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第51章:酸素?

 アルフォンスが教室の後ろで静かに立つその時、ルーエンの視線はふと、窓辺の光に滲んだ教室の板壁へと向けられた。


 ──そもそも、この孤児院で教えること自体、最初から計画していたわけじゃない。


 彼は思い出す。数週間前、自分が疲れ切った手で最後の石鹸を箱に詰めながら、ふと感じたあの焦燥。


 「この世界の“物理”は、あの世界と本当に同じなのか?」


 穿越してきてからというもの、彼は“救世”なんてことより、まずは“この世界の自然法則”を確かめたかった。火は燃えるのか、水は蒸発するのか、酸は金属を溶かすのか──。


 最も効率的な方法。それは、教えることだった。


 孤児院にある物資は限られていたが、かえってそれが都合良かった。簡単な薬草、食塩、炭、鍋、ガラス瓶──原始的な素材で実験を組み立てれば、応用やごまかしの余地がない。


 「学校なら、もっと正式な資格とか教案が必要だったろうけど……聖光孤児院には、そんな余裕はない。」


 ルーエンは、最初にテレサに申し出た時のことを思い出した。


 「君、授業……? 本気で言ってるの?」

 「自然のことを、少しだけ。でも真剣に。」

 「……せっけんの作り方?」

 「違う。“世界の仕組み”だ。」


 彼はそう言って、ノートを開いた。燃焼図、重力の落下図、酸と塩基の試験紙反応。


 ──この世界の子どもたちは、教えれば驚き、考え、試す。それでいい。


 彼は黒板の横に立ち、ふたたび子どもたちに向き直った。


 「ねえ、みんな。大事なのはね、“真実は何か”じゃなくて、“まず、見てみること”なんだ。」

その日の授業は、教室の隅に置かれた小さな実験台から始まった。


 机の上には三つのガラス瓶、塩、酢、乾燥した油脂、そして昨日失敗した石鹸の断片。


 ルーエンはその中の一つを手に取り、瓶に入れた液体を子どもたちに見せた。


 「これ、昨日の“二釜目”の油脂だ。見ての通り、分離が不十分で、白く濁ってる。」


 「……これって、失敗なの?」


 「うん、そう。でも“なぜ失敗したか”がわかれば、それは“知識”に変わる。」


 彼は透明な瓶を逆さにして、中身の動きと温度変化の関係を説明していった。

「火が消えるとき、何が起こっていると思う?」


 壁際に置いた小さな実験器具──水を張った皿の上に立てた蝋燭。それに火を灯し、ガラス瓶を逆さにかぶせると、数十秒のうちに炎が消え、水が瓶の中へと吸い上げられた。


 「わあっ……!」


 子どもたちの歓声が上がる。


 ルーエンは笑いながら、その横に立った。


 「火は“空気”の中の何かを使って燃えている。そして、それが尽きると、火は消える。瓶の中が部分的に空になるから、水が引き込まれる、というわけだ。」


 一人の少年が手を挙げた。


 「でも、先生。火が消えたのに、なんで中の空気が“軽く”なるの?」


 ルーエンはその問いにしばらく沈黙した。


 ……そうだ。この問いに、あの世界では「酸素」という答えがあった。


 だが、この世界にはまだその概念がない。


 (燃素論、空気の質……でも、問題はそこじゃない)


 蝋燭、酸化、反応速度、熱の伝導、気体の体積変化──

 思考の断片が、頭の中で静かに並び直されていく。


 俺はずっと、“釜”のことばかり考えていた。温度制御、材料、構造。

 でも、本当に扱うべきなのは──“反応”そのものじゃないか?


 蝋燭の火が、瓶の中で揺れて消えたその瞬間。

 火が消えるのは、“燃料”が尽きたからではない。

 “酸素”が足りなくなったからだ。


 “炎”が教えてくれた。


 この世界の物質反応も、俺の記憶と一致している。ならば──


 「……つまり、火が燃えるってことは、“燃える側”と“燃えさせる側”があるってことだ。」


 ルーエンは黒板に○を二つ描いた。


 「ひとつは“油”や“木”──燃えるもの。そしてもうひとつは“空気”──燃えさせるもの。この二つが組み合わさることで、初めて“燃焼”が成立する。」


 子どもたちはぽかんとしていたが、彼の頭の中には一気に図式が組み上がっていく感覚があった。


 (そうだ……“反応の分離”だ。温度を変えることで、各反応のタイミングをずらせば……)


 熱分解 → 溶解 → 沈降 → 気化 → 酸化 → 冷却。


 彼は思わず口にした。


 「三段階だ。釜は三つ必要だ……!」


 「せんせい?」


 「いや、なんでもない。ごめん。続けよう。」

####

 同じ頃、聖光孤児院の会客室には、銀の縁がついた杖を持つ年配の紳士が来ていた。


 「今日も冷えるね……エドモントの冬は、何度来ても慣れないな。」


 アルフォンス・ド・レモン博士。王立自然哲学協会の助成担当であり、教育支援にも熱心な人物である。


 向かいに座るのは、孤児院の管理を担う老修道女マグレーヌ。白髪をきっちりとまとめ、湯気の立つ紅茶を注ぎながら言った。


 「またご寄付の件で?」


 「いや、今日は少し趣向を変えて。“科学の芽”を、子供たちに見せてみようと思ってね。」


 アルフォンスは小さなトランクを膝の上に載せ、中から簡単な実験道具を取り出した。


 「空気と火について、わかりやすく教えるつもりだ。古典的な“燃素論”に基づく演示だよ。」


 マグレーヌは微笑みつつも、少し首をかしげた。


 「……でも、博士。教室は今、別の方が使っておられるようですよ。」


 「ん? 別の方?」


 「ええ、最近、新しい“教師”が来たんです。名前は……ルーエンさん。元は石鹸を作るお方でして、今は子どもたちに“自然の理”を教えてくださってます。」


 その名に、アルフォンスの指がぴたりと止まった。


 「……ルーエン? 石鹸の職人? 彼が授業を?」


 「はい。とても熱心で、子どもたちも興味津々なんですよ。昨日も瓶の中で火を消す……なんでしたっけ、“酸素”?……そんな話をしていたような。」


 アルフォンスの眉がぴくりと動いた。


「“サンソ”…?」

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