第6章:吸血鬼
——夢を見ていた。
やけに長くて、やけに鮮やかな夢だった。
「渋谷……?」
目の前を、見覚えのあるネオンが駆け抜けていく。人々がスマホ片手に雑踏をすり抜け、横断歩道を渡るたびに、まるで潮のように流れていく。俺は、そんな東京の夜を歩いていた。いや、"黒田陽介"として。
化学企業のオフィスでは、ホワイトボードに新しい分子構造モデル。休日の居酒屋では、大学時代の友人たちとバカ話をしながら乾杯。全てが、妙にリアルで、でもどこか薄いヴェール越しのように非現実的だった。
そして夢の最後、俺は東京タワーのてっぺんに立っていた。眼下に広がる光の海。隣には、顔のよく見えない女性がいて、何かを俺に語りかけていたけど、風の音でかき消された。
(なんだ……この感じ……)
彼女の顔を見ようと振り返った瞬間、世界が眩い青の光に包まれた。
バラバラに砕ける現実。再構築される空間。
——そして、俺は目を覚ました。
「……っ!」
柔らかい感触。ベッドの上だ。
でも、ここは東京でも病院でもない。天井から吊るされたランプ、装飾の凝った古風な家具、壁にかけられた不気味な肖像画……まるで貴族の屋敷みたいな内装だった。
「ここ……どこだよ……」
無意識に体を起こそうとして、胸に走る鋭い痛みに呻いた。見れば、丁寧に包帯が巻かれている。痛みと共に、昨日の——いや、下水道での出来事が脳裏に甦ってきた。
あの化け物。あの咆哮。そして……俺の手。
「ふむ、ようやく目が覚めたようね。」
声がした。
その瞬間、全身がビクリと跳ねた。視線を走らせると、部屋の隅のアームチェアに、見知らぬ女が腰かけていた。
「……赤い目?」
蝋燭の明かりの中、その女は古い本をめくりながら、静かに俺を見ていた。
雪のような白い肌。ルビーのように輝く瞳。整った前髪に、黒のキャミソールドレスと白いシャツの組み合わせ。クラシックで洗練されているのに、どこか現代的な反骨精神も感じさせる、不思議な雰囲気を持つ女性だった。
「ここは『夜の曦』。地下にある、私の居場所よ。あなたは……下水で半死状態だった。覚えてるかしら?」
「お前が……助けたのか?」
「そう言えるわね。あなた、胸に大きな裂傷があって、血が止まらなかったのよ。だから少し、特別な方法を使わせてもらったわ。」
……特別な方法?
俺は、左手首を見た。小さな傷が二つ。しかも、もうほとんど塞がっている。
(まさか……いや、まさか……)
「……お前、吸血鬼か?」
「ふふ、そう。人間はそう呼ぶわね。けど私たちは、自分たちを“夜の一族”と名乗っているのよ。」
「なんで……俺なんかを助けた?」
問いかける俺に、女は立ち上がって近づいてくる。その足取りは、まるで舞うように滑らかだった。
「善意に理由がいるかしら?」
「あるだろ普通……!」
「ふふっ、いい反応ね。でも安心して。もしあなたを殺したいなら、とっくに干からびたミイラになってるわよ。逆に、私はあなたに自分の血を分けたの。だから、今のあなたと私は……ちょっとした“繋がり”ができているの。」
「繋がり……?」
「ええ、一時的なものだけどね。しばらくは、身体の回復が早くなったり、暗闇でもよく見えたり、色々な変化を感じるかもしれない。でも安心して。吸血鬼にはならないわよ。なるには……もっと儀式的なプロセスが必要だから。」
ヴィラ、と名乗ったその女性は、まるで子供に語るような口調でそう言った。
俺は、混乱しながらも感謝を伝えた。そして、あの化け物について尋ねる。
「……あれは、“食屍鬼”よ。Ghoul。昔は人間だったけど、地下の瘴気や呪術で堕ちた存在。下水には……たまに現れるのよ。」
(マジかよ……異世界って、ファンタジーのテンプレートを地で行くんだな……)
ここが夢じゃないこと。もう、とっくに理解してたけど……やっぱり、現実離れしてる。
「この場所……どうしてこんな地下に?」
「“夜の一族”は、いつも歓迎されるわけじゃないから。隠れ家が必要なのよ。」
「……お前は、どれくらい生きてるんだ?」
ヴィラの目に、一瞬だけ古の哀しみが浮かんだ。
「帝国の栄枯盛衰を見届けるくらいには。でも、陽の温もりを忘れるほどではないわ。」
その声は、どこか寂しげで、美しかった。
けど彼女は、すぐに微笑みに戻った。
「今はあなたの話よ、ルーン・ウィンスター——いえ、“黒田陽介”と呼ぶべきかしら?」
その名を聞いた瞬間、背筋が凍りついた。
「な……っ」
彼女は——俺の“本当の名前”を知っていた。




