2・そして、巻き込まれた人に会う
初めは良く分からなかった。
どうやら球場に居るらしいと周囲の言葉から理解したのだが、どう考えても球場ではありえなかった。
グラウンドどこよ?
しかし、よくよく聞いてみると、きゅうじょうなのだが、球場ではない。
戦後、皇居と名を変えた東京のど真ん中だと分かった。
昔はきゅうじょうって言ったのか、後楽園球場と紛らわしいなおい。って、まだ後楽園無いのか?
そんな疑問を思いながら、きゅうじょうで生活するらしい。自分が誰かよく分からない。
たしか、画面に現れた老人が何か言ってた気がするが、マジで召喚されちゃった?
どうやら、でんかと呼ばれる立場であることを理解するのに時間はかからなかった。きゅうじょうを理解するより先だったかもしれない。
でんか、って殿下のことだよな?
え?皇族なの?
どうにも怪しい事になって来た。
そして、今がいつだかわからなかったが、日英同盟前だということが判明した。
そこで分かったので、きっと老人のせいだ間違いなく、だったら戦記小説のセオリーをやろうと考えた。
舌ったらずな子供がまず言い出したのは、擲弾筒の開発だった。いや、迫撃砲か?
そして、都合よく砲兵工廠の人間を呼ぶことに成功した。
「南部麒次郎でございます」
まさかの有名人登場に驚いた。
「南部、ニューナンブの人?」
などと言ってしまう。
「ああ、それは戦後の事で、南部麒次郎は既に亡くなった後ですよ。南部銃器製造は中央工業と名を変え、戦後もしばらく生き残っていましたからね」
などと素で答えられてしまった。
そして、ハタと気付いて開いた口が塞がらなかった。
「お気づきの様に、殿下と同じ立場です」
と言って、自身も日露戦争までに迫撃砲を造ろうとしていたという。
「殿下のご提案はタイミングがようございました。これで私も心置きなく迫撃砲を造れます」
迫撃砲が本格的に使われたのは第一次世界大戦の事で、日露戦争時の塹壕戦で日露両軍が迫撃砲の祖となるような簡易兵器を使用していたと言われている。
そこに本格的な迫撃砲や擲弾筒を投入しようというのだ。
「擲弾筒は歩兵火力を高めることでしょう。これまでにはない投射火力になりますから」
と、南部さんは説明してくれた。
そして、開発に加わった三十年式歩兵銃も史実とは別物にしてあるという。
「史実の三十年式歩兵銃は丸い弾頭なのですが、鋭頭弾という、この時期に登場してくる弾にしてあります。まあ、三八実包からはそうなるんですがそれよりも早く採用しました。更に、303ブリ粕Mark7同様にタンブリング効果をもつ極悪弾に仕上げてあります」
そう言って黒く嗤った南部さんが詳しく説明してくれたが、三八弾は直進性の良い弾ではあるが、小口径であるために相手に与える打撃が小さく、かと言ってフルサイズライフル弾という高威力の弾なので、下手に貫通してしまっては全く意味をなさないという。
そこで、後にソ連がAK74で採用して有名になる凶悪な弾を現時点で採用しているという。
そんな事をしてよいのだろうか?
「それだと三八式歩兵銃が生まれなくなるんじゃありませんか?」
と聞いてみたが、それはそれで良いらしい。
「三十年式歩兵銃と三十五年式海軍銃が三八式の性能を有しているのですからそれで良いのです」
との事だったが、その南部さんが後に送ってきたブツがまたトンでもなかった。
南部さんがそれから迫撃砲や擲弾筒開発を行い、日露戦争前に制式化され、量産も始まった。
そして、彼が幾度か説明に訪れた際に話していたのが、拳銃を開発しているというモノだった。
ニューナンブと名前が残るくらいだからそうなんだろうとは思っていたが、リボルバーではなくオートマチックらしい。
そして、政治や海軍についてもと色々子供がうろついてみたわけだが、そこで迫撃砲や海軍銃から芋づる式に向こうからやって来た。
1人は伊藤博文。
「殿下もそうでしたか、ワシは暗殺されんようにハーレムづくりに忙しいが、日英同盟を何とか史実の様に締結出来ました」
などと不穏な事を言っている。どうやら、英国諜報機関とも接点を持ったらしい。
そして、日清戦争後の話に付いて聞いてみたのだが、朝鮮は独立国としてこのまま存続させることで政治方針は固まっているらしい。
「暗殺されんように立ち回ろうと思うし、日露講和にも首を突っ込もうかと思っております」
いちいち不穏過ぎるよこの人。
そしてもう一人は、山本権兵衛。
「殿下もそうでしたか。いや、明らかに史実には居ない人物でしたので、疑っては居りましたが」
と言い出す。
史実には居ないんだ、俺殿下。
明治天皇の子供が何人居たのか詳しく知らない事もあってまるで疑問に思っていなかった。
「時の海軍大臣がまさか、これは心強いです」
そう言っておいた。実は、この人の事は良く知らない。
これで海軍については上手くいくと思う。なにせ、居るんだもの大物が。
さて、そんな訳で、あとやる事と言えば、飛行機の父を探す事だろうか。
二宮忠八と言ったはず。
そして、探してもらった人物はそこに居た。
彼に資金援助して飛行機を作ってもらう事になったのだが、1903年も末になってもマトモに飛ばなかった。
エンジンは資金援助で手にしている。機体はあるのになぜか飛ばなかった。
そこで、南部さんに依頼して手助けしてもらったのだが、色々と手間だったという。
「いや~、彼はなかなか面白い人ではあるんですが、飛行機が分かってはいないようですな。いや、これは誤解を招きますな。航空力学とか構造力学について、ライト兄弟やファルマンのような知見や勘がある訳ではないようですな」
そう言って半ば突き放してしまった。
しかし、そうだとしてもパイオニアには違いなく、玉虫型というモノを実際飛べるように改設計はして来たとの事。
「実用型としてアレを飛ばすのはどうかと思いますな。プレリオのような一般的な機を提示はしておりますが、後は本人次第かと」
と言っている。
二宮忠八と言えば、資金難で飛べなかっただけだと思っていたが、それだけではないらしい。