと、つまらなそうな声が届いた。
「なんだ…低級か」
ぶちっ。あまり長くはないシリウスのなにかの糸が頭の中で切れて、ほぼ反射的に怒鳴り返す。
「やかましいっ!あんたの基準で抜かすな!!」