第二章:黒工
ルーンは太陽穴を揉みながら、混乱した記憶を一旦脇に置いた。転生だろうと憑依だろうと、今はまず自分が置かれた環境を理解する必要がある。窓の外では工場地帯から立ち上る濃い煙と、遠くで響く蒸気時計の音が、ここが彼の知る東京とは全く異なる世界だと告げていた。
「ブラニカ王国…エドモント城…まるでスチームパンク小説の舞台みたいな名前だな。」ルーンは独り言を呟きながら、ウィンスターの記憶からさらに情報を引き出そうとした。
その時、急なノックの音が彼の思考を遮った。
「おい、ウィンスター!中で死んだか? 早くドアを開けろ!」ドアの向こうから粗野な声が響いた。
ルーンがドアを開けると、そこには痩せこけた精悍な若者が立っていた。顔は煤で汚れ、一方の目は少し垂れ下がり、服はボロボロで無数の継ぎ当てが施されている。窓の外はまだ真っ暗で、遠くの工場の明かりが夜明け前の闇に点々と光るだけだ。
「トビ? こんな朝早く?」この名前は自然とルーンの口から出てきた。明らかにウィンスターの記憶が働いている。
「当たり前だろ、こんな時間に誰がお前を起こしに来るんだよ、怠け者!」トビはルーンを押し退け、大股で部屋に入ってきた。「さっさと支度しろ。オールド・ヴィックの屋台があと10分で開く。遅れたら、岩みたいに硬い黒パンしか残ってねえぞ。」
黒パン?
なんだそれ?
中世ヨーロッパの主食か?
確かドキュメンタリーで見たことがある。黒パンって確か中世の主食で、粗いライ麦粉とか雑穀を混ぜて作ったやつだよな…。
俺はコートを羽織り、トビについて外に出た。狭い路地をいくつか抜けていくと、空気には形容しがたい臭いが漂っていた。腐った食べ物の残渣、工業排水、得体の知れない化学物質が混ざり合い、独特の「貧民窟の香水」を形成している。この環境は、東京の最も荒んだ街角と比べても10倍は劣悪だ。
まるで19世紀の産業革命時代のヨーロッパの貧民窟だ。まさか『レ・ミゼラブル』の世界に転生したんじゃないだろうな?
俺は足元の汚物を避けながら歩いた。
いくつかの細い路地を抜け、小さな広場にたどり着いた。ここは貧民窟でも数少ない開放空間の一つで、朝早くから労働者や職人が集まっていた。
ようやく朝食の屋台に到着した。古びた石壁に寄りかかるように建てられた簡素な木の小屋で、屋根には薄暗い石油ランプがいくつか吊るされている。大きな鉄鍋が炭火の炉にかけられ、湯気を上げていた。そばには木の桶がいくつかあり、団子や豆、よくわからない具材が入っている。屋台の前には粗末な木のテーブルと低いスツールが並び、ぐらついているものの、食事をする場所としては機能していた。
まるでRPGの世界だな。『原神』のVR版でもプレイしてる気分だ。
「今日の朝は何だ?」トビが屋台の前に割り込んで尋ねた。
「黒パンと玉ねぎ豆のスープ。昨日と同じだ。」オールド・ヴィックは顔も上げず答えた。「1人前6スー。値引きはなし。」
「2人前頼む。」トビは数枚の銅貨をカウンターに置いた。
トビが俺に玉ねぎスープの入ったボウルを渡してきた。スープを一瞥する。濁った黄褐色の液体に油の膜が浮かび、鼻を突く臭いが漂っている。中には何か不明な物体が漂っていて、野菜かもしれないし…いや、知りたくない。
こんなの、人が食えるもんじゃねえだろ。
でも、好き嫌い言ってる場合でもなさそうだ。
俺たちはスープを持って空いたテーブルに座った。トビは黒パンにスープをつけてガツガツ食べ始めた。
俺も一口食べてみたが、やっぱり現代人の舌にはキツい。
「悪くねえだろ?」トビはすでに朝食の半分を平らげていた。「オールド・ヴィックはこの辺じゃ一番のパン職人だ。少なくともこいつのパンにはおが屑が入ってねえ。」
これが「一番」なら、「最悪」のパンはどんなんだ? 面粉の代わりにレンガでも使ってるのか? それとも建築廃材をそのまま出すのか? でも、トビがガツガツ食う姿を見ると、この階層じゃ腹を満たせるだけでも贅沢なんだろうな。
トビは声を潜めて言った。「いいか、俺、仕事の仲介屋を見つけた。食ったらすぐそいつに会いに行く。覚えておけ、会ったら一言も喋るな。黙って聞いてるだけでいい。あの男は変わり者で、喋りすぎる奴が嫌いなんだ。」
「行こうぜ。」トビが立ち上がった。「ハーマンは待たされるのが嫌いだ。」
「ハーマン?」ルーンは思わず尋ねた。
「闇市場の労務斡旋屋だ。」トビが説明した。「俺たちみたいな黒戸籍の奴に仕事を紹介してくれる。覚えておけ、喋るな。俺が話す。あの男は毒蛇より陰険だが、金さえ払えば仕事は見つけてくれる。」
彼らは曲がりくねった路地をいくつか抜け、露天の広場にたどり着いた。朝食の広場とは全く異なる——汚く、騒がしく、ぼろをまとった数百人の男女が押し合いへし合いしながら、限られた仕事の機会を奪い合っていた。少しマシな服を着た「斡旋屋」たちが仮設の木製ステージに立ち、今日必要な人数、仕事内容、報酬を大声で叫んでいた。
「ゴミ場の分別!10人!1日4スー!」
「埠頭の荷運び!8人の屈強な男!経験者優先!日給13スー!」
「排水管の清掃!痩せた奴5人!3スー+食事1回!」
ボロボロの馬車のそばに着くと、数人の若者がハーマンという男の周りに集まっていた。
「トビ。」ハーマンは顔も上げずに言った。「また仕事探しか?」
「はい、ハーマン様。」トビは急に卑屈になり、背中まで曲げた。「俺と友達で仕事が必要です。」
ハーマンがようやく顔を上げ、濁った目でルーンを一瞥した。「新入りか? 辺境の奴か?」
俺は黙って頷いた。
トビが頷く。「こいつ、めっちゃ働けます。どんな仕事でも大丈夫です。」
「どんな仕事でも?」ハーマンは冷笑した。「ちょうどいい。城南のゴミ処理場で人手が要る。1日5スー、朝から真っ暗になるまで働く。」
5スー? それってどれくらいだ?
「ゴミ処理場?」トビが一瞬躊躇した。「そこの仕事、汚すぎる…」
「なんだ、選り好みか?」ハーマンが嘲笑った。「お前ら黒戸籍の分際でいい仕事が欲しいだと? あそこは少なくとも昼飯が出るぞ。」
トビは歯を食いしばり、数枚の紙幣をハーマンに渡した。「ハーマン様、他に選択肢は?」
ハーマンは肩をすくめた。「これが相場だ。受け入れるか、ゴミ場に行くかだ。ゴミ場は紹介料取らねえよ、誰も行きたがらねえからな。」
資本家が労働者を搾取し、仲介屋が黒工を搾取する。この世界の抑圧の連鎖は見事に繋がってるな。マルクスがこの世界に転生したら、間違いなく『資本論・異世界編』を書き上げるだろう。いわゆる「紹介料」なんて、ただの別の搾取だ。社会の底辺にいる人間にさらなる重荷を背負わせる。
トビは肩を落とした。「わかりました、ハーマン様、じゃあゴミ場で。」
「賢い選択だ。」ハーマンは満足げに頷き、「これを持っていけ。現場のクラークに渡せば仕事の段取りをしてくれる。覚えておけ、明日は余分な稼ぎの半分を俺たちに分けろよ。」
トビは恭しく粗末な紙切れを受け取った。「ありがとう、ハーマン様、ほんと寛大っすね。」
彼らは労働市場を後にし、都市の外れに向かって歩いた。中心部から離れるにつれ、建物はますます荒廃していった。ついに、鼻を突く悪臭が漂う広大な空き地に着いた。夜明け前の薄明かりでも、ゴミの山とその間をうろつく痩せた人影が見えた。
「東区ゴミ場だ。」トビが紹介した。「街のゴミは全部ここに運ばれてくる。工場の廃材、富裕層の台所の残飯、病院の廃棄物まで、なんでもありだ。俺たちの仕事は分別だ。売れる金属、ガラス、布は一つの山に、それ以外は焼くか埋める。」
ルーンは吐き気を覚えたが、なんとか我慢した。
この世界の環境意識はまだかなり原始的な段階に留まってるな。
まあ、考えてみりゃ、産業革命初期のゴミ処理なんてこんなもんだろう。
彼らはクラークを見つけ出した。陰気な顔の中年男で、目は疲労と無感情に満ちていた。彼は軽く頷き、二人に鉄のフックと麻袋を手渡した。「金属はここの山、ガラスはあそこ。値打ちもんの置物やアクセサリーは俺に渡せ。それ以外はゴミだ。穴に押し込んで焼け。昼に30分休憩。質問がなけりゃさっさと始めろ。」
カロシア王国の最底辺で、身分のない黒工として、ゴミの山を一日中漁るのが「幸運」だなんて。1日5スーの賃金は、普通のパン2個半分しか買えず、食費や住居費を引けばほぼ何も残らない。この収入じゃ、労働許可証を買うどころか、生き延びるのもやっとだ。
トビはすでに作業を始め、鉄フックでゴミを慣れた手つきで漁り、時折値打ちのありそうなものを拾い上げていた。
「貴族の中には高級なシルクや魔法石をここに捨てる奴もいるんだ。」トビは拾いながら説明した。「運が良けりゃ、魔法石の1個や2個見つけられるぜ。先月、誰かがここで暖石を見つけて、3リーブルで売ったんだ!」
魔法石?
やっぱりこの世界には魔法があるんだな。
俺はゴミ袋を漁り続けながら、藤田美香——あのクソくらえの番組プロデューサーを思い出した。
いくら視聴率のためとはいえ、こんな異世界の底辺に人を放り込むなんてやりすぎだろ?
昔、YouTubeで見た動画を思い出した。底辺の労働者が這い上がれないのは怠惰じゃなく、労働が思考力を奪うからだって。メガネをかけた学者が言ってたな。「人がすべてのエネルギーを基本的な生存ニーズに費やすとき、状況を変えるための思考の余裕はなくなる。貧困は物質的な欠乏だけでなく、機会と可能性の剥奪だ。」
今、その言葉がやけに刺さる。東京にいた頃の俺は平凡なサラリーマンだったけど、毎月少しは貯金できて、週末には近所の居酒屋で一杯やったり、家でゲームやアニメを楽しんだりできた。でも今? 5スーの日給じゃ腹も満たせない。娯楽なんて夢のまた夢だ。
毎日10数時間こんな労働をして、あのボロい小屋で寝て、翌日また同じことを繰り返す…。数ヶ月もすれば、俺も周りの無気力な労働者と同じになるだろう。目が虚ろで、考えてるのは次の飯のことだけ。思考? 変革? 這い上がり? そんなのぜんぶ贅沢品だ。
クソくらえ、地球に帰りてえよ