もう二度と待ちません
「ちょっと、これは一体どういうこと!?」
そう言って、私────竹内雛美は借用書を突きつけた。
それも、複数枚。
「な、何でそれを……」
狼狽えた様子で、借用書と私を交互に見るのは夫の竹内恭弥。
この借用書の名義人だ。
「貴方の書斎を掃除している時に、たまたま見つけたの!で、これは何なの!?どういう経緯で、借金した訳!?」
隠していたということは後ろめたい何かがあるんだろうが、理由を聞かないことには何も始まらない。
たとえ、今の借金を完済出来てもまた借金されては元の木阿弥のため。
「とにかく、理由を説明して!」
借用書片手に夫へ詰め寄ると、彼は観念したかのように肩を落とす。
「分かった……でも、今日はもう遅いし、心の整理をつけたいから明日でもいいか?」
元々残業して帰ってきたということもあり、夫は疲れ切った顔をしていた。
『頼む……』と頭を下げる彼の前で、私はなんだか可哀想になってしまう。
帰宅早々、怒鳴りつけるのはやり過ぎたかも……明日だって仕事があるだろうし、あまり夜更かしさせるのは良くない。
心做しかいつもより小さく見える夫を前に、私は少し肩の力を抜いた。
「いいわ。ただし、明日は早めに帰ってきてね。話し合いの時間を多く取りたいから」
────と、夫の提案を呑んだ翌日。
彼は出社するフリして貯金通帳を持ち出し、行方不明となった。
何故分かったかと言うと、夫の会社から『今日はお休みですか?』と電話が掛かってきたから。
貯金通帳に関しては、今日ちょうど記帳しに行こうと思っていたため、直ぐに気づけた。
昨夜まであったことは確認済みなので、夫くらいしか持ち出せる人は居ない。
とりあえず、銀行に連絡してキャッシュカードの利用を止めましょう。
そうすれば、観念して夫も戻ってくる筈……。
────と、考えたものの……その予想は見事裏切られた。
いや、先手を打たれていたとでも言おうか……。
なんと、夫は今朝のうちに有り金全て下ろしていたのだ。
なので、三桁程度の残高しかない。
一応、財布に入っていたお金とヘソクリは無事だけど……これじゃあ、生活して行けない。
夫の借金もあるし……。
お先真っ暗という現状を憂い、私は自宅で一人頭を抱えた。
『家のローンだって、まだ残っているのに……』と思案しつつ、ダイニングテーブルに突っ伏す。
「これって、所謂蒸発だよね……」
『昨日、あんなに責めちゃったからかな?』と眉尻を下げ、私はちょっと泣きそうになった。
確かに私も言い過ぎたかもしれないけど、元はと言えば夫の……でも────
「────借金の理由を聞かずに、いきなり怒鳴りつけたのは不味かった。もしかしたら、深い事情があったのかもしれないし……」
『こうなったのは、私にも責任がある』と思い直し、顔を上げた。
折れそうになる心を繋ぎ止め、一先ず両家の両親へことの次第を報告する。
その際、ちょっとだけ『義両親のところへ行ってないかな?』と期待したものの……結果は空振り。
嘘をついて匿っている可能性はあるだろうが、彼らの反応を見る限り本当に何も知らないようだった。
本当に『寝耳に水!』『青天の霹靂!』って、感じだったから。
一体、夫はどこに行ったのだろう?
両家の両親も『探してみる』と言ってくれたけど、見つかる可能性は低そう。
だって、あっちには約二百万の現金がある訳で……その気になれば、いくらでも行方を晦ませられる。
無駄遣いしなければ、当分は生活出来るだろうし……。
「むしろ、ピンチなのはこっちの方……」
大学卒業と共に結婚し、ずっと専業主婦をしてきたため、私は職歴というものがない。
このままでは、パートを掛け持ちして働くくらいしか出来なかった。
家のローンや借金を返しながら生活……は、どう考えても無理だよね。
一月も持たなさそう……。
「仕方ない……しばらくは親に頼んで、援助してもらおう。この歳にもなって、お世話になるのは本当に申し訳ないけど」
────ということで、私は約半年……両親の支援を受けながら、自分も働いて何とか生活した。
その間、夫は無断欠勤を理由に解雇。
退職金は振り込まれたものの、キャッシュカードや通帳を持ち出されたため引き出せず……また、名義人の夫が居ないため暗証番号を変えたり、キャッシュカードを作り直すことも出来なかった。
退職金の振込口座を変更出来なかったのも、そのせい。
会社の人には痛く同情されたけど、こればっかりはどうしようもないものね……。
パートから帰ってきて早速夕食にする私は、『ここ最近、白飯+αばかりだなぁ』と考える。
と同時に、なんだか悔しくなった。
何故、私がこんな辛い思いをしないといけないのか?と。
ローンはさておき、こっちの借金は私の作ったものじゃないのに……。
コルクボードに貼った複数枚の借用書を前に、私は涙を流す。
────と、ここでスマホが鳴った。
慌てて泣き止んで画面を見ると、実母から着信が……。
『多分、心配してくれているんだろうな』と考えつつ、私は電話に出た。
「もしもし、お母さん?」
『雛美?最近の調子はどう?』
「う〜ん……まあ、ぼちぼち」
『そっか……』
どことなく暗い声色で頷く母は、三十秒ほど押し黙る。
いつもは『どこで息継ぎしているの?』と疑問に思うくらい、喋るのに。
もしかしたら、こちらの不調を何となく感じ取っているのかもしれない……。
『ねぇ、雛美』
「何?」
『私が口を出すべき問題じゃないのかもしれないけど、もう────恭弥くんのことは諦めたら?』
「!」
ハッと息を呑む私は、強く手を握り締めて固まった。
ゆらゆらと瞳を揺らす私に対し、母は優しく諭すような口調でこう続ける。
『だって、もう半年よ?これまで会いに来るどころか、連絡の一本も寄越さなかったじゃない。正直、そろそろ見切りをつけるべきだと思うわ。貴方に不誠実すぎる』
「……」
『ちょっとした家出なら、まだ話し合う余地くらいはあったかもしれないけど、これ以上はさすがに看過出来ないわ────恭弥くんと離婚しましょう?』
離婚……考えなかった訳じゃない。
ネットでちょくちょく調べては、『いや、でも……』と躊躇ってきた。
でも────
見切り品でいっぱいになったゴミ袋や節電のため暗くしている室内を見回し、私は無性に虚しくなった。
お金のことでいっぱいだった半年間を思い返し、堪らず号泣する。
────私も、もう限界……こんな生活がずっと続くのかと思うと、心底ゾッとする。
家出には長すぎる半年という期間を思い浮かべ、スマホを握る手に力を込めた。
「うん……私っ……離婚する!もう待てない……!」
まるで子供のような口調でそう言い、私は声を出して泣いた。
その間、母はずっと『頑張ったね』『もう休んでいいんだよ』と言ってくれて……余計に涙が零れる。
ありがとう、お母さん。『離婚しよう』と提案してくれて。
自分から言うのは、正直情けなくて……ずっと躊躇してきたから。
もし、言ってくれなかったらこのままズルズル結婚生活を続けていたかも。
「とりあえず、弁護士に色々聞いてみるね。確か、市の無料相談があった筈だから」
ようやく泣き止んだ私は、どこか晴れ晴れとした気持ちで今後の方針を話した。
すると、母はすかさず反論を口にする。
『無料相談はやめておきなさい。場所によっては予約半年待ちなんてケースもあるし、あまり親身になって聞いてくれない場合もあるから』
「えっ?でも、ウチにはお金が……」
『そこはお母さんの方で何とかする。だから、有料相談に行ってきなさい。依頼する場合はさておき、話を聞いてもらうだけなら五千円くらいで済むみたいだから』
「分かった。ありがとう」
五千円くらいなら後で返せると考え、私は今だけ母の言葉に甘えることにした。
そして、また連絡することを約束してから通話を切り、ベッドに入る。
『明日にでも弁護士事務所へ駆け込もう』と思いつつ眠りにつき、私は翌日を迎えた。
まずは掛け持ちのパートをこなし、近くの弁護士事務所にアポイントを取ると、直ぐさま訪問。
『もう一秒だって惜しい』と考えながら事情を説明し、弁護士の女性にアドバイスを求めた。
「そうですね……このケースだと、離婚は可能だと思います。ただ、協議離婚や調停離婚は相手が居ないと出来ないため、裁判離婚になるかと。その場合、手続きに時間を取られるため今すぐ離婚するのは難しいです」
『月単位で時間が掛かる』と言い、弁護士の女性はテーブルを挟んだ向こうに居る私を見た。
「でも、竹内さんの場合は多額の借金という明確な離婚事由があるので、他の配偶者失踪のケースより楽だと思います」
「他のケースだと、そんなに大変なんですか?」
「はい……ただ配偶者が失踪しただけでは、直ぐに離婚出来ないので。そういう場合は別居期間を三年以上設けて、婚姻関係が破綻していることを証明しなければなりません」
『他に明確な離婚事由があれば、話は別ですけど』と述べつつ、彼女は苦笑を漏らす。
そういった案件を何度か取り扱ったことが、あるのかもしれない。
「それで旦那様の借金についてですが、こちらは保証人にでもなってなければ配偶者に返済義務はありません。なので、これからは返済しなくて結構です。むしろ、これまで返済した分を旦那様に請求出来るくらいですが……ご本人が居ないと何とも……」
請求先がないことを匂わせ、弁護士の女性はそっと眉尻を下げた。
かと思えば、少し身を乗り出す。
「また、住宅ローンについても名義人が旦那様になっているなら、返済しなくて大丈夫です。ただ、返済が滞った場合……最悪、自宅を競売に掛けられ、強制的に売却されてしまう可能性があります」
「なる、ほど……では、それまでに新しい住居を見つけたり、売ったりしないといけないんですね」
さすがにこのまま住宅ローンを払い続けるのは厳しいので、私は家を諦める方向で考えた。
すると、弁護士の女性は悩ましげな表情を浮かべる。
「ええ。ですが、売るのは難しいかもしれません。こちらもまた、旦那様が居ないと……家の持ち分は恐らく、旦那様の方が多いですよね?」
「はい。夫の方が……というか、全て夫名義です」
「でしたら、売却は不可能ですね。裁判で財産分与について話し合う際、取り分を求めれば話は別ですが……」
『今すぐ、どうこうは無理』と説く弁護士の女性に、私は相槌を打つ。
────そして相談時間終了となり、私は自宅へ帰った。
と同時に、速攻で母へ連絡。弁護士からの意見を伝えた。
『分かったわ。とりあえずローンや借金の返済はやめて、裁判離婚を目指しましょう。お金は気にしなくていいから、弁護士も雇って』
「うん……ありがとう」
『これくらい、朝飯前よ。あと、財産分与についてはあまり期待せず、マイナスにならなければ御の字程度に考えて。悔しいかもしれないけど、高望みして時間を掛ける方がダメだわ』
とにかく一刻も早く縁を切るべきだと考えているのか、母は『お金ならどうにかするから』と繰り返し言ってくれた。
「分かった。早速明日から、離婚に本腰を入れるよ」
────と、宣言した約一年後。
弁護士さんや両親の力を借りて、私は何とか夫と離婚出来た。
財産分与も無事に済み、晴れて独身となる。
正直ここまで凄く長かったが、就職活動も上手くいき、独り立ち出来た。
と言っても、両親たっての希望で実家住みだが。
どうやら、今回の騒動でかなり心配を掛けてしまったらしい。
『仕事に慣れるまででいいから』と、同居を打診された。
まあ、私としてもそっちの方が心強いけど。
今まで一人暮らしって、したことがなかったから。
『今は甘えておこう』と考えつつ、私は仕事帰りにスーパーへ寄る。
以前までは、見切り品しか買えなくて凄く惨めだったけど……もうあまり値段を気にしなくていいのね。
まあ、さすがに高いお肉なんかは買えないけど。
今晩の夕食に使う食材をカゴへ入れながら、私は鼻歌を歌う。
────と、ここで母よりメッセージが届いた。
『買い物はいいから、今すぐ家に帰ってきて。恭弥くんが来ているの』
えっ?恭弥が?
『何で今頃になって……』という言葉を呑み込み、私は一先ずカゴに入れた商品だけ購入……即帰宅した。
すると、そこには確かに恭弥の姿が……。
以前に比べて随分と窶れているものの、見間違う筈なかった。
だって、一度は結婚した仲なんだから。
「ごめんね、雛美。追い返そうかとも思ったんだけど、家の前に居座られちゃって……仕方なく中に入れたの。貴方と話せたら、直ぐに帰るって言うし」
申し訳なさそうに眉尻を下げる母は、椅子に座る恭弥をチラチラと見る。
『本当は会わせたくなかったんだけど……』とボヤく彼女に、私は小さく首を横に振った。
「とりあえず、話してみるね。お母さんはちょっと席を外してて」
「一人で大丈夫……?」
「うん」
間髪容れずに頷くと、母は『それなら……』と引き下がる。
二階の自室へ向かう彼女を前に、私は恭弥へ向き直った。
と同時に、向かい側の席へ腰を下ろす。
「久しぶりね」
「あ、ああ……そうだな。元気にしていたか?」
「貴方が失踪してから離婚を成立させるまで大変だったけど、今は元気よ」
「そ、そうか……」
バツの悪そうな顔で俯き、恭弥は右へ左へ視線をさまよわせる。
何か言いたげな彼の前で、私は大きく息を吐いた。
「それで、話って何?」
自分でも驚くほど冷たい声で尋ねると、恭弥はビクッと肩を震わせる。
「ぁ……その……」
「こっちは仕事で疲れているんだから、早くして。親にも迷惑だし」
「あ、ああ……」
オドオドした様子で顔を上げ、恭弥は身を縮こまらせた。
かと思えば、意を決したように前を向く。
「雛美────もう一度、俺とやり直してくれないか?」
「……はっ?」
思わぬ申し出に眉を顰め、私は怪訝な表情を浮かべた。
すると、恭弥は悲痛の面持ちでこちらを見つめる。
「虫のいい話なのは、分かっている。でも、お前との離婚が成立したって聞いた時、凄く後悔して……もっとお前を大事にしていれば……あんな女に騙されていなければ!」
「ちょっと待って。『あんな女』って、何?」
『聞き捨てならない』と指摘する私に、恭弥はハッとする。
ようやく己の失言に気づいたのか、ダラダラと冷や汗を流し狼狽えた。
ふ〜ん?なるほどね。何となく見えてきたわ。
恐らく、恭弥は『あんな女』……改め、浮気相手にお金を貢いでいたのだろう。
で、私に問い詰められた時さすがに『浮気していたためです』とは言えず、逃亡。
浮気相手と一緒になる筈が、あっちは完全に遊びで捨てられたって感じかな?
もしくは一応一緒になったけど、お互い反りが合わず私のことを思い出したとか?
冷静に恭弥の言動や思考回路を分析し、私はやれやれと頭を振った。
「まあ、今更貴方の事情には興味ないから何でもいいけど。でも、これだけは言っておく────恭弥と再婚することは有り得ない」
「なっ……!?」
ちょっと優しくすれば戻ってくるとでも思っていたのか、恭弥は酷くショックを受けた様子だった。
『他に好きなやつでも居るのか……?』と勘ぐる彼を前に、私はもはやゲンナリする。
「勝手に借金しまくった挙句、貯金を全て下ろして消えるような男とやり直す訳ないでしょう。こっちがどれだけ大変だったと思っているの?」
「で、でも雛美は結局離婚して債務から逃げたじゃないか」
「そりゃあ、支払う義務はないからね。というか、女性関連で作った借金を何で私が返さないといけないのよ」
「ふ、夫婦は助け合いだろ……」
『どの口が』と言いたくなるような反論を繰り出し、恭弥はじっとこちらを見つめる。
「俺は結婚してから今まで雛美を養ってきたんだから、ちょっとくらい手助けしてくれても……」
「ええ、だから半年分は返済したわよ。それで、妻としての責務は充分果たしたと思っている。あと、私が専業主婦をしていたのは貴方たっての希望じゃない。もう忘れたの?」
結婚する際、『家庭に入ってほしい』と強く主張してきたのは恭弥の方だ。
私は元々働くつもりだった。
でも、『これだけは譲れない』と言うから折れた────という経緯がある。
「っ……!だ、だけど!」
「そろそろ、いい加減にしてくれない?話し合いから逃げた時点で、貴方に何か言う権利はないの。今になって、ああだこうだ言っても無駄。私の意志は揺るがないし、貴方のしたことも変わらない」
『現実を見なさい』と主張し、私は席を立った。
もう何も話すことはないと示す私に、恭弥は焦った表情を浮かべる。
「ま、待ってくれ……!なら、せめて少しお金を貸してくれないか……!?」
「はっ?そんなの自分の両親や友人に……」
「言ったけど、『借金した挙句、失踪するような奴に金は貸せない』って突っぱねられたんだ!だから、もう雛美しか頼れる奴が居なくて……!」
『頼むよ!』と食い下がる恭弥は、こちらに身を乗り出した。
今にも泣きそうな顔の彼に対し、私は溜め息しか出てこない。
だからって、元妻のところに来る?普通……。
『厚顔無恥とは、このことか』と目頭を押さえる中、恭弥は立ち上がってこちらへ駆け寄ってくる。
「自己破産したから、本当にお金がないんだよ……!これまでは貯金と日雇いのバイトで、何とか食い繋いできたけど……!」
「それは大変だったね。でも、私には関係のないことだわ」
『もう離婚したんだから』と突き放し、私は恭弥の腕を掴んで玄関に引き摺っていく。
「とにかく、やり直すこともお金を貸すことも出来ない。分かったら、さっさと出て行って」
「ちょっ……」
「これ以上、ウダウダ言うつもりなら警察を呼ぶけど?」
ご近所の目もあるのであまり使いたくない手だが、このまま居座られるよりはマシである。
『最悪の場合、住み着かれるし……』と危機感を抱きつつ、私は恭弥を外に放り出した。
地面に尻餅をつく彼の前で、私はさっさと扉を閉める。
施錠だって、バッチリだ。
「一応、玄関前もウチの敷地だから一分以内に出て行ってね」
すりガラス越しにそう告げると、恭弥はよろよろと立ち上がる。
「ま、待ってくれよ!まだ話は……」
「警察」
「うっ……」
さすがに警察沙汰は避けたいのか、恭弥はようやく口を噤んだ。
かと思えば、すごすごとこの場を立ち去っていく。
が、我が家の門扉を通り抜ける直前ふとこちらを振り返った。
「雛美、お前変わったよ。前まで、こんなに冷たくなかったのに……金のない俺には、興味すらないってか?金の切れ目が縁の切れ目とは、よく言ったもんだ」
「はっ……!?」
思わず反応を示す私は、言いようのない怒りに襲われる。
あの半年のことを思うと、余計に……。
『愛していたから、貴方の帰りを待っていたんでしょう!』と頭が沸騰する中、恭弥は
「結局、お前も金かよ……」
と言い残して、今度こそ去っていった。
徐々に遠ざかっていく足音を前に、私は歯を食いしばる。
金に汚い女と思われているのが、ひたすら悔しくて……どんな気持ちであの半年を過ごしていたのか、と怒鳴りつけたくなった。
地獄のような日々を全て無に返されたような気分だわ……。
別に『労ってほしい』とか、『償ってほしい』とかは思ってないけど……私の苦労や葛藤を無かったことにされるのは、心底腹が立つ。
悔しさのあまりポロポロと涙を零す私は、その場に蹲った。
「あんな必死になっていた私が、馬鹿みたいじゃない……そうやって全部否定するなら、私の時間を返してよ。今度は半年なんて待たずに、離婚を決意するからさ」
『あの頃に戻りたい』と切に願い、私は強く手を握り締める。
「本当に全部なかったことにしたい……!」
『過去を変えたい』と泣き叫び、私は床に拳を叩きつけた。
その瞬間、スマホから通知音が……。
陽気なメロディに毒気を抜かれる私は、ポケットからスマホを取り出す。
そして通知を確認すると、新着メールが一件届いていた。
『仕事関係かな?』と思いつつ通知をタップし、メール画面へ飛ぶ。
と同時に、目を剥いた。
「えっ?はっ?『逆行しませんか?』って、どういうこと……?」
あまりにもタイムリーすぎる内容に戸惑い、私は瞬きを繰り返す。
『詐欺……?』と一瞬疑ったものの、怪しいURLなどは見当たらなかった。
見たところ、逆行したい日時を返信するだけみたいね……お金や個人情報を要求する文面はないわ。
もちろん、返信した途端そういう文面を送ってくる可能性はあるけど……でも、
「い、一回だけ返信して様子を見ればいいんじゃない?怪しそうだったら、受信拒否すればいいだけだし」
『逆行したい日時を返信したところで、こちらに損はない』と考え、ゴクリと喉を鳴らす。
この上ない不信感を抱きながらも返信画面へ移り、恭弥が失踪した日────ではなく、借金を問い詰めた日を打ち込んだ。
速攻で離婚へ踏み切るにしても、裁判となると時間が掛かるため。
また仕事と家事と裁判に追われるような日々は、嫌だった。
もちろん、同じ状況になれば腹を括るが。
でも、面倒を避けるに越したことはない。
「あとは送信ボタンを押すだけ……」
じっとスマホの画面を眺め、私は一つ深呼吸する。
と同時に、覚悟を決めた。
涙で濡れた頬を拭い、思い切って送信ボタンを押す。
『逆行……出来るかな?』と不安を募らせていると、唐突に目眩がした。
どんどん歪んでいく視界を前に、私は平衡感覚も失っていく。
あっ、これ……本当に不味い。
混濁していく意識の中、私は本気で危機感を覚えた。
────と、ここで全ての感覚が正常に戻る。
「あれ?私……」
クリアになった視界で、私はパチパチと瞬きを繰り返した。
と同時に、異変を感じ取る。
だって、ここは────実家じゃなくて、恭弥と建てた家だったから。
えっ?どういうこと?この家はもうとっくに売却された筈……。
『家具まで以前と同じだし……』と思案しつつ、私はスマホで日付けを確認する。
「令和〇年〇月〇日……私が借金を問い詰めた日だ。じゃあ、本当に────逆行したってこと?」
そうとしか考えられない状況を前に、私は暫し放心する。
が、手に持った借用書に気づくと、慌てて時間を確かめた。
二十三時の少し前……ということは、恭弥が帰ってくるまであと数分しかない!
急いで借用書を隠さないと!あっ、でもコピーは取っておいて……!
証拠として残す必要があるため、私は書斎にある印刷機を使った。
そこで三部ほど借用書のコピーを取り、原本は元の場所へ戻す。
本当は原本ごと確保したいところだが……バレるといけないので、今は手放すことに。
また、コピーは化粧台の中に隠した。ここなら、基本恭弥は見ないので。
『よし、バッチリ!』と考える中、仕事を終えた恭弥が帰ってくる。
今日のところは、いつも通りに振る舞って……泳がせよう。
前回聞いた話の通りなら、浮気しているみたいだし。
証拠を押さえて、サクッと離婚。
慰謝料だって、ふんだくってやる。
『短期決戦で逃げ場は与えない』と心に決め、私は残業帰りの恭弥を労わった。
腹の底から沸き上がる怒りを堪えながら。
『そうやって、笑っていられるのも今のうちよ』と思いつつ、全ての家事を終えて就寝────翌朝を迎えた。
前回の流れだと、恭弥は会社に行くフリして失踪するんだけど……今回は大丈夫な筈。
借金のことはおくびにも出さなかったから。
「それじゃあ、行ってくる」
「ええ、行ってらっしゃい」
にこやかに手を振って送り出し、私はいつも通り鍵を閉める。
と同時に、覗き穴から恭弥の様子を窺った。
駅に向かって歩き出す彼の後ろ姿を見つめ、私はホッと息を吐き出す。
もし、お金を下ろして逃亡するつもりなら反対方向にある〇〇銀行へ行く筈だから。
『そっちの方が近いし、手数料も掛からないもの』と思案しながら、身を起こす。
「さてと、私も準備しなきゃ」
そう言うが早いか、私は恭弥の書斎へ向かい、借用書の位置と貯金通帳の有無を確認。
昨日と変わっていないことをしっかり確かめてから自室へ行き、ヘソクリを引っ張り出した。
浮気の証拠を集める上で、一番手っ取り早いのが興信所に依頼すること。
お金は掛かるけど確実だし、ボロを出す心配がない。
「自ら浮気調査をする手もあるけど、バレたら取り返しがつかないからね。それこそ、また失踪されかねない」
『こういう時の出費は惜しんじゃダメ』と考え、予め調べておいた興信所へ駆け込んだ。
そこで夫の浮気調査を頼むと、しばらくはいつも通り過ごす。
『また借金をしていないか』という不安はあったものの、こちらに返済義務はないためドンと構えることにした。
今週は残業だの出張だの言って家を空けがちだったから、何回か浮気相手と会っている筈……。
調査結果を受け取ったら、直ぐに弁護士事務所へ行って依頼しよう。
短期決戦で挑むなら、交渉のプロを挟んだ方がいい。
『私一人だと、また逃げられるかもしれないし』と思いつつ、まずは興信所を訪れた。
所長だという男性と向き合い、分厚い茶封筒を受け取る。
「詳細は今、お渡しした資料をご覧頂ければと思いますが……概要だけ口頭でお伝えしますね」
そう前置きしてから、スーツ姿の男性はそっと眉尻を下げた。
「まず結論から申し上げますと、旦那様は────特定の女性と頻繁に会っていました」
やっぱり……!!
と言いそうになるのをグッと堪え、私は神妙な面持ちで相槌を打った。
すると、男性はどこか渋い顔をする。
「ただ、その女性というのが────水商売の人間……所謂、キャバ嬢だったのです」
「は、はあ……?」
『それが何か問題でもあるの?』と怪訝な表情を浮かべる私に、彼は若干言い淀んだ。
が、覚悟を決めたように口を開く。
「いいですか?奥様。キャバ嬢との不倫は場合によって────枕営業と判断され、慰謝料を請求出来ない場合がございます」
「!!」
「もちろん出来る可能性もありますが、こちらは判例が割れていまして……また、相手のキャバ嬢に『既婚者だと知らなかった』と言い張られれば仮に慰謝料請求出来たとしてもかなり減額されます」
『お店も嬢を庇うでしょうし……』と述べつつ、男性は目頭を押さえた。
かと思えば、一つ息を吐く。
「ただ、旦那様に対しては可能だと思いますよ。確か、無断で借金を作った証拠も抑えているんですよね?なら、ソレと不倫を理由に離婚・慰謝料請求は出来るかと」
「そう、ですか……」
力無く首を縦に振る私は、ガクリと肩を落とす。
だって、今の恭弥は借金漬け……無い袖は振れないだろう。
『義両親に立て替えてもらえば、あるいは……』と思案しながら席を立ち、男性にお礼を言って興信所を去る。
そして、次に向かったのは前回お世話になった弁護士事務所だった。
『ここの弁護士さんは頼りになるから』と思いつつ、スーツ姿の女性に事情を説明する。
「────という訳なんですが、どうするのが一番いいと思いますか?」
興信所から貰った資料も広げ、私はアドバイスを仰いだ。
すると、弁護士の女性は少し悩んでからこう答える。
「いっそのこと浮気相手への慰謝料請求は諦めて、旦那様一本に絞るのはどうでしょう?」
「えっ……?」
思わぬ回答に眉を顰め、私は頭の中に『?』マークをたくさん浮かべる。
恭弥からの慰謝料など、たかが知れているため。
『結婚してから貯めた二百万くらいしかないけど』と思案する中、弁護士の女性はニッコリと笑った。
「何も資産は貯金だけじゃ、ありません。ちょっと……いえ、かなり性格の悪い手法になりますが、更に多くの慰謝料を見込めます。ただ、そのためには────浮気相手に協力を仰ぐ必要がありますが」
「浮気相手に協力を仰ぐって……そんなの一体、どうやって?」
「簡単です。こちらから慰謝料を請求しない代わりに力を貸してくれ、と申し出るんですよ」
『念書も用意しておくと、より効果的ですね』と言い、弁護士の女性は居住まいを正した。
「確かに水商売をしている方との不倫は、色々難しいです。判例が割れているのも事実。ただ、慰謝料請求を認められたケースだって、ちゃんとあります。なので、あちらも泥沼は避けたいでしょう。ことを長引かせれば、仕事にも影響が出ますから」
『裁判に時間を取られて出勤日数が減るとか』と具体例を述べ、彼女はチラリとこちらの顔色を窺う。
「一人で行くのが不安なら、私も同行しますよ。もちろん、その分の料金は別にいただくことになりますが」
ちょっと申し訳なさそうに眉尻を下げ、弁護士の女性はこちらの返答を待つ。
『一旦持ち帰って考えていただいても構いません』と補足する彼女の前で、私は一つ深呼吸した。
と同時に、顔を上げる。
「分かりました。では、夫との離婚交渉も含めて正式に依頼します」
────と、返事した二週間後。
浮気相手であるキャバ嬢からも協力を得られ、何とか離婚交渉の場を整えられた。
無論、恭弥にはまだ何も言っていないが。
ただ、『もうすぐゴールデンウィークだから、どう過ごすか話し合いたい』と言って、早めに仕事を切り上げるようお願いしただけ。
普通に『話したいことがある』では、変な空気を感じ取って逃げるかもしれないから。
弁護士さんには、とにかく今日中に全てを終わらせたいと言ってある。
そのためだったら多少慰謝料を負けても構わない、とも。
『また裁判するのは避けたいもの』と考えつつ、私は弁護士さんにお茶を出す。
────と、ここで恭弥が帰ってきた。
「ただいま……って、あれ?お客さん?」
『友達か?』と首を傾げる彼は、軽く挨拶して一度自室に引っ込む。
そして、服を着替えると直ぐにリビングへ戻ってきた。
『飯は?』と問う彼をダイニングテーブルに誘導し、一先ず着席させる。
と同時に、私も椅子へ腰を下ろした。
「それで、ゴールデンウィークについてだけど」
「えっ?あっ、うん……って、今話すの?」
『お客さんに失礼なんじゃ?』とやんわり指摘し、恭弥は困ったように眉尻を下げる。
が、いつもと違う私を見て何か感じ取ったのか直ぐに口を噤んだ。
どことなく緊張した面持ちの彼を前に、私はスッと目を細める。
「今年からは別々に過ごしましょう」
「へっ……?」
『訳が分からない』とでも言うように瞬きを繰り返し、恭弥はまじまじとこちらを見つめた。
言葉の真意を掴めずにいる彼の前で、私は離婚届を取り出す。
「分かりやすく言うと、『離婚しましょう』って意味ね」
「はっ……?はぁ!?」
離婚届と私の顔を交互に見てようやく事態が呑み込めたのか、恭弥は勢いよく席を立った。
動揺のあまり目を白黒させる彼に対し、弁護士の女性はスッと名刺を差し出す。
「初めまして。私はこういう者です。奥様より、正式にご依頼を受けて来ました」
「なん……なんっ!?」
弁護士と書かれた名刺を凝視し、恭弥はダラダラと変な汗を流した。
かと思えば、スーツの襟に取り付けられたバッジを見て項垂れる。
恐らく、ニセ弁護士である可能性を疑ったんだろうが……残念、本物でした。
「な、何でいきなり離婚なんだ……?」
半ば放心しつつも何とか声を振り絞り、恭弥は理由を問い質す。
『俺に悪いところがあったなら、直すから』と述べる彼の前で、弁護士の女性はまず────借用書のコピーを取り出した。
「そ、それ……何で……」
「貴方の書斎を掃除している時、たまたま見つけたのよ」
狼狽える恭弥を一瞥し、私は『はぁ……』と深い溜め息を零した。
と同時に、弁護士の女性がトントンとコピーを指で叩く。
「配偶者に無断で、それもこれほどの借金をしているとなれば立派な離婚事由になります」
「なっ……!?」
「しかも、借金の理由は所謂浪費ですよね?家計にまつわることならいざ知らず、それは完全にアウトです」
『有責事由になります』と明言し、弁護士の女性は続いて────興信所の調査資料を広げる。
その瞬間、恭弥はサァーッと青ざめ……倒れ込むようにして、椅子へ座り直した。
キャバ嬢と腕を組んでホテルに入っていく写真が目に入り、『あっ、終わった』と悟ったのだろう。
「また、貴方の場合は単なる浪費じゃなくて不倫も絡んでいます。離婚へ踏み切るには、充分すぎる理由だと思いますが」
「……」
もはや返事する気力もないのか、恭弥は手で顔を覆い隠して項垂れた。
早くも白旗を挙げる彼の前で、弁護士の女性は離婚協議書をテーブルの上に置く。
「こちらからの要求は全部で三つです。まず、速やかに離婚すること。また、離婚後は奥様やそのご実家に一切接触しないこと。最後に、借金や不倫の慰謝料として財産分与は全て放棄し────この家を売って得たお金も全て渡すこと」
「はっ……!?」
堪らずといった様子で声を荒げ、恭弥は僅かに身を乗り出した。
「それだと、俺には一円も残らないじゃないか!むしろ、住宅ローンと借金で……首が回らなくなる!」
不安と焦りでいっぱいになりながら、ゆらゆらと瞳を揺らし、恭弥は取り乱す。
負の財産しか残らない未来を想像し、頭を抱え込んだ。
「それじゃあ、美玲に会いに行けない……!もう金を借りられるところはないのに……!」
美玲というのは、例のキャバ嬢の源氏名だ。
つまり恭弥は離婚で得たお金をキャバクラに注ぎ込むつもりだった、と……。
『まさに真性の馬鹿ね』と呆れる中、弁護士の女性は鞄からICレコーダーを取り出した。
と同時に、再生ボタンを押す。
『……〇月〇日、私は竹内恭弥さんとホテルに行きました。あと、〇日と〇日も。関係は大体、三ヶ月くらい前から……独身だと言われて、つい……』
ICレコーダーから流れる女性の音声に、恭弥は目を見開いた。
かと思えば、弾かれたように顔を上げる。
「み、美玲……」
さすがに好きな人の声は分かるようで、今にも泣きそうな表情を浮かべた。
既婚であることを知られてしまった、と嘆いているのだろう。
まあ、美玲さんは何となく気づいていたと思うけどね。
トラブル回避のために、敢えて指摘しなかっただけで。
『随分と白々しい態度だったし……』と会った時のことを思い返し、私は小さく頭を振る。
女の僻みかもしれないが、何故あんな人に騙されるのか分からない。
「そういう訳で、美玲さんにはもう全部バレているよ。たとえ、離婚太りしても前のようには接してくれないと思う。かなりショックを受けていたから」
後半少し棒読みになってしまったものの、私は打ち合わせ通りに振る舞う。
すると、恭弥は大粒の涙を流しながら『そうか……』と相槌を打った。
「俺は結果的に二人の女性を傷つけてしまったんだな……」
どこか自分に酔っている様子で、恭弥は嘆き悲しむ。
『俺は罪な男だ……』と呟く彼を前に、私は思わず身震いした。
お金への執着がなくなったのは良かったけど、こうも悲劇のヒーローを演じられると……痛い!本当に痛すぎる!
見ているだけで、ゾワゾワが止まらない!
けど、今のうちに手続きを済ませないと!正気に戻ったら、絶対にゴネるだろうから!
共感性羞恥で多大なダメージを受けながらも、私は何とか表情を取り繕う。
『このムードを壊しちゃダメよ、私!』と必死に言い聞かせ、辛そうな素振りを見せた。
「私も正直、とてもショックなの……だから、貴方との婚姻生活はもう終わりにしたい。貴方を見ているだけで、泣きそうになるから……」
「雛美……」
「お互い別々の道を歩んで新しい人生を送りましょう、恭弥」
そう言って離婚届を差し出すと、恭弥は悲痛の面持ちで受け取ってくれた。
「そうか……そうだよな。このままじゃ、お互いのためにならない。俺の心に美玲が居る以上、別れるべきだろう」
「……ええ、そうね」
羞恥心をグッと堪えて頷く私に、恭弥はそっと眉尻を下げる。
「本当にごめんな、雛美……もっと早く、こうするべきだった」
「う、ううん……気にしないで」
私はお金をガッポリ貰って離婚出来れば、それで満足だから!
────とは言わずに、サッと顔を背ける。
すると、その反応をどう捉えたのか……恭弥は自身の目頭を押さえた。
「本当にごめん、雛美……!償いになるかは分からないけど、さっきの条件は全て呑むから!それで新しい人生を歩んでくれ!」
『金ならやる!』と言い、恭弥は離婚届と離婚協議書にサインした。
美玲さんのことを話題に出してから随分と感情的な彼は、
「他に何をすればいい!?」
と問い掛けてくる。
今ならどんな事でもしてくれそうな彼を前に、弁護士の女性はスッと目を細めた。
「では、今から一緒に公証役場へ行って公正証書を作って頂けませんか?旦那様の誠意を確固たる形で、残しておきたいのです」
『正気に戻っても逃げられないようにしておきたい』という本音を隠し、それっぽい言葉で取り繕う。
さすがは交渉のプロとでも言うべきか……言葉選びが上手だった。
『恭弥のツボをしっかり押さえている……』と感心する中、彼は素早く席を立つ。
「俺の誠意を形に残す、ですか。もちろん、構いませんよ。行きましょう」
────という訳で、私達は予め話を通しておいた公証役場に駆け込み、公正証書を作成した。
ついでに財産分与や引っ越しも済ませ、あとは家を売るだけという段階に。
こちらについても、弁護士さんが知り合いの不動産屋を紹介してくれたため、スムーズに行った。
『とにかく、恭弥の目が覚める前に』と迅速に行動し、離婚交渉からわずか一週間で全ての片をつける。
ふぅ……いつ正気に戻るかとヒヤヒヤしたけど、弁護士さんの巧みな話術と段取りの良さで何とか乗り切った。
晴れて独身に戻り、一旦実家へ帰ることになった私は清々しい気分で新生活を送る。
前回と違ってガッポリお金を貰えたため、心は穏やかだった。
本気でお金がなくて困った体験をしているため、余計に。
『これで何かあっても、暫くは安心して暮らせる』と浮かれつつ、資格勉強を始める。
以前は仕事を選ぶ余裕なんてなくて、ずっとパート勤めだったけど、今度こそやりたい職業に就きたい。
昔から密かにバリバリのキャリアウーマンになることを夢見ていた私は、自室でひたすら参考書と睨めっこ。
────そんな日々が一年半ほど続き、ようやく資格を取れた。
と同時に、恭弥から連絡が……。
『美玲は金に汚い最悪の女だった。俺から、巻き上げるだけ巻き上げてポイ捨てしたんだぞ?』
『その点、雛美は倹約家で俺のために色々してくれたよな?』
『最近それを思い出して……その……虫のいい話かもしれないけど、もう一度家族になりたいって思っている』
『今度こそ雛美だけを愛し抜くから、俺のところに戻ってこないか?』
まさかの復縁要請を前に、私は一つ息を吐く。
そういえば前回もちょうどこのくらいの時期に接触してきたな、と思い返しながら。
美玲さんにそのうち振られるのは分かっていたけど、またこっちに擦り寄ってくるとは……。
離婚の時に交わした約束をもう忘れたのかな?
それとも、浮気されて傷ついた妻を演じたから?
まだ俺に気があるかも、とか思っている訳?
スマホに表示されたライムのトーク画面を見ながら、私はやれやれと頭を振る。
────と、ここで追加のメッセージが届いた。
『あっ、そうだ』
『離婚のとき渡した金は、まだ残っているよな?お前は美玲と違って、無駄遣いしないもんな?』
『再婚する時はソレで、美味いもんでも食おうぜ』
もはや復縁は決定事項なのか、恭弥は再会する日程や入籍の時期について話し始めた。
こちらから、一切返信はしていないというのに。
『どういうメンタリティで送ってきているの?』と思いつつ、私はキーボードをタップする。
『申し訳ありませんが、再婚するつもりはありません』
『はっ?何で?今度こそ雛美だけ見るって、言っているだろ』
『そういう問題では、ありません。私はもう貴方に気持ちがないのです。あと、これ以上メッセージを送ってくるなら、公正証書の通り違約金を請求します』
今頃、経済的に困窮しているであろう恭弥に違約金を支払う余裕はない。
だから、これで引き下がる筈。
『チッ……!お前も結局、金かよ!美玲同様、汚い女だな!もう二度と俺に近づくなよ!』
『言われなくても、そのつもりです。あと、先程ちゃんといいましたよね?“これ以上メッセージを送ってくるなら、違約金を請求します”と』
『すみません。違約金の請求だけは勘弁してください。もう本当にお金がなくて……このメッセージを最後に、二度とそちらに関わりませんので一度だけご容赦を』
驚くほどあっさり白旗を上げる恭弥に、私は呆れ返る。
と同時に、かなり困窮していることを悟った。
前回と違って、会社は辞めてないからそれなりの生活を送っていると思ったのに。
もしかして、離婚後もどこかから借金して美玲に貢いだのかな?
でも、離婚交渉の場ではもう借りられる場所がないって……
「まさか、ヤバいところから借りたんじゃ……?」
かなり自分に酔っていた様子の恭弥を思い出し、私は『あの状態なら、闇金にも手を出すだろう』と考える。
それくらい、尋常じゃなかったから。
会社の給料だけじゃ首が回らなくなってきて、こっちに擦り寄ってきたのね。
全く……金に汚いのは、どっちなんだか。
『こうなったら、自己破産するしかないだろうな』と思いつつ、私はキーボードを打つ。
『分かりました。今回は見逃します。ただし、こちらの連絡先は全て削除してください』
『あっ、返信は不要です』
『それでは、お元気で』
言いたいことだけ言って、私は即刻ブロック&着信拒否した。
恭弥が素直に連絡先を消したかどうかは分からないが、これっばかりは信用するしかない。
バックアップとか、手帳にメモとか考え始めたらキリがないから。
何より、これ以上恭弥とやり取りを続けるのが嫌だった。
出来れば、スマホごと買い替えたいところだけど……
「あのメールが届かなくなるかもしれないから、躊躇っちゃうのよね────って、前回メールを受信した日はもう過ぎているんだけど」
『逆行しませんか?』という文章から始まるあのメールを思い返しながら、私は嘆息する。
新着0件のメールボックスを見やり、自室のソファへ腰を下ろした。
せめて、お礼を言いたかったのに……まさか、メールが送られてこないなんて。
「アドレスをしっかり覚えておけば、良かった……そしたら、こっちから接触出来たのに」
『文面ばかりに目が行っちゃったのよね……』と肩を落とし、私はソファの背もたれに身を預けた。
と同時に、スマホを持ち上げる。
「多分、この呟きはそちらに届いていないでしょうが、これだけは言わせてください────本当にありがとうございました。過去に戻ったおかげで、あの半年間をなかったことに出来ました。それどころか、ガッポリ慰謝料も貰えましたし……やり直すチャンスをくださった貴方には、感謝しかありません」
ふわりと柔らかい笑みを零し、私はギュッとスマホを抱き締めた。
「恐らくないとは思いますが、奇跡的にアドレスを思い出せたら必ず連絡します。そのときは『うん』だけでもいいので、返事をしてくれると大変嬉しいです」
この世界のどこかに居る恩人を思い浮かべ、私はスッと目を細める。
と同時に、連絡出来た場合の光景を……明るい未来を思い描いた。




