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第9章:エドモント中央警衛局

エドモント中央警衛局は、都市の行政区の果てに沈黙を守るようにそびえ立つ、重厚で陰鬱なゴシック建築だった。灰色の煉瓦は長年の煤煙で黒ずみ、銅緑色の配管が絡みつくその様は、まるで古代の巨獣に蔦が絡みついたかのよう。鋭く尖った軒の下には石のガーゴイルが並び、口を開けたまま無言の警告を放っている。


 建物の正面にある二基の魔法ランタンは、青白い光を揺らめかせながら通行人を睨みつけていた。この街で唯一、蒸気照明を一切使用しない建物。それ自体が、ここが“普通ではない事件”を扱う場所だと物語っている。


 内部の空気は常に重く、深夜であっても明かりが絶えることはない。銅線メッシュの窓越しに、石油ランプの橙色の光がじわじわと漏れ出し、夜勤の警衛の顔を青白く照らしていた。


 一階西棟、書類保管室。


 オーク材の分厚い扉の奥では、紙をめくるざらついた音が絶え間なく響いている。中に満ちるのは、古びた木材と鉄、そして……わずかに鼻を突く鉄臭い匂い。腐った血のような、その香りに敏感な者なら、すぐに異変に気づくかもしれない。


「今月、三件目だぞ……」


 そう呟いたのは、巡査のフレッド。眉間に皺を寄せ、分厚い書類束を捲る手が止まっている。


「しかも、全部“失血死”。しかも全員、首筋に奇妙な刺し傷。どう考えても普通じゃない」


 向かいの席で腕を組んだゴードンが、ため息混じりに相槌を打つ。


「吸血鬼の仕業か?」


「まさか……今の時代に?」


 けれど、その“まさか”を否定できる材料は、もうどこにもなかった。


 被害者はいずれも東区の夜勤労働者。工場帰り、酒場帰り、そして昨夜は──教会の修道士だった。共通点は、どれも“夜中”“人目のない裏路地”“完全な血液の消失”。


 遺体の口元は笑っていた。それも、どこか恍惚とした表情で。


 そして首筋には、必ず二つの小さな刺し傷。


「都市伝説じゃなかったってことか……吸血鬼ってやつは、今もどこかで“狩り”を続けてる」


 フレッドの言葉に、ゴードンは無言で頷いた。


 二人の間に沈黙が落ちた。書類棚の隙間から吹き込む風が、ろうそくの火を揺らす。


 その影の中に──


 何かが、笑っていた気がした。

####

 魔法——それは、この世界で生き延びるための鍵だ。


 最初にこの言葉を聞いたとき、俺は鼻で笑っていた。だってそうだろ? 前世、日本の化学メーカーでR&Dにいた俺にとって、「魔法」なんてのはファンタジー小説やアニメの中だけの話で、現実じゃせいぜいイオン反応や誘導結合の比喩でしかなかった。


 でも、実際にここで血の匂いと蒸気の中を生きて、食屍鬼とやらに片腕を持っていかれかけて、吸血鬼の美少女に命を救われて……。


 俺は本気で、この異世界から帰る手段を探している。そして、その鍵が魔法にあるかもしれないと気づいたのは、ヴィラの地下書庫で、あの指輪が光ったときだった。


(もし魔法が、空間を操る力なら……もし、次元の壁を超える方法があるなら……)


 科学じゃダメだった。地球の技術じゃ無理だった。だったら、こっちのルールで戦うしかねえじゃん。


 だから、俺は――魔法を学ぶ。


「瞑想?」


「そう。魔法を扱うためには、まず精神力の基礎を鍛える必要があるの。瞑想はその第一歩よ」


 ヴィラがそう言ったとき、俺の脳内には会社の後輩・佐藤の「マインドフルネス最高っすよ!」っていう軽いノリが蘇った。いや、ほんと、瞑想って言葉はなんかうさんくさい。


 でも、目の前の吸血鬼の紅い瞳には、真剣さが宿っていた。


「つまり……あぐらかいて、目閉じて、呼吸に集中、ってやつ?」


「ええ。でも、ただのリラクゼーションじゃないわ。精神力を高める“訓練”よ。意識を研ぎ澄ませて、周囲のエネルギーの流れを感じるの」


「……なんか、胡散臭ぇなぁ」


 つい本音が口から漏れた。だけど、ヴィラはくすっと笑いながら、軽く肩をすくめた。


「あなたの世界の価値観では、そうかもしれないわね。でも、ここではそれが常識なの」


 ああ、そうだよな。この世界には魔法があるんだ。信じない方がおかしい。


 俺は仕方なく瞑想用のクッションに座り、足を組んだ。こういう姿勢、いつ以来だろう。大学時代にヨガを体験したとき以来か? そのときは智子に無理やり連れて行かれて、目の前の「チャクラを整える」って言ってるインド系マスターに内心ドン引きしてたっけな……。


(でも、今は違う。帰るためなら、なんでもやる)


「呼吸に集中して。息を吸って、エネルギーを取り込み、吐くときに意識を空間へ広げるのよ」


 ヴィラの声は柔らかいけど、不思議な威圧感があった。言葉じゃなく、存在そのものが命令してくるような……そんな感じ。


 目を閉じ、意識を呼吸に集中する。とはいえ、正直、むずい。脳内に雑念がすぐ湧いてくる。前世のこと、会社のこと、子供たち、智子の笑顔……思い出すだけで胸がチクッと痛む。


 でも、ここで俺が崩れたら、何も得られない。


「“考えない”のは無理でも、“考えてる自分を眺める”ことならできるでしょ?」


 ヴィラの声が、まるで俺の内心を覗き見ていたように響いた。


(……読心術でも使ってんのか、この人)


 俺は思考と戦うのをやめ、観察することにした。すると、不思議と雑念が静まってきた。おお……これが、瞑想の“コツ”ってやつか?


「よくなってきたわ。次は、右手の指輪に意識を向けて」


 ヴィラが指したのは、彼女から受け取った銅製の指輪だった。ここ数日、こいつを通じて何かを感じるようになってきたのは事実だ。


 呼吸と意識をリンクさせながら、ゆっくりと、指輪へと“意識”を向けると……。


 ——来た。微かな脈動。まるで、見えない鼓動のような何かがそこにある。


(……これが、魔法の入り口か)


 俺の魔法修行は、ようやく、始まったばかりだ。

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