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学芸員と珍獣

作者: 藤原有理

 ここは、とある田舎町「葛沼市」にある「市立化石博物館」の事務室である。この博物館は、市内を中心に発掘された古生代の生き物たちの化石を中心に、その他諸々の年代の化石やレプリカを揃えて展示している。入場料は無料。

 学芸員の古代こだい 賢治けんじは、次の企画展に備えて展示物やら展示内容の準備をしていた。市の職員である館長や副館長、そして事務スタッフはとっくにあがっており、彼一人が黙々と作業を行っていた。もともと研究職あがりである賢治にとって、これらの作業は全く苦にはなっていなかった。

 しかし、流石に腹が減ってきた賢治は、冷蔵庫をあさり始めた。この事務室の冷凍庫は、開けてはならないことになっている。何故なら、解剖用のクマの目玉やら動物の臓器が冷凍保存してあって、異臭を放つからである。つまり、どんなにクソ暑い夏でも、化石博物館スタッフはアイスクリームを保存することができないのである。

 賢治が冷蔵庫の奥から秘蔵の梅干し…ボランティアスタッフのおばあちゃんが毎年くれるやつ…のパックを取り出して、条件反射により涎がじゅわっと口いっぱいに広がらせていたその時の出来事だった。

 突如、どこからともなく奇妙な音が聞こえてきたのだ。何かを絞り出すようなギュルルルルル、グルルルというかなり大きな音が、事務室のどこかから聞こえてきた。そして、がさがさ、何かが擦れる音がする。

 賢治はびっくりして口の中に溜まっていた涎を全て床ぶちまけてしまった。そして慌ててティッシュで拭き取った。この時、自分一人でよかった、と思ってしまったくらいの失態であった。幸いなことに、梅干しのパックはしっかりと手に握っていたために無事だった。

 謎の音は徐々に激しさと頻度を増す。ギュルルルルル、グギュルルルルルル、プピー、ギュググググ、グギュルルルルルルル・・・・。ガサゴソ ガサゴソ ギュルルルル。

 賢治は恐ろしくもなったが、同時に湧き上がる好奇心に勝てず、音の正体を確認する為に音源を探って部屋の中を慎重に歩き回った。どうやら部屋の隅のようだ。耳を澄ませると、段ボールが積まれたあたりから音が聞こえてくる。彼は恐る恐る、一番上の段ボールを開封した。ここには確か昨日届いたばかりの未開封の荷物を積んだ筈である。

 箱を開けるや否や、音が激しく外に飛び出てきた。音源はどうやらこの箱で間違いないらしい。恐る恐る、中を覗いてみる。何か、白いもこもこした塊が上に覆いかぶさっている。座布団?いや、モップか?いずれにせよ、そんなものを発注した覚えはないのだった。

 丹念に毛皮の塊を探る。何か顔がついているようにも見えるが、干からびていてミイラのようである。剥製を頼んだ覚えもなかった。業者からのサービス品だろうか。しかしこれといった説明書きは付されていなかった。

 音の正体はこの謎の毛の塊の下からだろうか?それより究極に腹が減ってきた賢治。いったん作業を中止し、白米の詰まった弁当箱をカバンから取り出すと、パックの梅干しを2,3個のせてデスクに戻った。そして冷蔵庫に梅干しのパックを戻そうと席を外した。

 ついでにコーヒーも淹れようと流し台のあたりで準備をしていた時だった。突如、「ガタン!!!」と何かが倒れる音がした。賢治は驚いて音のした方向に振り返った。一瞬だけ、何か白いものが見えた気がした。

 デスクに戻ろうとして異変に気付く。積み荷が崩れて床に散らばっているのと、デスクに置いたはずの彼の弁当箱の中身が消えている。梅干しだけが何故か残っていた。少しだけかじられた形跡がある。ネズミの仕業にしてはダイナミック過ぎる。妙だ。

 突如、「げーぺっぺ!クキュン!クキュン!」と妙な甲高い鳴き声が聞こえた。足元からか。賢治はデスクの下を覗いた。一瞬、もこもこした白いものが蠢いたのが見えた。もしや……。

 彼は、先ほど開封した箱を調べた。荷崩れして倒れていて、中身が床に散らばっていた。彼が博物館の販売アイテム作成用に発注したアンモナイトの化石や腕足動物の化石の入った小袋、それらを保護する梱包用の発泡スチロールの塊…そして、上に乗っていた謎の毛の塊、何かの生き物の剥製だと思っていたそれが見当たらなかったのである。

 賢治は、屈みこむとデスクの下を恐る恐る見た。刹那、爛々とグリーンに輝く双眸と目が合った。それは純白のもふもふした毛足の長い毛皮に包まれており、先ほど見かけた干からびた剥製のような生き物とそっくりだった。間違いない。先ほど見た“剥製っぽいもの”は生きていたのだ。そして、今現在、彼のデスクの下より此方の様子を伺っている。


「キュウ!」


 突如、その生き物は甲高い声を挙げた。じっと賢治の方を見ている。何かを言おうとしているかのようにも思えた。

 彼は、謎の生き物をじっと注意深く観察した。4本脚の先には蹄がついている。偶蹄目のようだ。しかし、目はネコ科の生き物のように正面についている。牙が出ている訳でもなさそうだ。前歯がついている様子もない。耳や角も見当たらない。尻尾は長くモフモフしている。なんだ、この犬だか猫だか羊だか分からない謎の生き物は。少なくとも地球上にこのような生き物が生息しているという前例はない。新種か?それとも長年にわたる環境汚染の産物である奇形種か?見たところ、体躯の様子からして凶暴な生き物ではなさそうである。


「キュー? キュンキュンキュン キュー?」


 やはりその生き物は、彼に何か伝えようとしているようだ。しかし何を言わんとしているのか不明である。一か八か、彼はその生き物に話しかけてみる事にした。


「君は何物なんだい?そしてどこからどうやってここに来たんだい?」

「キュン!キュンキュンキュン キューン キュン!」


 謎の生き物はしきりに何かを話しているかのようだった。万一その生き物が人語を解しているとしても、いずれにせよそれを判断する事は現段階では不可能なのだった。なんせ、生き物が何を言わんとしているのかを賢治が理解できないからだ。


がちゃ!


不意に事務室のドアが開いた。背の高いスラリとしたスーツ姿の男がコンビニの袋を下げて入ってきた。整った顔立ちのその男は、爽やかな笑みを湛えて賢治に挨拶をしながら事務室にスタスタと入ってくる。


「ちーっす!ケンちゃんまだ頑張ってると思って。案の定まだ居たし。」

「あ、キラリン!おつおつ。 実はさー。」


賢治はある意味ほっとした。彼ならひょっとしたら、この生き物との対話ができるかもしれない。この男は「我部がぶ 梨絵瑠りえる」。あまりにキラキラネーム過ぎる為に、博物館スタッフやボランティアスタッフたちからからかわれて「きらきら君」とか「きらりん」などと冗談で呼ばれたのが、このニックネームの由来である。

 彼は非常に謎の多い男だ。国立大学にて博士号を取得という高学歴でありながら、高学歴ゆえに就職面で非常に苦労をしてきている男だ。その結果、様々な経歴を持ち合わせている。そして現在は地元の高校の非常勤に落ち着き、この博物館の解説ボランティアを務めている。専攻は物理のようだが、何故か小学校の教員免許も持ち、休日や早帰りの日に来客に展示物の解説をしてくれている。

 この梨絵瑠の最大のミステリーは、謎過ぎる超能力をあれこれ持ち合わせている事である。この謎の生き物との対話の成立を彼に賭けている部分もそこにあった。彼には通常の人に見る事のできない存在が見え、彼らとテレパシーを通じて対話する事ができた。それは幻覚でも幻聴でもなく、まして統合性失調症という病気による諸症状でもなく、れっきとした彼の特殊能力であった。

 無論、通常の人にそのような事を話すと「病気だから病院に行け。」やら、「統合性失調症じゃないの?」と言われる訳で。教員という立場上もあるが、そのような扱いをされる事を非常に嫌っている彼は滅多に自分の能力について人に話すことはなかった訳である。

 博物館絡みで少々霊的な現象によるトラブルが多発し、スタッフが頭を抱えていた事件が少し前にあった。その時に彼が件の能力にてトラブルを解決して以来、関連者の間では彼の能力についてひっそりと共有することになった訳である。

 その梨絵瑠は、賢治に「キラリン」と呼ばれるや否や、肩を竦めて苦笑した。


「キラリンって言うなよなァ。で、どした。何か手伝う事でもあるんかね?」

「いや、実はその……」


 賢治は梨絵瑠にデスクの下を見るよう視線で促した。きらりんこと、梨絵瑠は指示された方を屈みこんで覗いた。


「キュー… キュキュ―……」


 謎の生き物は少々縮こまって恐る恐る彼らを見返した。突然、梨絵瑠は可笑しそうに腹を抱えて笑いだした。


「えっ、なになに!?」


 突然の事に、状況が呑み込めず賢治はあたふたとした。梨絵瑠は肩を竦めて賢治のほうを見ると再び笑った。おずおずと、謎の生き物はデスクの下から這い出てきた。そして、梨絵瑠の足元にちょこんと座ると彼の顔を見上げた。


「ああ、コイツな。“腹減って干からびかけてて、限界で、食えそうな物があったから盗み食いしちゃった”、と言ってる。で、怒られるんじゃないかなって思ったらしい。おまけに、“自分が変な生き物だから保健所につれていかれるか解剖されないかなって不安だった”と言ってるぞ。確かに変な生き物だな。可愛いけどな。」

「なるほどな…。確かに僕の弁当を食われた。梅干し以外。でも怒ってもいないし、保健所に出すやら解剖やら、する訳もない。する理由もない。それ以前になんとか対話ができないかな、と思っていたところに君が来たわけだ。助かったよ。」


 謎の生き物は彼らに敵意がない事が分かった為なのか、ファーとあくびをしてから後ろ足で頭を掻いた。そして、めざとくも梨絵瑠の持っているレジ袋に視線をやった。もっと何か食べ物ないのかな、という思いが言葉が通じずともヒシヒシと伝わってくるのであった。あまりに視線がレジ袋に集中しすぎて、袋が破れそうな勢いでもあった。そして、件の生き物の腹がギュルルルルと鳴った。


「しょーがねえな。ちょっとだけだぞ。俺も腹減ってんだ。今仕事終わって帰るとこだったし。ケンちゃんへの差し入れはあげられねーぞ。俺のを一口だけだからな?」


 そう言うと梨絵瑠は、レジ袋より焼きそばパンを一つ賢治のデスクに置いた。そして袋に入った残りのパンの袋をあけると、パンをちぎって謎の生き物に差し出した。


「きら君有難う。ご馳走様。」

「キュン!」


 賢治がお礼を言い終わらないうちに、謎の生き物は梨絵瑠の差し出したパンの切れ端に飛びつくとペロリと平らげた。そして礼儀正しく梨絵瑠の足元にちょこんと座るとぺこりとお辞儀をした。


「うわ、こいつ超賢いな。可愛いなーぁ。分かってたら、もっとパン買ってくれば良かったなぁ。」


 梨絵瑠は屈みこむと謎の生き物の頭をわしゃわしゃと撫でた。それは目を細めると嬉しそうに上を向いて梨絵瑠の足に頭を擦り付けるようにしてじゃれた。

 賢治は梨絵瑠の差し入れの焼きそばパンを齧りながら、その光景を微笑ましげに見ていたが、思い出したようにパンをちぎると件のUMAの足元に置いた。それは、嬉しそうに焼きそばパンの端切れに飛びつくとペロリと平らげた。


「キュン!キュンキュン!」


 謎の生き物は、嬉しそうに2,3回飛び跳ねると、賢治に向かってぴょこんと元気よくお辞儀をした。


「おお、かわええな、こいつ。雑食なんかな。」

「キュー、キューン キュー。」

「ああ、基本何でも食べると言ってるぞ。但し、”さっきのしわしわでしょっぱくて酸っぱい変な赤い物体は好まない”、って言ってる。」


 「赤い変な物体」とは、まさに梅干しの事である。歯形のついた梅干しが無残に転がっているままなのに気づいて、賢治はこっそりそれを拾ってティッシュにくるむとゴミ箱に捨てた。

 梨絵瑠の話によると、この謎の生き物はアンドロメダ系の銀河文明から来たそうだ。散歩をしていたら美味しそうな匂いがしてきたので、ついつられて変な車に入ってしまったら巡り巡って(※紆余曲折、とのこと。)箱詰めされて気づいたらここにいた、という事らしい。その紆余曲折の途中経路がとても気になるところではあるが、よほど怖い想いをしたのであろう。その生き物がそれ以上語ることはなかった。否、何も外部が見えない状態に常時置かれていて、途中経路が分からなかった可能性もある。そのあたりはこれ以上気に留めない事にしよう。

 そして気になるこの生き物の種であるが、地球の日本語に対応させると「わたもこ種」という種の生き物という事が分かった。愛玩動物の類であるそうだ。人に飼われており、「モフ」という名で呼ばれている事も分かった。どおりで人懐こい訳である。非常に好奇心旺盛であるが、同時に食欲も旺盛であった。

 突如、梨絵瑠が賢治に切り出した。


「あのさぁ。こいつと直接会話出来たほうが、ケンちゃんにも便利だし、俺もいちいち言ってること通訳する手間省けていいんだよなぁ。」


 賢治は怪訝そうに首を傾げた。


「と、言われてもさ。誰もがきら君みたいにテレパシーできる訳じゃないんだぞ。できるならやってみたいものだぞ。」


 ふうん、と梨絵瑠は肩を竦めて頷くと楽しそうに笑った。


「じゃ、かなえてやるよ。」

「………へっ!?」


冗談めいた梨絵瑠の表情は突如、一変して真剣そのものになる。低い声で、囁くように言うと、大きく目を見開いて賢治の額を射抜くような鋭い視線を向けた。


「………… ヘブンズアイ!」

 

 刹那、賢治は脳に強い衝撃と眩暈を覚えて小さく唸った。同時に一瞬だけ視界がホワイトアウトしたが、すぐに正常に戻った。


「きら君一体何が……。」

「うん。………まあ、そゆことだ。」

「どういう事………アッ。」


 突如、賢治の脳に直接声が響くような感覚に見舞われて彼は小さく叫んだ。それは甲高い小さな子供の声のような、アニメ声に近いようなものだった。


《 キミ、変な能力持ってるんだね。僕、さっきの“ぴかー”っていうの見えたよ。 》

《 お前も十分変わっているじゃないか。なんで俺の力が見えたんだ?普通はこれ、見えないぞ。 》

《 うん、なんでだろうね。僕が宇宙人だから? 》

《人じゃねえだろ、お前。》

《 宇宙動物!うん、ぼく宇宙動物! 》

「えっ、えっ、えっ!?ちょっと一体何が!?」

《 ほれ、ケンちゃんも参戦しろや。話しかけたい内容を相手に向かって念じるだけでいいんだよ。頭んなかであれこれ独り言を言う時あるだろ?自分の中で色々考えてる時とかさ。それを相手に向かってやるだけだよ。 》

「えーと………。うーんと………。」

《 考えるな。感じろ。 》

《 これだから研究職って頭が堅いの多いんだよね。僕の飼い主もそうだよ。 》

《 失敬な。俺も、かつては研究職だった。しかし、頭やわーらか! 》


 それにしても何が起きているのかチンプンカンプンだった賢治は、半ばヤケクソ気味に思いついたワードを念じた。


《 チャーシューメン!!!!! 》

《 ケンちゃん、やればできるじゃん。っていうか何、その…食べたい訳?いくら何でも話に脈絡なさすぎだろ。わははははは。今度お互い早く上がった時食べに行くか? 》

《 僕のいた惑星にね、かつてチャーシューリキっていう格闘家がいたんだよ。響きが似てるよね。 》

《 美味そうな名前の格闘家だなぁ。体型がまんまハムだったらどうしよォ。 》

《 はむ? うまそう? ってことは、食べ物? 僕、地球の食べ物、気になるな。 》


 一方で彼らの話についていけない賢治は、目を白黒させたまま意味もなくボールペンをコピー用紙の裏に彷徨わせている。その様子に気づいた梨絵瑠は慌てて話を切り替えた。


「おっと、ごめんごめん。ケンちゃんの作業を止めちゃったかな。じゃ、俺はモフを館内に案内してくるわ。頑張れー!」

「あ、うん。いてら~…。」


 梨絵瑠はひらひらと軽く手のひらを振りながら背を向けると、モフを促しつつ事務室を出た。事務室の外には展示物が陳列されていた。閉館後の夜の博物館はどことなく不気味ではあったが、臆する事もなく彼は展示物が見えるように最低限の電気を点灯しに行き、突然の珍客に対しても通常通りに展示物の案内を兼ねて解説を行った。


《 ようこそ、葛沼化石博物館へ。入口からご案内致しますね。こちらへどうぞ。 》


 まずはモフを博物館の入口付近まで誘導する。無論、入口はとっくにシャッターが降りて外部から人が入れないように施錠してある。モフは興味深そうに周囲をきょろきょろしながら梨絵瑠の後をついていった。


《 閉館後の博物館って初めて入ったからドキドキするよ。 》

《 いやむしろ俺は、妙な生き物が突然紛れ込んだからドキドキするぜ。 》

《 妙な生き物とは失礼な。れっきとした愛玩動物だよ、僕は。ぷんぷん。 》

《 これは失礼。では、ご案内しますね。当館の全体的な配置について説明させて頂きます。まず入口入って左方向に順に進んでいくと、常設展示を一覧できます。展示物は地質年代の古い順から新しい順へと展示されています。 》

《 ちしつ ねんだい? 》

《 「岩石や化石などの証拠に基づいて決定される、地球の過去の年代」という意味の言葉だよ。古生代、中生代、新生代と陳列されてる。まあ、地学の専門用語と実際の年代が分からなければそこの柱に説明のポスター貼ってあるから見てみるといいぞ。今からだいたい何年前が●●生代に該当するかっていうのが分かるからさ。 》

《 覚えても、決してテストに出ないやつだよ。 》

《 違いねえwww。まあ、帰った時に、ネタにはなるわな。 》

《 地球の地学、トリビア知識―! 》

《 そうそう。あ、因みに展示物の説明プレートに手のひらのマーク書いてあるやつだけど、触って良い化石だからな。展示物触れる博物館なんてレアだぜ。心行くまでぺたぺた触っていくと良いぞ。 》

《 普通は見るだけだもんね!凄いやー!ルクス君…あ、僕の飼い主さんね。見せてあげたかったなぁ。触れる展示物とか興奮しちゃうね!あーどうだろう、あの人、数式のほうが好きだから「ふーん」って言って済まされそう…。 》

《 なんだ、おまえんとこの飼い主さん、理系か。その話からすると理論系っぽいな。俺もかつてはそうだったけどさ。色々と視野を広げるとまた、楽しいものだぞ。フィールドワークとか、結構おもろいぜ。化石採集行ったり、地質の調査に行ったりとかさ。 》

《 へぇ。ワイルドだねぇ。ルクス君、虫が出るから嫌だとか絶対文句言いそうだよ…。引きこもってゲームしたほうがましとか絶対言いそう。 》

《 化石採集は、博物館のイベントで年に何回かやってるんだけどね。一般の参加者応募して、バスで実際の石灰の採掘場に行くんだぜ。虫ねぇ…、蚊がうざいくらいで石灰岩採集する場所は危険生物とか殆ど出ないから安心だぜ。ハンマー振り回して石灰岩削り取るから、体力ないと辛いかもしれんが。 》

《 はんまー、 武器! 》

《 おっと、脱線しすぎたな。展示物、案内案内っと。モフ、こっちだ。そこのぶちぶち模様の岩、触って良いぞ。 》

 

 梨絵瑠はモフに、大きな灰色の岩を示した。表面は磨かれて光沢がかかっており、白っぽい小さな楕円模様が犇めいているのが見えた。モフは身を乗り出して謎の物体を見入った。恐る恐る蹄の先で岩をつついてみた。


《 このぶつぶつの白い模様、なあに?結晶? 》

《 ふっふ、これが「フズリナ」という古代生物だよ。アンドロメダに同じのがいたかは分からないけどな。 》

《 フズリナっていうんだ?この白いブツブツひとつひとつが生き物なの? 》

《 そう。これは単細胞生物…つまりこのブツブツのひとつひとつが一個の細胞であり、一匹の生き物だったって事だよ。おもろいだろ。ゾウリムシとかアメーバーも単細胞生物だけど、こいつも単細胞生物な訳。まあ、殻を持ったアメーバーみたいなイメージをしてくれると分かりやすい生き物だな。 》

《 細胞ひとつひとつって小さいから顕微鏡でしか見えないイメージあったんだけど、面白いね。だって、肉眼でこんなに大きく見えるし、穀物の粒みたいだもん。 》

《 おもろいだろ。ショーケースの中に、フズリナだけぼろっと取り出した…というより岩からもげたのがあるけど。シャーレの中に入ってる奴な。米粒みたいだろ。「コメツブイシ」とも呼ばれてるんだぜ。 》


 そういうと梨絵瑠は巨大な石灰岩の傍らにあったショーケースを指した。ガラスに鼻づらを押し当てて唸っているモフに気づくと、彼はモフを抱えて、物が見える位置に持ち上げた。


《 見えるか? 》

《 ありがとー!なんか雑穀みたい。うっかり食べちゃいそう。 》

《 そりゃいいんだが、お前、見た目よりずっしり重いんだな…。ちょっと疲れた。 》


 梨絵瑠はモフを床に降ろした。モフはぱたぱたと嬉しそうに尻尾を振りながら、フズリナ入りの巨大な岩を肉球でぺたぺた触ったり、鼻づらを押し当てて臭いをクンクンした。


《 色んな人のニヨイがするよ。 みんな触るからだよね。あっ、よく見ると模様が違うよ。 》

 

 梨絵瑠はモフの思わぬ発見に、嬉しそうに頷く。


《 お前、鋭いな。そう。フズリナはよく見ると断面の模様が違うのがあるだろ?実はこの模様によって種類が色々あって、5000種はいるって話だ。 》

《 奥が深いねー、フズリナ。今でもどこかに居たりするの? 》

《 いや、絶滅して現在はどこにも居ない。フズリナは、古生代で絶滅してしまった生き物なんだよ。 》

《 そっかぁ…。残念だなー。 》


 モフは残念そうに俯くが、すぐに興味を引くものを見つけて尻尾をパタパタ振った。


《 ねえねえ、こっちのげじげじした変な虫の石はなに? 》

《 これは「三葉虫」という生き物の化石だな。ダンゴムシみたいな生き物で、危険を察知すると丸まって身を護るやつ。これも古生代で絶滅した種だよ。フズリナや三葉虫は古生代で絶滅してるだろ。つまり、こいつらが出てきたら、その地質年代は古生代だという事が逆に分かってしまう。こういう、年代を特定できるような目印となる化石を、「示準化石」っていうんだぜ。 》

《 ふむふむ…。化石って奥が深いんだねぇー。 》

《 他にもレアもの色々展示してあるんだぜ。後で紹介していくけどさ。葛沼市は石灰が良く取れる地域なんだけどな、フズリナとか三葉虫とかウミユリ、二枚貝、腕足動物といった、石灰質の殻を持つ生き物の化石が沢山出てくるからなんだ。 》

《 ほえー、ここって大昔は海の底か何かだったの?貝殻とかって海の生き物だよね。 》

《 そそ。正確に言うと海底だった地層が移動してここまで来たって感じかな。葛沼市の石灰岩の地層は、約2億7千万年前…つまり古生代ペルム紀のものだ。熱帯の海の底に溜まっていた物が今こうやって、この地区に流れ着いて人々の生活を支えている…と。感慨深いだろ。 》


 モフは目を輝かせて鼻をフンフンと鳴らした。


《 地層が移動だって!?岩なのに動くの!?下に機械文明でもあったのかなぁ? 》

《 ちゃうちゃう。大自然の仕組みだよ。岩といっても、想像つかんだろうけど…ゆっくりと流動する岩石が地殻の下にあるんだよ。マントルといってだな。その下にはドロドロに熱でとけた岩の液体がある。簡単に言うとこれらの熱やら摩擦による動きが大地を動かしている訳だ。だからマントルやらマグマの動きによって大陸はくっついたり分裂したりを繰り返してるんだよ。この、古生代ペルム紀辺りの時代では、大陸は地球の一か所に集まっていたと考えられていて、この超巨大な大陸は超大陸「パンゲア」と呼ばれているんだ。 》

《 じゃあ、超大陸が分裂して、それぞれ移動していって今の地球の大陸を作っているんだね? 》

《 そういう事になる。実はこの、「大陸移動説」の仮説を最初に立てた人がいて、ウェゲナーという人なんだがな。大陸が移動した証拠も見つけて論文を出したものの、当初は誰も信じる人がいなかったんだぜ。大陸を移動させるために必要な大きな力がどこから来るのかを証明できなかったからな。 》


 モフは首を傾げた。


《 でも、さっき、マントルとかマグマの動きが地殻を動かすとか言ってたじゃない。 》

《 そうだよ。しかし当時はそれらの存在を理解していなかったと思うぜ。実際、海底に火山がある事が分かってから、ようやくウェゲナーの大陸移動説が支持されるようになったわけだ。 》

《 なるほど。当時は潜水艦とか作れなかったのかもね。技術の進歩があってこそ、初めてわかる事もあるんだね。 》


 梨絵瑠は楽しそうに肩を竦めてクスクス笑った。


《 お前って、幼稚園児みたいな知性だとばかり思っていたら、ギャップ激しいのな。見た目にそぐわない賢さ。うん、お前面白いわ。 》

《 ほめてるの?けなしてるの? 》

《 両方だ。いや、どっちでもないという回答もある。 》


 モフがふくれっ面をすると、梨絵瑠は更に可笑しそうにクスクス笑った。


《 因みに地球トリビア。パンゲアは、ゴンドワナ大陸とローラシア大陸が陸続きとなって繋がっていた状態の大陸。ゴンドワナ大陸っていうのは南アメリカ、アフリカ、インド、オーストラリア、南極が一つになった大陸を指す。一方でローラシア大陸ってのは、ヨーロッパ、北アメリカ、アジアの各大陸が一つになった大陸を指す。地球旅行するときがあれば、そんなことを思い出しながら旅行すると地味にテンションが上がるやもしれん。上がらぬやもしれん。 》

《 ふうん。覚えとく。でもね、僕のテンションが上がるのはね、地球のグルメだよ!ご当地スイーツとか食べたほうが僕は嬉しいな。 》

《 そういうところは動物なんだよなぁ。ギャップ激しくて萌えるわ、お前。 》


 説明を進めながら梨絵瑠は展示物を案内していった。モフは、早速手のひらマークのついた他の化石に飛びつく。蹄の裏の肉球でぺたぺたと化石の盛り上がりを触りながら首を傾げて梨絵瑠のほうを見上げた。


《 ねえねえ、これなに?お花の化石?凄く綺麗な形してるね~!ユリってかいてある。  》

《 それは、「ウミユリ」という生き物の化石だな。植物じゃあない。動物なんだよ。ウニとかヒトデの仲間なんだ。現在でも深海…そうだなぁ、水深100m以深といった深いところで生き延びてる。まあ、触っとけ。ここまで全身化石になってるのはレアなんだぜ。 》

《 レアなの?じゃあバラバラ死体で見つかる方が多いの? 》

《 バラバラ死体ってお前なぁ……えげつねえ言い方するなよな。昼のサスペンスドラマかよ。 》


 梨絵瑠は苦笑した。


《 まあ、実際死ぬとバラバラになっちまうので、化石として出てくるのは…ほら、上のショーケースに入ってるような化石のさ、ボルトみたいなやつあるだろ。中が空洞の円みたいなやつ。茎…?正式な呼び方わからんが細長いとこの体節の一部がこういう模様で入ってるのが多い。見えるか? 》


 梨絵瑠はモフを持ち上げてショーケースに入った化石を見せた。モフは鼻を鳴らして尻尾をパタパタ振った。


《 うんうん。ちっちゃなバウムクーヘンみたいだよ。わかった!ありがとー! 》

《 よっこらしょ…っと。重いな、お前。 》


 梨絵瑠はモフをゆっくりと床に降ろした。モフは改めてウミユリの全身化石をペタペタ触った。ふと、思い出したように振り返って梨絵瑠のほうを見上げて首を傾げた。


《 そういえば、さっき持ち上げてもらったとき見えたんだけど、わんそくどうぶつ、って何?腕と足がついたいきもの?でも、ただの貝殻みたいにしか見えなかったよ。 》

《 お客様、お目が高い。それ、紹介しようと思ってたやつ。 》


 梨絵瑠は得意げに目を細め、説明を続けた。


《 腕足動物と二枚貝の違いについてざっくり説明するぜ。確かに腕足動物も貝殻2枚ついてるだろ?だけど形に注目してくれ。腕足動物は殻が左右対称。二枚貝は殻が左右非対称なんだ。若干二枚貝は殻が歪んでるだろ?それと、腕足動物は二枚の殻が同じ形と限らない。表面が大きいのに裏面が小さかったりするのもある。あとは殻の付き方も違うんだ。二枚貝は体に対して横に殻がついてるが、一方腕足動物はというと、体に対して腹と背中に殻がついている。まあ、パネルに図入りで違いが書いてあるからそっち見たほうが分かりやすいかな。最後に、捕食の仕方が違う。二枚貝は鰓でこしとって食べるが、腕足動物は触手で食べる。 》

《 へーえ…。言われてみれば変な形してるよね。で、これも古生代で絶滅したの?示準化石? 》

《 いんや。こいつはまだ生き残ってる種が幾つかある。日本では有明海に「シャミセンガイ」っていうのが生息しているんだがな。こいつは食える。 》


 「食える」というワードにモフは黒目勝ちな目をキラキラさせて梨絵瑠を見上げた。ゆらゆらさせていた尻尾の振動数が一気に上がっている。どうにもこの生き物は、食べ物の話となると本能を抑えきれなくなるらしい。その様子に梨絵瑠は肩を竦めた。


《 んー。俺は残念ながら食ったことない。ケンちゃんが食ったって言ってたけどな。カニと貝を足して割ったような味で美味いらしい。見た目は綺麗だぞ。貝がらが青緑に光ってる。ホルマリン漬けになってるのが事務室にあるから、後で見せてもらうか? 》

「キュン!キュンキュン!!!」


 モフは嬉しそうに尻尾をパタパタさせて自分の周りをぐるぐると回転した。そしてハッスルしすぎて踏み台の角に足を引っかけてよろけた。痛さのあまり悲しそうな声で鳴く。


《 おいおい、大丈夫か?何でもいいけど近くに「手のひらマーク」化石あるから、ぶつかって壊さないようにな? 》


 梨絵瑠は苦笑しつつ、近くの化石を指し示した。その先にはモフの鼻づらの丁度上あたりの高さに展示された、トカゲの骨のような化石があった。「メソサウルス」とパネルに書かれている。モフは目をキラキラさせて化石に飛びついた。肉球を化石のでっぱりに押し当てて尻尾を振り振りしている。


《 これは、「メソサウルス」という生き物の化石。メソとは中間という意味。サウルスはトカゲ。つまり中間の大きさのトカゲって意味だ。で…。 》


 そういうと、梨絵瑠はモフを抱えて持ち上げ、すぐ近くのショーケースが見える高さに抱きかかえなおした。


《 ほら、見えるか?そこにグロッソプテリスって書いてあるシダみたいな植物の化石あるだろ? 》


 モフは身を乗り出して化石を覗き込んだ。化石の入ったショーケースの丁度後ろのパーティションに、石炭紀の植物の生い茂った風景のイメージ図が展示されている。小川が描かれており、その周囲に様々な奇妙な形の植物が描かれている。先ほど紹介されたメソサウルスと、この植物との関連性があまりにも想像がつかず、モフは首を傾げた。


《 このグロッソプテリスとか、何か特別なの? 》


 梨絵瑠はにやりとした。そしてゆっくりとモフを床に降ろし、説明を続ける。


《 さっきさ、ウェゲナーの大陸移動説の話をしただろ?これらがまさに、その証拠となった生き物達なんだよ。 》


 モフは驚いて目をぱちくりとさせた。一方で梨絵瑠は説明を続ける。


《 まず、ウェゲナーが目を付けたのは、大西洋を挟んだアフリカ大陸と南米大陸の海岸線の形が似ていた事。これが証拠その①な。次がこの、メソサウルスとグソッソプテリスの化石なんだ。この二つの生き物達の化石が、アフリカ大陸と南米大陸の両方に分布してたのが分かった。これが証拠②。だからこれらの大陸どうしが繋がっていたと考えられる。どうだ?面白いだろ。 》

《 へええ。目からウロボロス。 》

《 じゃ、次の見どころ紹介しとくか。これもレアなんだぜ。 》


 梨絵瑠はモフを隣のセクションに案内した。入るや否や、巨大な何かの骨が展示されてたのが目に入り、モフはびっくりして小さく飛び跳ねた後に後ずさりした。そのリアクションを見ると梨絵瑠は嬉しそうに笑った。


《 恐竜!? これって恐竜なの!? 》

《 よく言われる。でも違う。イノストランケビアという、古生代ペルム紀後期に生息していた生き物で、単弓類に属している。因みにこれは本物の化石ではなくて骨格模型だ。レプリカってこと。んでも、こいつ凄くレアもので、こいつの全身骨格模型あるのは当館のみ!いろんな博物館にもレンタルするくらいなんだぜ!すげえだろ? 》


 梨絵瑠は鼻息を荒くした。どうやらこの博物館の目玉商品の一つ、といった所らしい。あたかも自分の事であるかのように意気揚々と解説する彼の姿には、深い地元愛を覚えたモフなのであった。

 単弓類という新しいワードを聞いて、モフは梨絵瑠の興奮が冷めるのを待ち、改めて質問した。


《 「単弓類」ってなあに?そしてなんでこの生き物は恐竜とは違うの?見た目が恐竜ぽいよ。 》


 モフは、イノストランケビアの骨格模型の足元に展示された、これの肉付けされた縮小版のフィギュアを視線で指した。梨絵瑠はニヤリとして頷いた。


《 ちょいと長くなる。ええと、単弓類ってのはな。骨格模型の頭のとこ見てみな。眼球収まってた穴の後ろに穴ぼこが一つだけあるだろ?こういうタイプの生き物を単弓類っていう。我々人間も、同じように穴ぼこ一つしかない。一方で、恐竜ってのは眼球の穴の後ろに穴が2個ある。このタイプの生き物を双弓類っていうんだな。最近の説では、両生類…つまりカエルとかイモリみたいなやつ…から単弓類と双弓類に分岐して進化し、古いタイプの単弓類から進化したのが我々哺乳類ではないかと考えられている。イノストランケビアは穴が一個なので単弓類だろ?つまり、ひょっとしたらこの生き物は俺らのひいひいひいひいひい……ひい爺さんかもしれん!!! 》

《 ひいひいひいひいひい… 梨絵瑠くん、興奮しすぎて息切れしたのかと思った。 》

《 うっさいわ。 》


 そう苦笑すると、梨絵瑠は再びモフを抱えて近くのショーケースの中を見せた。


《 ここに別のタイプの単弓類の頭の骨の化石あるだろ?ちょい頭のてっぺんあたり見てみな。穴ぼこあるだろ。これ、第三の目だぞ。 》

《 ええー!目玉3個もあったの!?怖いよー! 》


 モフは頭のてっぺんにもう一つの眼球がギロリと動いて周囲を睨んでいるような化け物を想像して身震いした。梨絵瑠は可笑しそうにクスクスと笑っている。


《 いやー、目玉がぎょろぎょろしてるわけじゃなくてな。なんていうか、光を感じる程度の器官だったと考えられている。俺ら人間にもついてんだぜ! 》

《 えっ、どこどこ!? 》


 モフはビクっとして梨絵瑠の顔をまじまじと覗き込んだ。特に怪しいものはついておらず、異様なまでに整った顔がそこにあるだけだった。更に可笑しそうに梨絵瑠は笑った。


《 ははっ、見えないぜ。松果体っていう器官として脳に格納されてるから、表向きは見えん!残念! 》

《 松果体…なんか聞いたことある名前だな。なんだっけ…。 》

《 まあ、俺みたいな妙ちきりんな力使う連中は、この松果体のお世話になってる訳なんだがな。お前がさっき見た、「目から怪光線」みたいなアレだ。 》

《 なるほど!わかった!じゃあ、僕も、もしかしたら……… 》


がちゃり。


モフが何かを言いかけた所で、丁度事務室のドアが開く。帰り支度を済ませた賢治が出てきた。モフと梨絵瑠の姿を見ると軽く片手を上げた。


「よっ、お二人さん。展示物は楽しんでくれてるかい?俺はもうそろそろ上がるから、帰ろう。展示物案内は強制終了な。すまんな。」


そこで、梨絵瑠による展示物解説は中断された。


 二人と一匹は、夜の博物館のスタッフ用出入口から出た。賢治が施錠をする。そして、博物館を後にして、駐車場に向かった。モフはその後をついていく。ふと、賢治が振り返った。


「あのさ、モフちゃんどうするの?帰る場所…ないよね。少なくとも今のところ。」


 モフはハッとして大事な事を思い出したのだった。化石にハッスルしてすっかり頭から抜け落ちていた事。自分は「迷子」であること。しかも遠い宇宙から地球という辺境惑星に荷物として飛ばされて、どうやって家に帰るかすら分からない事を、改めて思い出したのだった。モフは哀しさと不安のあまり涙目になった。肩を落として俯くと、小さくキューン、と鳴いた。ルクスの顔が脳裏を過る。心配してアタフタしている彼の顔を思い浮かべると、申し訳ない気持ちと恋しい気持ちで一杯だった。早く家に帰りたい。今となってはペット用の不味いカリカリの味すら恋しく思えてくる。

 そんなモフの様子に、梨絵瑠は屈みこんでモフの頭をわしゃわしゃと撫でた。


「大丈夫だよ。帰る方法を明日考えような?それより…今日、こいつどうするか。」


そう言うと、賢治のほうを見上げた。賢治は一瞬考えた。


「うーん。きら君のとこ…多分、親御さんがびびるよな。俺が預かってもいいぞ。アパートだし。一人だし。」

「すまねえ、ケンちゃん。ま、博物館の連中なら話せばそんなビックリしねえだろうし、出勤時に一緒に事務室に匿っといてくれると助かるよ。」


賢治は頷いた。


「そのつもりだよ。みんなで一緒にモフちゃんがアンドロメダに帰れるよう、考えてみよう。UFOオタクのあいつも来るだろうし。あいつSETIとか趣味で研究してるし、なんか知ってるかもしれないぞ。」

「そうだな。それに、モフみたら大喜びする事間違いなし。なんてったって、正真正銘「宇宙生物」だからな。」

「キュッキュッキュッ!」


モフは誇らしげに甲高い声で笑った。その様子があまりにも滑稽で愛くるしくて、賢治と梨絵瑠も笑ってしまった。


 かくして、モフは賢治の車の助手席に乗せられ、シートベルトを着用させられ、彼のアパートに向かう事になった。モフは道中、身を乗り出してガラス窓に鼻づらを押し付けながら好奇心のあまり尻尾をパタパタさせて、未知の惑星の夜景に見入っていた。


《 ねえねえ、賢治くん。なんで地球の車は地面に接地しながら走っているの?摩擦でエネルギーのロスが大きいのに。古代の遺物を研究するのが好きなくらいだから、レトロなアイテム集めるのが趣味なのかな? 》

「えっ、そう言われても車ってこういうものじゃないのか?それとも君の惑星では車は浮いているのかい?まさかね……。」

《 浮いてるのが普通だと思ってた。ごめんごめん。失礼な事言っちゃったかな。 》

「あっ、いや…いいんだけど。えーと…つまりアンドロメダ文明は地球よりはるかに進んだ文明みたいだね。想像がつかないや…。」

《 僕もいろいろとビックリしちゃったよ。化石とか地球の歴史に触れたことは勿論なんだけどね。 》


ギュルルルルルルルルルル


突如、会話の流れを止めざるを得ない程の大きな異音が車内に響き渡った。エンジン音の比ではないほどの、臓器がよじれる悲痛なまでの音だ。音源は、言うまでもなく助手席にいる謎の生き物の腹である。賢治は苦笑した。


「省エネだの論じる割には、おまえさんの体は燃費が相当悪いらしいな。いや、そもそも地球の食べ物が君にとって低カロリーなのかもしれないけど。」

「クキュゥ………。」


 賢治は先ほど梨絵瑠からもらった差し入れの焼きそばパンが程よく細胞にエネルギーをいきわたらせてくれた為に、かなり満たされた状態であった。一方でモフは食べた直ぐだというのに、しかも腹持ちの良い白米を全てかっさらったにも関わらず、すでに空腹を訴えているのだ。どんだけ消化が早いのだろうか。そもそも、飢え死に寸前の干からびた状態で箱詰めされていたのもあるし、無理はないか。

 モフは一方であまりのひもじさにぐったりとし、口を半開きにしながら目を細めてしょんぼりとしている。あまりに不憫に思い、賢治は最寄りのコンビニに立ち寄る事にした。

 駐車場に車を止めると、助手席のモフに話しかけた。


「モフちゃん、食べものを買ってくるけど大人しく待っていられるかい?君を店の中に入れる訳にいかないからね。食べたいもののリクエストがあったらどうぞ。」

「キュン!」


賢治がそういうや否や、モフの干上がった目が一気に生気を取り戻し、爛々と輝いた。ぐったりともたれていた体をしゃきーんと起こし、勢いよく元気に尻尾をパタパタさせて賢治のほうを見上げた。


《 いいの?いいの?有難う!僕お腹すいて本当に死にそうだったんだ!ええとね、梅干し以外ならなんでもいいよ!できれば僕、甘い物がいいな!ご当地スイーツ巡りするのが夢なんだ! 》

「分かった!ちょっと待っててな。」


 賢治はモフの頭をそっと撫でると、車から降りた。彼は「ファミリースーパー」の中に入っていった。

 運のよい事に、この系列のコンビニはスイーツが充実していた。値段も手ごろな上にクオリティも高い。季節ごとに洋生菓子、焼き菓子系の旬のデザートが色とりどりに入れ替わるのも魅力の一つである。

 賢治は次の日の分の弁当と、モフ専用に食べやすそうなスイーツを幾つかチョイスしてレジにて会計を済ませ、外にでた。満月ではないが、月が十分に明るい。


「ET Go home」


彼は月を見上げながら何気なく呟いた。不意に脳裏に浮かんでしまった光景がある。ママチャリの前のカゴにモフを載せて夜空を疾駆する梨絵瑠の姿だった。学校での仕事帰りのスーツ姿のまま、ふわふわの白いUMAがカゴから身を乗り出しながらの状態で、ママチャリにて宙を走る彼の珍妙で滑稽な姿だ。賢治は想像したら可笑しくてニヤニヤしてしまった。とはいえ、梨絵瑠の特異性からしても、ある意味でそれに違和感がない事も否めないと思った。


「おまたせ。」

「キュン!キュン!」


賢治は車の運転席側のドアを開けると着席し、助手席で大人しくちんまりと座っているモフの頭を撫でた。レジ袋の中からモフ用にスイーツを幾つか取り出すと食べやすいように袋の端を切って開封し、モフの前に置いた。モフの目がキラキラと輝いた。ゴキュリと唾をのむ音がする。


「ほら。全部食べていいからな。」

《 ありがとう!ありがとう!ありがとう! 》


 賢治は車を静かに発進させた。傍らで、モフは喉を鳴らしながら目の前の御馳走を貪り食っている。


 程なくして、彼らはアパートに到着した。辺鄙な田舎町の格安アパートである。都心のセキュリティーと比べたら全くのもので、ドア一枚の守備力でしかない。風呂トイレ付のワンルームのアパートだ。しかし独身男子が一人で住むには十分すぎる程の物件だった。

 ドアのカギを開けて、モフを中に入るよう促した。そして賢治も後から入り、ドアを施錠する。

 モフは意気揚々と部屋に上がりこもうとするも、あまりの凄惨たる有様をみてぎょっとして立ち止まった。訳のわからない紙っぺらやら石ころの塊が部屋の中を埋め尽くしている。強盗でも押し入ったのではないかと思われる程の散らかり様だった。そして恐る恐る後ろを振り返って、何か言いたげに賢治のほうを見上げた。


「あ、ごめんごめん。部屋散らかってるけど。散らかってるのにアレなんだけどさ。そのままにしておいてくれないかな。あれこれ移動しちゃうと分からなくなっちゃうからさ。」

《 僕、どこに居たらいい?これ踏んだらダメだよね? 》

「ああ、ああ、ごめんごめん。通路作るか。」


 賢治は慌てて最低限足を踏み入れてよさげなスペースを作った。モフの寝場所となるスペースもなんとかあけると、余った客用の毛布を取り出してそこに置いた。


「モフちゃん、ここが寝床だよ。ごめんね、狭くて。」


 モフは首を横に振った。


《 いいよ。泊めてもらえるだけで有難いもん。知らない惑星で野宿とか、めちゃめちゃ怖いし。訳のわからない野獣に襲われて食われるのとか絶対嫌だし。 》

「モフちゃんが知性が高い動物で助かったよ。犬とか猫だったら絶対部屋の中散らかすし。言っても絶対いう事聞かないし。あ、そもそも動物と会話できないか。」

《 まあ、分かっててやるのが一番厄介だけどね。あ、やらないよ。恩をあだで返すのとか僕のポリシーに反するから。 》


 モフは悪戯っぽく目を細めると笑った。そして、足元に散らばる紙っぺらに視線を落とした。知らない惑星の知らない言語で色々と印刷されていたり、行間に書き込みがあったり、アンダーラインがしてあったりする。所々に付箋紙も張り付いたりしている。


《 ねえねえ、これって「ろんぶん」の資料?ひょっとして「がっかい」前? 》


 モフが意外な言葉を知っていたので、賢治は目を丸くして驚いた。


「うん。モフちゃん物知りなんだね。そうそう、つい最近だけど新種の化石が見つかってさ。投稿用の論文を書いていた最中なんだよ。」


新種ときいて、好奇心旺盛なモフは目を輝かせた。


《 へえ、凄いや!それ、博物館に展示されてるの? 》


賢治は残念そうに首を振った。


「いや、まだ展示できないよ。いくら我々が新種を発見して論文を書いたところで、それが正式に雑誌に掲載されて世間から認められてからじゃないと「新種」って公表できないんだ。だから、新種発見から世の中に公表されるまでに数年かかる場合もあるのさ。」

《 そっかー。「さどく」済じゃないといけないんだね。ルクス君もそんな事いってたよ。大学とか研究所で仕事もらうには「さどく」済の論文何本かないと相手にされないって。 》

「飼い主さんも研究者って言ってたしね。それにしてもモフちゃん色々詳しいよね。」

《 きょうえつしごくのきわみでございます。 》


モフは得意げに、前足を揃えてぺこりとお辞儀をした。そして賢治が用意してくれた寝床に颯爽と歩いていくと、毛布の上に丸くなった。


「おやすみ、モフちゃん。」

《 おやすみ。あっ! 》


モフは思い出したように顔を上げた。賢治はびっくりしてモフを見た。


「どうしたの?」

《 シャミセンガイの標本、明日見せてね。 》

「ああ、なんだ…びっくりした。うん、わかったよ。」

《 わーい!じゃあ、今度こそおやすみ。 》

「おやすみ。」


そういうと、モフは首を丸めた体の中に入れてスウスウと寝息を立てて寝てしまった。長旅で余程疲れていたのだろう。モフは寝ている間、寝がえりの一つも打たなかった。

 賢治はその後、数時間にわたって論文執筆の続きの作業をし、軽くシャワーを浴びてから床に付いた。


 翌朝、賢治は身支度を整えた。よれよれのTシャツによれよれのシャツを羽織って色褪せたジーンズ姿に上着を羽織る。朝食のシリアルを手早く済ませて口をゆすぎ、出勤用のカバンを用意する。もう、いつでも出勤できるという訳だ。一方モフはというと、賢治が出した朝ご飯用のトーストのカスを口の周りに一杯につけたまま、賢治の姿を見ると尻尾を振りながら駆け寄ってきた。


《 出かけるの?なんかさ、賢治君をみてるとルクス君思い出しちゃうよ。彼も、いつもそういう恰好で引きこもって研究してるんだ。研究室に行くときもそんな感じなの。 》


賢治は苦笑した。


「まあね。いつもはね。お客さん来るときとか、出張するときは流石にスーツ着るけどね。色々と作業すると服汚すし、俺としては動きやすい方がいいからね。」

《 ルクス君のお母さんが「どれすこーど」大事って言って、前にルクス君注意してたの知ってる。 》

「あははは。まあ、それはそうと。学生さんって研究に没頭してオシャレしないタイプと、両立するタイプとで分かれるよね。僕は残念ながら前者かな。服の良しあし分からなくてね。よく、きら君に指摘されるよ。それより……。」


賢治は屈みこんでモフの口の周りについたトーストのカスを指先で丁寧に払って綺麗にする。


「キュン!」


モフは嬉しそうに尻尾をパタパタ振った。賢治はドアを開けるとモフを外に出るよう促した。モフが外に出ると、彼はドアを閉めて施錠した。


 賢治とモフは博物館に到着した。賢治はモフを連れてスタッフ用出入口から事務室に入室した。とっくに鍵があけられている。彼らより先に入室している人がいるようだ。賢治は入室すると同時に「おはようございます。」と中にいる人々に声をかけた。館長の田沼 桐子と、事務スタッフの安蘇 みどりが振り返って挨拶をした。

 賢治は驚かれるより先に彼らにモフの紹介をした。


「あ、ちょっと訳あってこの子を暫くここで預かってもらっていいでしょうか。モフちゃんっていう子なんですけど、迷子で昨日保護したんですけど、帰り道分からないみたいで。」


モフは行儀よく賢治の足元に座ったまま、二人に対してぺこりとお辞儀をした。


「あら、可愛い!」

「なにこの子!超かわいい!犬?猫?」


桐子とみどりが口々に歓声を上げた。ふたりの様子を伺いながら、恐る恐る賢治は切り出した。


「これから話す事、驚かないで聞いて頂きたいんですけど…。」


二人は早速懐いたモフをじゃらして遊んでいたが、ふと手をとめて賢治の方を怪訝そうに見た。


「何か、問題でもあったの?」


桐子が少々不安そうな表情を浮かべつつ、賢治に問うた。


「あ、えーと。このモフちゃんの事なんですけどね。宇宙から来たんですよ。」


一瞬、二人の動きが止まった。二人して顔を見合わせる。そして…


「あははははは。なんだ、それだけ?」

「今更!もう私たち何があってもびっくりしないわよ。ねー?館長?」


二人は可笑しそうに笑いだした。お調子者のモフは一緒になってケタケタと笑っていた。一方で賢治は胸を撫でおろす。


「ふーっ、良かった。どうやって二人に話しを切り出すか、すっごく悩んでいたんですけどね。出勤前から。」

「そっかぁ。私、てっきり展示物関係やら企画の件で何か大問題でも起きたのかと思ったわよ。」

「私もそっち関係だと思っちゃいましたー!」


こうして、モフについてどう説明するかの問題は、あっけなく片付いたのであった。


「あ、そうだった。」


賢治は思い出したように、資料室から何か小瓶を引っ張り出してきた。中は液体で満たされており、その中に貝殻のようなものが幾つか浸っていた。その小瓶をモフの目の前に差し出す。モフは鼻をクンカクンカさせながら小瓶に鼻づらを押し当てた。


《 なにこれ?ホルムアルデヒドを希釈させたようなにおいがするよ。 》

「ほら、これが昨日約束した「シャミセンガイ」の標本だよ。」

《 わあ!覚えていてくれたんだ!ありがとう! 》


モフは目を一際まん丸くすると、嬉しそうに尻尾をパタパタふりながら、小瓶の中の物体を丹念に観察した。オールの先のような形をした、やや縦長の貝は光沢を帯びており、青緑がかった色をしていた。


《 思っていたよりちっちゃかったね。もっと大きいのかと思ってたよ。食用って言ってたからね。 》

「うん、もっとちっちゃい腕足動物いるよ。葛沼市で発見されたクーペリナ属の化石、見るかい?」

《 見る! 》


 賢治はモフを展示室に案内した。件の化石は、梨絵瑠が見せてくれた腕足動物のコーナーのショーケースに収められていた。賢治はモフを抱え、展示物が見える位置にまで持ち上げた。モフは見ようとして身を乗り出したが、首を捻って賢治のほうに振り返って見上げた。


《 どれ?みえないよ。 》

「うん、小さいからね。砂粒みたいな大きさだから。拡大した写真が解説と一緒に載ってるよ。」


モフは鼻をひくつかせながら再びショーケースを覗き込んだ。改めて見ると、確かに砂粒程の小さな化石が張り付いて展示されているのがわかった。


《 へええ、本当に小さいや。鼻息で吹き飛んじゃうよ。それに砂粒と間違えそう。どうやってこんなの見つけたの?フズリナみたいに岩の中に一緒に埋もれて固まってたとしたら…絶対こんなの分からないや。 》

「そう。凄いでしょ。偶然みたいなものだよ。ギ酸で処理すると化石以外の石の部分が溶けて化石が取り出せるんだけど、その時に岩と一緒に砕けた砂粒の中にこれが入ってたんだよ。本当に偶然、そのとき化石をクリーニングしてた人が見つけてきたんだ。普通の砂粒とちょっと違うかも、というので見せてもらったら、それがなんと日本国内では初めて発見された種でね。」

《 凄いねえ。化石って奥が深いんだねぇ。 》

「だろ?そうそう。小さいのにロマンを感じる生き物をもう一つ見せようか。」


賢治はモフを案内し、あるコーナーで足を止めた。


「ここのポスターに顕微鏡で見た拡大写真が説明付きで載ってるんだけど…放散虫といってね。単細胞生物でね。細胞一個だけで一つの生き物なんだ。」

《 単細胞!フズリナと同じ! 》


モフはポスターを見た。そこにはトゲトゲした穴ぼこだらけの球体やら、ツボのような妙な形をしたものやら、色々な形の放散虫の写真が載せられていた。ミステリアスで繊細かつ規則性のある美しい形をしているものが多く、モフは感嘆のため息を漏らした。


《 なんか綺麗でおいしそうだね。金平糖みたい。 》


賢治は苦笑した。


「君はくいしんぼうだね。この放散虫の殻が集まってできた石がチャートというものなんだけど、赤、黄色、白、黒といろんな色があるんだ。すごく硬いんだよ。」

《 昨日もらった、ドジおとめのパウンドケーキ美味しかったなぁ。そうそう、チャートも石灰岩みたいなやつ? 》

「いや、石灰岩は炭酸カルシウムだけど、チャートは違うよ。主成分は二酸化ケイ素というガラスに類似した成分なんだ。そもそも放散虫の殻が二酸化ケイ素でできているからね。」

《 なるほど、有難う。賢治君お仕事あるんでしょ?あまり邪魔しちゃ悪いし。戻ろう。 》

「ありがとう。じゃあ、戻るか。」


賢治はモフの頭を軽く撫でると、事務室に戻った。モフは後をペタペタとついて一緒に部屋に入っていった。


 事務室に戻ると、みどりがお茶とお菓子を準備して待っていた。

「古代さん、モフちゃん、お茶にしましょうよ。うこん茶はいってるよ。」

「ありがとうございます。」

「キューン!」

「あら、可愛いわねー。モフちゃんのはこっちね。」


みどりはモフ専用に紙皿にせんべいとおつまみを並べ、急遽ペット用に用意したと思われる実験用シャーレをよく洗ったものに、お茶をいれてモフの前に置いた。

 モフは嬉々としておやつを貪り食い、シャーレに鼻づらをつっこんでお茶をぺろぺろとなめて飲み干した。


「キュン!キュンキュン!」


モフが尻尾をパタパタさせてみどりのほうに小走りに走っていき、彼女を見上げると、彼女はプっと噴出した。


「んもー!モフちゃん、ラリックマみたいになっちゃってるよー!」


モフの真っ白な毛はウコンにより、鼻と口の周りがくっきりと真っ黄色い円形に着色されてしまっている。

 ラリックマとは、地球文明に数多く存在しているゆるキャラのうちの一つである。シロクマを可愛らしくデザインしたようなぬいぐるみのような外見だが、不自然にも口と鼻の周りだけ青みがかった灰色に塗りつぶされており、無精ひげのオッサンを思わせるかのようなギャップを持ち合わせたキャラが売りだ。

みどりの声を聞いて桐子と賢治がモフを覗いて噴出した。


「ちょ…モフちゃ……!それ暫く落ちないッ………!」

「あらあらあらあら!モフちゃん!それ、どうしましょ!」

「ンニュ?」

「ま、まあ…放っておけば紫外線で色消えてくるとは思うけど…。ちょっと…プフッ!」


賢治はこらえ切れず、再び噴出した。モフだけが何も知らずに首を傾げている。


「キュウウン……。」


理由も分からずあまりに笑われるので、モフは少々いじけたように俯いて縮こまってしまった。


「ああ、ごめんごめん。まあ見たらショック受けるだろうから…うん、今は気にしないでね。大丈夫だよ、それ、消えるから。」

《 なんとなく状況は察したよ………。うん、多分鏡見たら凹む何かなんでしょ?聞かなかったことにするからね…。 》

「あ、そうだった。」


思い出したように賢治は桐子とみどりに話を切り出した。


「モフちゃんの事なんですけどね。」

「そうね、迷子って聞いたけど…。」

「キューン……。」


桐子は首を傾げてモフの方を見る。モフは何となく両の前足で口元を覆うように隠した。

 一方、賢治は話を続ける。


「そうなんです。アンドロメダ文明から来たらしいんです。でも帰り方が分からないから、皆で考えてこの子をお家にかえしてあげようかって、昨日きら君と話していたんですよ。」

「あー、宇宙人マニアなら今日午後から来ると思うわよ。彼ならいいアイデアくれるんじゃないかなぁ?」


みどりが口を挟んだ。

 宇宙人マニアとは、昨晩二人が「あいつ」と呼んでいた男である。名は、唐沢 秀司。市役所でパートをしているフリーターにて絶賛就職活動中。片手間に化石博物館のボランティアを務めている。館内の清掃やら展示物の配置換え、販売用のミュージアムグッズの制作など雑多な手伝いを担当している。宇宙人とチャネリングする事を夢見て、休日になるとどこぞの山頂に登って自作の謎発信機を使ってウホウホ叫んでみたり、パワースポット巡りをしてみたり、UMAを求めて日本各地を駆け巡るような変人っぷりであるが、ぱっと見はごくごく普通のサラリーマン風である。

 ひとまず、ティータイムを終えて各自業務に戻ることにした。梨絵瑠はモフを連れて展示室の案内の続きを行う事になった。

 梨絵瑠は、モフをやや広いスペースに案内した。そこには日本各地の鉱山から集めた様々な石灰岩が色とりどりに展示されているのが見えた。梨絵瑠は得意そうに鼻を鳴らした。


「すげえだろ。当博物館の自慢の石灰岩コレクションだぞ。産地によって特徴があるだろ。白っぽかったり黒っぽかったり。葛沼市はドロマイトを産出する事でも有名なんだぜ。」


モフはきょろきょろしながら石灰岩を眺めて回った。フズリナが沢山入ったものもあったり、よく見るとウミユリの化石の断片が入ったものもあった。全体的に白っぽい石もある。モフは白くキラキラした石灰岩の前で立ち止まった。


《 これ、綺麗だね。これも石灰岩なんだね。色が他のと全然違うよ? 》


梨絵瑠はモフの視線の先の石に目を向けた。


「それか。そいつは石灰岩とはいっても変成岩の一種で“結晶質石灰岩”というものだな。変成岩っていうのは、堆積岩や火成岩がマグマの熱やら地中深部の熱や圧力の影響によって再結晶化した岩石全般を指すんだが。この結晶質石灰岩というものは、岩石がマグマに接してできた接触変成岩の一種で、別名を“大理石”ともいう。」

《 なるほど。もともと石灰岩だったものが熱で一端解けてから再結晶したって訳かぁ。だから化石っぽいものがはいってるように見えないんだね。 》

「そそ。石灰岩由来ではないけど、面白いモノもあるんだぜ。ちょっと裏側にまわってみようか?」


梨絵瑠は石灰岩コレクションのコーナーの裏手にあるショーケースの並んだエリアにモフを案内すると、脇腹のあたりを抱えて展示物を見えるように持ち上げた。


「そこに、”ホルンフェルス”って書かれたプレート見えるか?そこに置かれた黒っぽい石、見えるかね?」


モフは言われた石を探した。よく見ると黒っぽい石の断面に、少し青みがかったキラキラしたものが見えたのがわかった。


《 あったよ。これ、化石が中に残ってるね。キラキラしてる細長い物体が断面に入ってるよ。 》

「ふふ、化石に見えるだろ?しかしそれは“菫青石きんせいせき”といって、結晶なんだよな。化石ではない。」


 梨絵瑠が説明すると、モフは少々残念そうに彼のほうに首を向けた。


《 何かの化石だと思ったのになぁ、残念。結晶ってことは、これも岩石がマグマに触って火傷してできた“接触変成岩”の一種なんだよね? 》


梨絵瑠はモフを床に降ろすと頷いた。


「そそ。こいつは粘板岩や頁岩という、粘土が積もってできた堆積岩が焼けて再結晶してできたものだ。そうそう、ついでに別のタイプの変成岩も見ておくか?」

「キュン!」


梨絵瑠は再びモフを近くに案内して掲げてショーケースの中を見せた。


「このあたりに断面に縞模様っぽいのができた岩が何種類か見えるだろ?薄緑っぽい石とか赤っぽいやつとか黒っぽい石。ほにゃらら片岩って書いてある筈。見えるか?」

《 うん。緑泥石片岩りょくでいせきへんがん緑簾石片岩りょくれんせきへんがん、藍閃石片岩、黒色片岩、紅レン石片岩とか書いてあるのがあったよ。 》


梨絵瑠は一端モフを床に降ろすと説明した。


「そうそう。ほにゃらら片岩って書いてあるものは変成岩の中でも“広域変成岩”と呼ばれるもので、プレートの沈み込む場所でできた変成岩なんだよな。地殻が沈み込む時に上の面と下の面で互いに逆方向に引っ張られてプレートが引き延ばされる。その時の剪断せんだん運動によって縞々模様ができる訳だ。この引き延ばされたときにできる縞模様を片理へんりというんだけどな。岩石で片理面を見たら広域変成岩と見ていいだろうな。」

《 へえ、なんだか地球の息吹を感じる石だねぇ…。でも、なんで地表に出てきたんだろうね。放っておけばそのまま地中に引きずられてマグマになってとけちゃうんでしょ? 》


梨絵瑠が呻った。


「そうなんだよ。それが現在でも日本においてはミステリーと言われている。広域変成岩が地表にでるメカニズムは未だに解明されていないのだよな。」

《 ほうほう…。 》

「しかし、それはおいとき。変成岩は興味深い岩石でね。岩が出来る時の温度と圧力の組み合わせで厳密に何の岩石ができるかが決まっている。」

《 ええっ!? 》

「例えば、玄武岩由来の片岩で言うとだな。緑泥石片岩…、薄緑っぽい岩石な。これは地下15kmの深さかつ、温度が400℃の時にできる。この条件で必ず緑泥石片岩になる。15キロより深くてもダメで、温度が400℃でないといけない。で、緑簾石片岩。深緑っぽい石で、所々に黄緑色の結晶が入ってるやつ。これは地下20kmかつ、温度が450℃の時。藍閃石片岩、これは地下30km以深かつ温度が450℃。最後の藍閃石片岩は温度が450℃を超えると別の岩石になってしまうんだ。」

《 つまりは、できた鉱物によって、そのときの温度と圧力が分かる訳なんだね?面白いね! 》

「そうそう。お前賢いな。」


梨絵瑠が満足そうに頷いた。一方でモフは何やら違和感を感じて首を傾げた。


《 でもさ、最後の二つが、生成温度はおなじなのに、深さ…つまり圧力の条件が違ってる。どゆこと? 》

「ふふ、いいところに気が付きましたねお客様。どういう事だと思う?温度は一緒なのに深さが違うって事は…?深さって事はプレートの沈み込みの何かに関係しているよね。」

《 あっ!沈み込みの速さが違うのか! 》

「大正解!つまりは片岩の種類によって、その時のプレートの温度や深さ、そして沈み込みの速さも分かってしまう訳なのでーす!」

《 片岩って奥が深いねぇ…。地球の活動記録みたいなものが見えちゃうんだね。 》

「うむ。意外と、奥が深い地学であった。結構さ、日本の義務教育のカリキュラムだと地学ってさわりの部分しかやらんのだよ。そうすると単なる暗記科目で片づけられて面白みも糞もないまま終わっちゃう。だから地学に興味持つ学生があまり居ないのも現実。」

《 なるほどね。だからきら君は、理科全般の面白さを伝えたくて、ここでボランティアで熱弁してる訳だね。 》

「こいつめ…言ってくれるじゃないか。はははっ!あながち間違いでもない。」

「さて。目玉商品はまだまだありまして。」


梨絵瑠は肩を竦めて苦笑しつつ、話題を切り替えて、別の展示室にモフを案内した。


「キュッ!キュキュキュッ!!!」


展示室に入るや否や視界に入った巨大なマンモスの全身骨格模型に圧倒され、モフは後ろに飛び退いた。そんな様子を見て梨絵瑠は可笑しそうにクスクスと声を出して笑った。


「びっくりしたか?ここから先は新生代の生き物の化石展示室になるぞ。葛沼市は古生代の生き物の化石と、新生代の生き物の化石が主に発掘されるんだ。バイソン、象、トラやサイの骨の化石なんぞも発掘されたことから、当時の葛沼市はジャングルだったんじゃないかと考えられているんだぜ。50種を超える生き物が発掘されているのも凄いだろ?ミヤタハコガメ、ヤベイシガメといった日本固有種のカメの甲羅の化石も出てきたりして、結構この手の学術業界の間じゃ専門家にとってホットな地域だったりするのにさ。地元の人が意外と知らないのが哀しいくらいだぜ。だからこそ、皆にその素晴らしさを知ってほしくて、ボランティア解説員始めたんだぜ。」

《 へぇ~!僕、凄い場所にきちゃったみたいだね。無事に帰れたら、ルクス君に自慢しちゃおっと! 》

「そうそう。こちらが目玉商品のうちのもう一つ。ニッポンサイの子供の化石でございます。」


梨絵瑠は思い出したようにモフを巨大な骨格模型の後ろ側の展示物に案内した。そして誇らしげに展示物について語った。


「聞いて驚け、これは激レアコレクションだ。何故なら…全身のほぼ8割が揃って発掘されたというレアケースだからだ!」

《 そ、そうなのかぁ。 》


モフは目をぱちくりさせて案内された化石を、半ば腑に落ちない様子にて見ていた。そんな様子に梨絵瑠が気づいて、すかさず補足した。


「あのなぁ、化石ってのは、体の一部分しか出てこない事がざらなんだぜ。8割も揃ってるとか本当に本当にレアなんだからな。しかも、模型じゃなくて実物だぞ、これ。当館にしかない超レア化石なんだぜ。恐れ入ったか!帰ったら飼い主さんに自慢しまくれるレベルだぜ。エッヘン!」

《 ほほう!そんなに凄いんだね!うん、自慢しまくるね! 》


地元愛と化石愛が炸裂しすぎた滑稽なまでの梨絵瑠の演説に、モフは目をキラキラさせて頷いた。

 梨絵瑠はモフを最後の部屋に案内した。中央には巨大な鹿の骨格模型が展示されており、圧倒的な雰囲気を醸し出している。通常の鹿の3倍ほどの身長があり、巨大な角が天井に向けて聳え立っていた。モフはあまりの巨大さに目を奪われてその場に立ち尽くしてしまった。思わず感嘆の息を漏らす。梨絵瑠はそんなモフを見て、満足気である。


「凄いだろ。実は葛沼市はこの巨大な鹿の存在も証明した地区なんだぜ。これはヤベオオツノジカっていうやつなんだがな、一万年前あたりまで生存していた鹿なんだ。実は、このタイプの巨大な鹿は日本には居ないと考えられてきたんだけど、葛沼市からこいつの角が発掘されたのがきっかけで、存在が確認された訳。葛沼市は学術的に、この業界にかなり貢献している地域なんだぜ。」

《 ビバ!葛沼シティー!それにしても、これ凄いや。背中に乗ったら見晴らしいいんだろうなぁ…。ルクス君と一緒に、これにのって冒険したいな! 》

「ね。しかし、落ちたら大怪我しそうだな。俺は高所恐怖症だから遠慮しとく。」

《 きら君って案外ビビりだね。 》

「うっさいわ。さあ、次だ、次。世界最小のナウマンゾウの化石だぜ。大人の化石なのに肩の高さが150cmしかないとか、進化の過程が非常に気になる化石だな。」


 梨絵瑠は一通り展示物を紹介すると、部屋の出口付近に案内する。そこにはテーブルが設置され、上にカゴが置かれている。その中には、フズリナの化石入りの石が手頃な大きさに砕かれたものが山盛りになっていた。彼はモフを持ち上げると、カゴに手が届くような高さに掲げた。


「モフ、これお土産に好きなの選んで持って行ってくれよな。」

《 えっ、いいの?いいの!?凄いや!無料で見られる上にお土産までフリーとか、至れり尽くせりだね! 》

「だろ?だろ?そう、磨き方の書いてあるプリントも持って行ってくれな。この通りに磨くとテッカテカのツヤツヤになって鏡みたいに顔映るくらいになるぞ。化石の断面もよく観察できるようになる。インテリアとしても飾れるんだぜ。」

《 やったあ!ありがとう!ありがとう! 》


 モフは目を輝かせながら化石のぶっかき石をがしゃがしゃと漁って、フズリナの最も沢山はいっていそうな石を一つ両手で大事そうに持ち上げた。


「ん、それがいいのか?ちょい貸してみ。」


梨絵瑠は、一端モフを床に降ろしてモフの手にしていた化石を拝借した。そして、カゴのすぐ脇に置いてあった新聞紙の端切れがきちんと折りたたんである山から一枚とると、モフの選んだ化石を丁寧に包装した。化石の磨き方の説明書も新聞紙の中に一緒に梱包した。そして、モフの選んだものとは別にカゴの中から何個か石を選んで自分のジャケットのポケットの中にしまい込んだ。


「授業中うっさくしてる生徒黙らせるのに見せるから、何個か貰ってく。」


モフは怪訝そうに首を傾げて梨絵瑠のほうを見上げた。


《 それ、うるさい生徒に投げつけるの? 》

「ブッ!!!そんなことしたら教育委員会に訴えられるわッ!その前に保護者呼ばれるわな。まあ、ネタだよネタ。騒ぐ奴らに珍しい物見せて注意逸らしたり、集中力切れて飽きてる生徒を関係ないネタでリフレッシュさせたりとかな。まあ…色々と大変なんだよ。もともと勉強が嫌いな生徒を授業に集中させるのとかさ。」

《 なるほどね。その科目が好きな子ならいいけど、苦手な子にとってはたったの一時間でも辛いのかもね…。 》

「だろうな。俺も授業内容に興味関心が持てるように、かみ砕いて分かりやすく、かつ楽しい授業ができるように毎日奮闘して教材研究してる訳さ。…っと、展示物案内はここで終わりだぜ。そろそろお昼だし、事務室に戻るか。」

「キュン!」


梨絵瑠が事務室に向かうと、モフは尻尾をパタパタと振りながら後をついていった。


 彼らが事務室に戻ると、梨絵瑠はみどりにモフの首にさげられる土産袋の手配を頼んでくれた。モフが選んだ化石を身に着けられるように、である。みどりは資材置き場をがさがさと漁って、可愛らしい巾着袋を探してきた。丁度、モフの土産がすっぽりと収まった為、みどりは巾着袋にロープを括り付けて丁度いい長さに切り、それをモフの首からかけてくれた。モフはパタパタとしっぽを振ってぺこりとお辞儀をし、感謝の意を示した。


「可愛いわねー!賢いわねー!行き場所なかったら私の家においで~!」

「キュン!キュンキュン!」


そこに、席を外していた館長が手提げ袋を持って戻ってきた。香ばしくて甘い、とても良い香りがした。モフの鼻先がピクリと反応した。


「皆さん、今日は私のオゴリですよ。アオベの照り焼きサンド買ってきたから、食べてね。」

「えっ、いいんですか?あざっす!ごちになりますッ!」

「やったぁ!館長、御馳走様ですーッ!」

「あれ、めちゃめちゃ美味いんだよなー。館長、御馳走様です!」


それぞれが、桐子の差し出した手提げに群がった。桐子は付け加えるように言った。


「あ、モフちゃんの分も、勿論あるからね。」

「キューン!キュンキュン!キュン!」


モフは嬉しそうに尻尾を大きく振り回しながら飛び跳ねた。賢治は、モフの分の照り焼きサンドを確保すると、包み紙をむいた状態で紙皿に乗せてモフの目の前に出した。


「モフちゃん、お食べ。これ、本当に美味しいんだぞ。」

《 ありがとう! 》


 モフはジューシーな照り焼きチキンが挟んである、出来立てのホカホカのバーガーを貪った。手作りの甘辛い照り焼きソースがたっぷりまぶしてある、こんがり焼けたチキンに、マヨネーズの絶妙なコンビネーションがモフの喉を唸らせた。賢治の話によると、このバーガーは博物館のすぐ近くにある葛沼市アンテナショップ「アオベ」内にある喫茶スペースにて取り扱っている人気商品とのことだ。他にも葛沼市のB級グルメである、ジャガイモを丸ごと一個蒸したものを豪快にそのままフライにしてソースをたっぷりまぶした「原人フライ」も有名で、県外からわざわざ買いに来る人もいるくらいだとか。

モフが舌鼓を打っていると、思い出したように桐子が独り言を漏らした。


「あっ、唐沢君の分買ってきてないわね。お昼、食べてから来るのかしら…。」

「大丈夫でしょう。証拠隠滅!」


 脇で梨絵瑠が笑いながら、微妙すぎるフォローをした。ゴミ箱の中に丸めて捨てられたバーガーの包装紙にこびりついた甘辛ソースの香りが部屋中に充満しているこの状態で、証拠隠滅というには些か厳しいものがあった。


「そういや午後の作業どうします?また今日も石割しときます?」


食べ終わって一息ついた梨絵瑠が作業内容について話を切り出した。


「んー、まだコンテナに残ってるからいいかな。それより、チャネル君と一緒に化石発掘キットの増産してくれると有難いかな。そろそろ無くなるかも。」


賢治が、専門書やら書類に埋もれたデスクの隙間から顔を出して返答した。

 チャネル君とは、唐沢のニックネームである。チャネリングマニアな事から、そのようなあだ名がいつの間にか付けられて定着していたのだった。別にブランド物「CHANNELチャネル」が好きな訳でも何でもないのである。


 噂をするとなんとやら、である。丁度、唐沢の名前が上がったあたりで本人がやってきた。スタッフ用の出入口から、のっそりとメガネのサラリーマン男が入ってきた。


「こんにちはー。」

「チャネル、いいところに来た!」


挨拶より先に梨絵瑠が唐沢に飛びつくようにやってきた。通路脇に無造作に積まれた段ボールやら採集用バケツなどに躓いて少々よろけながら。後ろから、賢治がモフを抱っこして唐沢に近づいた。


「チャネル君、こんにちは。君が追い求めていた奇跡のUMAがお待ちかねだよ。」

「ほえぁうごえぇぇぇぇ!?!?あへあへあへ!!!ほふぇ~ッ!?!?」


ゴゴン!ガラガラガッシャーン!!!


 チャネルはモフを見た瞬間、驚きのあまり謎過ぎる奇声を発しながらよろけて、後ろに積まれていた段ボールの山にぶつかった。勢いでそれらが床に崩れ落ちたと同時に、唐沢氏も盛大に床に尻もちをついてしまった。


 紆余曲折。彼らはチャネルこと唐沢氏にモフの事を一部始終説明し終わった。その最中、彼は挙動不審な行動を一貫してとり続けた。呂律の回らない口調で「ホエホエ、フガフガ」と謎の相槌を打って手足をじたばたさせたり、キョロキョロとあたりを見回したりと意味不明な行動をとった。その場にいた誰もが「お前こそが真のUMAなんじゃないだろうか。」と例外なく思ったに違いない。ちんまりと賢治の腕の中で大人しくしているモフのほうが寧ろ自然な存在に見えた訳で。しかし、チャネルの今回の挙動不審な言動は彼らにとっては当たり前すぎて、誰も突っ込む人はいなかった。即ち、このチャネルという男はこういうキャラである事が彼らにとって定着していた事を意味していた。

 パニック状態より回復し、通常運営に戻った唐沢氏によれば、「魔のトライアングル」と呼ばれる人や動物が頻繁に行方不明になるスポットとアンドロメダ文明が関係しているのではないかという仮説があるとの事だ。彼もそのネタを研究している最中だという事で、色々と知り得た情報を話してくれた。


「バミューダ海域の魔のトライアングルは有名ですけどね。バミューダトライアングルというワードでネット上をググれば出てきますよ。この区域では古くから、船や飛行機が丸ごと消えたり、若しくは乗組員だけが跡形もなく消えたりとか。所説あるんですけど、僕が最近考えた仮説は“アンドロメダ文明人の時空転移装置かなにかがあるのではないか”というものなんです。」


梨絵瑠は暫く考えてからチャネルに聞き直した。


「じゃあさ、万一アンドロメダ文明の装置が絡んでいるとしたら、人や乗り物を転送する目的がある訳じゃないか?もともとアンドロメダ人が地球に出入りする目的で作ったのか、それとも地球人をアンドロメダに拉致する目的で作ったのか。それ以外の何かか。いずれにせよ、確認する手段もないわな。そもそも仮説から仮説立てた所でナンセンスなんだけどさ。」


賢治が口を挟む。


「んーとさ、前者の場合だとしたら、突然バミューダ―トライアングルから知らない宇宙人がひょっこり現れたり、地球上のものではない飛空艇なんぞが出てくるかもしれないじゃん。万一そんな事あったら大パニックになってるよ、今頃。だから僕の意見としては前者は確実にアウト路線だな。」

「じゃあ、拉致路線かそれ以外の可能性って事か?」


梨絵瑠がそう答えた時に、チャネルが首を大きく横にブンブンと振った。


「いやいやいやいや、アンドロメダ人に限ってそんな物騒な事しませんよ。彼らの文明は科学が地球以上に発達しており、モラルもなっています。そして平和的な人々です。いくら我々が、彼らにとって原始的文明の民だとしても人権を踏みにじるような行為はしない筈ですよ。寧ろ我々地球文明に危害を加えるような類の宇宙人達から、他の文明の方々と協力しあって守ってくれているという話をよく耳にするくらいですよ。グレイタイプやらアヌンナキ文明関係の輩はそうじゃないですけどね。」

「なるほどね。じゃあ、“それ以外”の何かの目的って事だな。あくまでトライアングル地帯がアンドロメダ文明の装置であるという仮説を認めた場合の話なんだが。」


梨絵瑠が顎に手を当てて、ふむ、と唸った。そして思い出したようにモフのほうを見た。


「お前さ、ご主人様やら家族の人たちが何か文明どうしのやり取りとかについて話してるの、聞いたことないか?それに関連する装置があるとかないとかでもいいし。」

《 うーんとね、ちょっと待ってね。 》


モフは首を傾げて斜め上を見上げると、考え込む仕草をした。そして自信なさげに梨絵瑠のほうを見上げつつ回答した。


《 転送装置の有無と関係しているかどうか分からないんだけど…。てんせい?てんそう?なんかね、有志で、地球とか他の未発達な宇宙文明にお仕事しに行くことがあるんだって。アバターっていう肉体を仕事先の惑星に予め作っておいて、そこに入って、その宇宙文明の民になりきって色々と手助けをするって言ってたよ。一通り役目が終わると撤退してくるんだって。若いうちに還ってくる人もいれば、見た目が爺さんになるまで戻ってこない人もいるとか聞いた。 》

「なるほどね。ひょっとしたら…。うん、輪廻転生か。ふむふむ。」


モフの話を聞いて、梨絵瑠は一人で何かを思いついて、納得しているかのようだった。そしてチャネルの方に向き直って問うた。


「あのさぁ、チャネル。件の転送装置の話だけどさ。他にもあるとしたらどうなんだろう。バミューダ海域だけじゃあないだろ?謎の失踪事件。テレビなんかで見た事あるから、ひっかかったんだ。失踪した人が、その直前に理解不能な挙動不審な行動をとった後に忽然と消えたとかさ。」


唐沢は、少し考え込んでから複雑な表情をしながら答える。


「そうですね…。実はそれも我々が議論していた話なんですよ。仮説に仮説が多すぎて信ぴょう性がなさ過ぎるという事でボツになったんですが。」


不意にみどりが思い出したように口を挟んだ。


「見た見た!その番組、私も見てたかも!ある空港で失踪した人の話でしょ。突然理由もなく「うぽーーーッ」とか叫びながら走り出して、空港のフェンスをよじ登って…その後行方をくらましたとかなんとか。あとはアメリカだっけ?国立公園の中で謎の失踪した人も、「ぽえ―――ッ」とか叫んで走っていった後、忽然と姿を消してたとかで。」

「謎の奇声は兎も角、姿を消す直前に突然挙動不審になったとは確かに聞いているよね。」


賢治が冷静にツッコミを入れつつ、話を端的に纏めなおした。

 一方、梨絵瑠は暫く正観していた後、真面目な表情になって皆に向き直った。重々しく、躊躇がちに口を開いた。


「あのさ、皆さん、輪廻転生って信じるほう?」


一同は鳩が豆鉄砲を喰らったような表情で梨絵瑠のほうを一斉に見た。梨絵瑠は、モフからテレパシーで伝えられた情報を皆に話した。その後で、彼の説をかいつまんで説明し始めた。


「モフの話していた、アンドロメダ人のアバター云々の話がまさしく転生の話なんですよ。で、アバターから元の肉体に帰還するときの方法なんですけどね。一度地球人として死んで、魂と精神体だけを肉体から切り離して、自分の元の体に戻る方法がまず一つ。これは確実に存在する方法です。もう一つは、俺がまだ考えてもみなかった方法で、件の転送装置と絡んだ話です。あくまでこれは俺がさっき思いついた仮説なんですが、転送装置がまさにアバターがアンドロメダに帰還する為の装置なんじゃないかって話です。死ぬ事そのものに恐怖を感じている人は、転送装置を介して、苦しみを感じない楽な方法で肉体と精神体を切り離して戻るやり方を取るのではないかな、と。」


唐沢が興味深そうに梨絵瑠の話を食い入るように聞き入っていた。そして納得したかのようにぼそりと呟いた。


「謎の転送装置から怪音波が出ていたとしよう。それはきっとアンドロメダ人の特定の人の固有振動数に該当するもので、地球人には観測されない電波なんだ。そしてその人だけを引き寄せる電磁波だったとしたら。電磁波に共鳴して脳が震える事で精神に異常をきたし、「あへー!」ってなった上で装置にまっしぐら。…なるほどなるほど。」


「とりあえず、きら君の仮説が正しいとしたら、モフちゃんは件の転移装置を見つける事が出来ればそこから故郷に帰ることができるかもしれないって事よね?」


桐子が唐沢の謎のつぶやきをさらりとスルーして話を戻した。


「しかしどうやって転移装置を見つけたらいいのかしらね?他の文明由来の謎の装置が見つかったら化石発掘以前に大騒ぎになってるハズよね。」


みどりも首を傾げならが会話に参戦してきた。


「そりゃ宇宙人ですからね!万一地球人がそれを発見したとしても、その装置からでる怪音波にて記憶操作して、そんなものは存在しなかったという認識に書き換えるに違いないですよ!若しくは、その装置自体が高すぎる振動数で震えている事により、人の目に留まらないように設計されているか何かでしょう。若しくは、装置そのものの振動数が高すぎるあまりに地球の物質と相互作用しないように設計されてるか何かですよ!」


唐沢氏は、興奮のあまり鼻の穴を最大限に開いて呼吸を荒くしながら一気にまくし立てた。


「まあまあ、チャネル。おちつけや。とりま、よくわからないけど、怪奇現象が起きてやまないっていう心霊スポットでも巡れば何か手掛かりがつかめるかもしれないぜ?で、皆さんの意見はどうでせう?」


梨絵瑠が唐沢氏をなだめつつ、提案をした。


「そうねぇ…。失踪事件が起きているスポットの近くで挙動不審な行動をする失踪者…。うーん。やはり怪奇現象のあるスポットと無関係とは言い切れないわね。調べる価値はあるかもしれない。」


桐子は、梨絵瑠の意見に賛成なようだ。他のメンツも頷いた。賢治も大きく首を縦に振った。


「手がかりが全くつかめないなら、少しでも可能性のありそうな所を当たるのは手だよね。そうしようか?そうすると心霊スポットがどこにあるか、だよね。」


みどりが思い出したように、はっと息を呑んだ。


「あのさぁ、そういえば博物館の近くに山道に通じる古い道あるじゃない?そこを真っすぐ上ると神社にたどり着くらしいのよ。その神社過ぎて隣町まで一応抜けられるらしいんだけどさ、神社付近で車に乗ったゴリラに追いかけられたっていう噂を聞いたことがあるの。」

「神社っていうと、珍毘羅神社ちんぴらじんじゃの事かな?僕はいった事はないけど…。金属バットを担いだヤンキーのお化けに遭遇してびびって戻ってきた人が居るっていう噂は聞いたよ。」


唐沢氏も、みどりの話につられて、思い出したように神社の話を続けた。


「決まりだな。もう、ここに行くしかなさそうだ。」


梨絵瑠が頷いた。


「善は急げ、ってね。まだ明るいうちに行ってみようか。館長、ちょっと席外して大丈夫です?」


賢治は桐子に許可を求めた。


「勿論、いいわよ。博物館の車を出すといいわ。ただ…。」


桐子は途中まで言いかけて、言葉を濁した。そして梨絵瑠のほうに目を向ける。


「ええと、何が起きるか分からないわ。きら君は必ず同伴させた方が良いと思う。きら君、行ってくれるわよね?」

「俺が断る理由がどこにあります?喜んで拝命致します。」


梨絵瑠は爽やかすぎる笑みを湛えて頷いた。


 結局、賢治と梨絵瑠、そして唐沢、最後に当事者のモフが行くことになった。車は市の所有物である、博物館用のジープを使わせてもらえる事になった。

 賢治は運転席につき、車を出した。梨絵瑠が助手席に座り、モフと唐沢は後部座席に着席していた。件の山道までは目と鼻の先だったが、彼が博物館に着任以来、未だかつて走ったことも無い道路だった。

 山道につき、車が一台すれ違うのがギリギリな狭い一本道を延々とのぼって走っていった。両サイドに生い茂る木々のせいでもあるかもしれないが、薄暗く、どこか陰気で不気味な雰囲気を漂わせていた。

 車を走らせる事、十数分。丁度山頂付近に差し掛かったあたりである。唐沢氏が妙な事を言い始めた。


「なんか、エンジン音みたいのが聞こえて来るんですけどね。どっどっどっどっ!って。」

「へえ。なにそれ、“クイーンエンジン”みたいなやつ?ある漫画に出てくる某ヘタレヒーローの心臓バクバク音だったとかいうオチの。」

「俺は何も聞こえないけどなぁ。」


梨絵瑠は冗談めいて笑ってはいたが、目は笑っていなかった。運転席の賢治に、背後の座席にいる唐沢たちに気づかれないようにそっと目で合図をした。そして件のテレパシー能力にて賢治に注意を促した。


《 賢ちゃん、出たぞ。絶対振り向くなよ。意識をするなよ。 》

《 分かった。 》


賢治は無言で頷く。モフは隣の唐沢の様子を伺いながら二人にテレパシーで答えた。


《 うん。野生のカンだけどね。変なのがさっきから後をついてきてる。 》


梨絵瑠は少々驚いた様子にて、モフに返した。


《 お前、“アレ”わかるのか? 》

《 うん。バイクっぽいのに乗った黒っぽい人影が見えるよ。うっすらぼやけてるから顔見えなくて輪郭だけ。バットみたいな棒を担いでる。さっき事務室で話してたお化けヤンキーってやつかもしれないね。 》


モフは物怖じもせず梨絵瑠に返答した。


《 そっか。まあ、気を付けろよ。フォーカス合わせちまったら最後。こっちの火力が格上なら兎も角、相手のほうが強敵だとしたら奴らに魂を乗っ取られるからな。 》


梨絵瑠はモフに注意を呼び掛けた。


《 うん。分かった。でもね、なんか雑魚っぽい気がするよ。野生のカン。寧ろ注意しなくちゃならないのは……… 》


モフがそう返しかけた瞬間だった。異変に気付いたときには遅かった。唐沢氏の表情が一変したのだ。目を白目に向き、息を荒くして奇声を発しだしたのだった。


「ひゃっはーーーーーー!!!!!」

「てめえはザード軍団かよっ!!!」


ほぼ同時の事だ。梨絵瑠が助手席から身を乗り出して唐沢氏の額に手のひらを当て、何かを念じた。刹那、唐沢氏の脳裏で何かが爆ぜた。唐沢は一瞬、気を失った。頭をがっくり垂れたまま、ぐったりと後部座席のシートにもたれかかっている。

 梨絵瑠はやれやれ、と肩を竦めると苦笑した。


「寧ろ、好都合かもしれねーぞ。チャネル起きてたらぜってー面倒くさい事になるからな。」

「だね。」


賢治も苦笑した。


「さ、賢ちゃんは運転に専念してくれや。背後は俺に任せとけ。」

「助かるよ。有難う。」

「キューン!」


 賢治は、ひたすら前方に向かってアクセルを踏み続けた。梨絵瑠は意識を額の中央あたりに集中させて何かを念じた。彼の脳裏に黒い影が二つ回り込むように見えてきた。


「残り2匹ゴキブリちゃんがいるかね。ロックオン………完了。」


梨絵瑠は、脳裏に映った黒い影に意識を集中させた。純白のエネルギー弾のようなものを強くイメージし、黒い影を吹き飛ばして消散させるように強く念じた。


ドゴォォォォン!!!!!


刹那、轟音とともに背後の何かが爆ぜるイメージと、ホワイトアウトした後に黒い靄が純白の光に飲み込まれて跡形もなく消え去るイメージが、少なくともモフと賢治にも伝わってきた。どうやら梨絵瑠の謎のテレパシー能力を共有した影響なのか、梨絵瑠に見えている映像を二人も共有できているようだった。賢治は息を呑んだ。モフは張り切った雰囲気で尻尾をブンブンと激しく振って身を乗り出す。


「きら君、なんか滅茶苦茶かっけーぞ!」

「キュンキュン!」


梨絵瑠は、意識を全区域に集中させたままだ。


「どーも。だが、気を抜くなよ。さっきからビリビリと何か伝わってくるぜ。周囲の空気全体が振動してるかのようだ。まだ、来るぞ。」

「えっ……!?」


賢治がバックミラー越しに背後を確認した瞬間。彼は背筋が凍るような感覚に見舞われたた。そこに映っていたのは………。


「ゴリラ!ゴリラがッ……!!!」


一台の朽ち果てたジープが全速力で追いかけてくるのが賢治には見えた。さび付いたボディーに、所々苔が生えて泥にまみれたフロントガラス、そして運転席には巨大な漆黒のゴリラが目を禍々しいほどに真っ赤に光らせて彼らをすさまじい形相で睨みつけているのが見えたのだった。


《 誰だ……俺の手下を殺ったのは……………!!!!! 》


ドスの聞いた低い重低音で唸るような念が彼らの脳裏に直接響き渡った。地の底から響き渡るかのような邪悪で怨念に満ち溢れたものだった。

 梨絵瑠は全身から燃え立つような純白のオーラを放ちながらジャケットのポケットの中に手を伸ばした。出発前に忍ばせてきた、件の化石のぶっかき石が指先に触れる。重々しい口調で二人に注意を促した。


「賢ちゃん。絶対、バックミラーは見るな。そして、もっとアクセル踏んでくれ。で、俺が指示する方向にハンドルを切れよ。モフも、不用意に後ろを見るな。結構、強ぇのが来てる。」

「分かった。」

「キュ……、キュン……。」


 漆黒の邪悪なオーラをジープ全体から激しく燃え滾らせながら、ゴリラが運転する車がどんどんと距離を詰めて迫ってくる。


「賢ちゃん!もっとスピード出して!」

「お、おう!!!」


ギューン!!!!!


擦れるタイヤの音、そして呻るエンジン音がほの暗い林道の中を木霊した。


ぬぅおおおおおおお!!!!!


咆哮とともに、背後から漆黒のオーラが触手となって賢治の運転するジープの背後に回り込むようにうねりながら猛スピードで迫ってきた。梨絵瑠は鋭く、はっきりと賢治に指示をする。


「賢ちゃん、右ッ!!!」

「おう!」


キキキィッ!!!


賢治は咄嗟に右にハンドルを切った。触手の先は空間を貫くように前方に突き出されたが、車はそれを紙一重のタイミングにて避けた。


ぐおぉぉぉぉぉぉ!!!!!


再び漆黒の禍々しい触手が背後から突き刺すように迫ってくる。


「賢ちゃん、思いっきり左に!!!」


キキキキキィ!!!


賢治はハンドルを目いっぱい左に切った。激しくタイヤが地面に擦れる音が響き渡る。触手はギリギリ車体を擦ったが、勢いで振り払われて後方に巻き戻された。


《 小賢しい連中め。一気に喰らってやる!!! 》


怒声に似た重低音は周囲の空気を振動させた。それは車体を通じて賢治の運転する車の中にも伝わってきた。

 刹那、背後から漆黒の闇がどっと押し寄せるように迫ってきた。それは幾つもの闇の触手を形成し、四方八方から車を包み込むように手を伸ばしてきた。


「ちっ!避け切れねえか……。せめて……。賢ちゃん、右ッ!」

「おう!」


賢治は右にハンドルを切る。黒い触手は車体を貫通し、モフの頭上をギリギリかすって梨絵瑠を直撃した。その瞬間、それは梨絵瑠の純白のオーラに触れて、じゅっと音を立てて消散した。間髪置かず、触手は次々と背後から迫ってきた。


「くそっ!まだ来やがるか。キリがねえ!」


梨絵瑠は後方に振り返って、手にフズリナの化石の欠片を握ったまま、その拳をゴリラに向けた。視線をゴリラに固定したまま、モフに声をかけた。


「モフ、アレが見えるなら自分で自分の身を護れるか?つまりは…避けてくれ!」

「キュン!」


モフが相槌を打った直後。車体を貫通した漆黒の触手の一つがモフのすぐ横、気絶しているままの唐沢氏の体を掠った。


「ギュォォォ!」


ベシッ!!!


モフは咄嗟に蹄でそれを叩き落して踏みにじった。それは黒い靄となって空気に溶け込むように消散した。梨絵瑠は背後を睨んだまま、拳に意識を集中させて何かを念じている。モフの手柄を嬉しそうに褒める。


「なんだ、やるじゃねえかお前。そっち任せていいか?とりま、唐沢氏は万一憑りつかれてもあとでどうにかするとして。賢ちゃんは死守してくれ。」

「キュン!」


モフはこくりと頷いた。梨絵瑠は賢治に指示をだす。意識は拳に集中させたままだ。


「賢ちゃん、今度は左に目いっぱい!」

「わかった!」


キュキュキュ!キキキキキイ!!!


「古代の生き物達よ、ちょっとばかり俺に力を貸してくれ。」


刹那、梨絵瑠の拳の隙間から激しく閃光が漏れ出した。彼は拳を開くとゴリラに向けて眩く輝く激しく熱いビームを解き放った。同時に、核となった化石は跡形もなく光の粒子となって霧散した。


「オ゛ォォォォォォォ!!!!!」


バリバリバリッ!!!ドォォォォン!!!!!


迸るビームは迫りくる漆黒の塊を貫き、瞬時にそれを激しい爆音とともに焼き尽くした。

あたり一面がホワイトアウトする。

散り散りになりながら光の粒子にかき消されつつ消えゆく漆黒の靄は、最後に力を振り絞るかのように唸り声を木霊させた。


《 葛沼原人…………ばん……ざい…………… 》


「うわっ!!!」


一瞬、賢治は眩しさのあまり視界を奪われて、反射的に目を閉じる。刹那、何かを踏み外した衝撃とともに、車体が傾き、落下していく感覚に見舞われた。


「………ッ!!!」

「ちょ……やばッ……賢ちゃ………!!!」

「キュイっ!?」


林道を抜けた先には片側が崖になった道路に通じていた。一瞬の事だった。ハンドルを切り損ねた車はガードレールを超えて、崖から落下しようとしていたのだった。


「きら君、どうしよう。俺、まだ辞世の句とか作ってないや。」

「賢ちゃんはあほか、こんな時に。俺、まだラーメン乙山のネギラーメン食ってねえ。畜生!」


 落下していく車の中で、冗談を言い合っている二人。待ち受ける死の恐怖を笑い飛ばそうとでもしているかのように見えた。

 モフは激しく高揚した。体の中が、体を駆け巡る血潮が燃え滾るのを感じた。彼らを救いたい、否。救わなくてはいけない、何が何でも。モフは賢治に教えてもらった第三の目、即ち頭頂眼の位置に意識を強く集中した。空気を構築する元素が互いにバインドし、ばねの様に振動する様を瞬時に強く念じた。止まれ!止まれ!これは一つの弾性体だ!!!


「キュオオオオオオオオオオオオン!!!!!」


モフは吠えた。腹の底から、力の限り咆哮を上げた。集中した全意識を瞬時に周囲の空間に解き放つ。


……………ブヨン!!!


重力加速度に従って落下運動を行っていたジープの落下速度は徐々に弱まっていき、しまいに何かゴムの膜にでも当たったかのように上方に弾き飛ばされた。車はゆっくりと鉛直投げ上げ運動をし始めた。


《 流れろ!流れろ!これは流体!!!押し流されて………向こう岸に………流れろ!!! 》


ゆっくりと宙に打ち上げられたジープは、あたかも流れる水の中に浮かぶ小舟のようにゆっくりとゆっくりと宙を流れるように平行移動し………。


「ん……あ………、僕は一体………。」


衝撃で唐沢氏が意識を取り戻した。


「んわっ!く、くるまがおち……僕は死ぬのか!ぎゃあああああああ!!!!!」


車が宙に浮いているのを、朦朧とする意識の中で見ていた彼は、驚愕のあまり、再び絶叫して気絶してしまった。直後、車はふわりと車道の真ん中に着地する。

 梨絵瑠と賢治は驚愕のあまり、恐る恐る後ろを振り返った。そして、白い獣が鎮座する後部座席を見た。


「おっ………、おまえ……………!!!」

「モフちゃん………君は……………!!!」

「キュ?」


 モフは何事もなかったかのように、後ろ足で頭を掻いている。一方でチャネルは口を半開きにして気絶したまま、シートに転がっている。無造作に投げ出された細長い手足は、網で炙られたスルメイカのようでもあり、無様な彼の姿を更に滑稽なものにしていた。

 突如、車の遥か上方の空の一点が閃光を放つと時空が割れ、その中からぼんやりと白く発光する人影がゆっくりと降りてきた。


「うっ、宇宙人か!宇宙人だぜ、あれ!宇宙人だよ、あれ!!!おい、チャネル!起きろよチャネル!!!出番だチャネル!!!……おーい?」


興奮して叫ぶ梨絵瑠。しかし、気絶したチャネルは微動だにしなかった。一方でモフは上空の白く光る靄が徐々にくっきりしてくるにつれて、鼻をひくつかせて興奮し始めた。


「キュッ!キュキュキュッ!キュン!キュンキュン!!!キュンキュンキュン!!!」

「どうしたの、モフちゃん?」


賢治は怪訝そうにモフの見上げた先の白い人影に目をやった。人影は一際くっきりとその輪郭を露わにした。梨絵瑠も首を傾げてモフのほうを振り返った。


「もしかして、お前の飼い主か?」

「キュン!キュン!」


モフは尻尾を高速回転させながら窓から身を乗り出した。そして、一際大きく甲高い声で遠吠えをした。


「キューーーーーーーン!!!!!」


あたかも、「僕はここだよ!」と言っているかのようだった。

 程なくして、宙から舞い降りた人物は車のすぐ手前にふわりと着地した。すらりとした長身、ふわりとたなびく銀髪、長いまつげに縁どられた澄んだエメラルドグリーンの瞳を持つ端正な顔立ち。それらはまさに、ビジュアル系バンドマンのイケメンボーカルを思わせるかのような出で立ちだった。しかし、青々と茂る無精ひげが彼の美貌全てを台無しにしていた。そしてよれよれのしわしわの色褪せた黒いTシャツには、一見マクスウェル方程式に似たような謎の数式が白字でプリントされている。


「キューン!!!キュン!キュン!キュ―――ン!!!!!!」

「モフ!!!モフ!!!無事だったんだね!!!モフ!!!!!」


モフは後部座席の窓ガラスを開けると、勢いよく飛び出して走り出し、その青年に力の限り飛びついた。青年は、その白い獣をがっしりと受け止めて、力の限り抱きしめた。そして何度も何度も、モフの頭を撫でた。

 その宇宙人青年は「ルクス・クリストファー・ユメサキ」と名乗った。迷子の珍獣の正真正銘の飼い主である。彼は、一行に何度も何度も頭を下げてお礼を述べた。

 ひとまず彼らはルクスを伴い、事務所に戻る事にした。件のUFOマニアの自称チャネリストは、肝心な時に気絶をしたままである。

 事務所への帰還途中、後部座席に座ったルクスの膝の上に乗ったモフは目を細めてゴロゴロ喉を鳴らしたまま、頭をすりすりと擦り付けては時折腹を上にして前足をバタバタさせるなどし、存分に“ご主人様”に甘えていた。


 一行の車が博物館の駐車場に到着した頃、ようやくチャネルが目を覚ました。


「ふぁ、ふあああ、ほげぇ? あうっ!?ほえぇぇぇ!?!?!?」


チャネルは、目覚めるなり自分が生きている事に気づいて驚き、スルメイカが炙られて手足が縮れるような滑稽な動きをして妙な悲鳴を上げた。そして周囲をきょろきょろと見渡し、隣に見知らぬ男が居る事に気づいて更に悲鳴を上げ、背もたれに張り付くように四肢をよじった。


「おぅふ!えふえふえふ!ほぇあ!?!?」


ルクスは怪訝そうに唐沢氏を見て首を傾げた。


「えっと、この人は宇宙人かな?」

「まあ、彼っていちいち挙動不審…だよね。」

「大丈夫、貴方に危害は加えない筈だ。」


「おまえが宇宙人だろ!」というツッコミをすることも無く、梨絵瑠と賢治は肩を竦めて苦笑していた。

 事務所にたどり着くと、桐子とみどりがそわそわしながら彼らを出迎えた。


「お帰り!それより大丈夫だった?」


職員用のドアから入ってくる賢治達をつぎつぎと迎え入れながら、桐子が声をかける。賢治のあとに、夢見心地で足元がおぼつかない唐沢の背中を後ろから押しながら梨絵瑠が入室する。そして彼は振り返って手招きをし、ルクスを招き入れた。その後にひょこひょこと続いて入ってくるモフ。

 ルクスの姿を見るや否や、女性陣ははっと息を呑んだ。


「えっ、えっ、えっ、誰そのイケメン!!!」

「あら、外国の方?どこの国の方かしら?」


ルクスは礼儀正しく深々と一礼して名乗った。そして、モフが世話になった事に対して何度も何度もお礼を述べた。


「ルクス・クリストファー・ユメサキと申します。この度はうちのモフが本当にお世話になったそうで…。しかも、命がけでモフを助けてくれたと伺って、何とお礼を申し上げてよいやら………。本当に、本当に、有難うございました。」


 桐子とみどりはお互いに顔を見合わせた。


「えっとぉ………。モフちゃんの……飼い主さん………?ってことは!!!」

「彼、宇宙人………って事になるわね!」

「うちゅ…うちゅちゅちゅちゅちゅちゅ…!!!うっちゅ………ぅほえーーーーー!?!?!?うほほほほうほほほほうほぇーーーー!?!?!?」


二人の会話を耳にした唐沢が、傍らで素っ頓狂な悲鳴を上げた。周囲をきょろきょろして部屋の中をぐるぐる回っては立ち止まってルクスのほうを見たり、挙動不審な行動をとり始めた。見かねた梨絵瑠が唐沢をなだめる。


「おいおい、落ち着けチャネル。ほら、ポキーだぞ。ポキー食っとけ。」


梨絵瑠は動き回る唐沢を羽交い絞めにし、口をぱくぱくさせているところに細長いスティック状のチョコ菓子を無理やりねじ込んで黙らせた。チョコレートに含有されるカカオポリフェノールの効果により、なんとかテンパった唐沢氏を鎮静化することに成功したようだ。唐沢氏はもにゅもにゅと口を動かすと、黙って自分のデスクに着いて大人しくなった。


 ルクスは、みどりが出した緑茶をすすりながらスタッフ達と談笑していたが、不意に思い立ったように席を立つ。


「あの、お礼できるものがなくて申し訳ないんですけど…せめて先ほどのジープを修理させて頂けませんか?色々と気になってしまったところがあるので。」


一同は息を呑んだ。予算が回らず老朽化の進んだままの備品がそこかしこにあった。彼らが使用しているジープもその一つであった。


「ええっ!本当に!?!?」

「すごく助かります。老朽化が激しくて…乗っててギシギシ言ってたでしょう。是非宜しくお願い致します。」

「助かります!いつ動かなくなるか冷や冷やしていたので!」


みどりが目を輝かせる。桐子も賢治も深々と頭を下げた。


「本当に、いろいろして頂いて、こちらこそこんなお返ししかできなくて恐縮なのですが…。他にも気になるものがあれば地球の技術レベルに差しさわりない程度に改造できますよ。」


そう言うとルクスは事務室内のプリンタやら通信機器、端末等に視線をやった。ほぼほぼ老朽化が進んでおり、一部はポンコツの類とも言えたものが埃をかぶって事務室の段ボールに埋もれている。しかしかつては重宝されていたものでもあった。


「ありがとうございます。本当に助かります。」


桐子は深々と頭を下げた。居合わせたスタッフ一同口々にルクスにお礼を言った。


 ルクスは席を外すとどこからともなく謎の工具箱を持参し、事務室周辺の機材や件のジープを片っ端から修理及び改良していった。作業が終わるのにさほど時間はかからなかった。

 彼は、一通り作業が終わるとスタッフ達を呼び出した。


「あの、終わったんですけど、念のため、動作のご確認頂きたいのです。」


そしてルクスは、修理・改良したものを一つ一つ説明し、どこをどう改良したかも一通り周知した。すぐに動作確認できるものはその場で作動させ、皆に動作確認を促した。


「プリンタは精度を良くしてあります。ノイズも入りにくくし、部品もこっそり取り替えたので地球の製品よりはスペックと耐久性が良くなってると思いますよ。紙詰まりの問題も改善しておきました。端末も、地球人に分からない程度にCPUをいじっておきました。処理速度がかなり改善されてると思います。」

「ありがとうございます!」


桐子は深々と頭を下げた。


「あっ!CDプレーヤー直ってる!有難うございました!!!」


みどりがポンコツ置き場から引っ張り出した旧式のCDプレーヤーをかけて嬉々とした顔で飛び跳ねるようにお辞儀をした。梨絵瑠や唐沢も、動作が悪くなり使い勝手の悪くなった準ポンコツ品を漁って動作確認しつつ感嘆の息を漏らし、口々にルクスに対して礼を述べた。

 ルクスは最後に皆をジープのほうに案内した。


「あらゆる部品が老朽化していたので、こっそりこちらの惑星の部品に置き換えてみました。仕様変更はしていないので従来通りですが、燃費をはるかに向上させておきましたよ。」


そう言い終わってから、付け加えるように言った。


「あっ、車検にはひっかからないので大丈夫です。見た目は地球基準の部品のままですから。」

「す、すごい………。」

「す、素敵よぉッ!!!」

「あらまあ………!!!」

「ひぃやあああああああ!!!あへあへ…あひぃーッ!!!」

「まぢかよ!!!ぱねえな!!!ガチでスペシャルサンクス!」


一同は口々に感嘆の声を上げた。

 その後、賢治は改装されたジープにモフとルクスを載せて、試運転がてら市内を案内してから戻ってきた。B級グルメの原人フライとウミユリマドレーヌも手土産に購入して彼らに渡した。車体がきしむこともなく、ドアがガタピシいう事もなく、スムーズに快適なドライブを満喫できた賢治は満面に笑みを湛えていた。山道や悪路の続く過酷なフィールドワークの旅に、安心してこのジープを付き合わせる事ができる訳だ。

 葛沼ツアーを満喫して博物館事務所まで戻ってきたルクスとモフは、何度も何度もスタッフ一同にお礼を言った後、事務室を後にした。スタッフ一同が見守る中、スゥッと溶け込むように空間の歪に飲まれるようにして消えていった。


 事務室にて。すっかり日が傾いている。市役所職員とボランティアスタッフ達は、つい先ほどまでその場に居た不思議な客人たちの存在について余韻に浸りつつ、閉館準備を行っていた。


「結局、あのゴリラは何だったんだろうね。」


書類や物品が更に高く積まれた中に埋もれたデスクより、賢治がぼそりと呟いた。梨絵瑠が工作用の砂を片付けながら、適当な相槌を打つ。


「うん。何だったんだろうね。葛沼原人の怨霊じゃねーの?」

「葛沼原人、か……。案外、当たっているかもしれないね…。なんとなく、だけど。」


 賢治は遠い昔の出来事に想いを馳せた。彼の学生だった頃は、日本史の教科書に「葛沼原人」の記載がギリギリあった時代だった。正確に言うと、「葛沼原人」の後に( ? )(かっこハテナ)が付された状態であるが。原人の骨が見つかったという事で葛沼市が話題の市になってからは、町おこしの為に原人の名前がどこにでも使われた。「葛沼原人祭り」「葛沼原人ラーメン」「葛沼原人フライ」などなど。毎年祭りも行われ、B級グルメにも名をはせた大有名人だった訳である。市街地の入口には巨大な原人のモニュメントも設置されている程である。

 しかし、科学の進歩に伴い、御茶の湯女子大学も巻き込んで綿密な調査を行った結果、葛沼原人は存在していなかったという事実が発覚したのだった。それ以来、葛沼原人の伝説は廃れ、人々の記憶の中からもすっかり消し去られてきたのだった。それでも、「原人祭り」だけは未だに夏の風物詩として残されており、地元の人たちに親しまれ続けている訳だ。

 では、葛沼原人の正体とはいったい何だったのか?所説あるが、原人の骨が発掘された上が丁度、墓場だったという話だ。それと、クマの骨や猿の骨など、あらゆる動物の骨が人骨と混ざって出てきたため、原人と錯覚されたのではなかろうかという事である。


 閉館時刻となった。主婦ゆえに家事の忙しいみどりと、他の市立博物館と兼任している桐子は定時になると慌ただしく帰っていった。一気に色々な出来事が起きてパニック状態やら興奮状態のオンパレードで心身疲れ切ってげっそりした様子の唐沢ことミスター・チャネルはよろよろしながらチャイムと共に帰っていった。後には賢治と梨絵瑠の二人が残った。

 梨絵瑠はジャケットについた埃を払うと洗面台で手を洗い、まだ作業中の賢治に声をかけた。


「賢ちゃん、まだ残るのか?」

「ん、ああ。きら君はもう帰るのかい?」

「帰ろうかなと思う。教材研究しなきゃだし、明日一限目からなんだ。」

「そっか。じゃ、俺もそろそろ帰ろうかな。少々疲れたみたいだよ。」

「んじゃ、途中まで一緒にいこか?」

「うん。ちょっと片づけするね。数分待ってて。」

「りょ。」


 賢治が帰り支度を終えて席を立った。スタッフ用通路から出ようとした賢治に、思い出したように梨絵瑠が彼を止めた。


「ちょっとさ、帰る前に“葛沼原人”さんに挨拶していかないかね?」


賢治は、一瞬立ち止まって考えるが、すぐに頷いた。


「いいよ。行こう。」


 消灯して非常灯だけになった展示エリアは薄暗かったが、通路くらいは見える明るさだった。彼らは葛沼原人が展示してあるエリアに足を運んだ。

 葛沼原人の骨らしきものが展示してあるショーケースの前につくと、賢治は深々と一礼した。


「葛沼原人さん、有難う。君らが歴史から忘れ去られても、僕らは君らを忘れないよ。」


ほんの一瞬だが、気づくか気づかないか程度ではあったが、ショーケースが仄かに淡い光を放ったかのように見えた。梨絵瑠は不思議な笑みを湛えながら、消えた光の行方を敬礼しながら見守った。閉館後の薄暗い展示ルームを穏やかな時間が流れて行った。博物館の闇を取り巻く不気味な気配は、いつの間にか消え去っていた。


「さ、帰ろっか。」

「だね。」


 梨絵瑠と賢治は展示エリアを後にすると、スタッフ用の出入口から博物館を出た。空には星が輝いているのが見えた。


「モフちゃん、もうお家に帰れたよね。」

「だといいな。今頃カリカリでも食っているかもしれねーな。」

「アンドロメダ文明かぁ…。」

「だな。信じられないけど、居たんだよな。宇宙人が。」


 二人は、ただぼんやりと空を眺めていた。地球上から見ると、北極星からペガサスの四辺形方向にむけて南側に辿る途中にアンドロメダ大星雲が位置している。恐らくモフ達が住んでいる惑星はそのあたりのどこかにあるに違いない。


「さて、そろそろ帰ろ。じゃあな、賢ちゃん。」

「うん。またね、きら君。」


 二人は駐車場で別れ、それぞれの帰路についた。この日の夜空は、一際星が明るく輝いて見えた。


         ― 完 ―


読んでくださった皆様、有難うございます。


実はこれ、あるワードを変更するとそのまんま博物館の案内を聞くことができます。(笑)

「葛沼市」→「葛生」と変えて頂ければ、と。

片岩は展示されていませんが、それ以外の展示物は展示されています。

ちょっと前までボランティア解説員をしていましたが、体調不良にて活動を辞めさせて頂いています。なので、解説代わりになれば、ということで小説内に練りこませて頂きました。

展示物の説明部分をご覧になった後に、実際に化石館に訪れる事をお勧め致します。化石ワールドを心行くまで満喫して頂けると幸いです。

実は葛生から新種の化石が3種類も発掘されており、リアルにアカデミックな方々の間でホットな地域なんですよ。気になる方は「アクリトシア オガメンシス」で調べてみてくださいね!

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