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第52章 燃素

 「“サンソ”…?」


 アルフォンスの声は、かすかに震えていた。


 会客室の窓辺では、老修道女マグレーヌが手にしたティーカップをゆっくりと置く。


 「ええ、子どもたちがそう言っておりました。“先生が、火はサンソがないと燃えないって教えてくれた”と。」


 「……サンソ……?」


 その言葉は、アルフォンスの知識のどこにも引っかからなかった。


 彼は何百冊も読破し、王立協会の標準文献も把握している。燃素、冷気、エーテル、四元素、どれも体系的に分類されている。


 だが、“サンソ”などという言葉は──聞いたことがない。


 「子どもが勝手に作った語か、それとも……その職人が新しく発明した言葉か。」


 アルフォンスは眉間に深い皺を寄せた。


 「どちらにせよ、それは非常に危険だ。」


 彼は立ち上がり、きっちりと留めていたコートのボタンを一つ外す。


 「科学とは、言葉の積み重ねだ。意味の曖昧な“音”を使って現象を説明し始めたら、それは科学ではない。“錬金術”と同じ迷信の温床になる。」


 「博士……彼は悪意のある人では──」


 「だとしても、“誤った言葉”は“誤った世界”を生む。」


 アルフォンスは静かに帽子をかぶった。


 「案内していただけますか、修道女様。私はその“発明者”と、静かに話をしたい。」


###



 午後、聖光孤児院の教室。


 ルーエンは机の上に並べた器具を前に、子どもたちに説明していた。


 水盤、ロウソク、小瓶──今日のテーマは「密閉空間で火が消える理由」。午前中の授業の続きだった。


 「よし、じゃあ、観察してごらん。火を瓶で覆うと……」


 ロウソクに火をつけ、ゆっくりと瓶をかぶせる。やがて炎は弱まり、ふっと消えた。


 「火が“消えた瞬間”に、水が少し上がったの、見えたかな? これは中の“気体”が何かを使い切った証拠なんだ。」


 子どもたちは「わあ!」と声を上げ、ノートに走り書きを始める。


 そんな時だった。


 カツン。カツン。


 硬い靴音が廊下に響き、教室の扉の外で止まった。


 窓の外から、中の様子をじっと覗き込む初老の男。銀の縁の杖、仕立ての良いコート、穏やかでありながら、どこか張り詰めた空気を身に纏っていた。


 ルーエンが気づいた時には、その男は静かにノックしていた。


 「失礼、よろしいかな?」


 扉がゆっくりと開き、アルフォンス・ド・レモン博士が中へ入ってきた。


 「あなたが、ルーエン氏だね?」


 「……そうですが。」


 「お噂はかねがね。あなたが、子どもたちに“火の原理”を教えているとか。」


 ルーエンは警戒はせず、淡々と頷いた。


 「そうですね。自然の仕組みを、できるだけ簡単な形で伝えています。」


 アルフォンスは机の上の器具を見渡す。瓶、ロウソク、干し草、測量紙……そして、消えかけた火。


 「なるほど、これは見事な燃素の演示だ。」


アルフォンスは机の上の瓶やロウソクを見渡しながら、満足げに頷いた。


 「火が消えるのは、物質の中の“燃素”がすべて放出された証拠。密閉すれば当然消える──君の実験は見事だ。」



おや、君たちは今、“燃焼の秘密”を学んでいるのかね。これは、実に良い実験だ。」


アルフォンスは、机の上で静かに煙を残している蝋燭を指差しながら言った。


「火が消えると、水が瓶の中に引き込まれる。先生は、“空気が使われたからだ”と説明されたそうだが――科学というのは、時に我々の想像よりも複雑なものなんだよ。」


彼はコートの内ポケットから、一枚の小さな銅貨を取り出した。陽の光を受けて、それはきらりと輝いた。


「見たまえ。王立科学院では、可燃物には“燃素”と呼ばれる特別な成分が含まれていると考えている。物が燃えるとは、その燃素が放出され、空気中に逃げていくことなのだ。」


「蝋燭が燃えるのは、蝋の中の燃素が逃げ出すから。木が燃えるのも、木の中の燃素が出ていくからだ。」


彼は穏やかな口調で、水面が上昇したガラス瓶を手で示した。


「そして水が上がる理由は、燃素が出ていった後の瓶の中が“希薄”になるから。まるで風箱を引いたときのように、外の圧力が水を押し込むわけだ。」


「この理論は、すでにヨーロッパの学術界で百年近く受け入れられている、確かな知見だよ。」



 ルーエンは数秒だけ黙っていた。


 そして、静かに息を吐いた。


 「……燃素説か。」


 「おや、知っていたかね?」


 「ええ。少しだけ。」


 ……燃素。そういえば、そんな理論があったな。


 中世の自然哲学。燃えるとは、“物質の中の燃素が外に逃げる”ことである──


 まさかこの世界では、まだそれが使われているとは。


 べつに反論する必要はない。黙っていれば穏便に済む。


 だが、周囲には子どもたちがいる。実験を見て、目を輝かせて、学ぼうとしている。


 ルーエンは顔を上げた。


 「博士、ひとつお尋ねしても?」


 「なんだね?」


 「燃素とは、燃焼時に物から抜け出す成分──という理解で間違いないですか?」


 「その通り。だから密閉すると、燃素の逃げ場がなくなり火は消えるのだ。」


 ルーエンは瓶を指さした。


 「では、その場合──なぜ金属を加熱すると、燃焼後の質量が増えるんでしょう?」



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