アリシアの差し入れ報告
アリシアはリーナが王太子府に差し入れをすることをパスカルへ伝えに行った。
本来、何かあればリーナが直接パスカルや側近達に伝えるのが筋だ。
だが、差し入れをする相手に詳しく話してしまっては驚かせることができない。
そもそも任意の差し入れだ。
侍女長のレイチェル達が気を利かせて尋ねたのがきっかけであり、手配等は全てレイチェル達で可能だ。
後宮の者達に準備を手伝わせるとしても、リーナは後宮統括補佐として直接指示を出せばいい。
わざわざパスカルや側近達を通じて指示を出す必要はなかった。
とはいえ、王太子府へヴェリオール大公妃の差し入れを届けるということ自体は伝えておかなくてはいけない。
事前の許可がなければ差し入れを届けたとしても、面倒な検閲や手続きが必要になる。
そこで、アリシアは王太子と同席するヘンデルに伝えた後、パスカルに伝えることにした。
「スープ?」
「炊き出しを結び付けたのです。食缶をワゴンで運び、廊下でカップに入れて配ります。飲むのも返却するのも立ったまま、その場で行います。書類を汚す心配もなければ部外者に見られることもありません。温かい食事が手早く取れます」
アリシアは現時点でわかっている差し入れについての情報を伝えた。
パスカルは純粋に驚いた。
「リーナは本当に凄い。王宮の廊下でスープだけを配るなんて、誰も考え付かない」
「私もそう思います。盲点でした」
食事を配るというのはわかる。実際に弁当などを配っているものもいる。
だが、王宮で食事を取ると聞いて思いつく場所は部屋か食堂だ。廊下ではない。
スープだけ配ろうとも思わない。なぜなら、食事の一部でしかないからだ。
立ったまま飲むという発想もない。
しかし、炊き出し等の催しでは普通にあることだ。
王立歌劇場のバーは廊下に直結している。バー専用のエリア内では収まりきらないため、誰もが廊下で立ち飲みしている。
貴族にとってもおかしなことではないということだ。
まさに盲点としか言いようがなかった。
「でも、スープだけか。パンもつくと嬉しいかな」
「クルトンを自由に入れることができるようにしてはどうかと提案したのですが、小さくちぎったパンを用意するそうです。その方がボリュームを出すことができると」
「ちぎった? 切ったではなく?」
アリシアはこの時点で初めて気づいた。
後宮の者達を王宮に連れて来るという話になってしまったこともあり、見逃してしまっていた。
「……ちぎるという表現でした」
「修正した方がいい。さりげなく誰かに提案させて」
「わかりました。ヘンリエッタに伝えておきます」
「見逃すなんて珍しい。真っ先に言いそうなのに」
アリシアは反省した。
「すぐに後宮の者達を王宮に連れて来るという話に移ってしまったのです」
「重要度の高い方が優先だ。仕方がないかな。女官だしね」
女官で良かったとアリシアは思ってしまった。
筆頭侍女であれば大失態だ。
「でも、侍女でないとリーナに関わる機会が少ない。後回しにはできるだけして欲しくない。迅速に対応するように」
忘れるなということであるのは言うまでもない。
「注意します」
「正直、もっと詳しく聞きたい。だけど、僕が手を回しすぎるとリーナらしさが失われてしまう気がする。大人しく差し入れを待つよ」
「王子府への差し入れはありません」
「王太子府に必ず顔を出す。日程の調整はまだだよね?」
「ヘンデルがするそうです。王太子殿下へお伝えした時に決定しました」
「わかった。ありがとう。任せるよ。とても心強い女性達に」
アリシアは嬉しかった。
今の言葉をヴェリオール大公妃付きの女性達全員に伝えたいと思った。
パスカルの言葉は冷静さの中に気遣いがある。
決して相手を追い詰めるようなことはしない。その必要がなければ。
優しさはただ表面に見えるものだけではない。内なるものがその者の言動にあらわれる。
パスカルはまさに優しかった。
たとえ厳しい表情をしても、冷たい態度を取っても、パスカルの中にある優しさを疑う者はいない。
「では、失礼致します」
「待って」
パスカルは呼び止めた。
「まだ何か?」
「ジェフリーがすねていたよ。さっき、書類を届けに来た」
嫌な情報だとアリシアは思った。
「なだめておきます」
「どうせそっちに顔を出す。差し入れをあげればいい」
「まだ用意していません」
「唇から愛情を伝えればいい」
それはつまり、口づけをするということだ。
「必ず喜ぶよ。最高の差し入れになる。違うかな?」
違わない。
そう思いつつも、アリシアは別の言葉で答えた。
「検討しておきます。ではこれで」
「ぜひ頼むよ。ジェフリーの優秀さに皆助けられているからね」
アリシアは速攻で部屋を退出した。
唇から愛情を伝えればいいだなんて……。
アリシアはようやく赤面することができた。
パスカルには敵わない。何かと。そう実感するしかなかった。
「ウェズロー子爵夫人、大丈夫ですか?」
突然声をかけられたアリシアは驚愕した。
そして、すぐに気づく。
今のパスカルには第一王子騎士団の役職を得たことから騎士がついている。
部屋には入らないが、廊下で警備をしながら命令に備えて待機しているのだ。
「びっくりしました。先ほどはいなかったので」
「申し訳ありません。外していました」
トイレね。
アリシアはすぐに察した。
おかげで、冷静さが戻る。
「一人では大変ですね。二人にならないのですか?」
通常、騎士は二人一組で勤務する。
その方が何らかの用事で一人がその場を離れることになっても、もう一人がその場に残ることができる。
「団長の判断です」
「そうですか。では」
「お気を付けて。この先は特に」
ここは警備が厳重なエリアであり、関係者以外は立ち入り禁止だ。
女官であるアリシアが一人で行動するのはいつものことだ。
だが、気になった。
「何かあったのですか?」
「いえ、別に」
騎士はそれ以上話す気はなさそうだった。
アリシアは無駄話をダラダラと続ける性格ではない。
「失礼します」
アリシアは戻ることにした。
だが、すぐに騎士の言葉の意味を悟った。
「アリシア!」
耳と尻尾が見えた。なんとなく。
満面の笑みでジェフリーが駆け寄って来た。
「……奇遇ね」
「そうだね!」
ぶんぶんぶん。尻尾が振られているような気がするのは気のせいだ。
アリシアはすぐに思い出した。
後回しにはできるだけしない。迅速に対応する。優秀な者は。
「忙しいそうね」
「そうだね。でも、迎えに行くのは問題ない」
ジェフリーはアリシアが女官として働くことに反対はしていないものの、そのせいで家族の時間が減ることを嫌がっている。
残業しないで帰って来て欲しいと思っているため、いつも定時になるとアリシアを迎えに来る。
ジェフリー自身も残業を極力避けているが、勤務時間をうまくやりくりし、アリシアを迎えに行く時間だけは絶対に空けている。
「忙しいからもう行くよ。さっきからこの辺を往復しまくっているだけだけど」
「待って」
アリシアは優秀だ。だからこそ、パスカルの助言を忘れなかった。すべて。
素早く周囲を見渡す。誰もいない。
「どうかした?」
いつもは自分を邪険に扱う妻の様子がおかしいことにジェフリーは気づいた。
正直、パスカルに会いに行ったのだろうと推察する。
つい愚痴ってしまったため、その件について迷惑をかけるなという小言が来そうだと思った。
だが。
チュッ。
そんな音がしたような気がした。
軽くではあるものの、ジェフリーの頬にアリシアの唇が触れたのだ。
「差し入れよ。頑張って」
アリシアはそう言うと猛然と走り出した。振り返ることはない。
廊下は走らないという規則はあってないようなものだ。
忙しい者達は常に急ぎ足、誰もいなければ走る。伝令は全力疾走を隠そうともしない。常に緊急で片付ける。しょっちゅうだ。
長年の侍女勤務で鍛えられていたアリシアの足は、まさに緊急事態とばかりに動きを止めなかった。
その場に残されたジェフリーは茫然とした。
両手に抱えている荷物を落としてしまいそうな気分になるが、そこは伝令部のプライドで持ち堪えた。
「マジか……」
アリシアから口づけた。しかも、廊下で。
頬に軽く一瞬だとしても、驚愕ものだ。いや、奇跡だった。
そして、ジェフリーは確信する。
こんなことをアリシアが思いつくわけがない。
入れ知恵をした者がいる。
「パスカル……」
ジェフリーはふにゃりと微笑んだ。
「サービスしないとだなあ!」
重要情報を仕入れなければと思いながら、ジェフリーは機嫌よく配達先へと向かった。