10.新たなる旅路
「フルード…?」
家は荒れ果て、血に塗れた幼体が横たわっているばかりだった。部屋の中に鉄臭い香りが充満しており、俺の鼻を刺激して胃の中に溜まっていた絶望を吐き出させる。
ここに、フルードの姿はない。
フルードの死をまだ知らずに済んだ安心感が、胸の中で僅かに蠢いていた。しかし、目の先で確かに潰えてしまった細やかな日常に対する拒絶の念が、胸の中で喚き散らしている。
俺が真に守りたかったその子を、俺は守れなかった。
吐き出した胃液は黄味がかっており、鼻に酸いを、喉に辛いを感じさせている。消化途上にあったコーンの甘味が、僅かに舌で主張している。あぁ、ちょうど、パンプキンの甘さも同じぐらいだったか。
口内に広がる不快感など気に留めることができず、俺は幼い血塗れの体へと這い進んだ。その胸元には、赤く染まりながらも元の黄色を覗かせる小さな花が添えられていた。
「ごめん、なさい…」
己の卑しさが不快であった。この言葉が解決する物は、ない。俺の苦痛を和らげるためだけに、利己的に言葉を吐いたんだ。しかし、それでも俺は、この惨劇を認め難い。
言葉などは喉で笛の音に変わり、拒絶感は瞳から瞼へと伝っていく。
俺はその場で泣くことしかできなかった。
ーーー
「本当に、行ってしまうのですな」
村長が俺の手を握ったまま、その顔を見上げさせた。伸び切った眉毛の隙間から、黄色く鋭い瞳を覗かせている。
俺は静かに頷く。フルードが行方不明となった今、この村に留まる理由が無くなったのだ。だから、リンデとの再会に期待してチウリツ国へと向かうことにした。
「復旧の手伝いができなくてすまない」
「いいのです。クラウス殿には、大いなる役割がございましょう」
大いなる役割。きっと、人間から魔族へと変化した俺に与えられた物だ。俺にしかできない事がある。
「この村にいらして下さったこと、心より感謝いたします」
「こちらこそ、受け入れてもらって助かった。感謝する」
生活用品が僅かに内包されている荷物を背負込み、村の外へと歩み出す。
村長は自身の生活に余裕が無くなっていながらも、俺に様々な旅の道具を恵んでくれた。生き残った顔見知りの人々は、俺の旅の安全を祈ってくれた。皆の強さと優しさが、俺の心に後ろめたい念を生じさせている。皆に返礼できる物が俺には無いのが一つ、なにより、恐らく、俺はここに戻ってくる事はないのだから。
俺は生まれてから今日まで、奪われる以上に与えられているのかもしれない。なんて、それに感謝できる程の余裕が無い事は許して欲しい。父を奪われた事、魔族として送る生活の希望だった二人を奪われた事、どうして苦しまずに居られようか。
復旧作業に手を貸せない事に負い目は感じている。しかし、フルードとフィルフィが居なくなった村に残れる気がしなかった。なにせ、何をしても二人の影を探してしまうのだから。それが無駄な期待であると知っていながら、だ。その度に、俺は失った幸福が照らして作り出す影の大きさに震えた。留まる事が恐ろしくなった。
そして、新たなる旅路の始まりに至る。抱えている物は荷物ばかりではない。淋しさと、拭い切れない憎悪と、使命感と、それらが胸に有る。
俺は、人間と魔族に絡む憎しみの輪を断ち切る。これこそが、俺に与えられた役割なのだ。なんて綺麗事を抜かせるのは、きっと俺が既に狂っているからだと思う。「吹っ切れた」と誰かは言うが、狂ったの間違いだ。突き付けられた苦に正しく反応ができない程度に、俺は現実を認め難い。こうして歩いている間も、フルードの姿を探している。
あぁ、居るはずが無いんだ。
村を抜けてすぐに、俺は歩く事がままならなくなった。
と言うのも、エリス皇国の襲撃から今日までに、俺の心の中に生きる失った人々が悲鳴と叫びと怒りにて俺を咎めるのだ。まぁ、発作めいた物だ。基本はあの惨劇を彷彿とさせる様な状況に当てられるとなるのだが、時には今の様に、普遍的な状況でも視界を覆われる。
手が震え、足の力が抜けて跪いてしまう他、鼓動が喧しく耳を塞ぎ、喉が締まる。この様な時には、どこかに体を預け、呼吸を整える事に努める。
側に在った木に寄りかかり、大きく息を吸って緩やかに吐く様に心がける。喉が震えているのはともかくとして、胸の怖張りが体内に潜り込む空気を減らしてしまう事が恐ろしい。なにせ、本来は生を肯定する身体が死を願わせている様に感じられるのだから。
なんて、冷静に分析しているつもりだが、全ては「苦しい」に収斂する。本当に、死んでしまいそうな気分だ。
「行かなきゃ…」
思考は先の景色を望んでいると言うのに、身体が我儘にもそこに留まろうとしている。依然として息苦しさが拭えない。
ふと、誰かの足音を耳に認めた。それは金属が地に打ち付けられる他、金属同士が擦れ合う様な音を響かせている。そして、俺の傍にまで近付いている。
「おい。大丈夫か」
女の声だった。その問いに対し、俺は見上げる余力すら無くて、その場に震えていた。
女は跪いた様で、俺の手を取る。青く傷だらけの手であった。
「震えているぞ。何があった」
声の元を見遣れば、金属製の足鎧がそこに鎮座していた。
声を出そうと努めるが、呼吸の副次的な音しか喉を通らない。情けない声だ。
遂には涙が頬を伝って止まらなくなる。幸いにも泣き声は出ず、慟哭に留まった。
女は何も言わないでくれている。人前で泣くのは気が引けるのだ。だから、助かっているが、それはそれとして早く涙を止めたい。しかし、止まらない。
ただ、涙のリズムが呼吸を整え、胸を縛る嫌な怖馬りはなくなった。
「私は王国軍直属の騎士、ルナリア・ミネハイムだ。ここに人間はいない。安心しろ」
違うんだ。人間を恐れている訳じゃない。守れなかった人々に対する後ろめたい思いに耐え難い。なにより、その人達の為にも俺は前へ進まなければならないと言うのに、その責任感に押し潰されそうなんだ。
「人間…エリス皇国の奴らがここを襲ったと聞いて、私達は視察に来たんだ。貴様は…」
「…」
何にも応える気力は無かったが、ようやく、涙が収まった。しかし、顔を上げ難い。濡れた顔を見せるのは気が引けたのだ。
しかし、いつまでもその場に座り込んでいる訳にはいかないと分かっていた。顔を腕で拭ってその場に立ち上がる。
「取り乱してしまってすまない」
「気にするな」
顔を上げて分かったことで、女は鋭い目つきに傷だらけの顔をした魔族であった。傷は、その者の経験と強さを物語る証だ。強過ぎると、リンデの様に綺麗な肌を保てるようだが。
そして、機能性を重視した鎧を身に纏っており、その腰には剣が提げられている。
「なにか事態が起きた訳でもなさそうだな。だとして、余程酷い経験をしたと見える」
女は確信を宿した目でこちらを見つめていた。
「安心しろ。人間からは私達が守る。もう、どこへ逃げる必要もないぞ」
「…人間は悪か?」
「愚問だな。それは貴様が一番に知っているはずだ」
あぁ、知っているさ。人間も魔族も、奪う奴らは平等に悪い。どちらかに責任を被せる事は止めにしたのだ。
なんて、目の先に居る女とは違う考え方である筈だ。しかし、俺の考えを言葉にする気分にはなれなかった。
先へ急ぎたい。
「もう行く。心遣いに感謝する」
「あぁ、旅人であったか。いいのだ。人間には気をつけろ」
少し、看過出来ない言葉であった。ただ、まともに会話を交わす気力が無くて、半ば捨て台詞の様に言葉を吐く。
「…俺は、人間も魔族も信じる」
「どういうことだ?」
女は俺の背に問いかけた。ただ、構わずに歩みを進める。
「貴様は見たのではないのか?人間に希望を絶たれた同胞の姿を!現実から目を背けるな!」
逆も然りだ。むしろ、その光景に憤りを募らせていた。しかし、悟ったのだ。
どちらも尊い。そして、それを奪う者だけが悪い。
ルナリアの発言には不快な気分にさせられる。俺だから、どちらも信じると言うのだ。奴が何を知っていると言うのだ。
俺の肩を掴み引き留めた女を睨む。
すぐに、女はその手を離した。俺はただ、先へ急ぐばかりだ。
「お、おい、名前を聞かせろ」
「クラウスだ。村の事は、お前達に任せた」
憎しみの輪は、簡単には解けないまでに絡まっていると再認識させられる。片側の視点から立てば相手が悪であり、そこに疑いようは無い。なにせ、被害者に他ならないのだから。
あの女の言葉は正しい。彼女は飽くまでも魔族の視点に立ち、魔族を守る存在なのだ。だからこそ、歯痒い。この気持ちは、彼女だけに向けられる物ではない。
皆、敵など意識せずに暮らしていけるのであれば、それはどんなに幸せなんだ。人間と魔族が互いに無関心でも構わない。ただ、略奪が略奪を生み出す循環さえ破壊できるのであれば、それが俺の願いだ。
再び、リンデの理想が頭に浮かぶ。
《魔族と人間が手を取り合える術はないか》
俺は今、ようやく過去のリンデと同じ所に至った訳だ。既に俺の先を行くあいつは、平和の為に何をするのだろうか。我が子と過ごす細やかな幸福に留まっていたが、そこに満足していられる男ではないと直感している。
再会すれば、俺は前進できる。確信している。
俺はひたすらに、チウリツ国への道程を進む。本当に、居ても立っても居られない気分であった。なにより、目指す所が明瞭な輪郭を帯びたのだから、止まる理由が見当たらなかった。
そして、ふと、クレイ達との再会も望んでしまう。強くなった俺であれば、再び仲間達の隣に並ぶ事が叶うと思えるのだ。しかし、同時に恐れてしまう。
魔族になった俺を皆は拒絶しないか、どうか。
あぁ、また、夢を見てしまっているのかもしれない。夢から覚める苦しみを知っていると言うのに、愚かだな。
しかし、そうは断じ難い。大いなる目的の為に、と言えば随分と気取った感を受けるが、仲間達との再会は俺の目的に大きな推進を与えると信じて止まないのだ。
ただ、本当に、願望だな。
皆に会いたい。




