守護大名大友家
守護大名大友家。
鎌倉幕府時代に豊後国守護となり、元寇の際に活躍。
その後の北条得宗専制において薩摩国守護島津家と筑前国守護少弐家と組んで倒幕運動に参加。
南北朝時代、九州は南朝の力が強かった事もあって、九州の守護は領国滞在が認められることになった。
これは、鎌倉時代から続く名門というプライドと、京のインナーサークルからハブられたトラウマという二つの方向性を大友家に与える事になった。
今回の話を書くために調べたのだが、実は屋形号の許可についての記述が見つからなかったのである。
それで御屋形様を名乗るのはどうなのかという所なのだが、この二つの方向性を大友家は巧みに利用したのではと妄想している。
一つは府内『館』の存在。
本格的な発掘調査の結果、府内館が京の花の御所を模したものという事が分っている。
府内は小原鑑元の乱(弘治2年1556年)の際に戦火で焼かれており、その再建後の府内は大友義鎮にとって権威づけとして大々的に行われたのではないかと私は考えている。
なお、この乱の翌年に大内家が滅亡し、大内家の九州領土である筑前国と豊前国が大友家に転がり込む結果になり、当時の商業都市博多の富を独占することができるようになったのも見逃してはいけない。
中央はともかく、ここ九州ではいまだ京という権威は生きていたので、この際に屋形にしたのではと疑っている。
二つ目は、将軍家からの一字拝領で、大友家は義長、義鑑、義鎮、義統あたりまで将軍家に許可をもらって将軍家の『義』の字を頂いてるのだ。
この四代は応仁の乱や後の明応の政変で将軍権力が決定的に弱体化した時なので、これらの許可を献金というか買収によって手に入れたのだ。
なお、価格の記述も残っており、『太刀一腰と青銅二万匹』らしい。
青銅は銅銭で百匹=一貫なので、二百貫という価格になる。
織田信秀が御所修理の為に献金した額が四千貫なので、名乗りに払う価格としてはかなりの価値になる。
これらから考えると、この時期に大友家当主に対する呼び名は御屋形様でいいのではないかと私は考えている。
屋形の象徴である花の御所を模したものは府内にあり、高い金を払って将軍家から『義』字を一字拝領し、それをとがめる京のインナーサークルはこの時期崩壊しており、家臣たちに『御屋形様』呼びを強制しても異を唱える者はないという訳である。
そしてそれは、大名自身の権威を高めなければならない事の裏返しであり、家中統制に大友家が苦しんでいた事の裏返しでもある。
大名が常に本国である豊後にいるという事は、代理である守護代の存在が不要になるからだ。
一応、守護代格だろうと言われる、『方分』や『城督』みたいな役職がある事にはあるのだが、その権限が守護代に比べてはるかに小さい。
この手の権限は何を持って見るかというと、守護代家の土着化と家業化である。
遠隔地領地において守護の代わりをするから守護代である。
だからこそ、大体守護代家の最初は大名家一族から選ばれる事が多い。
その仕事は必然的にその土地に土着するようになり、長く勤めればその仕事が家業となるようになる。
私が知っている限り、その守護代格の家に該当する家は、博多を押さえていた立花家ぐらいしか思いつかない。
そして、かなり長く領地として領有していた筑後国において守護代としての家をついに見つけることができなかった。
ここから考えるに、大友家は守護代家が必要ではない、つまり領国に大名自身がいるので大名に投げてしまえばいいという方針があるのではないかと私は思っている。
それは、意思決定に大名が居て、重臣たちと直接対峙する事が常態化する事を意味する。
次回は、大友家最高意思決定機関である加判衆について語っていきたいと思う。
ちなみに、屋形号についてはwikiで当時の屋形の序列があったりする。
この屋形に大内家が入っていることは覚えておいてほしい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%8B%E5%BD%A2#%E5%B1%8B%E5%BD%A2%E5%8F%B7%E3%81%AE%E6%A0%BC%E5%BC%8F