第53章:では、どう証明する?
「もし、“燃素”が物体から逃げていくものだとするなら……燃焼したあとの物体は、軽くなるはずですよね?」
ルーエンはそう静かに言い、教室の棚から小さな天秤を取り出した。
これが、核心に触れる一歩だった。
彼は金属片をそっと天秤に乗せ、初期の質量を確認する。次に、アルコールランプに火を灯し、その金属をゆっくりと炙った。
数分後、金属の表面が赤茶に変色し始める。
冷却を待ち、再び天秤へ。
「ご覧ください。酸化した後の金属は……重くなっています。」
教室が静まり返る。子どもたちは目を見開き、ノートを握りしめる。
だが、アルフォンスは眉ひとつ動かさず、むしろ穏やかに微笑んだ。
まるで、それを予測していたかのように。
「──見事な実験ですね。」
彼はゆっくりと前へ歩み出ると、整った仕草で袖口を直しながら続けた。
「若き友よ、君は非常に良い問いを投げかけた。だがね、王立科学院では、この“重くなる”という現象も、すでに確認されている。そして、それに対する明確な解釈もあるのだ。」
ルーエンが黙って見守る中、アルフォンスは天秤を手に取り、金属片をじっと観察する。
「燃素というのは、ただの物質ではない。我々の仮説では、“負の重量”を持つ特異な性質があるとされている。」
「負の……重量?」
子どもたちの間から困惑のささやきが漏れる。ルーエンもまた、わずかに眉を上げた。
アルフォンスは続ける。
「風船が空気を失うと重くなる。あれと同じだよ。金属が燃えると、内部の燃素が逃げる。だがそれは、上昇しようとする特別な質なのだ。だから火は上へ伸びる。燃素は、常に天を目指して逃げていく。」
……なるほど、ルーエンは心中で苦笑した。
矛盾を受け入れず、理論を守るために“負の質量”という概念まで持ち出したのか。
(彼らは、すでにひとつの完結した体系を持っている。だから“観測された矛盾”さえ、理屈の中に吸収してしまう……)
だが彼は、否定するためにここに立っているのではない。
真理へ向かう、方法を示すためだ。
「アルフォンス博士、お考えはとても精巧で、興味深いものです。」
ルーエンは一歩踏み出し、黒板の前に立った。
「ですが、科学とは……“最も単純に説明できる理論”を探す営みでもあるはずです。」
そう言って、チョークで黒板に2つの円を描いた。
「たとえば──こう考えてみましょう。空気中に、燃焼と結びつく“何か”が存在する。火はその“何か”と物質が結合することで発生し、その結果、質量も増える。単純に言えば、足し算です。」
子どもたちがこくりと頷いた。
「もし“燃素”が負の重量を持つなら──木材と灰の質量も、劇的に違って見えるはず。灰の方が重くなるのでしょうか?」
その問いに、アルフォンスはわずかに目を伏せ、考え込むような表情を見せた。
だがその瞳は、怒りではなく、確かに“思考”の光を宿していた。
「……興味深い視点です。君の言うことにも、一理ある。」
沈黙が、教室を包んでいた。
アルフォンスは腕を組んだまま、黒板の前に立つルーエンをじっと見つめていた。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「……では、君の言う“空気中の何か”とやらが、本当に存在すると仮定しよう。」
「ありがとう。」
ルーエンは落ち着いた声で返した。
「だが、仮説は仮説のままでは意味がない。──どう証明する?」
子どもたちが再び息を飲む。
ルーエンは迷わなかった。
「封閉容器の中に、燃える物と金属、それに吸湿性の粉末──たとえば生石灰や炭酸塩を一緒に入れます。」
彼は黒板に簡単な装置の図を描き始めた。
「火をつけ、燃焼させる。終わった後、容器の内圧と質量を測る。」
チョークが動き、矢印が描かれる。
「もし私の仮説が正しければ、燃焼によって“空気中の何か”が減る。そしてそれは、吸湿粉末に吸収される。そのぶん全体の質量が増えるはずです。」
静寂。
まるでその場の空気さえ、圧縮されているような沈黙が教室を満たした。
アルフォンスの目が、ゆっくりと見開かれていく。
その図は、かつて彼が王立学院の一室で見た“失敗に終わった古実験”によく似ていた。
だが、その理屈、その仮説の立て方は──あのとき誰も示せなかった“論理の完成形”だった。
「……君、本当に……石鹸職人か?」
その問いは、無意識にこぼれ落ちていた。
ルーエンは微笑んだ。
「はい。泡を立てて、人の肌を清潔にするのが本業です。」
「……そうは見えないな。」
「……ふむ。」
しばらくの沈黙の後、アルフォンスは視線を黒板からゆっくりと外した。
彼の表情から、敵意はすでに消えていた。
「今日は、思いがけず良い時間を過ごさせてもらった。」
彼は静かに、ルーエンに向かって頷いた。
「議論は未決着だが、君の知識と考察力は、明らかに“学ぶ者”のものだ。」
「恐縮です。」
ルーエンもまた、深く礼を返す。
「……王立科学院には、毎月学術交流の場が設けられている。君が望むなら、ぜひ一度参加してみてはどうか。」
「……私のような身分の者でも?」
「身分ではなく、言葉と方法がその資格を決める。」
その瞬間、教室の外でかすかに衣擦れの音がした。
ふとルーエンが目を向けると、扉の向こうに、誰かの姿があった。
木枠の隙間から、淡いブルーのヴェールが見える。
特蕾莎だった。
彼女は入ってくることはせず、ただ静かに、手を胸の前で重ねながら、ふたりのやり取りを見つめていた。
まるで祈るような、そのまなざしで。
ルーエンは一瞬だけ、表情を緩めた。
アルフォンスもその気配に気づいたが、何も言わず、軽く帽子をとって礼をした。
「では、私はこれで。次に会うときは、君の“泡立て技術”についてもぜひ聞かせてほしいものだ。」
冗談とも本気ともつかぬ言葉を残して、アルフォンスは教室を後にした。
その背中が去っていくと、子どもたちがようやく息を吐いたように、ざわざわと小声で話し始めた。
「先生、あの人……本当に偉い人だったの?」
「でも、ルーエン先生の方が……かっこよかった!」
ルーエンは苦笑しながら、黒板の粉をぬぐった。
扉の外、特蕾莎の姿も、いつの間にか消えていた。




