第五章:食尸鬼(グール)
私は死ぬかと思った。いや、今も死にかけている。
私は今、どこにいるのかすら分からない。気づいたときには、胸の中に流れ込んだドブ水でゲホゲホ咳き込み、喉の奥がヒリヒリと焼けていた。
「ぐっ……ごほっ……おえぇ……!」
息を吸うたびに鼻の奥にツンとくる刺激臭。しかも口に入ってくる水は、なんかぬるいしザラザラしてるしで、絶対飲んじゃいけないやつだ。というか飲んだ。私、死ぬの?マジで?
なんとか顔を上げて息継ぎしながら、水流に身を任せた結果――
ドンッ!!
「……ぐふっ!!」
鈍い衝撃と共に、私の体はパイプの曲がり角にぶつかり、体ごと跳ね飛ばされて浅瀬に放り出された。
……生きてる……っぽい。
息を荒くしながら、両手でゴツゴツした石壁を掴み、私は這い上がるように水から這い出した。身体中がズキズキと痛む。擦り傷、打撲、吐き気……まるでフルコンボだ。
でも、今の私にはそれすらありがたい。痛いってことは、生きてる証拠だから。
「……はぁ……はぁ……クソ、マジで死ぬとこだった……」
ようやく呼吸が整い始めた頃、私は辺りを見渡す。
……暗い。めちゃくちゃ暗い。でも、工場の煙突から見る深夜の東区よりはマシだ。
目が慣れてくると、そこがただの下水道じゃないってことに気づいた。壁には錆びたバルブ、天井からは結露した水滴がポタポタと落ちている。空間の端には、巨大なパイプが何本も交差していた。おまけに、どこからか低く唸るような機械音が響いてくる。
ここ……都市の地下ネットワークだ。
工場の古参たちがボヤいてた。「下水道じゃねぇ、あれは"迷宮"だ」と。
確かにその通りだった。地図がなきゃ迷う、というか、地図があっても迷う。今の私には、そのどっちもない。
「……マジか……」
右も左も分からないまま、私は壁を頼りに進み始めた。パイプを目印にしようと思ったけど、どれもこれも同じに見える。どこをどう歩いても出口に近づいてる気がしない。
……そんなときだった。
「……なんか、臭くね?」
いや、元からずっと臭いんだけど、今のは明らかに違う。酸っぱいような、血のような……鉄っぽい匂い?
警戒しながら進んだ先に――それはあった。
人間の……死体。
というか、死体の"残骸"だった。ズタズタに引き裂かれて、服だけがかろうじて人間の名残を示していた。おまけに、その周囲には濡れた足跡が点々と……人の形じゃない、なんかこう、爪のついた四足歩行っぽい足跡。
「……は?」
思考が追いつく前に、背後から"それ"は現れた。
低く唸る声。ぬるりと音を立てて動く気配。振り返った先にいたのは――
白く、細く、異様に長い四肢。透明に近い肌。目はなく、口は裂けるように大きく、鋭い歯が何列も並んでいた。血が、滴っている。
「グール……」
誰が言ったわけでもない。自然と、その言葉が口をついて出た。
工場の連中が笑いながら話していた、都市伝説。下水道に潜む化け物。死体を喰らい、生きた人間すら襲う――"食尸鬼"。
でも、今の私にとってそれは伝説なんかじゃなかった。目の前で、ヨダレを垂らしながら、私を見てるんだから。
「嘘だろ……!?」
パニックのまま、私は反射的に足を後ろへ動かした。
その瞬間、グールが地面を蹴った。音もなく、まるで影のように迫ってくる。
「っ――!」
近くにあった金属パイプを掴んで、咄嗟に振り回した。鈍い音。けれど、手応えは……軽い。
パイプがぐにゃりと曲がった。
「うっそだろ……!?」
その腕力、尋常じゃない。今のが人間の骨だったら粉々だった。ていうか、私の首だったら終わってた!
距離を取る。だけど、狭い。逃げ道は後ろのパイプくらいしかない。
グールは私を追ってきた。その動きには迷いがなかった。暗闇でも完全にこちらの位置を把握している。
あいつ、目が見えない代わりに――音か、匂いか、それとも……。
「クソッ!」
私は必死で廃材を投げつけながら逃げた。金属の音、木片の破裂音、あらゆる音を使って自分の位置を攪乱しようとする。
だけど無駄だった。グールは正確に、私に向かってくる。
もう、限界だった。息が上がる。足がもつれる。体力のない理系のわたしには、こんなスニーキングバトルは無理だ。
そして――
「うわッ!!」
足元が崩れた。私はパイプの残骸に躓き、そのまま地面に叩きつけられる。呼吸が止まり、頭がくらくらした。
視界の端で、グールが跳躍したのが見えた。
ああ、終わった。
「がッ――あああああッ!!」
裂けた肉の奥で、骨が砕ける音がした。
右腕に走る感覚は"痛み"を超えた。"喪失"だった。視界が一瞬で真っ白になり、膝が崩れ、私は濁った水の上に倒れた。
そこには、自分の右手がなかった。
食い千切られた肘から先が、食屍鬼の口の中にある。
いや、もはや"口"と呼ぶのもおこがましい。獣じみた顎は人間の構造を超えて開き、肉と骨を噛み砕くたびに、黒い唾液と赤い血を吐き散らしていた。
「ぐ、あ、ああ……」
出血が止まらない。痛みによる錯乱の中で、私は朦朧としながらも、まだ左手で金属片を握っていた。でももう、戦えない。立ち上がる力すら残っていなかった。
死ぬ――
このまま、この異形の怪物に喰われて終わるんだ。
異世界転移? 化学の知識? 生き残るチャンス?
――全部、無意味だったんじゃないか。
そう思った瞬間。
「やれやれ。こんな場所で夜食とは趣味が悪いわね、下等種」
その声は、まるで霧の奥から差し込む月光のように静かで、そして冷たかった。
パイプの暗がりから、一人の女が現れた。
影のように静かで、だがその佇まいは圧倒的だった。
黒いローブに身を包み、長い髪は闇と同じ色で、瞳だけが紅玉のように輝いている。
彼女はまるで、水の上を歩くように滑らかに近づき、食屍鬼の前で立ち止まった。
「……ヒトでは、ない……?」
その言葉が脳裏に浮かんだ刹那、彼女は動いた。
音もなく、ただ"消えた"ように見えた。
次の瞬間、食屍鬼の首が跳ね上がり、粘りつく血を撒き散らしながら、空中を舞った。
胴体は反応する暇もなく崩れ落ち、まだ動いている右手が地面を這い、そして力尽きた。
女は、ぴたりと足元に着地し、手の甲で口元の血を拭った。
「まったく。人の領域にまで這い出してくるなんて……最近の下層は騒がしいわね」
そのまま、私の前にしゃがみ込む。
紅い瞳が、じっと私の顔を見つめた。
「……まだ生きてるのね。運がいい」
「……あ……」
「腕は、もう戻らないわ。けど――死なせてあげない。せっかく拾った命だもの」
そう言って、彼女は自らの指を噛んだ。
白い肌から流れる深紅の血液が、まるで自ら意志を持つかのように、私の口元へ垂れてきた。
「……飲みなさい。そうすれば、あなたは"まだ"この世界に留まれる」
私は混濁した意識の中で、何かを問おうとした。
でも、声にならなかった。
その代わりに、喉が勝手に動き、彼女の血を受け入れた。
瞬間――
心臓に火が灯ったような衝撃が走り、焼けつくような熱が身体中を駆け巡った。
痛みが、消えた。
意識が、再び戻る気配を見せた。
「ふふ……いい子ね。さあ、目覚めなさい、ルーエン・ウィンスター。まだ、あなたの旅は終わっていないのだから」
そして、私の視界は再び闇に沈んだ――だが、今度は絶望ではなかった。