第8章:吸血鬼3
翌朝。
……いや、「朝」って言っていいのか迷う。ここ、太陽見えねえし。蝋燭の灯りと地下の湿った空気しかないし、時間の感覚がバグる。
でもまあ、目が覚めたから“朝”ってことにしておこう。
俺はそっと体を起こして、慎重に包帯の具合を確かめた。……うん、なんとかいけそうだ。痛みはあるけど、昨日よりはマシ。吸血鬼パワー、恐るべし。
(って、感心してる場合か)
部屋を出ると、そこは石造りの静かな通路だった。見渡せば、左右に扉が五つ。寝室っぽい部屋が並んでて、どこか軍の備蓄施設……いや、戦時用の地下壕って感じ?
そんなことを考えながら歩いていくと、小さなテーブルの前に、いつものあの人——ヴィラがいた。
やっぱり、今日も優雅に本を読んでる。ていうか、あれって魔法書なの?なんか、ページが勝手にめくれてるんですけど……!
「回復は順調なようね。」
顔も上げずに、そう言われた。
おお……気配感知すごいなこの人(というか吸血鬼)。
「お前の……治療のおかげだ。」
なるべく礼儀正しく返してみた。吸血鬼って気分で噛んだりしないよね?ね?
ヴィラは、くすっと笑って言った。
「私の血は確かに効くわ。特にあなたのような、興味深い器にはね。どう? 何か異常は感じる?」
異常……っていうと、そうだな。
「感覚が鋭くなった気がする。特に暗闇でよく見える。あと、あんまり眠らなくても平気だった。」
ヴィラは軽く頷いた。
「正常な反応よ。その効果は、一週間ほどで消えるわ。もっとも……」
そこで、意味深に言葉を切る。
……きたよ、この“もっとも”系フラグ。
「もっとも、なんだ?」
「もっと永続的な……変化を望まない限りね。」
その赤い瞳が、わずかに輝いた。
「私のような存在になることよ。」
……うん、知ってた。
「吸血鬼になる誘いか?」
俺が若干引きつった顔で聞くと、ヴィラは楽しそうに笑った。
「そんな直球な言い方は、優雅さに欠けるけれど……まあ、要するにそうよ。ひとつの“提案”だと思って。」
彼女は俺の向かいの椅子に腰かけた。
「何世紀にもわたって、私は滅多に人間にこんな誘いをしたことはない。でも、あなたには……私を惹きつける何かがある。あなたの観察眼、思考の流れ、そしてその血に宿る異質な何か。」
……異質って何!?俺、そんなやばい血持ってたの?
でも、怖いのは、その言葉にどこか納得しそうになってる自分がいることだ。
「今すぐ答えなくていいわ。」
ヴィラは静かに続けた。
「これは慎重に考えるべきこと。永遠の命には、代償が伴うものだから。」
そう言って、小さなテーブルから銀のティーポットを取り出し、赤い液体をカップに注ぐ。
……いや、まさか、これも血?!
「ただのハーブティーよ。珍しい魔法薬草を少し加えただけ。」
ヴィラが口元を押さえてクスクス笑う。なにこの人、吸血鬼ジョーク得意すぎでしょ。
「血だけ飲むなんて、ステレオタイプすぎてつまらないと思わない?」
……確かに。ちょっとわかる。
俺はおそるおそるカップを受け取り、一口飲んだ。甘みの中に、どこか懐かしい深みがあって……悪くない。
「で、どうやって俺を見つけたんだ?」
俺が聞くと、ヴィラは水のグラスを差し出してくれた。
「音がしたの。近くでパイプの調査をしていたときにね。あなたは失血が激しくて、あと数分遅れていたら、もう助からなかった。」
……マジで危なかったのか、俺。
感謝しつつ、周囲を見渡すと、まるで秘密基地みたいな作りにワクワクしてくる。
するとヴィラが、軽く手を振っただけで——
カタンッ、と向こうの椅子がひとりでに動いて、俺のすぐそばまで滑ってきた!
「……えっ、これ……魔法?」
思わず椅子を撫でて、念のため生きてるかどうかも確かめた。
「もちろん。“不可視の手”。操作魔法の初歩よ。」
ヴィラは微笑み、あっさりととんでもないことを言ってのける。
……やっぱり、魔法あるんだこの世界。ていうか、覚えたい!
「教えてくれよ、魔法!」
そう頼んだ俺を、ヴィラは少し驚いたように見て、すぐに優雅に頷いた。
「あなたに教えるのも、面白いかもしれないわ。」
そう言って、彼女は袖から銅の指輪を取り出し、そっとテーブルに置いた——表面には、見たことない古代文字。
「魔法を導くためには、媒介が必要よ。こういった指輪や杖が、初心者には特に重要なの。」
俺はそっと指輪を手に取る。意外に重い。
「俺……血統とか、特別な出自とか、そういうのないけど……本当に、できるのか?」
ヴィラは微笑んだまま言った。
「血統は重要だけど、決定的ではない。あなたには“才”がある。私の血が何かを呼び覚ましたのかもしれないし、もともと内に宿っていたのかも。」
彼女は、俺に手を差し伸べた。
「弟子になる? それは、責任と“繋がり”が生まれるということ。受け入れる?」
……また、岐路か。
でも、ここで止まってたら、何も変わらない。
俺は銅の指輪を見つめて、ヴィラの赤い瞳をまっすぐ見た。
「……受け入れるよ。でもさ、ひとつだけ確認。」
ヴィラが首をかしげる。
「この“弟子入り”って……セレモニーある?片膝ついて忠誠誓うとか、短剣で手を切る血の契約とか……まさか“棺桶守り”の任務付きじゃないよな?」
ヴィラは……吹いた。
こんな吸血鬼、見たことないわ。
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エドモント中央警衛局は、都市の行政区の端にそびえ立つ、畏怖を誘うゴシック建築の建物だった。灰色の煉瓦外壁には銅緑色の配管が這い、まるで金属の蔦が古代の巨獣に絡みつくようだ。尖った軒下には石造りのガーゴイルの雨水口が吊り下げられ、口を開けて無言の咆哮を上げている。入口の二つの魔法ランタンは青い光を放ち、この通りで唯一蒸気照明を使わない建物だった。大理石の階段は長年の往来で磨り減り、入口上部の警衛徽章——交差する歯車と剣——は煤煙でぼやけていた。
建物内部は深夜でも明かりが絶えず、薄暗い石油ランプの光が銅線メッシュの窓越しに漏れ、夜勤の警衛の青白い顔を照らしていた。書類室は一階西側にあり、重厚なオークの扉には銅製の取っ手が嵌め込まれ、毎晩、紙がめくられるざらざらした音が響いた。室内は朽ちた木材と銅器の匂いに、微かに腐臭が混じる。まるで恐怖の記録を収めた書類自体が汚染されているかのようだった。
フレッドとゴードンは、書類の山が積まれたオークのテーブルを囲み、高くそびえる書類棚の間に座っていた。その棚は沈黙の衛兵のように、都市の数十年にわたる罪の記録を保管していた。壁の揺らめく石油ランプの光を頼りに、彼らは今月三件目の背筋も凍る殺人事件の資料を整理していた。
「今月三件目だ。」