第42章 フランクリン
銀貨が入った革袋を、そっと作業台の上に置く。
「十五リーフ……これだけあれば、少なくともあと十回は試せるか……」
ぽつりと呟いた声が、蒸気の残る厨房に溶けていく。
酒場の喧騒はまだ続いていたが、ルーエンの耳には届かなかった。彼の意識は、手元の硬貨と、今まで失敗し続けてきた試験管の記録に集中していた。
——ここが再出発点だ。
「でも、問題は金じゃない。配合比率だ……」
ルーエンは溜息をつきながら、作業台の隅から手製のノートを取り出す。そこには過去七回に渡る実験記録が、化学式のように細かく書き込まれていた。
「油脂が柔らかすぎると泡立ちはいいけど、乾燥に時間がかかるし……碱液が強すぎると肌が荒れる。塩を加えたら固まったけど、今度は香りが飛んだ。」
試行錯誤の跡が、インクの滲みとともにページに刻まれていた。
「必要なのは、バランスの取れた配合。そして、一定の品質を保つための標準化手順……」
彼の脳裏には、大学時代に実験室で行った基礎化学の講義が浮かんでいた。あの頃は、こんなに試薬の品質に苦しむことなどなかった。何を混ぜても、数字通りの反応が返ってきた。
だが今は違う。
「ここは地球じゃない。材料の純度も違えば、計測器もない……手探りでやるしかないか。」
ルーエンは新しいページを開き、次の実験計画を書き始めた。
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夜が深まりつつあるエドモント西区、街灯の油が揺らめく中、ひときわ明るい屋敷の窓が夜空に浮かんでいた。
ここは、新大陸からやって来た奇才――ベンジャミン・フランクリン博士が滞在する臨時邸宅。今夜はその広間を舞台に、特別な“文学サロン”が催されている。
「ふうん……これが“新大陸流”の詩会、か」
広間の一角でワインを片手にささやいたのは、雲海連邦の詩人イザベラ・ホワイト。漆黒のドレスに身を包み、金髪の巻き毛がシャンデリアの灯りを受けてきらめく。周囲の注目を集めながらも、その目は鋭く、言葉には知性がにじんでいる。
その対面では、カロシア王国詩学院の重鎮、マクシム・ルネ教授が額に皺を寄せてうなっていた。
「詩とは形式である。リズムと押韻、そして伝統に根ざした技巧こそが芸術を芸術たらしめるのです」
「いやいや、マクシム教授。あなたの意見は尊重しますが、詩とはまず魂の叫びでなければなりません」
まるで舞台劇のような口調で返すのは、当の主人、フランクリン博士その人。青いビロードの上着に金の縁の眼鏡をかけ、知性とユーモアを併せ持つその笑顔は、まるで子供が悪戯を楽しむように輝いていた。
「雪崩に巻き込まれる時、あなたはその完璧な構造美を賛美してから逃げますか?」
「ぐ……っ、比喩としては見事だが!」
教授が悔しげに呻くと、周囲の紳士淑女たちからは笑い声が漏れる。硬い雰囲気が和らぎ、サロンにはより自由で華やかな空気が広がっていった。
「まあまあ、お二人とも。詩に必要なのはバランスですわ。形式は骨格、感情は血肉。どちらが欠けても詩は生きられません」
イザベラの言葉に、フランクリンは目を細めてうなずいた。
「ホワイト嬢、あなたの意見はまるで音楽のようだ。鋭く、それでいて美しい」
「お上手ですね、博士。雲海連邦の詩人として、少しは面子を保てたかしら」
「いやいや、今夜の主役は詩そのものですよ。さあ、次の作品を」
その時、助手の青年が手に何枚かの羊皮紙を持って近づいた。
「博士、新たに届いた詩作がございます。……中には“特異な調べ”のものもございますが」
「特異、か。それは楽しみだ!」
フランクリンが手を叩くと、観客たちの視線が中央の朗読台へと集まった。




