第38章 現代知識移転プロジェクト
ヴィラが旅立ってから五日目の夜。
俺、ルーン・ウィンスターは、例によって部屋の隅っこに座りながら、『日常符文応用ガイド』なる厚っくるしい本を膝に広げていた。けど……正直、内容は頭に入ってこない。
(……いや、これ確かに便利だけどさ。俺、前世じゃ日本で会社経営してたんだぞ? もうちょい現実的にいこうぜ)
本を閉じ、机の引き出しから革のカバーのノートを取り出す。そして、きれいなページに、こう書き始めた。
現代知識移転プロジェクト
「……うわ、なんかもうテンプレみたいだな」と自嘲気味に笑って、思いつく限りのネタを書き連ねていった。
製紙技術の改良
メリット: 紙が高価。コスト下げれば文化発展ブースト。
デメリット: 設備がいる。原料面倒。組合とぶつかる未来しか見えない。
→ そっと線を引いた。いや、大学の頃に読んだ論文はうろ覚えだし、ここで紙業界に喧嘩売るのはリスク高すぎ。
火薬・爆薬の応用
メリット: 軍事価値高。貴族に取り入れる可能性あり。
デメリット: 超危険。レシピ曖昧。政治に巻き込まれるフラグ満載。
→ 却下。記憶頼りじゃ発火装置すら作れんし、下手すりゃ火あぶりだ。
蒸留技術の改良
メリット: 酒、医療、消毒で活用可能。
デメリット: すでにそこそこ発展してる。差別化難しそう。
→ 見た。市場に結構いい装置出回ってた。
活版印刷の導入
メリット: 情報拡散の革命。でかい。
デメリット: 精密加工が必要。初期投資で爆死確定。
→ 金属加工技術が弱すぎて無理ゲー。はい、次。
ページの下に書かれた、最後の一項目に目が止まる。
石鹸
メリット: 作るの簡単。材料も比較的手に入る。小規模から始められる。市場ニーズ高い。
デメリット: ……特になくね?
そのときだった。
「窓の修理、来てくれてありがとう、ウィンスターさん」
聖光孤児院のシスター・テレサが微笑みながら案内してくれた。
「先月の嵐でガラスが割れてしまって……子どもたち、夜寒くて眠れないのよ」
「いや、これくらいどうってことないよ。前にも似たような仕事やったし」
そう言って、古びた廊下を歩きながら、俺は改めて建物の状態に目を向けた。壁には亀裂、屋根には雨漏りの痕。明らかに修理が必要なのは窓だけじゃない。
作業の途中、ふと息苦しさを覚えた。昨日まで工場で12時間労働して、汗びっしょりだった上に、このホコリと湿気。
「すみません、テレサさん。洗面所、お借りできますか? できれば……シャワーとかも……」
「うふふ、シャワーはないわ。お水は井戸からくみ上げてるから、入浴は週に一度だけなの」
……風呂難民確定。
案内された「トイレ」は……いやいや、これはトイレじゃない。木の小屋にバケツがいくつか置かれてるだけ。あの匂い……俺の鼻が死ぬ。
「夜になると回収の人が来るわ。昼はバケツか、盆を使ってるの」
え、盆?!
そして帰りがけ、泥だらけの手でパンをかじってる男の子を見た。服も顔も汚れてるし、周囲の子どもたちも似たりよったり。……衛生、完全に終わってる。
「手洗いとか、してるんですか……?」
「できるだけ教えてるけど、水が限られてて……」
その晩、雨が降って俺は孤児院に泊まることになった。ベッドはボロいけど、シーツは清潔。ただし、館内には妙なにおいが漂っていた。汗、尿、カビ、そして時間が混ざったような……そんなにおい。
眠れずに天井を見つめていた俺の脳裏に、あのノートの最後の項目が浮かんだ。
石鹸——
やっぱりこれだ。俺がこの世界で戦う武器は、爆薬でも機関でもない。
この汚れきった世界に、泡と香りを届ける。それが、俺の始まりだ。




