第50章 不完全な鹸化反応
「……ルーエン、ちょっと来てくれない?」
トビの声が、工房の奥から静かに響いた。
まだ朝の光が窓枠に届くか届かないかという時間。外は薄く霧がかかり、石畳の向こうにある市場も、まだ開いていない。
ルーエンは作業台に身をかがめたまま、軽く頷いた。
「何かあったのか?」
「うん。昨日のサンプルさ、ちょっと気になることがあって。」
トビは手に一枚の布を包んだまま持っていた。その中から、硬くなった石鹸の切れ端を取り出す。
「これ、あの“混合油”で作ったやつ。……表面、見てくれ。」
ルーエンは指でそっとなぞる。細かい粒子のような結晶。さらに鼻を近づけると、かすかに酸化した匂いがした。
「……やっぱりな。」
低くつぶやく。トビが眉をひそめる。
「前から気になってたんだ。この油、安いけど、なんかクセが強すぎるっていうか……」
「原因は、たぶん熱だ。」
ルーエンは切れ端を逆光にかざし、光の反射を見る。微かに混ざる灰色、そして不均一な硬化層。
「昨日、気温が下がっただろう? この混合油は飽和脂肪酸の比率が高い。常温で半固体になりやすくて、冷えると一部だけ乳化が止まる。」
「それって……」
「不完全な鹸化反応。石鹸になりきれなかった脂肪分が酸化した。で、空気中の水分と反応して微量の酸ができた。」
「……じゃあ、この匂いも?」
「そう。酸化臭だ。」
ルーエンは、切れ端を布に戻し、目を閉じる。頭の中に、今朝までの仕込み工程がスローモーションのように再生されていく。
「混合油は、価格に比べて管理が難しすぎる。特に冬場は、加熱温度を数度間違えるだけで乳化が狂う……いや、違う。これはもっと根本的な問題だ。」
彼は視線を作業台に戻す。そして、つぶやいた。
「――やっぱり、鍋じゃダメだ。」
「え?」
「このままじゃ、また失敗する。俺たちは、ずっと“鍋で煮る”って方法に頼ってきたけど……それじゃ、微細なコントロールができない。そろそろ、本格的な“処理工程”を考えるべきだ。」
トビは目を丸くしたまま、何も言わずにうなずいた。
「じゃあ、どうするんだ?」
「まずは……釜だな。温度が均一に保てて、外部からも制御できる構造。水で包むような……そう、二重釜のようなものが理想だ。」
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エドモント市の東地区、鍛冶屋が立ち並ぶ「石工通り」は、今日も煙と鉄の匂いに包まれていた。
その一角にある《デュラン鋳造屋》──古びた看板の下、ルーエンは一枚の図面を手に立っていた。
「……つまり、内釜に油を入れて、外釜に水を張る。で、火は直接じゃなくて水を介して加熱、ってことか?」
鍛冶職人のデュランは、眉をひそめながら図面を睨みつけた。手元のパイプからは、微かな煙がくすぶっている。
「ああ、そうだ。油を直接火にかけると過熱で分解が始まる。一定温度以下でゆっくり加熱しないと、使い物にならなくなる」
ルーエンは落ち着いた口調で答える。図面には、二重構造の釜と、底部に設けられた排出弁、温度制御用の空間が緻密に描かれていた。
「……そんな器具、今まで聞いたこともないぞ。うちは鉄鍋を作ってきた。鍋は一枚板で叩いてこそだろう?」
デュランは図面を指で叩きながら、困惑したように笑った。
「中と外で分離されてて、しかも水を入れる? 仮にできたとして、どうやって漏れないようにするんだ? この中空の部分なんて、接合部が多すぎて熱で歪むぞ」
ルーエンは静かに、だが確信を持って口を開いた。
「方法ならある。鍛接じゃなくて、フランジ構造で密閉すれば、外層は水圧を逃がせる。内釜は圧をかけず、油の粘性だけで温度を均一に保てる」
「……お前、どこでそんな理屈を?」
「前の世界だよ」と、口には出さずにルーエンは苦笑する。
だが、デュランは数秒図面を見た後、煙管を口から離して首を振った。
「……すまんが、うちでは無理だ。この街の工房じゃ、そういう加工は想定してねえ。鉄板一枚なら叩けるが、こんな釜は無理だ。鍛冶屋じゃなくて……なんだ? 錬金術師の道具じゃないか?」
図面を畳みながら、ルーエンは短くため息を吐いた。
無理もない。理屈では通じることでも、ここにはまだ「その発想」がない。道具もなければ、考え方もない。技術とは、材料や腕前以上に、思想の集積なのだ。
「……分かりました。また来ます」
ルーエンは頭を下げて、工房を後にした。背中には図面と未完成の構想、そして冷えたままの炉のイメージが重くのしかかっていた。
街角の煙突が一つ、薄い煙を上げている。
『技術がない』──それは正しい。でもそれ以上に、彼が求めていたのは『理解される言葉』だった。
彼の目的は、ただ油を煮ることではない。油の劣化を防ぎ、安定した品質を確保し、繰り返し使える知識を築くこと。それは「鍋一つ」の問題ではなく、「工程」の問題だ。
だが、今この街では、それを説明できる相手がいない。
「……頭の組み立て直しが必要か」
ぽつりと呟き、ルーエンは方向を変えた。目指すのは、静かな東区にある《聖光孤児院》。
そこには、技術も道具もない。ただ、まっさらな目と、素直な反応がある。
理屈を言葉にして他人に伝えること。
その過程こそ、彼にとって最も強力な「発見の手段」なのだった。




