大名という中間管理職
言われてあっと気づく事だが、大名というものは中間管理職である。
当然、そう言うからには上司が居る訳で。
大名にとっての上司の役職を征夷大将軍という。
この征夷大将軍になった源頼朝の元で武士たちは、将軍の家来であるという建前を持って上皇や公家や寺社からの圧力をはねのけることができたのである。
それは、江戸幕府に至るまで、将軍と幕府という幻想でこの国を支配し続けた。
鎌倉時代から南北朝時代を経て室町時代になった時、その幻想は今だ武士たちを魅了し、その統治の源になる。
花の御所体制。
中世都市研究者の小島道裕氏によってつけられたこの体制は、大きく分けて3つのポイントがある。
1)守護在京制による中央支配の承認
2)中央の政治・文化的ソフトパワーを用いる事による守護大名領国の国人衆の統制
3)守護大名間の政治的衝突を将軍が介入する事によって仲裁し将軍の求心力の上昇と将軍の権威化の推進
基本、守護大名は京に居て将軍の側に侍って政治を補佐する。
もちろん、管領等の幕府組織はあるが、その幕府組織の出す命令を実行させるのは守護大名な訳で、京の政治は守護大名と将軍側近というインナーサークルでのやりとりにて行われる事になる。
これの便利な所は、幕府側にコストがかからない事だ。
室町幕府は、南北朝時代が終わるころになると、幕府直轄の軍事力の枯渇という問題に直面する。
室町幕府の実質的な創設者と私は思っている三代将軍足利義満は、この問題を敵を絞り各個撃破し、そのおこぼれを餌に各国守護大名を糾合して対処する事で乗り切っていた。
つまり、幕府直轄軍ではなく、足利将軍を旗頭にした守護大名連合軍というのが室町幕府の軍事力であり、これは最悪の形で後の応仁の乱で出てしまうのだが今回は話がそれるのでこのあたりにしておく。
もちろん、この体制は大名側にも利があった。
室町将軍という権威が生きており、守護大名が握っている軍事・警察権が実行の担保となるのならば、その命令は守護大名領国にて確実に実行される事になるからだ。
人は、己が手に入らないものを力とみる傾向がある。
そういう意味で、日本の政治・文化の中心である京の文化を持って帰れる守護大名は尊敬の眼差しを領国国人衆たちから受けることになったのである。
このあたりの一例として、大名の呼び名を一つあげたい。
多くの時代劇などで、大名の事を『殿』、もしくは『大殿』と呼ぶ。
一例をあげるならば、織田信長あたりは『殿』もしくは『大殿』と家臣たちから呼ばれるのだ。
だが、武田信玄の場合『殿』や『大殿』でなく『御屋形様』と呼ばれる。
この『御屋形様』こそ守護大名の証の一つである『屋形』号である。
こうやって、大名間でも差別化を図る事で室町将軍は、その求心力を高めることができたのである。
繰り返すが、室町将軍はその軍事力が小さい。
結果、大名間の調停もソフトパワーを用いながら、細川・斯波・畠山・一色・山名・赤松・大内……etcの諸大名と連携し同盟とその破棄を繰り返して敵を単体に仕立てて各個撃破するというのが基本となった。
それがある程度うまくいった事で、大名も将軍そのものも、将軍という職を権威として扱うようになる。
むしろ、権威を高めるために政治に関与するのを抑えるという方向すらありえた。
それが許されるのも、京という小さな魑魅魍魎の世界で守護大名たちと遊んでいたからに他ならない。
そして、この体制は当然のことだが副作用を生んだ。
1)現地管理者--守護代--に現地国人衆たちの求心力が集まってしまい、大名本人の直轄軍事力がなくなってしまう
2)京という物理的な距離があるために、その命令にタイムラグが発生し、行政的に速やかな解決が望めない
3)大名間の対立を将軍が煽る形になっているので遺恨が各地に大量に発生し、その不満が否応なく各地で不発弾のように溜まっていった
大名が京に居る以上、領国を管理運営するのは別の人間に任せることになる。
これを守護代という。
そして、守護代は現地にて領国を管理するので、次第に京に居る大名より領国に詳しいなんて事態が発生する。
こうなると、大名も将軍と同じく権威に成り果ててしまう。
下克上の一例である。
たとえば、守護在京制の国であった大内家の領国である長門国で問題が発生したとしよう。
瀬戸内海の船便を使えば、京まで大体一週間。
急ぎでも四日はかかるだろう。
そして、問題を聞いて大名がその命令を持たせて長門国に帰すのに四日から一週間。
つまり往復で下手すれば半月かかってしまうという事態がざらに発生する。
そういう時のために存在するのが守護代であり、大体の事は守護代に任せることでこの問題は解決できるのだが、上の話と絡み守護代に決定権が移ってしまう。
この守護代からの下克上は応仁の乱あたりから頻発するようになるが、それ以前にその芽はまかれていたという事を指摘しておきたい。
そして、最後の一つなのだが、この大名間の争いには相続の争いもあり、親兄弟が大名の座をめぐって争うというのがざらにあった。
何しろ、南北朝時代にどちらが残ってもお家が残るようにと親兄弟で南北朝に分かれて争ったなんてのが体験として残っていた時代である。
つまり、大名間の争いだけでなく、大名家家中の争いにも将軍は介入し、それゆえにそのヘイトを将軍は集めていたという訳である。
これらをまとめると、京に居る大名は現地領国に居る守護代という重臣や大名の座を狙う一族という潜在的な敵がおり、その潜在的な敵は室町将軍という権威が認めるならば大名当人の排除すらできるという裏道があった事を自覚していたという事になる。
という訳で、一般的な大名について語ったが、この一般的な大名と大友家は少し違う。
とはいえ、その違いを語るためにも、ここで大名という中間管理職を説明する必要があった。
次回は、少し違う中間管理職、守護大名大友家というものを語りたいと思う。
なお、親兄弟別れては美談風にしたが、その内情は多分、
「ヒャッハー!俺のために死ね!!!」
だと思うようになったあたり、私もだいぶ侍の思考というものに毒されてきたのかもしれない。