一門・譜代・外様
組織というのは必然的に派閥を作る。
それが組織掌握と運営の第一歩であり、この内部派閥が機能しているかどうかで大名家というものの強靭さを見ることができなくもない。
ありがたいことに江戸幕府という長期武家政権が成立し、そのシステムが大量の資料と共に残っていた事から、ある程度の大名家の組織というものは多くの日本人にとって理解できるものになっている。
『一門』『譜代』『外様』という言葉がそれだ。
せっかくなので、個々の言葉をきちんと確認してゆこう。
一門
① 一家族、または一族。 「平家-」 「 -の名折れ」
② 同じ宗門。また、その人々。 「縁あって易行の-に入る」
③ 学問・武道・芸能などで、同じ師の流れをくむ人たち。同門。 「本居-の学者たち」
譜代
①何代もその家系が継がれて来ていること。また、その家系を記したもの。系譜。
②代代、同じ主家に仕えていること。また、その臣下の家系。
③譜代大名。 → 親藩 ・外様
外様
① 譜代の主従関係をもたない家臣。鎌倉幕府では、北条氏得宗家の家臣を御内人というのに対し、それ以外の御家人をさす。室町時代以後は、大名の家格を表すのに用いられ、特に江戸時代では、関ヶ原の合戦以後徳川氏に服属した大名をさし、譜代大名と厳しく区別した。 → 親藩 ・譜代
② 直系でなく、傍系であること。また、その人。 「 -にはなかなかポストが回ってこない」
これらの意味確認は、
『辞典・百科事典の検索サービス - Weblio辞書国語辞典』
https://www.weblio.jp/
よりさせていただいた。
今回は戦国時代の大名家という事で、それらの意味をさらに取捨させていく。
一門
一家族、または一族。 「平家-」 「 -の名折れ」
譜代
代代、同じ主家に仕えていること。また、その臣下の家系。
譜代の主従関係をもつ家臣。鎌倉幕府では、北条氏得宗家の家臣を御内人というのに対し、それ以外の御家人をさす。
転じて、一族に長く使える家来衆と定義する。
外様
譜代の主従関係をもたない家臣。
直系でなく、傍系であること。また、その人。 「 -にはなかなかポストが回ってこない」
辞書の解説を読むだけでも見えてくるものがある。
それは、一門と譜代・外様の差であり譜代と外様の違いである。
一門は、一族であり血族であり、同じ苗字を持つという分かりやすい差別化ができるのに対して、その血族外である家臣たちの差別化として、外様と譜代が定義された。
そして、例として『江戸時代では、関ヶ原の合戦以後徳川氏に服属した大名をさし、譜代大名と厳しく区別した。』くだりから、その『大名家の決定的な戦いの前後で譜代と外様が分れる』という所にも注目してほしい。
こういう序列化は大友家にも存在していた。
大友家における一門・譜代・外様の呼び方
一門……同紋衆
大友家一族を祖に持ち、大友家の家紋である『杏葉』を使用することができる。
家中序列は当然高い。
譜代……下り衆
鎌倉時代、大友家が豊後守護に任命され、豊後国に行く際に付き従った家臣たち。
大友家は元々相模国大友郷の出で、その時期から大友家に付き従った連中であり、彼らのルーツが関東にあるという事はすごく大事である。
そんな下り衆で台頭したのが、源平合戦時に平家方で活躍した斎藤実盛を祖先に持つと言われる斎藤家であり、大友二階崩れ時、重臣として重用されていた。
外様……他紋衆
大友家の家紋である『杏葉』を使わない連中であり、この区分だと譜代である下り衆もこれに該当する。
そのため、下り衆側では豊後の地元国人衆と区別化するために自らを『下り衆』と定義していたのではと私は推測している。
以上の言葉の定義を前提に、今度は大友家内部の意思決定について語っていきたいと思う。
……昔、大友二階崩れのwikiは同紋衆と他紋衆の対立しか書いていなかったんだよ……
調べれば調べるほど違和感が出で、譜代で下り衆だった斎藤家の存在を発見した時、本当にうれしかったなぁ……