大友二階崩れ前後の加判衆とその交代人事
大友家最高意思決定機関加判衆。
各地に伝える命令書に大名以下加判(サインの事)をする重臣たちだからこそ加判衆という。
彼らの人数構成とその出身がそもそも私にこれを書かせるきっかけとなったのである。
大友二階崩れ時、大友義鎮廃嫡の為に府内館に呼んだ重臣は四人である。
今回はwikiの記述をベースにしよう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E9%9A%8E%E5%B4%A9%E3%82%8C%E3%81%AE%E5%A4%89
小佐井大和守
斎藤長実
津久見美作
田口鑑親
彼らが大友義鎮廃嫡に反対した事で入田親誠に命じて粛清される事になるのだが、まだ二階崩れの記述が少ない時、彼ら四人を他紋衆として紹介していた。
次期当主廃嫡なんて重大事の相談なので、彼らを加判衆として扱っていたものもある。
で、ここで問題なのは加判衆の定員である。
なお、大友義鑑はこの四人粛清に際して逆襲にあい命を落とすのだが、死ぬまでに時間があった事で大友義鎮継承と諸々の言伝を書状(大友義鑑条々)にした上で重臣たちに加判したものが残っている。
その時の重臣たちの名前はこうである。
田北鑑生
一万田鑑相
臼杵鑑速
吉岡長増
小原鑑元
更に、この遺言の中で加判衆の人数と構成についても言及されている。
加判衆は六人とし、同紋・他紋から三人ずつとせよ
(大友義鑑条々より)
ここで私が疑問に思ったのは、
「加判衆の定数が六人ならば、二階崩れで粛清された他紋衆は四人。
あれ?
大友義鑑政権って他紋衆が与党になるぐらい基盤が弱かったっけ?」
である。
大友義鑑条々に加判した五人の出身はこうである。
田北鑑生 同紋
一万田鑑相 同紋
臼杵鑑速 同紋
吉岡長増 同紋
小原鑑元 他紋
出身から見ると、勢いがあった他紋衆を同紋衆がクーデターで追い落としたと見えなくもない。
だが、大友義鑑時代というのは豊後国最大国人衆である大神一族の総主家である佐伯氏が栂牟礼合戦にて没落したなど、大友家の当主権力の向上と戦国大名への脱皮に伴う大名への中央集権が進んだ時期に当たり、その理由が分からない。
さて、ここで話を置いてもう一つ疑問を提示したい。
定数が六人と明示されているのに、二階崩れの当事者は四人、その後の重臣の人数は五人である。
残りの加判衆は誰なのかという疑問だ。
そのうちの一人は多分入田親誠で間違いがない。
彼は大友義鑑の寵臣であり、同紋衆であり、大友義鎮の傅役を任された人物である。
大友義鑑にとってみれば、大友義鎮が真っ先に頼る重臣と思っているはずである。
まさか、その後の責任を取らせるために彼が大友義鎮の手によって粛清されるとは死ぬ間際ですら思わなかっただろう。
これで、大友義鑑条々の最後の一人は入田親誠で、逃げた彼が赦免後のために空けたというのが私の説である。
二階崩れ時も寵臣として仕えていたのだから加判衆でいいだろう。
という訳で、話を元に戻そう。
大友二階崩れ時の加判衆はここまでだとこうなる。
小佐井大和守 他紋
斎藤長実 他紋
津久見美作 他紋
田口鑑親 他紋
入田親誠 同紋
多数決の話をしよう。
加判衆の定数が六人。
つまり、三・三で割れた場合大名の決定という形で一票が入ると考えるのが妥当だ。
そして、大名の権威の為にも、この手の評決で大名側が負ける方につくという事は避けないといけない。
大友義鎮廃嫡という超重大事だからこそ、大友義鑑は他紋衆を懐柔しようとし、反対を受けて彼らを粛清しようと思い立った。
筋は通っている。
他紋衆が定数六人中四人を占めているという違和感さえ見ないのならば。
次回は、大友義鑑時代において彼の権力強化について見ていきたいと思う。
ここが、『大友の姫巫女』や『修羅の国九州のブラック戦国大名一門にチート転生したけど、周りが詰み過ぎてて史実どおりに討ち死にすらできないかもしれない』の原点である。
こんなちょっとした疑問で文字数百万を超える小説が書けるのだから、歴史は本当に面白くて深くて楽しい。