猫か定規か
※ この作品はフィクションであり、いかなる意見を支持するものでもありません。
いつから、この仕事を始めたのだろう。
覚えていないのは、きっとどうでもいいことだからだ。
その日、私のもとへ運ばれてきたのは、一匹の猫と、一本の定規だった。
また、この時間なのだ。無機質な機械音声が告げる。
『猫と、定規。いらない方を、選んで下さい』
そうして、私の仕事は始まった。
猫。愛玩動物の一種で、無邪気で自由奔放で、それでいてどこか高貴で、そんな見た目が大人気だ。古代には猫を神聖視する文明もあったらしい。まだ効果は不明だが、アニマルセラピーに有効かもしれないとも言われている。
一方で、被害もないわけではない。ひっかきや噛み付きでは最悪、傷口から侵入した雑菌で人間が死ぬ恐れがある。また、猫アレルギーという体質の持ち主も多くいる。
定規。主に直線を引いたり、距離を測ったりするときに用いる道具だ。これがなければ、建築など様々な作業ができなくなる。現代文明を維持する事は不可能だろう。
他のもので代用できればいいが、メジャーでは長さを測る事しかできない。コンパスでは直線は描けない。どうにも替えのきかない代物だ。
「猫です。動物である以上、その飼育には一定のリスクが伴います。猫をかたどったロボットを制作し、それに置き換えるべきでしょう」
『15番。提案は了承されました。お仕事お疲れ様です』
そうして、猫が連れていかれた。別れ際に、寂しそうに鳴いた。
私の手元には、一本の無機質な定規が残る。
「さようなら……クロ」
私に良くなついてくれた、毛並みの綺麗な黒猫だった。もう二度と、会うことはないだろう。
「10番、こんな所にいたんですね。また、難しい本を読んでいますね……」
「おつかれ、15番。今日もよく眠れた?睡眠は大事よ」
彼女は、同僚の10番。私と同じイリミネーターの仕事をしている、たった一人の親友だ。イリミネーター達は、たいていこの図書館で休憩時間を過ごしている。
「今日は、あの猫を見かけないわね。屋上で日向ぼっこしてるのかしら?」
「クロは……『消しました』。明日からは、餌も必要ありません」
「――そう。今日は、ゆっくり休んだらどう」
「そうします」
つい最近まで10番が読んでいた本は、戦争についての本だった。なんてタイトルだったっけ……思い出せない、でも、分厚い本だったことは覚えている。半分も読み終わっていなかったのだから、きっと彼女も『消して』しまったのだろう。質問は……戦争か、平和か。そんな所だろうか。
代わりに今の彼女の手元には、『次世代型発電機を創る』という本がある。
「それにしても、ここの図書館、もの凄く大きいよね。床で寝っ転がれるからいいんだけどさ、もっとたくさんの本が入れられそうなのにね」
「あの棚なんて、空っぽですものね」
「だよねー。あの中の何冊、私たちで消しちゃったんだろうね」
そして、これから何冊消していくのだろう。
物が大量にあふれかえり、ゴミ問題が声高に叫ばれる社会。イリミネーターという職業は、そんな現状を解決すべく生み出された職業であるらしい。
いらないものを判断し、それを排除した生活を自ら実践する。とりわけ効果が有ったものは、社会でも排除を実践するそうだ。
実際、イリミネーターを採用してから、社会は大きく変わろうとしているらしい。
全て『らしい』なのは、私がイリミネーターになってから、一歩もこの職場を出たことがないからだ。
外の様子を知らせてくれる人も、もういない。
あの日は、珍しく三つのうち二ついらないものを選ぶ日だった。
『母親と、弟と、恋人。いらないものを、二つ選んで下さい』
私はその日、珍しく半日も考え込んだらしい。
「女性にとって、妊娠・出産は大きな負担になっています。また、父親も同じですが、育児のプロでもない人に育児を任せるのは多大な労力を消費させます。これらはすべて、機械や保育士に任せてしまうべきでしょう」
「現在ではVRが進化し、誰もが『理想の恋人』を作り出すことができるようになっています。これによりパートナーとのすれ違いや決裂、または失恋や浮気などのリスクを回避することができます。いまや、恋人という役割を他人に背負わせるべきではないでしょう」
そうして、母親と恋人が連れていかれた。よく面会に来てくれたが、この日からはメッセージ一つすら送られなくなった。
その日、私は泣き叫んだらしい。
唯一『消されなかった』弟は、翌日、面会に来てくれた。そこで私は、彼に絶交を突き付けられた。自分の育ての親を見捨てる意味が分からない……そう最後に言われた。
その日には、私はもう泣くことも叫ぶこともできなかったらしい。
『15番。新たな仕事です。至急、○×号室までお越し願います』
「またね、10番。本、早く読み終わるといいね」
「バイバイ、15番。また、ここで会おうね」
手を振り合うと、私は○×号室まで向かった。珍しく、中にはいつも通りの机と紙とペンしかなかった。いつもはここに、消すかどうか決めるものが入っているのだが。
『今回は、候補となるものが大きすぎるため、想像で補ってもらいます』
部屋に入ると、また音声が告げた。
『男性と、女性。どちらがいらないか、選んで下さい』
私は一瞬、凍り付いたように固まった。
何を言っているのだろう、これは。噓であってほしい。
そんな判断を、私にしろというのか。
『判断猶予は24時間です。24時間後も回答がない場合、強制的に回答させます』
音声が無機質に迫りたてる。私はこれを、明日までに答えなければならない。
イリミネーターには、偶にこのような答えのない問いを答えさせられる時がある。思えば、先程の猫と定規も答えのない問いだったのかもしれない。いつからか、その境界線は私の中であいまいになり、何もかもに捨てる選択肢を見出してしまうようになってしまった。
「いらないなぁ、私……」
でも、10番はそうではない。私の唯一の親友を、失いたくない。イリミネーター達は精神を病みやすいらしく、ほとんどは一年もたたずに消えていく。五年以上残っているのは、私と彼女の二人きりなのだ。
では、男性を消すことを選ぶべきなのか。それも断じて違う。縁は切れてしまったけど、私にはまだ弟がいる。失いたくないものを二つも失って、そうして守ったもの。今更失うとしたら、私は何のためにあんな選択をしたのか分からない。
無理だ。この問題に、答えなんて有りやしない。どうすれば……
「……そっか」
死のう。
そうすれば、私は回答できなくなる。この問題に答える必要はなくなる。
そこまで考えて、私はその考えを捨て去る。
死ねない。死ぬのが怖い。
なのに、一度死を考えてしまうと、その考えが頭の中を覆い尽くしていく。
助けてほしい。苦しい。気が狂ってしまいそう……
そのとき、私はとあることを思い出した。
過去に何度か、10番から薬を処方してもらったことが有る。彼女はもともと薬剤師だったらしく、そういうことには驚くほど詳しい。
私が不眠症になったときは、睡眠導入剤を処方してもらった。かなり慎重に服用しなければならないらしく、毎日彼女の所で診察してもらうことになった。10番は私の不眠症の原因に精神的な疲れが有ると考えたらしく、その日からカウンセリングも受けるようになった。
あの時間がなければ、とっくに私は自殺を選んでいただろう。
そんな10番から、「どうしても辛くなったときだけ」服用するといい、そう言われて預かった薬が有るのを、私は思い出していた。ならば、これを……
翌日、目が覚めた15番は、朝一番に問いに回答した。
「男性と女性、両方ともいりません。いえ、正確には、『性別』という概念そのものがいらないのです。私たちが知的生命体としての本分を全うするにあたって、生殖は不要な負担です。更には、性別が存在することによって、異なる性別間での対立、そして差別が発生しています。私たちは人間の肉体そのものを改造することによって性別を無くし、真の平等を実現すべきでしょう」
提案は了承され、すぐさま彼女は肉体に手術を受けた。
そのとき判明したことだが、彼女は10番と同様に、『心』を失っていた。前日に彼女が服用した、薬の効果によるものだった。
イリミネーターの大半は精神を病み、自殺するか、15番の様に感情を失ってしまう。だが、それでは職場としてあまりにも見栄えが悪すぎる。
だから15番がイリミネーターに選ばれたのは、彼女が『作り笑いが得意』だったからだ。今日も15番は、大半のものが失われた図書館で、黒い猫型ロボットにいらない笑顔を振るまっている。
猫か定規か -fin.-
お読み下さり有難う御座います。Latticiaです。
今回は珍しく死亡したメインキャラクターがいなかった、と思っていたら、猫がいなくなってしまっていました。私は猫が大好きなのですが、申し訳ない事をしました……。
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